香椎東対天神商業4
悠莉はグラブにすっぽりと仕舞った顔からやがてゆっくりとグラブを引き剥がす。そこに現れた顔からは、怒りの感情が失せていた。
――この感じ……何かある、かも知れないわね。
悠莉の様子から異変をいち早く察知した捺は警戒を強めて構え直す。
しかし、そんな捺に投じられたのは、人を食ったようにゆったりとしたスローカーブ、そして先程直子に投じたようなストレートだった。
いずれも組み合わせとコース次第では有効な武器になり得るものだったが、捺へのそれは、いずれもストライクゾーンから大きく外れる結果となった。その結果四球となった捺はゆっくりと一塁へ向かう。
――悠莉……いったい何考えてるのかしら……。
一塁に到達した捺はマウンドを見る。そこには剣呑な笑みを浮かべる悠莉の姿があった。悠莉は傍らにあるロージンを拾い、二度、三度と浮かせてすぐに投げ捨てた。カッと見開かれた眼は既に次の打者、今まさに右打席に入った華凛を見据えているようだった。
悠莉の熱を帯びた視線を気にすることなく、華凛はバットを構える。それに呼応するように悠莉はゆっくりとセットポジションに入った。
永遠のような、長い間。先手を打つのはピッチャーである悠莉。静から動へと急激に切り替わるクイックモーションで速球が投じられる。ストライクゾーンからボール二個分ほど外れたそれを、華凛は余裕を持って見逃すことが出来た。フッとひとつ息を吐き出し、チラリと一塁ベース方向に目をやる。
そこには、右手だけで軽くスイングのジェスチャーを送る捺の姿があった。走者を気にせず打て、の合図。華凛は小さく頷き、また構えに入る。相対する投手は、心なしか不気味な笑みを浮かべているように見えた。
キャッチャーからの返球を受け取った悠莉は、横目で捺を一瞥した後、再びセットポジションに入った。
「今のクイックで捺も釘付け。じゃあ、じっくりと……」
再び長い間が展開されるかと思いきや、間髪入れずに悠莉は投球動作を開始した。
「有名人さんを料理しちゃおっかな!」
驚くほど短いテンポで放たれた二球目。やはり蛇のような軌道を描くそれは、悠莉の得意球であるツーシームだ。それは瞬きする間もなく華凛の内角を突き、ストライクとなった。
「っ……!」
その衝撃に、華凛は大きく目を見開いた。
――この軌道、ツーシーム……? ツーシームがこんなに曲がるものなの? 有り得ない……これが、県でも屈指の強豪校のピッチャーの、球……。
華凛は愕然とした。ストライクを取られたことなどどうでも良く、想像を遥かに上回る球の威力にただ圧倒される。思わず片足をバッターボックスから外し、一塁ベース上の捺を見た。
捺から送られるジェスチャーは、初球と同じものだった。華凛は重く頷き、打席へ戻る。
「サイン交換は終わったかしら……?」
剣呑な雰囲気を漂わせ、悠莉が問い掛ける。華凛はそれに反応せず、無言でバットを構えた。
「あたしも気が長くないから、あんまりじらしちゃ黙ってないんだから……ねっ!」
かなりの鍛練により磨き上げられたであろうことが一目で窺えるクイックモーション。そこから繰り出されるツーシームは壮絶な切れ味をもってキャッチャーミットを叩いた。コースは真ん中だが、華凛は思わずのけ反りそうになるのをやっとのところで堪えた。
――すごい威力……捺先輩はこんなボールを平然と見逃してたって言うの……?
自らの打席の直前、目の前で繰り広げられていた光景。その異常性に遅まきながら気づく。
「さ、あと一球ね。高校で戦うにはまだ早いってこと、教えてあげるわ」
悠莉は間を置こうともせずセットポジションに入る。容赦なく決め球が投じられようとしている。
――まだだ、諦めるな! 打てないと決まったわけじゃない!
崖っぷちの状況で、華凛は必死に自らを奮い立たせる。直後投じられた四球目を目一杯引き付け、蛇の頭の動く先めがけて全力でスイングする。
しかし、蛇はバットをするりと避け、キャッチャーミットへと潜っていった。
三振。両チームの四番打者、共に第一打席の結果が重複する形となったが、天神商業の四番、堀川はその全容が見えない見逃し三振。対して香椎東の四番、華凛は相手投手の実力をまざまざと見せつけられる空振り三振を喫した。
ガッツポーズから踊るようにベンチへ引き上げる悠莉とは対照的に、華凛は無言でバットを片づけ守備に就く。
イニング開始前のボール回し。ファーストから内野へボールを供給する華凛の眼はしかし、落胆の色などどこにもなかった。
――勝負はこの一打席だけじゃない……次は、次は絶対打つ!
香椎東の四番は、誰にも知られずリベンジの火を密かに灯していた。




