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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第六話 しかして星は瞬く

 年が明け、二月十四日に悠次が十三歳になって数日が過ぎた。温暖な地域なりに寒さが厳しい中、明良は相変わらず玲太郎を連れて診療所に通っていて、玲太郎が歩きたがるようになった為、七時には家を出るようになっていた。ハソとニムとヌトは当然ながら付いて行く。

 颯は朝食後に寝室、勉強部屋、悠次の寝室の三部屋の掃除を済ませ、勉強部屋に籠るのが常だ。寝ている所を掃除されても文句の一つも言わない悠次は病状が進行していて、田井の処方した薬では効果を得られずに痩せ細って行った。その所為で目も大分くぼんでいた。最近では寝込む事が増えて八千代が小まめに様子を窺うようになっていた。そのような状況だった為、颯は勉強に身が入らない事が目下の悩みだった。

「颯、お茶飲むかいな?」

 八千代は悠次の様子を見た後は必ず勉強部屋に来てそう声を掛けた。

「ほなもらうわ。食堂へ行くわな」

 切りは良くなかったが立ち上がり、火鉢の火が消えないように炭の位置を変えてから部屋を出ると、八千代が食堂に入って行くのが見えた。その後姿を見て、急に老け込んだような気がした。颯はそれも心配の種だった。

 食堂に行くと既に急須に湯が入っていて口から湯気が立っていた。湯呑みは二個出ている。颯は奥へ行き、急須を持って回した。中に入っている湯も回っている事が伝わって来る感覚で判った。

「そろそろ入れてくれていけるじょ」

 台所から戻って来て、片手に茶請けを持っていた八千代が言った。颯は一瞥すると湯呑みに少しずつ交互に注ぎ始める。

「お客さんや水伯さんだけやけん、お菓子が余ってしゃーないわ」

「田井先生が来るのに?」

「最近はひと月に一遍は来るようになっとるけんど、数に入らんも同然じょ」

 そう言って苦笑した。八千代は真ん中に茶菓子を置くと椅子に腰を掛けた。颯は手を伸ばして八千代の方に湯呑みを置いて、隣の椅子に腰を掛ける。

「明良も十五になったし、悠次も十三になったし、颯が今度の六月で十一か。玲太郎は五月で三つやな。年月の経つんが早い事早い事。ほらばあちゃんも年を取る訳やな」

 個包装された菓子を一つ取り、包装を剝がして包装紙を広げると八千代を見る。

「急にどしたん?」

「いやあ、ばあちゃんも年を取ったなあってしみじみ思てな。明良は来年には成人じょ。早いわあ」

 中に入っていたのはどら焼きだった。少し千切って口に入れる。八千代も茶菓子に手を伸ばした。

「ばあちゃんにはまだまだ元気でおってもらわんとあかんけんな」

 手で口を覆って言うと、八千代は嫌そうな顔をした。

「そろそろお迎えが来てもおかしいないんやけんどな。ばあちゃんは頑張って生きたわ」

 そう言うとどら焼きをかじった。美味しそうに咀嚼をしている。

「ほんな寂しい事言わんと頑張ってだ」

 八千代はしばらく咀嚼を続けると飲み込んだ。

「もう若い子らに託すわ。年寄りの出番は終わりじゃ」

 そう言って朗らかに笑った。颯はそれを見て寂しそうに微笑むと、どら焼きを大き目に千切って口に入れる。八千代もまた齧った。咀嚼し終えて飲み込むと、顔を突き出して颯を見た。

「ほれにしても颯は十一には見えんくらいに大きいなったな。今背えは何ぼあるん?」

「六尺二寸くらい。この前診療所で測ってみたけど意外とあったわ」

「ほうなんじゃ、高いな。ヴィストさんが高いけん、颯も明良ももっと高あなるな」

「この前、兄ちゃんが測ったら五尺八寸だったって言よった。結構前からオレが抜いてもうとるけん、悔しそうだったわ。父ちゃんは六尺四寸くらいって昔言よったような気いがするけん、後何年かで抜けるだろか」

 どら焼きを千切ってまた口に運んだ。

「ばあちゃんは縮んで行くばっかりやけん、羨ましいわ」

 そう言うと穏やかな表情でどら焼きに齧り付こうとして止まった。

「ほれにしてもヴィストさんになんとなしに似とるだけになったな。前ほど似とれへんのんが不思議じゃ」

「父ちゃんとそっくりにならんで良かったわ」

「颯の方がかっこええじょ」

「ほんま。ありがと」

 二人は話をしながらどら焼きを八千代は二個、颯は三個も平らげ、茶のお代わりもした。颯は満足して部屋に戻ろうとした所、悠次の部屋から鈴の音が聞こえてきた。悠次の部屋に入り、枕元でひざまずくと顔を覗き込んだ。

「どしたん? 厠に行きたいん?」

 薄く目を開けて颯を見る。

「のどがかわいたんやけんど、飲み物がないんよ」

 かすれた声で言うと、颯は笑顔を見せる。

「さっきお茶飲んだところやけん、すぐあったかいんを持って来るわ。お茶がええ? 白湯でええ?」

「……ほな白湯で」

「分かった。ちょっと待っとってな」

 悠次の反応を見る前に立ち上がって部屋を出て行った。食堂に入ると水屋の前に行き、一番小さな急須を手に取った。台所へ下りて行くと鉄瓶に残っている湯を急須に注ぐ。掌で急須の底に当てて温度を確かめる。小さく頷くと一番小さな盆に載せて悠次の元に戻った。

「持ってきたよ~」

 盆を枕元に置いて急須の口を悠次の口に突っ込んで、徐に白湯を注いだ。三口飲んだ所で悠次が「ん」と言い、颯は急須を盆に置いた。

「いけるで?」

「ありがとう」

 そう言って息を深く吐くと、黙ってしまった。

「ほな何か用事があったらまた呼んでな」

 悠次が僅かに頷いたのを見ると颯は部屋を出て行った。勉強部屋に行き、自分の文机ふづくえの前まで行くと腰を下ろす。明良からのお下がりなのに新品同然の教科書を開き、一枚、また一枚と紙をめくった。

 この世界では六年制の学校、四年制と六年制のじょう学校、それらを合併させた十年制の一貫校がある。下学校に入学出来る年齢は国によって違うが和伍では六乃至ないし十歳となっており、飛び級も認められている。留年は累計四年まで認められている。池之上家は学校から距離がある為、通信制度を利用していた。下学校の通信制度は週に一日登校して通常就学生とは別の授業を受け、登校しない日は学校指定の問題集での自主勉強となる。颯は七歳になる年から通っていて、新学期が一月の為に五年生になったばかりだったが、悠次は四年生で止まっていた。

(悠ちゃんが使つことったら色々落書きされとるんやけんど、兄ちゃんが使つこただけやけん、ほんまきれいなままじゃ)

 颯は悠次が目に見えて痩せ始めてから何彼なにかにつけて悠次の事を思っていた。勉強に集中するのにも強い意思が必要になってくる。集中は出来ないが問題を解き始めた。

「…やて、颯、呼んびょるんやけんど聞こえてないんかいな? 颯、ご飯じょ」

 八千代に声を掛けられ、気付いた時には十時になっていたようだ。慌てて八千代の方を向く。

「集中しとったわ。ごめん。今行く」

 火鉢はそのままにして食堂へと向かう。既にヴィストと留実の姿があり、二人は食べ始めていた。颯も丼が置かれている所に座ると合掌をして「いただきます」と食べ始める。今日は玉子と沢山の葉野菜が入った煮込みうどんだった。一口目を飲み込むと八千代の方を向く。

「ばあちゃん、おいしいわ」

 笑顔で言うと、八千代が颯の方に顔を向けて微笑んだ。

「所で、悠次の具合はどう?」

 ヴィストが不意に訊いて来た。田井先生と話すのはもっぱら八千代で、ヴィストと留実はその内容を知らされていなかった。

「最近食堂で一緒にならんけど、寝込んどるん?」

 留実も訊いて来た。颯は不機嫌な表情になり、黙ってうどんを啜った。

「気いになるんだったら見て来たらどうで」

 素っ気なく八千代が言うと、留実が眉をしかめた。

「近付くなっちゅうたんは、おばちゃんとちゃうん」

「まあまあ、落ち着いて」

 ヴィストが留実の右手を握った。留実は八千代を睨み付けている。

「硬化症になる前からもろくすっぽ相手もしとらんかったのに、食堂で全く顔を合わせんようになったら心配するって間ちごおとるんとちゃうで」

 八千代が不満をあらわにして言うと、留実の眉間のしわが益々深くなった。

「八千代さんも喧嘩を売るのはやめて」

 ヴィストが穏やかな声で言うが、顔は真顔だった。

「悠次が亡くなるまで気付かんと思とったけん、びっくりして変な言葉が口を衝いて出たわ。悪気はなかったんよ。ごめんじょ」

 わざとらしく言うとうどんを啜った。

「私も留実も仕事に忙しくて子供の世話を八千代さんに任せっぱなしだった自覚はあります。ですが、それでも親なんですよ。心配して悪いんでしょうか?」

 颯はそれを聞いて噴き出してしまい、吸い掛けていたうどんが丼の中に戻って行った。

「あぶなっ、急に変な事を言わんとってくれるで」

 そう言いながら口の周りを手で拭った。颯はヴィストに気怠そうな目付きで見る。

「オレらにとって親っちゅうんはばあちゃんの事を言うんであって、父ちゃんや母ちゃんは生みの親っちゅうんよ。分かる? 心配するんは勝手やけんど、迷惑やけんほれは心の中だけにしてくれるで」

 颯がヴィストを見ながら言うと、ヴィストの表情が怒りで歪む。

「お前、親に向かってその口の利き方は何だ!」

「怒鳴るなよ。親という割には育ててもろた覚えがないんやけどな。たまーにしか話っしょらんかったんやけんど、ほれで育てたとでも言うつもり? 話す内容も自分の事ばっかりやのに、子を気遣わんのんが親なん? まさかごくたまーに大きさの合わん服をうてきて親のつもりになっとったん? 悪いけんどオレからしたらただの同居人でしかないじょ」

 八千代がうどんを啜りながら横目で颯を見ていた。留実は完全に手が止まっていた。ヴィストは怒りで震えているが、颯はお構いなしで続ける。

「父ちゃんと母ちゃんがやった事はオレらを産んだだけ。知らんと思とるようやけんど、父ちゃんらがオレらに金をかけてないんも知っとるけんな」

「何を言っているんだ? 八千代さんには金を払っているんだぞ」

 語気を荒らげて言うと、颯は怯む事もなければ表情も変える事もなく冷静だった。

「ほれは土地を借りとるけんだろ。しかも身内価格なんも知っとるんじょ。ほれとは別に生活費を渡した事が一度でもあるん?」

「あるに決まっている! 知ったかぶって偉そうに言うな!」

 ヴィストが勢いよく答えると颯は鼻で笑った。

「うそつけや。ばあちゃんの前で、ようもほんな事が言えるな。ほれにナダールのじいちゃんが調べたっちょったぞ」

 ヴィストは目を丸くすると口を結んだ。

「ナダールのじいちゃんはほこまで調べられるくらい偉い人なんやな。びっくりしたわ。ええ家で金をかけて育ててもろたのに、自分は金をかけずに子を放置しとるんやもんな。手をかけんのんだったら、ナダールのじいちゃんみたいに金かけてくれりゃまだ親と認めたんやけんど……。所でここ二年くらいで驚くほどもうけとるらしいけんど、親っちゅうんやったらほれで今までばあちゃんがオレらにかけてくれた分をはろてくれるで」

 そう言うと目を横に向けて少し間を黙考した。そしてヴィストを真っ直ぐ見る。

「やっぱりオレらの分の金は払わんでええわ。今更親になられても対応に困るけん。まあ、今まで通り、産んでくれた事に感謝の意を表して、父ちゃん、母ちゃんって呼んであげるわ。ほなけんど父ちゃんらの生活費はばあちゃんにはろてよ。飯食わしてもろて、掃除もしてもろて、洗濯もしてもろて、住まわせてもろて、色々してもろとんやけんな。ほれをやってもろて当然と思たらあかんじょ」

 八千代が慌てて左手を何度も振った。

「いやいや、お金は少し前に侯爵様から迷惑料も込みで頂いとるんよ。払うんだったら侯爵様にしてくれるかいな」

 颯は八千代の方に顔を向ける。

「ほうなんじゃ。ナダールのじいちゃんはやっぱりごっついな」

 そして、事実を知って意気消沈してしまったヴィストと、口角を下げて睨み付けてくる留実を交互に見る。

「農家で物作りの大変さを知っとるんやけん、うどんは残さんと食べよ」

 八千代はそう言った颯を横目で見てから静かに食べ続けたが、ヴィストと留実は俯いていた。二人共が箸を置いてしまっていたが、食欲が失せたのだろう。颯はそれに見向きもせずに箸でうどんを持ち上げている。

(兄ちゃんの受け売りやけんど、言えてごっついスッキリしたわ)

 目尻を下げて、少し冷めたうどんを啜った。


 十一時前になると弁当箱を三つ背嚢に入れ、それを背負って診療所を目指した。最初は寒くて襟巻をしていたが、歩いている内に邪魔になって来て襟巻を外して背嚢に入れた。視界に入っていたろう色の外套がふと気になった。水伯が大き目に作ってくれていたが丁度よい大きさになっている。

(これはもうこの冬しか着られへんな。ほれにしても水伯にはようけ服をもろとるなあ……)

 そんな事を思いながら視線をやや上に遣る。青空が広がっていて気持ち良くなる。凛とした空気も心地好くなってきた。玲太郎が大好きな草むらは枯草色になり、虫は姿を見せなかった。寂しくなった道端には目もくれずに進む。

 約一時間で診療所に到着すると受付も遣っている助手の宇野田に診察室へ通された。今日は病人でもないのに田井が座っている前にある丸椅子に座らされ、何事かと呆気に取られた表情で田井を見ていた。

「悠次君の容だいはどんなん?」

 田井がそう言うと、颯は安心した。

「うーん、これと言って変化はないな。一昨日からご飯は食べてないくらい。今日は朝にちょっとだけ白湯を飲んで、ほれからは寝とる」

 腕を組んで少し難しい表情になった田井は机に置かれた紙袋を颯に差し出した。

「これは食欲が出るように調合した強めの薬が入っとるけんな。一日、朝、昼、晩の三回飲ませてくれる? 強いけん二日分な。まあ、また効かんかも知れんけんど、ないより増しと思うけん」

「ありがとうございます。ほなけんど、お金持って来てないけん…どうしよ?」

 そう言いながら受け取った。田井は微笑んだ。

「いけるいける、明良君から貰うけんな。今日はちょっと暇だったけん作ってみたんよ。効いてくれたらええんやけんど……」

 最後の方は渋い表情で言った。颯も釣られて渋い表情になる。田井はそれを見て表情を一変させて明るくする。

「ほな、明良君とご飯食べてきい。明良君は玲太郎の所におるけんな」

 颯は立ち上がると頭を下げた。

「ありがとうございます。ほな行ってきます」

 笑顔を見せると、田井の横を通り過ぎて間仕切りしている布を避けて奥に行き、すぐ左に曲がるとまた奥まで行く。そこにあった間仕切りしている布を手で避けると玲太郎と明良がいた。

「来たじょ」

 開口一番に言うと、明良が颯の手にある紙袋に目を遣った。

「それは何?」

「田井先生が悠ちゃんの食欲が出るようにってくれた薬よ」

「え、いつの間に作ったんだろう」

「今日っちょったよ。お金は兄ちゃんからもらうっちょった。ほな玲太郎、ご飯にしような」

 視線を明良から玲太郎に移すと、玲太郎は颯に両手を伸ばした。明良がそれを見ると、横から抱き上げた。玲太郎は明良の顔を見ると眉を顰めた。

「あーちゃんはちがう、はーちゃんはいい」

「あーちゃんでいいじゃない。ね?」

「んも~」

 困った顔をしながら明良の肩を叩いた。颯はその仕草がおかしくて気付けば頬が緩んでいた。

「それでは休憩所に行こうか」

 明良が先に立って休憩室に向かい、颯はそれに付いて行く。そして休憩室でいつものように弁当を食べる。その頃、ハソとニムは屋根の上で息抜きをしていた。

「悠次の病状も大分進んでおるが、田井のあの薬は効くのであろうか」

「どうであろうな。食欲が出た所で、少しでも持つかどうやも疑問ではあるがな」

「ケメが施しておった進行を遅らせる術があった方が良かったのではないのか」

「今頃になってそれを言うか」

「今であるからこそ思うのよ」

 ハソは大声で笑った。ニムは顔を顰めてハソを見る。

「何がおかしいのよ?」

「レウもわしもきちんと話さなかったから仕方がなかろうが、ケメが言うておったあれは嘘ぞ」

 驚いたニムはハソを見た。

「何っ、あれは嘘なのか?」

如何いかにも。あれは傀儡かいらいにする為の術よ。操ってケメがこしらえた研究所に自らの足で行くようにする為のな。玲太郎も明良も颯も印を入れられておったからな、全員さらう気であったのやも知れぬ。若しくは人質に取る積りであったのだろう。その場合、何が目的であったのかケメに訊かなければ判らぬがな」

「け、研究所? そのような物があったのか?」

 ニムは先程よりも驚いて眉を顰めて目を剥いた。

「あったな。ケメの術から解放されて正気に戻った子等は方々に散って行ったがな。残らぬようにレウが誘導しておったのもあるが……」

何処どこに研究所があったのよ?」

 ハソが食い付いて来るニムを横目で見た。

「わしが拵えたつばさ族が住んでおった浮島があったであろう?」

「ああ、ハソが浮かしておった島な。憶えておるとも」

「今は地に落ちておるが、其処そこの近くに拵えておったわ」

「あの辺りは確か獣人が多く住む大陸よな?」

「如何にも。あの島が地に着いてからになるが、丘の天辺にヌトが家の木を移しておったからな、それで近くに拵えたようであるな」

「そうなのであるか。ヌトに濡れ衣を着せる気であったのであろうか?」

「ヌトを敵視しておったから有りる事ではあるが……」

「こうなって来ると殺した子が十億という話は現実味を帯びてくるな」

 ハソは既にニムから視線を外して空を見ていた。表情も変わらず無表情だった。そして無言になっている。ニムはその態度に些か不機嫌になった。

「わし等はわし等の攻撃では死なぬからな。わし等を殺す方法を探っておった可能性もあるな」

 ようやくハソが口を開いたかと思えば不機嫌が吹っ飛び、その言に唖然として暫くは風に揺れる木の葉の音すら耳に入って来なかった。ハソはニムに顔を向ける。

「わしの思い付きではないぞ。レウがそう言うておったのよ」

「……言葉にならぬわ」

 ハソは顰めっ面のニムを見てから、また視線を外す。

「何を企んでおったのかは知らぬが、心底から反省をすれば家の木から解放されて外に出るであろうし、身の丈も戻ろうて」

「わしは当分ケメに会いとうないわ……」

「それはわしもであるが」

 ニムはハソを見て苦笑したが、ハソは真顔になった。

「先日会うまで久しくうておらなんだが、常に見張っておったからうておったも同然の上、色々見せられた事も手伝ってケメの事は当分見とうないわ。それでもあれから少しは監視しておったがな」

 ニムはハソから視線を外して遠くを見た。

「ご愁傷様……」

「しかしケメのお陰で颯の腹の中を見せて貰えたからな。それは感謝せねばなるまい」

 それを聞いて悔しそうな顔をしたニムが徐にハソに顔を向けた。

「それは羨ましいな……。弾き出されなかったのか?」

「颯が見てと言うて来たからそれはない。しっかりと見たぞ」

「どうであった?」

「この上なく透虫等が元気でな。ケメの印から魔力がゆう出しておったが、透虫等で撃退しておったからな。魔力を潰す透虫等なぞ、お目に掛かった事がないわ」

 そう言って眉を顰めた。

「明良もケメの印が再生するのを抑えておったとヌトが言うておったであろう。それを聞いた時、透虫の潜在能力を再調査しとうなったわ。わしはそういう子等に出うた事がなかったが、ケメは知っておったから出会うておったのであろうな。……ケメもそれを調査しておったのやも知れぬが、レウはその事に就いては何も言うておらなんだから、それはなかったのであろうか……」

 途中から呟くように言っていたが、ニムは全てを聴いていた。

「レウでも調査し切れなんだのであろうから、なかったという事にしておけよ。ハソとて知らぬ方がよいと思うて秘匿しておる事もあろうに」

「……それにつけても、事が終わった後、明良はニムの印を即消去しておったな」

 ニムは悲愴な表情になった。そして、にわかに話題を変えて来たハソを見る。

「それよ……。残しておいて呉れるのではなかろうかと淡い期待を抱いておったが、見事に砕け散ったわ」

「やはりわし等は悪霊から脱せぬのであろうな」

「そのようであるな。寂しい事よ……」

いずれは丸くなるやも知れぬが、その時が来るのかどうかよな」

「いや、わしはもう期待はせぬぞ。今後は玲太郎を見守るだけよ」

「解った。この話はもう止めようではないか」

 ニムは黙って大きく頷くと仰向けに寝転がって浮いた。

「今日も空は青いな……」

 空を真っ直ぐ見ているニムを横目で見て、ハソも同じ格好になる。

「天気はよいが寒いそうであるな。わしには感じんがな」

「術を解けよ。この些か冷たい空気が心地好いぞ」

「断る。寒いのも暑いのも苦手なのでな」

「しかし診療所には魔道具の暖房器具があるというに、池之上の家にはないな」

「火鉢で十分なのではないのか」

「あれは寒かろうて」

「あの家ではそれが普通なのであろうて。なくても死にはせぬわ」

「確かに此処ここは温暖であるからな。冬と言うても然程寒くはないものな。それでも八千代は台所で一人簡易暖炉で温まっておるがな」

「年寄りなのであるから好きにさせてやれよ」

「しかしあの箱型の暖炉はよいな。あれを各部屋に置けばよいと思うのであるが」

「ヌトに提案してみれば良かろう。ヌトの念話になら付きうて呉れるであろうから、聞いて貰えるのではなかろうか」

「ヌトに言うて遣れと言うた事があるのであるが、鼻で笑われて終わったのよ……」

「余計なお世話であるから仕方あるまいて。それに池之上の家におるのも後僅かであるからな、今暫くの我慢よ」

「そうであったな。ナダールで世話になると話をしておったものな」

「如何にも。あの家で世話になるのであれば、冬は大変な事になるぞ」

「冬は長くて雪が深いからな」

「ニムもナダールに付いて行くのか?」

「わしは玲太郎が覚醒するまでは張り付いておる積りであるが、魔力如何いかんではそれも長くなるやも知れぬ。ハソはどうする積りなのよ?」

「わしか……。わしは玲太郎がおってもよいと言うて呉れたらずっとおりたいのであるが」

「子の命なぞ短いものな。わしもそうするか……」

 颯と玲太郎とヌトが診療所の外に出て来るまで、ハソとニムは取り留めのない話を続けていた。そして帰り道にいつものように距離を置いて上空から見守っている。


 今日も沢山歩いて疲れたのか、玲太郎は十八時になる頃には座布団を枕にして眠っていた。明良が使っている毛布の膝掛けを掛けていたが、寒いのか丸まっている。颯はそれに気付いて着ていた毛糸で編まれた上着を上から掛けて遣った。脱いで直ぐは肌寒かったが、二十分もすると玲太郎が起きて来て上着が返って来た。玲太郎は甘えたいのか、颯の背中から抱き着いて体重を掛けて来た。

「おきたんじょ、ぬと、みっつもおるんじょ」

 天井付近にいるハソとニムを含めているようだった。颯は含み笑いをした。

「ヌトとな、ハソとな、ニムって言うんじょ。全部ヌトと違うんやけんど、分かる?」

「わからん。ぬとはみっつじょ」

 颯は玲太郎を膝の上に乗せると玲太郎の右手を持ってハソのいる方にその手で差した。

「あっちがハソ、こっちがニム、ここにいるのがヌト。分かる?」

 久し振りに名を教えたが、玲太郎は首を傾げる。

「さあ? ぬと、ぬと、ぬと、おんなじね」

「絵本を読んでくれるんは誰?」

「はーちゃんぞ」

 颯は苦笑すると玲太郎を立たせて、自分も立ち上がった。

「ほな絵本読もか。オレが読んでええんで? ヌトがええんとちゃうん?」

 そう言って小さな本棚の前に行く。玲太郎も付いて来た。

「んも~、はーちゃんはいいのよ」

「その、んも~って誰が言よるん?」

「うのだちゃん、んも~ってゆー」

「ふうん、宇野田のおばちゃんがほんな事を言うんやな。ちと驚き」

 手当たり次第に絵本を出して、玲太郎にそれを全て見せた。

「どれがええ?」

 玲太郎は表紙を見て指を差した。

「これはええ」

「これはええって、これがええん? あかんのん?」

「ええんよ」

「ほなこの<あらたなかみさま>ね」

 それ以外を本棚に戻すと、火鉢の傍に行って座った。玲太郎は颯の隣に座る。颯は絵本を玲太郎の膝の上で開いて読み出した。読んでいる箇所を指で差して行く。天井付近にいるニムが含み笑いをする。

「どうかしたのか?」

 小声でニムに声を掛けた。

「いや、この絵本に書かれておる神様は、灰色の子以外は皆ハソの事であるからそれがおかしくてな」

「そうであったのか? 気付かなんだが」

「ハソがこの島国で遣っておった事の一部が口伝か何かで残っておったのであろうな」

「……と言う事はわしが幽棲する前の話になるのか。随分と遠い昔よな。憶えておらぬわ」

「わしも記憶にないがな、この絵本を読んでおるのを聞いて、このような事を遣っておったのかと思うた物よ」

「果たして遣っておったのかどうか……」

「ハソ以外はそういった事はほぼほぼ遣っておらぬ筈であるからな」

「そうであろうか? 昔はレウ以外は子等と仲が良かったように記憶しておるが……」

「わし等が見える子、わし等と話せる子は問答無用で観察対象になるから大切にせねばなるまい」

「ニムの大切にと言うのと、仲が良かったとは全くの別物と思うのであるが……」

 ハソは苦笑した。すると玲太郎が天井を見上げた。

「ぬと~、しーよ、しーっ」

 口の前で人差し指を立てて言った。

「済まぬ」

 申し訳なさそうに小声でニムが言うと、ハソは笑顔になった。

「わしはハソぞ、ハ・ソ」

 ニムが眉を顰め横目でハソを見た。玲太郎は眉を寄せてハソを見ている。

「ぬと、めっ、めっじょ」

 やはり憶えてくれる気がないようでハソは見るからに落胆した。颯が黙って玲太郎が静かになる時を待っていたが、痺れを切らしたようで口を開く。

「もうええ? 続き読むじょ?」

「もうええんじょ」

 颯が続きを読み出すと、玲太郎は絵本に目を遣った。颯が動かす人差し指の先を目で追っている。ヌトは玲太郎の横で一緒に絵本を見ていた。目を玲太郎に遣ると静かに溜息を吐いた。

何時いつになればわし等を分別出来るようになるのであろうか?)

 玲太郎の顔を見ながら思案を始める。

(いや、分別は出来ておるか。わしの名を呼ぶだけで判ってはおるのであろうな。しかし、一体何を基準にわしを受け入れて呉れておるのか。それを聞いてみたいが、今訊いた所で答えられる訳もなし。答えられるようになる頃には、ハソやニムの名も憶えるておるのであろうな。今はわしが独占をしておるが、それも出来なくなるのであろう……。それはそれで些か寂しさを感じるというのは、わしも玲太郎に大分ほだされてしもうとる証左よな……)

 颯は黙ると顔を上げて耳を澄ます。すると、鈴の音が聞こえた。

「悠ちゃんが呼んびょるけん、行ってくるわ。玲太郎、ごめんな」

 そう言ってから立ち上がると玲太郎も立ち上がり、絵本が畳に滑り落ちた。颯が部屋を出てから障子を閉めようとすると、玲太郎が後ろにいてそれを遮った。違和感があって後ろを見ると玲太郎が目に入った。

「あ、おったん? ごめんごめん」

 そう言うと障子を開放したままの状態で隣の部屋へ行く。部屋の中に入り、また障子を閉めようとすると邪魔をされて後ろを見ると玲太郎が付いて来ていた。中には入らないのを知っていた為、障子は開けたままにして中へ入って行った。悠次の枕元に来ると跪いて顔を覗き込んだ。

「どしたん? 厠に行きたいん?」

「お腹空いた」

「え、ほんまにな。ほなばあちゃんに頼んでおかゆを作ってもらうわ。どれくらいいる?」

「玉子がゆがええ。食べられるか分からんけんど、茶わんに八分くらい……。もうちょっと、少なあてもええな」

「分かった、ほな行ってくるわ。待っとってな」

 笑顔で言うと立ち上がって廊下側を向いた。すると、玲太郎が柱に寄り掛かって覗いていた。それを見て頬が少し緩む。部屋を出て障子を閉めようとする。

「んも~」

 玲太郎がそう言って顔を顰めると颯を見上げた。颯は苦笑して障子の隙間を六寸程も残して閉めた。それだけでは不十分だったのか、玲太郎は少し開けてからまた柱に寄り掛かって辛うじて見えている悠次に目を遣った。颯は玲太郎をその場に残して台所へ向かう。

 悠次は玲太郎がそこにいるとは知らず、颯が来るのを静かに待った。玲太郎はそれを唯々眺めていた。ヌトは玲太郎の後ろにいて、そんな玲太郎の後ろ姿を見ていた。ハソとニムは縁側の方の天井付近にいて悠次を見下ろしていた。

「田井のあの薬、効果があったな」

 ハソが小声でニムに言った。ニムは頷くとハソを見る。

「そのようであるな」

「薬草術を舐めておったわ。中々遣りおるな」

「その術は薬草に術者の魔力を馴染ませる事で薬草の効果を高めるのよ。それで術者の魔力に対して適否が生ずるのであるが、悠次には田井の魔力がうたのであろうて」

「ニムはよく知っておるな。凄いわ」

 感心してニムを見た。ニムは無表情で頷いた。

「治癒術が万能ではないからな。それもあって発展した術なのであるが、使う薬草の多さに気が遠くなるぞ」

「そう言えば診療所には薬草部屋があって、沢山の種類を置いてあるようではあったな。しかと見た事はないのであるが……」

抽斗ひきだしの沢山ある棚だらけであるものな。何処に何が入っておるのか、わしでは憶えられぬぞ」

 そう言うと、視線を感じて玲太郎の方を見た。すると、玲太郎が顔を顰めてハソ達を睨んでいた。

「玲太郎が睨んでおるわ」

 更に小声にすると、ハソが何度も軽く頷いた。二体は仕方なく黙る。玲太郎は静かになった事に満足したのか、また悠次を眺め出した。

 暫くして颯が盆に茶碗を載せて戻って来た。玲太郎はそれを見て表情が明るくなった。颯は障子を更に開けて中へ入って行く。玲太郎も中へ入って来た。悠次の横側に来ると盆を置いた。玲太郎は悠次の枕元に座る。

「悠ちゃん、持ってきたじょ。ほのまま寝とってよ。オレがやるけん」

 そう言うと茶碗を取って匙で少し掬い、息を吹き掛けて冷まし始めた。玲太郎は顔を綻ばせてそれを見ている。

「はい、あーん」

 颯がそう言って匙を悠次の口元へ持って行くと、悠次が口を開けた。匙を口の中に入れると悠次が軽く唇を閉じ、それを見た颯は匙を外へ出した。

「ぼくも、ぼくも」

 自分を指で差した玲太郎が笑顔で颯を見る。颯は苦笑した。

「玲太郎のご飯はまだよ。これは悠ちゃんのやけんあかんじょ」

「ちょっとよ、ちょっとちょうだい」

 懇願してくる玲太郎を見て、颯は粥を混ぜながら苦笑していた。

「ほなけんな、これは悠ちゃんのんよ。玲太郎のんは後で、な」

 そう言うとまた匙で粥を掬って冷まし始めた。玲太郎は頬を膨らませて不機嫌になると、その場に寝転がった。

「はーちゃんいじわるっ、いじわるっ」

 俯せになって喚いた。颯は無視して悠次の口へ匙を持って行った。

「はい、あーん」

 玲太郎は颯の方へ転がって仰向けになる。

「あーん」

 颯は玲太郎が可愛く思えたが、表情は厳しかった。

「ほなこれを悠ちゃんが食べ終わったら、どら焼きもろて来たげるわ。ほれでええ?」

「どらやきいや、これがええ」

「ほなけん、これは悠ちゃんのんよ。玲太郎のご飯は別にあるけんな」

「いやいや」

「いやとちゃう。お腹空いとんだったらばあちゃんに言うてはようしてもらうわ」

「ちがうのよ。これがええんじょ」

「これがええんじょって言われてもなあ……」

 玲太郎が引かずに颯が困っていると、悠次が笑い出した。

「少しだったらええよ。食べさせたげ」

「ええ、これは悠ちゃんの分やけん、あかんて」

「ほな残ったら玲太郎にあげてな」

「分かった」

 颯は匙で掬うと息を吹き掛けて冷まし、悠次の口へ運んだ。玲太郎はそれを見ていて口を開ける。

「悠ちゃんが残ったらくれるっちょるけん、待っとって」

 玲太郎を見ながら言うと、玲太郎は体を起こして四つん這いで颯の隣に来た。

「まつよ」

 そう言って座ると、悠次が食べ終えるのを笑顔で待っていた。しかし、悠次に残さず食べて欲しいと願う颯は、悠次に何も言わずに全部食べて貰う事に成功した。

「玲太郎、ごめんじょ」

 空っぽになった茶碗を見せると、玲太郎は衝撃を受けたのか固まってしまった。

「ほな悠ちゃん、飲みもん持ってくるわな」

 盆に茶碗を置き、それを持って立ち上がろうとした所を玲太郎が首に両腕を回して来た。

「あかんー! はーちゃんあかんのよー!」

 颯は耳元で喚かれたがそのまま立ち上がり、玲太郎が背中側にぶら下がっている。

「ほなけん、ごめんって謝っただろ? 許して」

 そう言いながら颯は腰を曲げて玲太郎が落ちないようにすると部屋を出て行き、障子を静かに閉めた。玲太郎は駄々を捏ねたが颯に通用しなかった事が悲しくて、台所で口を尖らせてごてていた。

「ぼく、たべたい。あれたべたいだった。どうしてあかんの。いいんちゃうん。な? くれるもいいとおもう。んも~くれんだめ。あーあ、たべたいわ。ほんまたべたい」

「ほなけん、ごめんって。あれは悠ちゃんのんよ。玲太郎のんとちゃうけんな。もうじき晩ご飯やけん、ほれまで待ってくれるで?」

 颯は玲太郎を抱いて納得して貰おうとしていたが、玲太郎は頬を膨らませてそっぽを向いた。

「乳をちょっと温めただけやけん、ぬるいしすぐ飲めると思うわ」

 そう言いながら八千代が急須を持ってきた。玲太郎の様子を見て心配そうにする。

「どしたん?」

 颯は急須を盆で受け取ると苦笑した。

「悠ちゃんのおかゆを食べたがったんやけんど、食べさせへんかったんよ。ほいたらすねてもた」

「あはは。ほれはしゃーないな。じきにご飯やけん、もうちょっとだけ我慢してな」

 玲太郎は横目で八千代を一瞥すると、颯の肩に顔をうずめた。

「ええことないのよ。ぼくかわいそう。さっきのんたべたいのよ。わかる? たべたいのよ」

 呟いていたが、颯は気にしないで八千代を見た。

「ほなばーちゃん、ありがと」

 そう言うと悠次の部屋に戻る。障子の前で一旦膝を折って盆を脇に置いてから障子を開け、盆を持って膝で歩いて中に入り、また脇に盆を置いて障子を閉めると盆を持ち、立ち上がって悠次の枕元へ向かう。

「ばあちゃんが乳をあっためてくれたけんな。ぬるいって言よったけん、すぐ飲めると思う」

 盆を置いて急須を手にすると、悠次の口に急須の口を入れた。そして徐に傾ける。

「熱うない? いける?」

「いえう」

 そのまま徐々に流し込む。颯は悠次の喉を見ていた。「ん」と悠次が言うと、颯は悠次の口から急須を離した。悠次は最後の一口を飲み込む。

「ありがとう」

「まだ残っとるけんど、置いとこうか?」

「ううん、乳はもういらん。ごめんやけんど、湯呑みでええけん、水入れて持って来とってくれる?」

「分かった、持って来とくわ。ほなな」

 そう言うと部屋を出る時も入った時と同様の動作をして出て行った。玲太郎はずっと颯にしがみ付いていたが、小言はなくなっていた。

 台所に行くと急須に残っている乳を飲み干し、水を張った桶の中に急須を浸けた。八千代は汁物の灰汁あくを取り除いていて、颯に見向きもしなかった。颯も声を掛けずに居間にいくと湯呑みを一個手にし、また台所に戻って中央にある台に置かれている鉄瓶の白湯を入れると盆に載せて悠次の部屋へ持って行った。そして勉強部屋に戻ると、静かになった玲太郎の背中を軽く二度叩いた。

「玲太郎? 寝てもた?」

「ねてもた」

「起きとるのに寝てもたん? おかしいなあ」

「ぼくはたべたいだったのよ」

「まだ言うんか。ひつこいなあ」

 そう言うと笑いが込み上げて来た。颯は肩を震わせて我慢をする。

「わらうだめぞ。わらあない」

「わ・ら・わ・な・い、な」

「それ、わらわあない」

「わ・ら・わ・な・い。……ほなけんどな、もうじきご飯が食べられるけん、許してくれる? 許してくれんのん?」

「ゆるす?」

 顔を上げて颯の目を真っ直ぐに見た。颯も玲太郎の目を見る。

「ほうじゃ、許す。心を大きいにして、さっき食べられへんかったおかゆの事を言わんように、空のかなたへ投げ打って忘れてまうんよ」

「ええ? ゆーのあかんの? たべられへんかった、ぼくかわいそう」

「心が大きいになったら可哀想でなくなるんよ。許すっちゅうんは大事なんじょ」

「ゆるすはないでええよ。ぼくおおきいないでええ」

「ほんまにな。ほれは困ったな……」

「こまる? ぼく?」

「ううん、玲太郎とちゃう。オレが困る。許してもらえんと困るんよ。オレが悲しいになるんよ」

「んも~……」

 そう言って颯の頭を撫で始めた。

「よしよし、かなしいかわいそう。はーちゃんかわいそう」

「ほな許してくれる?」

 玲太郎は眉を寄せて嫌そうな表情になる。

「ゆるすはないじょ」

「ほんま、分かった」

 颯が玲太郎を下ろし、火鉢の傍から離れて明良の文机の前に座った。

「許してくれるまで離れとくわ。オレも反省せんとあかんけんな」

 玲太郎が颯に近付こうと歩い来ると、掌を見せて制止した。だが、玲太郎には通用しない。

「止まって。許してくれるまでオレが玲太郎に近付いたららあかんのよ」

「なんで?」

「決まり。ほういう決まりなんよ」

「きまり?」

「ほうじゃ。玲太郎がオレを許してくれるまで、玲太郎の近くにおられへんっていう決まりよ」

「だっこあかんの?」

「抱っこはあかんな」

 それを聞いた玲太郎が悲しそうな顔をして視線を下に遣った。颯はそれを見ると、玲太郎から顔を背けた。

「はーちゃんは玲太郎が許してくれるまで、玲太郎を抱っこ出来ない! はーちゃん可哀想!」

 大袈裟に言うと玲太郎が近付いて、颯の目の前まで来た。

「わかった、ゆるすのよ。ほいたらだっこする?」

「するする。しますとも」

 満面の笑みを浮かべて言うと両手を広げて玲太郎に抱き着いた。

「許してくれてありがと」

 そのまま玲太郎を抱いて立ち上がると、火鉢の方へ向かう。

「でもたべるはないはもうないじょ」

「オレのんだったら食べてもええよ。ほなけんど、悠ちゃんのんはあかんけんな?」

 そう言いながら火鉢の前に座った。

「わかった。ゆーちゃんのんはたべるはない」

「約束な?」

 空いている右手の小指を立てて玲太郎の手に触れる。

「やくそくな」

「はい、小指立てて。指切りしよう」

 玲太郎は颯の手を見ながら左手の小指を立てると、颯が小指だけで握った。

「ゆーびきーりげんまん、うーそついたらはーりせーんぼんのーます、ゆーびきった。はい、これで約束出来た。約束を破ったら大変な目にあうけん、気い付けよ」

「うん、わかった」

 二人は顔を見合わせて笑顔になった。


 明良は帰宅してから玲太郎と颯の三人で夕食を摂り、その後にもう寝てしまっていた悠次の体を拭いた。拭いている途中で悠次が起きる事はなかった。それから勉強部屋へ行き、颯に甘えている玲太郎を目にして苛立ちながら読書をして時間を潰していた。そろそろ頃合いと思い、颯に肩車をされている玲太郎の方に向いた。

「玲太郎、そろそろお風呂に行かない?」

 玲太郎は明良の方を向いて顔を顰める。

「ええ、おふろまだよ」

「まだ眠くないの?」

「ねむいはない、まだはーちゃんとあそぶじょ」

「兄ちゃんと風呂行ってきい」

 颯が言うと、颯の方を向いて顰めている顔を見せる。

「まだなのよ」

「いつもやったら風呂の時間だろ? 行ってきい。ほれともオレと行くで?」

 何気なく颯が言った。

「んー、そうする」

 明良は驚いて無表情が崩れた。

「ほな風呂行こか」

 颯はすんなり受け入れて玲太郎を肩から下ろすと抱いて立ち上がった。

「ほな兄ちゃん、行ってくるわ」

「いってくるわ~」

 二人は部屋を出て行ってしまった。明良は呆然とそれを見送った後、徐々に怒りが湧いて来た。玲太郎が産まれてから沐浴や入浴はずっと明良の役目だったからだ。そして今度は虚しくなり、読書を続ける気力は失せ、膝掛けを持って火鉢の傍に行くと二人が部屋に戻って来るまで呆けた。

 二十分もすると髪を濡らしたままの玲太郎だけが戻って来た。

「あーちゃん、はーちゃんがかみかわかしてって」

「颯は?」

「おふろにおるじょ」

「それなら脱衣所へ行こうか。他に何か言ってなかった?」

「いってた、はあみがいてって」

「そう、解った。おしっこは?」

「おふろのまえにやった」

「そう、解った」

 炭が消えないように手早く動かして、膝掛けを少し離れた所に放ると立ち上がり、玲太郎の前に手を出した。玲太郎はその手を取ると一緒に部屋を出て行く。洗面所に行くと四枚の羽根が付いた魔道具で玲太郎の髪を乾かし、歯磨き用の毛を使って歯を磨き終え、玲太郎は踏み台に上がるとうがいをした。

「颯、玲太郎の髪を乾かしたし、歯も磨いたから」

 浴室の戸の前で言うと、中から何かを言っている声が聞こえて来た。

「何?」

「全部出来んでごめんなっちゅうたんよ。ありがと」

「解った」

 明良は玲太郎を抱き上げると脱衣所を出て戸を閉めると勉強部屋に戻った。玲太郎を湯冷めさせないように膝掛けで包んで膝に乗せる。そして玲太郎に優しく微笑み掛けた。

「明日からはまたあーちゃんと一緒にお風呂に入ろうね?」

「え? はーちゃんとはいる」

 明良はここ最近で一番の衝撃を受けた。

「ど、……どうして?」

 余りの衝撃で、明良は悲愴な表情をしていた。玲太郎はそれを見てもいつも通りだった。

「あーちゃんよりはーちゃんがええじょ」

「あーちゃんはどうすればよいの? 玲太郎と一緒にいる時間が短くなってしまうよ?」

「うん? ぼく、それでええとおもう。はーちゃんとおふろがええのよ」

 玲太郎は笑顔で言った。明良は表情が上手く作れなくなっている事に気付いて、玲太郎に顔を見られないようにした。

「そうなんだね……。あーちゃんは一人で寂しく過ごすんだね……。あーちゃん凄く可哀想」

「さみしいかなしいはないのよ。ぬとおるけん、ひとりちがうじょ。な? あはは」

 玲太郎が明るく笑った。確かに玲太郎が颯と風呂に行っている間は三体がこの部屋にいたから正確には一人ではなかった。何故だかヌトが物凄く憎く思えた。

「玲太郎にはヌトが見えているだろうけど、私や颯にはヌトの姿が見えないんだよ? だからいないも同然、ヌトなんていないんだよ」

 解って貰えると思った訳ではないが弁明した。

「みえない?」

「そうだよ、見えないんだよ」

「へぇ、みえないのよ? すごーい」

 玲太郎は感心していた。明良は馬鹿らしくなって苦笑いをしてしまった。

「兎に角、玲太郎の眠る時間が来てるから、絵本を選んで寝室に行こうか」

 玲太郎を抱き上げて本棚の前に行って跪くと、絵本を幾つか出して玲太郎に見せる。

「どれがよい?」

「ん~、これ」

(また<あらたなかみさま>か……)

 明良は咄嗟に思うと、些か嫌になって来た。

「最近こればかりだから、違うのにしない?」

「んも~、これよ、これがええじょ」

(影響を受け易いのか、言葉遣いがおかしくなって行くのは本当に勘弁して欲しいな……)

 僅かに眉が寄った。

「解った。これにするね。でもこれは短いから読んでいる間に寝ないよね? 同じ物を何度も繰り返して読めばよいの?」

「うん、おんなじがええわ」

「それではそうするね」

 明良は別の絵本を片すと立ち上がった。寝室に行って玲太郎を下ろして絵本を置くと、桜輝石おうきせきが入っている籠に被せている布を取って中から一個取り出し、いつも玲太郎の布団を敷いている辺りに置いてから押入れを開けた。先ず玲太郎の分を敷いて玲太郎を寝かせると自分達の分も敷いた。寝室の空気は冷えていて、明良は玲太郎を巻いていた膝掛けを使う。

「寒い?」

 毛布に挟まれた玲太郎に訊くと、玲太郎は首を横に振る。

「さむいはないけど、つめたい」

「その内に温かくなるから我慢してね」

「はーい」

 明良は笑顔で頷くと絵本を読み出した。玲太郎は五度目を読んでいる途中で目を閉じてしまった。明良は念の為、六度目も読んでみたが眠ったようで反応がない。前髪を上げて額に口付けをすると、掛け布団がきちんと掛かっているか確認する。絵本を閉じて桜輝石はそのままにし、膝掛けを持って音を立てないように勉強部屋へ戻って行った。


 それから少し時間が過ぎ、颯が先に寝室に行ってから勉強部屋へ遣って来た。寝間着の上に服を着ていて、更に上着も来ている。明良は見向きもしないで読書を続けていた。

(あー、やっぱり玲太郎と一緒に風呂入ったけん怒っとるわ……)

 本棚の前に行って教科書を選ぶと帳面と問題集を取り、自分の文机へ向かった。颯が使っている膝掛けは薄くて真冬だと寒さを感じるがそれをずっと使っている。これは八千代が編んだ物で悠次からのお下がりだったからだ。体が大きくなってしまい、胡坐を掻いている時に使うと隙間が出来て更に寒かったが、ずっとそれを使い続けていた。今日の夕方は玲太郎が甘えてきて勉強が進んでいなかった事もあって、それを取り戻すべく、また文机に向かっている。

 小一時間経った頃、明良が立ち上がり、その気配で颯の集中力が切れた。

「どしたん?」

「悠次が呼んでるから行ってくる」

 微かに鈴の音が聞こえる。

「オレが行こうか?」

「大丈夫。勉強していて」

 明良が部屋を出て行くと、また本に目を向けたが、ふとある事に気付いた。

(ほういや、まだハソとニムがおるな……。なんで?)

 ヌトは颯の傍にいたが、二体は悠次の部屋にいた。そのまま本を眺めて物思いにふけっていたが、一旦思考を切り替える為に台所へ向かった。明良がいて鍋に水を張って火に掛けていた。

「どうかした?」

 明良が颯の方を向いて訊くと、颯は苦笑する。

「飲みもんを飲もうと思て。兄ちゃんは何しよん?」

「悠次が小腹が空いて梅干しのお粥が食べたいと言うから作っている所」

「ほうなんじゃ。田井先生の薬、よう効くな。夕方も食べよったよ。これが続いてくれたらええんやけんどな」

 話している内に鉄瓶に水を入れた颯は魔道具の焜炉の上に置く。すると明良が火を点けてくれた。

「ありがと」

「どう致しまして」

「兄ちゃんもお茶を飲むかいな?」

「そうだね、貰おうか。悠次の分も入れて貰える?」

「分かった。水を多めに入れて良かったわ」

 そう言うと、いつも八千代が腰を掛けている丸椅子の所へ行って座る。簡易暖炉の火は消えているが、余熱でまだ温かかった。明良は残っていた白飯はくはんを鍋に入れて木へらで解し始めた。

「ほのご飯、家の米とちゃうん知っとった?」

 唐突に颯が言うと、明良は颯の方を向いた。

「そうなんだ。それは知らなかったね。何処の米?」

「ばあちゃんの古い知り合いのとこ、なんちゅう島やったか、もう忘れた」

「これも結構美味しいと思うからよいけどね。それで家の米はどこに行っているのかは知っている?」

「なんやごっつい美味しいけん、高あに売れるとかでみな売りよるっちゅう事しか知らん」

「そう、父ちゃんも強欲な事で……」

 塩を少しと梅干しを放り込んで、使った箸を台の上に置く。その動作を颯は眺めていた。

「金を貯め込んで一体何に使う気なんだろな」

「そうだね。……正直な所、興味がないからどうでもよいね」

 木箆で梅干しを潰しながら言った。颯は一人考えた。

「考えた所で答えは出ないから、考えない方がよいと思うよ」

「……ほうやな、ムダな事やもんな」

 そう言うと立ち上がって食堂へ向かった。そして一番小さな急須と、二番目に小さな急須を持ってくると、二番目に小さい方に茶葉を入れる。明良は火を弱めると木箆を茶碗の上に置いた。鉄瓶から湯気が出だし、暫くそのまま沸かし続けた。さん分経過して明良が火を消すと、颯が手拭いで鉄瓶のつるを覆ってから持ち、大きい方の急須に熱湯を注いだ。台の上にある鍋敷きに鉄瓶を置いて急須に蓋をする。そして今度は盆を持って食堂に行き、湯呑みを二個持って戻って来た。

「一番ちっこいお盆は使わせてもらうじょ」

「よいよ。別のお盆を使うから。お茶は食堂で飲まないの?」

「うん、勉強部屋に持って行く。……茶碗が二つあるけんど、兄ちゃんもおかゆ食べるん?」

「うん、食べるよ。少な目に作った積りでも多くなると思たからね」

「ほうなんじゃ」

「食べたかった?」

「いや、ほんな事はないけんど、夜食や珍しいなと思て」

「そうだね。今日は特別」

「ふうん」

 颯は小さい方の急須と湯呑み二個に茶を注いだ。湯呑みの口付近を持って盆に載せると明良を見る。

「ほなお先」

「勉強も程々にして早く寝るようにね」

「分かった」

 頷くと盆を持って台所を後にした。明良は米粒の様子を見るとまだ粒の膨らみが少なく感じて更に煮た。

 勉強部屋に戻った颯は火鉢の前に座り、脇に盆を置いた。湯呑みは熱くて持てない。ハソとニムの気配が直ぐ傍にあって気に掛かった。

(颯、ハソであるが今よいか?)

 思わず頷いてしまった。

(田井からもろうた薬を見せて欲しいのであるが良かろうか?)

「ええよ。悠ちゃんの枕元にあるけん…って、知っとるわな。ほなけんど兄ちゃんが悠ちゃんにおかゆを食べさすみたいやけん、ほれが終わってからにしてくれる? 兄ちゃんに見付からんようにな」

(解った。そうする。有難う)

「どういたしまして」

 まだ残っていた理由が判明して一安心した颯は恐る恐る湯呑みに触れた。やはりまだ熱くて持てそうになかった。

(薬を見たいて、どんな薬草を使つことるか見ただけで分かるもんなんだろか? もしほうだったらごっついな……)

 感心していると、今度はヌトが近付いて来た。話し掛けられるかと身構えたが、単に近付いて来ただけのようだ。

 何気なく掛け時計を見ると二十三時半を少し過ぎた所だった。湯呑みが持てるようになるまで待って、持てるようになってからは息を吹き掛けながら少しずつ啜って温かい内に飲み干した。体の内側から温かくなって眠気が強くなって来た。火鉢の火が消えないようにすると盆を持って台所へ行き、今ある洗い物を全部洗ってしまう。それから洗面所へ行き歯磨きをした。

 勉強部屋に戻る事はなく、寝室に吸い込まれるように入って行き、端に置かれている籠の中から目覚まし時計を手にして枕元に置いた。掛け布団と毛布を捲って布団の上に座ると姿勢を正して目を閉じ、瞑想を始める。いつものようにヌトは颯の印に意識を集中してそれに便乗する。

 颯は透虫を介すると精霊が見えるようになっていた。それに気付いてから何を見るようになったかと言うとケメだった。偶然ではあったのだが、瞑想中にケメの気配を感知出来る距離に近付いた事があり、居場所を突き止めるとそれからは毎日ケメを観察していた。ケメに対して覗き見をする事に罪悪感が全くなかったからだ。大きさが今一把握出来ないでいたが、とにかく大きな木の中にずっといるようだった。これに付き合わされているヌトは、毎日見たくもない物を見せられて辟易としていたが文句は言えなかった。

 今日も頭の後ろで手を組んで浮いている仏頂面のケメを見続け、約五十分の瞑想を終えた。最近では約三十分で終える事がなくなり、徐々に長くなって来ている。

(ちょっと前までは三十分前後で終われとったのに時間の感覚が狂て来とるな。透虫が時間が来たっちゅうて教えてくれたらええんやけんど、ほうもいかんけん気い付けなあかんな)

 颯は横になって足を掛布団の下に突っ込むと、風呂上りに仕込んでおいた湯たんぽが足に当たって温かかった。仰向けに寝転がると捲れている掛け布団を掛けて目を閉じた。ハソとニムがいて寝られないのではと懸念していたが抵抗なく寝てしまった。ヌトがその様子を覗き込むように見ていた。

(今宵も寝付きのよい事で)

 ヌトは颯が寝た事を確認するといつも通り瞑想を始めた。最近では自分の意思が反映される事が増えつつあり、瞑想が楽しくなっていた。


 翌日、それを最初に見付けたのは颯だった。どうしてよいのか判らず、その場に座っていた。暫くすると八千代が覗きに遣って来てそれを知った。八千代は涙を流す事なく、悠次の頭の真横で正座をしている颯の肩を叩いた。颯は徐に八千代の方に顔を向けると、八千代が微笑んだ。

「ちょっと早いけんど弁当こっしゃえるわな。食べられへんかも知れんけんど、いつも通り診療所に行って食べて来いな。しっかり気い持ちよ」

 颯の肩を二度軽く叩いてから立ち上がり、部屋を出て行った。颯の視界から八千代が消えると、また悠次の寝顔に顔を向ける。呆然と悠次を眺め、停止した思考も動き出す事はなく、唯々呼吸をしているだけだった。

 颯が我に返ったのは診療所の前にいた時だった。

(颯よ、大丈夫なのか? おい、確りしろ。後ろに人がおるのよ。聞いておるのか? 後ろぞ!)

 頭の中で騒いでいるのがヌトなのかハソなのか判らなかった。颯は背中をつつかれて体が反応した。

「あのー、すんませんなんやけんど、入らんのんやったらどいてもらえんかいな?」

 慌てて振り返ると、小柄で白髪の年寄りがいた。颯は声からして男性だと判断した。

「ああ、ごめんなさい。どうぞ」

 横に避けるとその年寄りが怪訝そうな表情をして頭を下げて中に入って行った。

(わしが誰であるか判るか?)

 そう問われると即座に頷いた。気配がハソだったからだ。

「ごめん、ちょっと今おかしいんよ」

 小声で言うと扉を開けて中に入って行く。

(そのようではあるが……、何かあったのか?)

 颯の表情が硬くなり、返事をしなかった。ハソはそれ以上の事は訊かず、天井裏にいるニムのもとへ戻って行った。

 颯は脱いだ靴を靴箱に入れ、待合室へ入って行く。長椅子が三脚置かれていて、そこには患者が先程のお爺さんも含めて三人座っていたが、入って直ぐの左側にある受付を見ると、誰もいなかった。颯も長椅子に腰を掛ける。時計を見るとまだ十三時二十分だった。

(あれ? 何でこんな時間に来てもたんだろ……)

 頭が真っ白で何も思い浮かばない。そこへ馴染みのある気配が近付いて来ると、受付に人が現れた。

「颯君、こんにちは。今日は早いな。どしたん?」

 田井の助手をしている宇野田だった。些か膨らんでいて、気の好さそうな中年の女性だ。いつものように満面の笑みで迎えてくれる。

「こんにちは。一時間半以上早いけんど玲太郎の所に行ってもええだろか?」

 上手く笑顔が作れず、顔の強張った様子を見て宇野田は頷いた。

「ほな玲太郎君のおる奥に行くで?」

 そこで颯より先に入ったお爺さんを見付ける。

「あ、沢井さん、こんにちは。少し待っとってな。急いでもんて来るわ」

「ああ、ゆっくりでええよ。待っとくけん」

 お爺さんは颯を一瞥した。宇野田は受付から姿を消した。颯は宇野田が来るのを診察室の出入り口の前で待ったが、直ぐに扉が開いて中に入れてくれた。宇野田は入って直ぐの所で間仕切りしている布を避けて隙間を作る。

「こっから入って玲太郎君の所へ行ってくれるかいな? 誰もおらんけん、いけるけんな」

「ありがとうございます」

 小さく辞儀をして誰もいない診察台を通り過ぎ、そこから通路に出て玲太郎のいる所へ行く。すると、玲太郎が笑顔になった。

「はーちゃん!」

 颯は慌てて人差し指を口の前で立てた。

「しー、患者さんがおるけん、静かにな」

 小声で言うと囲いの一部を取って腰を下ろし、外した囲いの一部を玲太郎のいない方に置いた。そこには絵本が六冊と積み木も置かれている。明良が患者に何かを言っているが耳に入らなかった。

「はーちゃん、はやい?」

 玲太郎が小声で言いながら颯に寄り掛かって来た。そして颯の頭を撫でる。

「よしよし、ぼくがさみしいて、はやいにきたんはえらいのよ」

 颯は思わず頬が緩んでしまった。無表情に戻ると手で口を覆った。

「ヌトがはやいゆーとるぞ。なにかあったのか?」

 玲太郎の後ろにはヌトの、真上にはハソとニムの気配がした。颯は寄り掛かっている玲太郎を横抱きにして目を見た。

「何かあったけんど、兄ちゃんがおる時に言うわ」

 そう言うとハソの気配が俄に遠退いて行った。

「ふうん」

 そのまま左手で玲太郎の腕を優しく叩き始めた。

「ねむいはないのよ。めっ」

「ほんま、ごめんよ」

 手を止めると膝に座らせた。

「絵本でも読もうか?」

「もうたべるがええ」

「お腹空いた?」

「おなかすいた。さっきうのだちゃんがおかしくれたんたべた。でもたりないのよ」

「どんなお菓子食べたん?」

「ん、あまいやつ、まあるうて、りんごがあった」

「色は?」

「いろ? はーちゃんのかみのいろ?」

「茶色か」

「ちゃいろ」

 颯は玲太郎との何気ない会話に心が軽くなり始めると涙が零れた。最初は手で拭ていたが、次々と溢れて来てどうしようもなくなり腕で目を押さえた。異変を感じた玲太郎は振り返って見上げた。

「はーちゃん、どうした? おべんとたべるはない?」

「お弁当を食べるにはまだ早いけん、もう少し我慢しよな」

 声が震えていた。玲太郎は困惑して颯の外套にしがみ付きながら膝の上で立った。目に当てている腕を顔から離そうとする。

「はーちゃん、どうした? だいじょーぶはないの?」

 いつもの声量で心配すると、颯は顔から腕を離して玲太郎の腰に手を当てて支えた。

「静かにな。オレは大丈夫とちゃうけんど、まあいける」

 小声で言ったがやはり声が震えている。颯の目から涙が流れ、玲太郎は驚愕した。

「なみだぽろぽろよ。だいじょーぶはないぞ」

 そう言いながら困った顔をして掌で涙を拭いた。涙が頬に広がり、広範囲に濡れてしまった。

「大丈夫でないけん、玲太郎の事ぎゅっとしてもかんまん?」

「え? ぎゅっとするの? ……しゃーないな、ええのよ」

「ありがと」

 玲太郎を抱き締めると目を固く閉じた。次第に涙が零れなくなって来たが、零れる度に手で拭った。

「ちょっとマシになったわ。ありがと」

「もうちょっとしとってもええのよ」

「ほんまにな。ありがと」

 颯は頬が緩んだ。玲太郎も笑顔で颯に抱き着いている。そこへ明良が遣って来た。抱き合っている二人を見て些か不機嫌そうな顔になる。

「こんな時間に来てどうかした? 何かあった?」

 端に置かれている丸椅子を颯の手前まで持ってくると腰を掛けた。少し俯いて口を固く結んでいたが、意を決したのか顔を上げた。

「悠ちゃんが死んだ」

 明良は動じず、小さく頷いた。

「そんな気はしてたよ。昨日は夜にもご飯を食べたから、もう少しは持つかなと思っていたんだけど……、こればかりは仕方がないね」

「しんだってなに?」

 玲太郎が颯の方を見て訊いた。颯は横を向いて玲太郎の目を見る。

「もう起きないって事なんよ。ずうっとずうっと寝たまんまなん。目え覚まさんのんよ。分かる?」

「ゆーちゃんねたまんま?」

「うん」

「ふうん」

「それで、ばあちゃんは何か言ってた?」

 颯は明良を見ると顔を顰めた。

「ほれがな、気い付いたら診療所の前におってな、なんも覚えとらんのんよ」

「その背嚢の中は? 何か入ってない?」

「いつも通り弁当だけと思うんやけんど……」

 玲太郎を横に立たせ、背嚢の背負い紐を肩から外して腕を抜くと背嚢を膝の上に置いた。かぶせを翻し、口をすぼめている紐を解いて中を見ると紙が入っていた。

「こんなんが入っとったわ」

 明良は渡されるとそれを読んだ。

「もうごはんたべる?」

 玲太郎が颯に寄り掛かって背嚢の中を覗いた。

「ご飯はまだじょ」

「田井先生に来て貰って死亡診断書を書いて貰う事と、ばあちゃんは葬儀屋に行ってくるから晩ご飯は各自で食べる事と、お弁当は確り食べなさいと書かれているね」

「ほんま。オレは正直、なんや胸がいっぱいで食べられへんと思う」

「ぼくたべる」

「まだ早いからもう少し待ってね。颯も食べられるだけ食べておかないとね」

 紙を颯に戻すと、颯もそれに目を通した。そしてハソの気配が近付き、真上に来た。

「呼吸が止まって六十三時間経過すると土に還るから、これからさん日の間は大変かもね。隣近所がいないから葬儀も身内だけになるだろうけど、その身内もいないに等しいから人手が足りないだろうしね。水伯は来てくれるとして、ナダールのお祖父じいちゃんは来られるのだろうか……」

「ナダールのじいちゃんは父ちゃんがおるけん来んだろ。水伯は明日来る予定なんやけんど音石で知らせとく? ほれにしても死んだら土にかえるってほんまなん? 虫や魚の死体が土になった所や見た事がないやけんど……」

 怪訝な表情で首を傾げた。明良は小さく頷く。

「そうだね、水伯には音石で報せよう。それと、見た事がないから信じられないかも知れないけど人間は死んだら土になるんだよ。多少の条件があるから土にならない場合もあるけどね。和伍では人間の死体が土になると川や海に流すか、山や森に撒くんだけど、還った土を運ぶ為に人手が必要になるんだよね。私と颯と、…父ちゃんは遣るのかどうか判らないから数に入れないとして、後二人は葬儀屋の人が手伝ってくれるのだろうか……」

「水伯は?」

「玲太郎の面倒を見てくれる人がいないと駄目だろう? 私は家で玲太郎を見ていて貰おうと思ってる」

「あ、なるほど」

「ばあちゃんが葬儀屋に行くと書いてあるから、その辺はどうにかしてくれそうではあるね。ばあちゃんと夜に話せばよいか」

 話に入れないからか、玲太郎が颯の背中から首に抱き着き、背負われようとしていた。颯は左手を後ろに回して玲太郎の尻を支える。そして膝にあった背嚢を右横に置く。

「うん? ごはんたべる?」

「食べへんよ。一時間以上早いんよ。もう少し待ってくれるかいな?」

「んも~」

 玲太郎は額を颯の肩に擦り付けた。

「颯、外套を脱いだら?」

「ああ、ほうやな。着っぱなしだったわ。玲太郎、ごめんやけんど下りてくれるで?」

 背を反らせて玲太郎の足を寝具に着けさせると首にしがみ付いている腕に手を置いた。

「ええ? おんぶでないの?」

「後でやるけん、先に外とうを脱がさせてくれるかいな?」

 玲太郎が手を離すと、颯は立ち上がって外套を脱ぎ、簡単に畳むと囲いに掛けた。そしてまた腰を下ろした所を透かさず玲太郎が抱き着いて来て颯が左手で尻を支えた。

「十時くらいになんか食べへんかったん?」

 左横を向いて、玲太郎を見た。

「たべたぞ。あーちゃんとおにぎりたべたわ」

「ほの上、宇野田さんにもお菓子をもろたのに、お腹空いとん?」

「うん、すいとんじょ。うのだちゃんがくれたんおいしかった。あれほしい」

「ほれはもうないけん、悪いけんど諦めてよ」

「もうないん?」

「ない」

「ぼくかわいそう」

 玲太郎は顔を顰めて言った。

「うん、玲太郎可哀想やな」

「会話が弾んでいる所に申し訳ないのだけど、私は一旦戻るよ。田井先生に機会を見て悠次の事を報せないといけないからね。それと患者さんがいる時はもう少し声を小さくね」

「仕事中にごめんな。行ってらっしゃい」

「いってらっしゃーい」

 颯が小声で言うと玲太郎も小声で言って笑顔を見せた。明良は頷いて立ち上がり、間仕切りをしている布を手で避けて出て行く。それを見てからまた顔を横に向ける。

「玲太郎、おんぶより抱っこがええんとちゃうん? 前へけえへんかいな?」

「おんぶがええのよ。だっこはいやぞ」

「はい、分かりました」

 颯は右手で左手首を握った。玲太郎は四貫弱の重さがあるのだが、颯は重さを大して感じなかった。玲太郎が体を預け易いように上体を前に少し傾ける。


 いつもより早い時間に弁当を食べると、明良は宇野田と共に田井が操縦する箱舟に乗って先に家へ向かった。診療所には往診中の札が掛けられている。玲太郎と颯は乳母車がある為にいつもの帰路に就いた。三体もいつものように付いて行くが、ヌトだけは玲太郎の後ろに付いて浮いている。ニムはそれを羨望の眼差しで見ていた。

「今日も今日とてヌトは玲太郎の傍におるのであるな」

「如何にも。しかし颯が意外にもあのような場所で涙したのには驚いたわ」

 ヌトの変わり様を嬉しく思うハソは颯の心情を思い、渋い表情になった。

「場所なぞ関係なかろうて。気が緩んだのであろうな。永い事生きておるわし等でさえ時期に依っては仲が良かったり、悪かったり、何もなかったりするのであるから、颯と悠次も短い時間なりに色々あったのであろうな」

 ニムが言うと、ハソは頷いて颯に視線を遣った。

「如何にも。それにつけても、颯は泣いたが、明良は泣きもせなんだな」

「であるからと言って、これからも泣かぬとは限らぬがな」

 そう言ってハソを横目に見る。

「それはそうなのであるが…」

「案外独りになったら泣くやも知れぬな」

 ハソの言を遮ったニムも視線を玲太郎達へと移す。

「それは有り得る。独りになれればな。……ふむ、二人が眠った後、勉強部屋で独りになる機会があるな」

「ハソよ、覗き見はして遣るなよ?」

 ハソは思わずニムを睨んだ。

「解っておるわ。わしも其処まで無粋ではないぞ」

「これは失敬」

 また視線を斜め下に向けたハソは若干頬を緩める。

「そう言うニムこそ覗くなよ?」

「わしは明良に対してそういう事はせぬと心に誓っておるわ」

「明良が心を許して呉れる日が来てもか?」

「その日が来ぬと解っておって言うておるな……」

「いやいや、来る事もあろうて」

「受け入れて呉れる何かがあれば可能性もあろうが、既にその何かが起こって受け入れて貰えなかった事実があるからな……」

「また機会が巡ってくる事もあろうて」

 ニムはハソを横目で見る。

「そのような時はもう来ぬと思うがな。明良の性格を良う知ってから遣るべきであったわ。後悔先に立たずよな。それにつけてもヌトが颯に受け入れられておる事が不思議でならぬわ」

 言いながら斜め下に視線を遣った。ハソはそんなニムを見ていたが同様に視線を遣った。

「ヌトが颯を追い掛けて行った日があったのを憶えておるか?」

「ヌトが来て間もない頃か?」

「如何にも。あの日にな、颯がヌトを振り切ろうと全速力で岬まで走って行ったのよ。それが無駄である事が解っておったのであろうな、海に飛び込んで振り切る積りであったのであろうが、それをヌトが止めたのよ」

 ニムは顔を顰めてハソを見た。

「見ておったのかよ……」

 ハソもニムを見て視線を合わせた。

「心配であったから当然見ておったわ。何かあったらノユを呼んで連れて行って貰う積りでおったという事もある。実際に事が起きてわし等に顔向けが出来ぬと考えたのか、暫く話し込んでおった、…聞いてはおらなんだからそう思うだけなのであるが、兎にも角にも、颯の暗い表情が一変してな、ヌトを受け入れたのはそれからよな」

 ニムがまた視線を斜め下に遣る。

「何を話しておったのか興味が湧くな。訊いた所で教えては貰えまいが」

 ハソは視線をヌトに遣り、思い出し笑いをする。

「それはもう判らぬままでよいのであるが、それにつけても、颯が海に飛び込もうとした時のヌトの慌て振りがもうおかしくてな。子に気なぞ遣うかなぞと偉そうに言うておったのに、ノユがおらぬから物凄い形相で自ら助けておったのが笑えてな。あの時は笑うのを堪える為にケメの方へ意識を集中した物よ」

「ノユがおる時にしか悪戯を遣っておらなんだのか?」

「如何にも。ヌトも可愛い所があるであろう?」

「あの憎まれ口からは考えられぬが」

「昔からノユに甘えておったからな。ノユと一緒におらぬ時は家の木に籠って惰眠を貪っておるか、誰かの所へからかいに行くのよ」

「ヌトの事も監視しておったのか」

「如何にも」

「わしもか?」

「如何にも。とは言えども、重点的にケメを監視しておったから、他は等閑なおざりよ」

「長子は大変であるな……」

「チムカに、お前は長子であるからこの術を授けるが悪い事はするなよ、と何度も念を押された物よ。あの裁断の術が使えたり、監視の術に長けておったりしておるのは、わしが悪い事を遣ると、とある術が発動するようになっておるからと言われておる。どのような術なのかは教えては貰えなんだがな」

「成程。それであのような術が使えるのか。それにつけても、ハソにだけ発動する術とはどのような物なのか、甚だ見てみたくはあるな」

 眉を顰めてニムを見る。

「その好奇心はわしの身を滅ぼす事になろうて」

「強い術が使えるのであるから、当然ながら強い罰が下るのであろうな。チムカはやはり恐ろしいな」

 ハソは頷くと、また視線を斜め下に遣った。

「わしは専らチムカに叱られておる兄弟を見ておっただけであるがな」

 そう言って含み笑いをする。そんなハソに一瞥をくれる。

「ハソは上手い事遣っておったものな」

「実際、悪い事はしておらなんだが」

「そうであったか?」

「幼い頃よりチムカから長子の役目を叩き込まれておったが、叱られる事はなかったぞ」

「叱られるより、其方そちらの方が嫌やも知れぬ」

 ハソはそれを聞いて苦笑した。

「それにつけても、チムカに一番叱られたのは誰なのであろうな」

「わしではなかったぞ。ノユとヌトが一番ではなかったか?」

「あの二体は確かに悪戯っ子であったものな。有り得る」

「と思わせておいてズヤという事もあるが……」

「ズヤは、…どうであろうな? ないと思うのであるがな。わしとはよく植物を育てておった印象があるわ」

「ハソとおる時は穏やかであったのであるな。わしとはどちらが速く空を飛べるかとか、体内にどれだけ水分を保有出来るかとか、仕様もない事をして遊んでおったわ」

「そういった事であれば遣っておったぞ。術を使わずにどれだけ高く飛び上がれるかとか、どれだけ速く走れるかとか、ああ、懐かしいな……」

 無邪気な笑顔を見せると、ニムがそれを見て同じく笑った。

 今日は曇っていたが曇天と言う訳でもなく、所々に青空が見えていて雨の気配は感じられなかった。上空は風が強いようで雲の流れが速く、たちまちに形を変えて行く。吹きさらしの中、玲太郎は一人はしゃぎながら小走りをしている。

「気い付けて走りよ。またこけるじょ」

 颯が声を張り上げたが、玲太郎はお構いなしで小走りをしている。ヌトはそんな玲太郎の背中を追っていた。玲太郎が走っている所は道端で、道の両端には丈の短い雑草が生えていて、転んでも痛みが幾分か増しである事を何度も転んで学習していた。

「こけるはないじょー」

 大声で言うと、言った傍から転んでしまった。

「あっ」

 咄嗟に手を突いて顔面が地面に着くのは回避した。颯は乳母車を置いて駆け付ける。

「ほなけん、気い付けっちゅうただろ? いけるん?」

 玲太郎の脇を両手で掴んで立ち上がらせると、外套やズボンに付いた草を払った。

「ひざっがいだい……」

「いたあない、いたあない、いけるわ」

「んも~、いだいんはいだいんじょ」

「い・た・い」

「いたい……」

 玲太郎は颯の肩に手を置くと、颯はズボンの裾をたくし上げて膝を確認してから裾を戻し、もう片方も同様にした。

「どっちも血は出てないわ」

 そう言って玲太郎を抱いて立ち上がると乳母車の所まで戻る。

「玲太郎はこけるんが好きなんかいな?」

「すきはないわー、ないわ、いたいのよ」

「ほなけんど、気い付けよって言うたのにこけてしもただろ?」

 玲太郎の靴を脱がせると乳母車の中に下ろした。

「あしがおかしいなってこけるのよ」

「ふうん、ほな足が疲れとるんかも知れんな」

 乳母車の中にある小さな毛布を玲太郎に掛けると、玲太郎はその端を持った。

「ほんま」

「ほんま。ほなけん乳母車に乗っとってな。座った方がええんちゃう?」

 玲太郎は正面に行って振り返る。颯は乳母車の中にある小さな木箱に靴を入れた。

「ここがええのよ」

「分かった。ほなしんどおなったら座りよ?」

「はーい」

「しゅっぱーつ」

 診療所の周辺から池之上家の周辺は殆どが田舎道で足下が悪い為、颯はわだちを避けるように進み出した。結構な速度が出ていて玲太郎の短い髪が風でなびく。玲太郎は風が目に入って乾く為に目を細めていた。ヌトは乳母車のふちに腰を掛けて颯を見ている。

(こうして見ておると日常に戻ってはおるようであるが……)

 そして上空にいる二体に目を遣ると暫くはそのまま見ていたが、また颯へと目を遣った。それから玲太郎を見る。後頭部しか見えなかったが、何か楽しい事があるようで時折笑い声が聞こえて来た。すると、俄に玲太郎は振り返り、ヌトを見て視線を合わせた。

「どしたん?」

「いや、何、唯、玲太郎を見ておるだけよ」

「ふうん」

 颯は玲太郎がヌトと話している事を理解してか、何も言わずに見ていた。玲太郎はまた前を向き、ヌトはやはり玲太郎を見ている。

(玲太郎は一体何者なのであろうな。わし等が見え、話し、わし等の念話を聞き、わしだけは何故なにゆえか受け入れ、わしの視線に気付き、気配は至極温和。温和が過ぎてわしという存在がとても小さく感じて、昇華されてしまいそうになるわ)

 ヌトは気付かない内に頬が緩んでいた。

(しかしニムやハソのように傍におりたいとまでは思わぬがな。ま、颯との約束を果たす為に傍におらねばならぬ。それも已む無し、か)

 視点を玲太郎から前に広がる空へと移した。雲の隙間から光芒が見えた。

(朝からこのような空模様であったが、悠次の旅立ちにはき日よな)

 そして見ている光景の中に颯がいない事を残念に思いながら乳母車に揺られた。


 十八時を過ぎると水伯が来訪した。挨拶も程々に、明良が悠次の眠る部屋へと案内する。明良は今日の午後から休暇を貰っていた為、在宅していたのだ。悠次の枕元へ行くと打ち覆いを取り、悠次の死に顔を見ると頬を緩めた。

「よい顔で眠っているね。苦しくなかったのが救いだね」

「昨日は少しだけど二度食べていて空腹という訳でもなかった筈だから、それも良かったんじゃないかと思う」

「硬化症で亡くなる人は苦痛に満ちた表情の人が多いのだけれどね」

 そう言いながら打ち覆いを悠次の顔に被せた。そして明良を見る。

「葬儀は私が執り行おうと思うのだけれど、誰か葬儀屋に行ってしまったかしら?」

「ばあちゃんが今行ってる」

「そうなのだね。それでは帰宅してから八千代さんと話し合うしかないね」

「そうして貰えると助かります」

 水伯はそれを聞いて笑う。

「それにつけても、ヴィスト達はどうしているのかしら?」

「畑だと思うよ。お昼を食べに帰って来ている事は洗っていない食器があるから判っているけど、それ以降の事は全く把握出来ていないね」

「そうなのだね。本当に仕方のない二人だね。……八千代さんが葬儀屋に行っているとなれば帰りが遅いのだろうけれど、そうなると晩ご飯はどうするのかしら?」

「私が作ろうかと思っているんだけど、水伯も食べる?」

「それならば私が作るよ。もう悠次と一緒にいられる時間は限られているからね。いられるだけ一緒にいるとよいのではないかしら」

 そう言って柔和な笑顔を見せた。明良も口元が少し綻んだ。

「いつも本当に有難う」

 軽く頭を下げると、いつも通りの無表情な明良になった。小さく頷くと、それが気にならない水伯は周りを見回した。

「それにつけても、なんだか殺風景だね」

 ある物は悠次が眠っている布団以外に火鉢と盆に載った湯呑みが一個だけだった。

「信仰している宗教がないから、どう準備をしてよいやら判らなくて。ばあちゃんが葬儀屋に依頼しているなら、そこが遣ってくれるだろうと思ったんだけど、何か用意しておいた方がよいの?」

「何も用意しなくて大丈夫。兎にも角にも八千代さんが帰って来てからにしようか」

「解った。それじゃ私は此処にいるね。水伯は颯と玲太郎が勉強部屋にいるから其処へ行く? お茶でも持って来ようか?」

 そう言いながら布団の横に置いてある座布団に行って座った。

「お構いなく。勉強部屋へ行ってくるね」

 立ち上がると明良に手を軽く振って部屋を出て行く。そして徐に廊下を歩き、勉強部屋の障子を開けると玲太郎の奇声が響いた。水伯が来て興奮したのだろう。

「きゃー! すいはくがいたー!」

 走って水伯の脚にしがみ付いた。

「玲太郎、今晩は。何時も元気だね」

 玲太郎を抱き上げると部屋の中に入り、障子を閉めた。そして颯の方を見る。

「連絡してくれて有難うね」

 玲太郎は水伯に抱き着いている。颯はそれを無表情で見ていた。水伯は火鉢の傍に座った。

「いや、時差の事を考えんで連絡してもてごめんじょ。ほれより来るん早過ぎへん?」

「今日を合わせて三日は此処にいるよ。仕事も休みにして貰って来たからね」

 颯は仰天すると水伯を見た。

「えっ!? ほんまに三日もおってくれるん? 助かるけんど、仕事はいけるんかいな?」

 二度頷いて柔和な笑顔を見せる。

「仕事は私がいなくても回るようにしてあるからね、いてもいなくても一緒なのだよ」

「ほんまかいな? 時々連絡入りよるん知っとるじょ」

「ああ、そうだったね。颯には知られているのだった。ふふ」

 颯は複雑な気持ちで微笑んだ。

「それから今日は私が晩ご飯を作るからね。何か希望はあるかしら?」

「ぼく、かんらくのある、しろいおしるがたべたい。とろとろおいしいじょ」

 水伯は玲太郎を見ると笑顔を見せる。

「乾酪の入ったお汁ね、解った。それ以外はないかしら?」

 颯の方を見ると、颯は無表情で目を伏せていた。

「それいがい?」

 また玲太郎を見る。

「乾酪のお汁とは別に、何か食べたい物はないかしら?」

 そう聞いて玲太郎が「うーん」と悩み出した。颯が水伯を真っ直ぐ見る。水伯はそれに気付いて颯に目を遣った。

「焼き飯に玉子をかぶせたんに、しょう油のあんがかかっとるやつ」

「ああ、そうだね、悠次が好きだった天津焼き飯ね」

「うん、それ……」

 寂しそうに微笑むと、水伯はまた玲太郎を見る。

「玲太郎はそれでよいかしら?」

「うん、ええのよ」

「有難うね。それではそれに決まり」

 満面の笑みを浮かべて言うと、颯は小さく頷いた。

「颯は悠次の所にいなくてもよいのかしら?」

「玲太郎がおるけんかんまんよ。兄ちゃんがおるしな」

「私が玲太郎を見ているから行っておいで。もう明後日には土に還るだろうからね」

「……ほな玲太郎の事はお願いして行ってくるわ。いつもありがと」

 気が進まないのか、困ったように微笑んで立ち上がった。重い足取りで部屋を出て行く様子を水伯が見送っていた。

「すいはく?」

 呼ばれて玲太郎の方を見ると微笑んだ。

「はい、どうかしましたか?」

 玲太郎は真っ直ぐ水伯の目を見ている。

「はーちゃん、げんきないのよ」

「そうだね、元気がなかったね。暫くはあのままかしらね」

「ほんま」

「多分ね」

「ふうん」

 水伯が笑顔を見せると玲太郎も笑った。

「おりる」

 そう言われて水伯は玲太郎を下ろした。そして玲太郎は本棚の方に行き、絵本を持って戻ってくる。

「これよんで」

 絵本を水伯に渡すと隣に座った。

「玲太郎は絵本が大好きだね。別の遊びをしない?」

「ええ? あそぶの? えほんがええのよ」

「それならば散歩しない?」

「きょうは、ようけあるいたじょ。はーちゃんはぁはぁゆーとった」

「そうなのだね。それならばよいのだけれど……」

「えほんだめなの?」

「いや、構わないよ」

 不安そうな表情から笑顔になるった玲太郎は絵本を開いた。

「これすきじょ」

「うーん、新しい絵本を用意するけれど、それでは駄目かしら?」

「これがええのよ」

 そう言いながら人差し指で文字を差した。

「はい、解りました。これを読みますね」

 観念して玲太郎が差している文字から読み出した。玲太郎は水伯が指で差している所を目で追っている。ヌトは天井付近にいる二体と共にいてそれを見ていた。ハソがヌトを横目で見て手で何やら意思表示をしている。ヌトはハソが何を言いたいのか、全く解らなかった。

「何が言いたいのよ? 解らぬわ」

 小声で言うと、ハソが不機嫌そうな表情をする。

「ヌトは玲太郎の傍におるのではないのか。此方こちらに来るとは何故なにゆえよ?」

「灰色の子がおるから傍におらずともよいではないか。おらぬと駄目な理由は何よ?」

「いつもは玲太郎にずっと張り付いておるのに、灰色の子が来たら退く意味が解らぬ」

「灰色の子がおれば玲太郎もあの通り満足しておるからな。それでは駄目なのか? 颯や明良ではああはなるまいよ」

「明良や颯とは毎日一緒におるからな。灰色の子は毎日ではないからああなるのであろうて」

 ニムが口を挟んできた。二体は同時にニムを見る。

「灰色の子がおる時は玲太郎がああして灰色の子に張り付くからな。明良が可哀想になるわ」

 ハソが苦笑しながら言った。するとヌトがハソの肩を叩き、口の前で右手の人差し指を立て、左手で下を指差した。玲太郎が物凄い形相で睨み付けている。ハソは引きった笑顔で頭を軽く下げた。そうすると、玲太郎はまた絵本へ目を向けた。それを見て安心したハソは肘でヌトの腕をつついた。

「わしの所為ではないぞ。お主が難癖を付けてくるからこうなっておるのであるが」

 眉を寄せてヌトが小声で言うとハソが睨む。

「ばっ……、静かにせぬか。また玲太郎に睨まれるわ」

 焦って声を荒らげてしまったハソは恐る恐る玲太郎を見た。言った傍から玲太郎にまた睨まれ、ヌトもハソを横目で見て、ハソは苦笑しながら玲太郎を見ていた。玲太郎は黙っていたが、頬を膨らませてまた絵本に目を向けた。

「今宵はわしも此処におろうか」

 ニムが呟いた。ハソは思わずニムに顔を向けた。

「よし、そうしよう。悠次が土になるまで悠次の傍におるわ」

 そう言うと壁をとおり抜けて悠次の下へ行ってしまった。残ったハソとヌトは顔を見合わせる。

「……わしもそうする」

 ハソが笑顔で言うと壁を透り抜けて行った。残されたのはヌトのみとなってしまったが、ヌトは天井付近から二人を見下ろして頬を緩めていた。

(ま、灰色の子がおる時は退屈極まりないから悠次の傍におる方が賢明やも知れぬが、わしは此処におるしかないのでな……)

 いつの間にか苦笑していた。水伯が一度目を音読し終えると、玲太郎がいつもの如く二度目を催促し、水伯は二度目の音読を始める。

(しかし玲太郎もこれが好きよな。作中にすいはくが出てくるからなのであろうが、そろそろそらんじられる程になっておるのではなかろうか)

 ヌトも何度も読まされていて憶えてしまっていた。


 八千代が帰って来て遅い夕食を摂り終えた後、水伯は片付けを後回しにして食堂で話し合いをしていた。その場には明良もいて八千代の隣に座っていた。颯は勉強部屋で玲太郎の世話をしている。

「では私が明日の葬儀屋の開業時間になったら解約に行く事にしましょう。解約料は私が払うから心配なさらずに」

 八千代が向かいに座っている水伯に深々と頭を下げる。

「何から何までお世話になって申し訳ありません。ありがとうございます」

 明良もそれを見て同様に頭を下げた。

「頭を上げてください。ガーナスに報せた際に依頼された事なので、お気遣いなく」

 それを聞いて即座に頭を上げた明良は些か目を丸くしていた。

「お祖父ちゃんが?」

「そうなのだよ。ヴィストを除籍したとは言えども、孫は孫だから葬儀の進行をしてくれとね」

「ほんまにもう、侯爵様にも申し訳ないわ……」

 八千代が困った表情で言うと、明良は頷いた。

「必要な物は全て私が用意するから、八千代さんが喪主でよいかしら?」

「明良に頼もうかと思とるんやけんど、ヴィストさんの方がええかいな?」

「悠次が生前にヴィストと留実さんは参列しないで欲しいと言っていたから、八千代さんが遣らないのであれば明良が遣るしかないね」

 八千代が驚いて目を丸くした。

「悠次っちゃほんな事を言うとったんやな。ほうなんやな、ほこまで嫌やったんやな……」

 喉元を押さえながら言った。水伯は目を閉じると徐に頷いた。

「悠次はばあちゃんに喪主を遣って貰いたいと思う筈だから、ばあちゃんが遣ってくれない?」

 明良にそう言われて、八千代は眉を顰めた。暫く黙っていたが意を決したのか頷いた。

「分かった。ほなばあちゃんがするわ。近所の人らもおれへんけん、けえへんしな。ごくごく身内だけの葬儀になるな。悠次はほれでええんだろか……」

「よいと思うよ」

 明良の表情が僅かばかりだが柔らかくなった。

「悠次はばあちゃんが大好きだったから、ばあちゃんが見送ってくれれば他はどうでもよいと思うよ」

 八千代は明良と顔を合わせて、お互い頷き合った。八千代は目頭を押さえて涙を堪えた。

「それでは喪服も私が用意するからね。今も昔と変わらずにび色でよいのかしら?」

「鼠色やな。薄いんはあかんけんど濃いんは許されるみたい」

 八千代が言うと水伯が頷き、柔和に微笑む。

「同じだね。葬送はご遺体が土に還ってからだから、それまでには用意するね」

「水伯、葬儀って何をするの?」

 明良が訊くと、八千代が明良を見る。

年前に一遍行った事があるけんど覚えてないん?」

「いや、もっと前だったと思うよ。行ったのは憶えているんだけど、何を遣っていたのかとかは憶えていないんだよね」

「亡くなった子の遺体が土に還らなんで、葬儀は中止になったんよ」

 水伯は表情を変えたが、一呼吸間を置くと無表情に戻った。

「他殺だったのだね……」

「ほうじゃ。増水した川に流されて溺死したんやけんど、目撃情報がないんもあって未だに犯人が捕まっとれへんけん、この近辺の人らは出て行ったんよ。ほなけんど、ほの出て行った人の中に犯人がおるっちゅう噂だったんやけんどな」

「そういう事があったのだね。田舎だから安全という訳でもない事が悲しいね」

 二人は渋い表情になると暗い空気を醸し出した。

「それで、葬儀は何を遣るの?」

 水伯が我に返ると明良に目を遣った。

「そうだね、私が神楽かぐら鈴を持って神楽を舞うくらいかしら。土地に依っては神様に祈願したり、感謝を捧げたり、故人の功徳を称えたりするのが一般的になると思うのだけれど……。私がこの土地の遣り方を知らないのもあるのだけれど、神様に見送られるのだからことばは必要はないだろうと思ってね。必要ならば調べるけれど、どうする?」

 柔和な笑顔を見せた。明良は納得したのか、何度も小さく頷いていた。

「ほうやな、水伯さんは生き神様やもんな。言葉はいらんわ」

 八千代が微笑みながら言うと、水伯は苦笑した。

「いや、その……私ではないのだけれどね」

「絵本では神様扱いされているし、それでよいのではないの」

 明良が珍しく微笑んで言った。そして次の瞬間にはまた無表情になる。

「悪霊に見送られる事は可哀想な事だと思うけどね」

 小さく小さく呟いた。八千代が眉を顰めた。

「んん? なんちゅうた?」

「いや、生き神様に見送られれば安らかに眠られるだろうなって」

「ほうやな、私の時もお願い出来るならしたいわ」

 八千代は冗談っぽく言って笑った。水伯は明るい表情を見せる。

「構いませんよ。八千代さんが亡くなったら遣りましょう。しかし、昔はこの国の古語も覚えていたから儀式らしく仰々しく出来たのだけれど、今では微塵も記憶にないのだよね。不思議と神楽を三種は覚えていて、それを舞えるだけなのだけれど、それでもよいかしら?」

「かんまんけんど、ほんまにしてもらえるん? ほれだったらごっつい嬉しいわ」

 八千代が手を叩いて燥ぐと水伯は微笑んだ。

「話はまた改めてしましょうか」

「お願いします」

 八千代が丁寧に頭を下げた。明良は些か複雑な心境になったが、それが顔に出る事はなかった。

「二月二十日はつかか、誕生日から六日しか経っとれへんのよな」

 先程までとは打って変わって八千代が寂しそうに言った。明良は八千代の肩に手を置く。

「本当だったら玲太郎と入れ違いでもおかしくなかったんだから、ここまで生きてくれて良かったと思わないとね」

「ほうやな。田井先生も奇跡じゃっちょったもんな。長い苦しみから解き放たれたんやけん、喜んばんとあかんな」

「そうだよ」

 明良がそう言って肩から手を離して頷くと、八千代も頷いた。

「命日は二つ目の誕生日だからね。苦しみや悲しみのない世界へ旅立つのを祝うのが葬儀なのだよね」

「楽しみや喜びもない世界になるけどね」

「明良はほういう所が理屈っぽおてあかんのよ。ええ面だけ見とったらええ時はほうしとけばええのに」

 八千代が呟くように言うと、明良はそれを横目で一瞥した。

「ふふ、死は無になる事で全ての事から解放されるという意味では明良の言う通りでもあるけれど、八千代さんの言う通りでもあるからね」

「葬儀がお祝いという事に得心が行かなくて……」

「先人がね、人が亡くなって暗くなる事を嫌って言い出した事なのだよ。私はそれに倣っているだけなのだけれどね」

「そんなに大昔からなんだ。へぇ、それは凄いね」

 明良は納得は出来なかったが感心した。水伯は頷いて微笑む。

「和三が出来る以前からの話だからね、本当に随分と昔からだよ」

「和三の前っちゅうたら千種ちぐさの国の頃? 慶佳けいかの国の頃なんかいな?」

 水伯は八千代の方に顔を向ける。

「私が葬儀に駆り出されるようになってから教わった事なのだけれど、其処までは聞いていなかったね。記憶にないもの。若しかしたら失念しているだけかも知れないけれどね。兎にも角にも、私が教わった葬儀で舞える神楽は、簡単に言うと神様を呼ぶ神楽、御霊みたまが神様と会えた事を祝う神楽、神様と御霊を見送る神楽の三座ね」

「それなら生きている内から神様に会っているから舞わなくても大丈夫そうだね」

 水伯は柔和な表情で明良を見る。

「私は神様ではないのだけれど、神楽がないと遺を海に流しに行くだけになってしまうから、誠心誠意舞いますとも」

「やはり海になるんだ」

 明良の気になった所がそこだった事で水伯は苦笑する。

「この辺は用水路ばかりで川がないからね。防風林はあるけれど人工の林だから撒けない、小山があるにはあるけれど海の方が近い、そういった事情から少し遠くなるけれど海に行く事になるね。皆が乗れる箱舟を用意するから少々遠くても心配しなくて大丈夫だからね」

 明良は八千代の方に顔を向けると、八千代も明良を見た。

「家にある箱舟は使えないの?」

「ばあちゃんには分からんな」

「あれは操縦出来るように魔力を登録するのだけれど、安物の一人しか登録出来ない型でね。私であればお構いなしで乗れるのだけれど、違法になってしまうから別の箱舟を用意するよ」

 二人は水伯を見て納得したのか、各々が頷いていた。

「用意と言っても、魔術で出すだけだから簡単に用意出来てしまうのだけれどね」

 そう言って笑顔を見せると、二人はまた各々で頷いていた。水伯は茶を一気に飲み干すと、八千代と水伯の丁度真ん中にあった盆に湯呑みを置いた。

「それでは私は悠次の部屋に八足台と供物の用意をしてくるね。ご馳走様でした」

「あ、こちらこそご馳走様でした」

 八千代が頭を下げる。明良が立ち上がった水伯を見る。

「後でまた悠次の所に行くから」

「解った。それではまた後でね」

 水伯が笑顔でそう言うと明良は頷いて居間を出て行く水伯を見送った。八千代は温くなった茶を一口飲んだ。

「悠次が硬化症って診断されてから三年と数ヶ月になるんやな。あっちゅう間やったな」

「玲太郎が産まれたから余計早く感じるね。その玲太郎ももう直ぐ三歳になるとは思えないね」

「ほうやな。ほれに玲太郎が生まれてから何もかもが変わった気いがするわ。いや、変わらんかったもんもあるけんど、悠次が結構持ったんが一番ちゃうだろか」

「そうだね。ご飯も普通に食べられていた事が多かったもんね」

 八千代はまた茶を一口飲む。

「明良も玲太郎が色々変わったんの原因と思とるんだろ?」

「……玲太郎以外いないからね」

 明良もまだ残っている茶を二口飲む。

「ほな早い事、ここから逃がさなあかんな。知られてしもたら親づらして来て手放さんようになるじょ」

「作物に関しては肥料を変えた事が効果覿てき面だと思っているようだから、玲太郎が関係しているなんて夢にも思っていない筈だよ」

「ほうかいな?」

「自慢にそう言ってたからね。悠次に関しても、父ちゃんには田井先生の薬が効いてるという事にしてある」

「ほうなんやな。私には何も言わんと思っとったんやけんど、明良が先に言うとったんやな」

 安心した表情になると、残りの茶を飲み干した。

「うん。硬化症なのに半年以上持つ事は不可解だからね。それと、玲太郎が成長してからも父ちゃんや母ちゃんには近寄ろうとはしなかったから、玲太郎の存在も薄く感じているんじゃないの。元々自分達で育てようという意思のない人達だからね」

 八千代は頬杖を突いて溜息を吐いた。

「ばあちゃんが育てたのに、留実はなんでああなってしもたんだろな。うちにおる限りはばあちゃんが金をはろうて当たり前と思とるみたいやし、農業は好きでやりよるけんど、自立が全く出来とれへんのんよな……。後やるっちゅうたら縫いもんくらいか。……捨て子やけん可哀想と思て、甘やかしたばあちゃんが悪かったんやなあ」

 明良は初耳の事で驚いた。思わず八千代を見る。

「捨て子だったんだ。知らなかった」

 八千代も明良を見る。珍しく明良が表情を変えて目を丸くしている。

「あれ、言うとれへんかったっけ。ばあちゃんの妹の長女が留実よ。家に子供がおらんかったけんな、留実を連れて突然やって来て、次女がおったらええけん、この子あげるわって置いてったんよ。ほれまで全く交流やなかったのにじょ、びっくりしたわ。十二の時に家に来たんかいな。荷物もほの時に持っとった手提げカバンふたあつだけだったわ。ばあちゃんの旦那ももう亡くなっとったし、ばあちゃん一人だったけん、まあええかと思て預かってからほのままずっとおるな。前にこの事を言うたんは、明良とちゃうんだったら颯だったんかいな……、悠次だったんかいな……」

 最後は首を傾げて呟いた。明良は聴きながら何度も小さく頷いていた。

「そうなんだ。そんな過去があったんだね」

「ほうじゃ。ほんでヴィストさんと結婚して明良が産まれて、あんまりにも可愛いて世話をほっぽらかして、服こっしゃえては着せ替え人形にしよったもんなあ……」

 言いながら空になっている湯呑みを覗き込むと盆に置いた。

「着せ替え人形にされていた事は少し憶えているんだよね。ひだの多い桃色の服を着せられていた事とか、丈が短くて裾が広がっているズボンを穿かされていた事とかね」

「明良が嫌がっとったのに、水伯さんが留実に注意してくれるまでほったらかしとってごめんじょ」

「うん。ばあちゃんが母ちゃんに強く出られない理由が判ったからよいよ」

「留実が水伯さんに悪感情を抱いてしもたんも、ばあちゃんがはよう叱らんかったけんよな。水伯さんにはほんまに申し訳ないわ」

 気を落として言うと、明良は残りの茶を飲み干した。

「水伯は長く生きていてそういう事には慣れているだろうし、気に病む必要はないと思うよ。大丈夫」

「…なごう生きとっても、悪感情を向けられたらええ気はせんと思うじょ」

 八千代が苦笑して言った。

「それはそうだね。ご免」

「いや、こっちこそ、気いつこうてくれたのにごめんじょ。ありがとうな」

 二人は顔を見合わせると微笑み合った。明良は立ち上がると盆に湯呑みを置く。

「ご馳走様でした。私は悠次の所へ行ってくるね」

「はいな」

 八千代は立ち上がって椅子を食卓の下に入れると盆に置いてあった濡れた手拭いで食卓を拭き、それが終わると盆を持って台所へ下りて行った。


 寝ずの番を買って出たのは水伯で、颯も明良も八千代もいつも通りに就寝した。ヌトもいつも通り、寝室で過ごしている。ハソとニムは水伯の向かい側にいた。

「両親は悠次の顔を見に来なんだな」

 ハソが悠次の死に顔を見詰めながら言った。ニムは水伯を見ている。

「灰色の子が来るなと言うたのではないのか」

「そうなのであろうか。悠次も実の親をきろうておったのであろうか」

「見るからに溝があったものな」

「如何にも。そうであれば悲しい事よ」

「親に虐待されて殺されてしまうより増しであろうて」

 ハソは嫌な顔をするとニムを横目で見た。

「比較をするなよ、比較を」

 それでも水伯を見続けているニムが苦笑する。ハソは悠次に視線を戻した。

「済まぬ、つい比較してしもうたわ。上も下も色々おるものな」

「当人にしたら現状で手一杯になり、上も下も見る余裕がないのではなかろうか。とは言うてみたものの、こういった事はないに越した事はないのであるがな」

「そうであるな。下には下がいる物であるが、それも悲しい事には変わりないな」

「如何にも」

 二体は暫く打ち覆いを被せていない悠次の顔を見詰めていた。ハソは視線を八足台、その手前にある物、水伯、と順に移して行った。

「灰色の子はずっと起きておる積りなのであろうか?」

「それはそうであろうて。この島国では葬儀をするまでは蝋燭の火を絶やさぬ習わしの筈ぞ」

「そうなのであるな。それで悠次の近くに蝋燭があるのであるな。ニムは良う知っておるな」

「この島国では長い事おったからな。……実は灰色の子が遣っておる事を見て思い出しただけなのであるがな」

 ハソが声を出して笑った。

「そうであったのか。感心して損をしたわ」

「疫病が流行った時があってな、その時は死体を大きな建物に集めて、纏めて蠟燭に火を点けておったわ。そうすれば一人ずつ交代出来るものな」

「こういう風習も時には邪魔よな」

「そうであるな。こうして寝ずの番をせねばならぬからな」

 二体は頷くとお互いを見た。

「颯は眠られぬのか」

 ニムが言うとハソが眉を顰めた。

「そのようであるな。悠次の事で一番衝撃を受けておるのは颯であるからな」

 二体は障子の方を注視していた。すると、静かに開いて颯が入って来た。水伯も颯の方に顔を向ける。

「どうしたの? 寝られないのかしら?」

 颯は後ろ手で障子を閉めた。

「うん、なんや寝られへん」

 水伯は自分の左側にあった座布団を右側にある火鉢の横に置いた。颯は水伯の斜め後ろに座る。

「ありがと」

「寝間着にその上着だけだと寒いのではないのかしら?」

「まあ、いけるな」

 水伯は綿入れ半纏を顕現させると手渡した。

「温かくしていないと風邪を引いてしまうよ」

「ありがと」

 颯は早速着ると、火鉢の炭を動かした。

「水伯は寒うないん? いけるん?」

「私は大丈夫だよ。有難う」

 柔和な表情で颯を見ながら言った。

「それで、どうかした?」

「うん……、水伯は悠ちゃんからなんか言われとるん?」

 炭を見詰めながら言ってから水伯を見た。水伯は悠次の顔を見ているようだった。

「何かとは?」

「ゆい言とかよ」

 水伯は颯に目を遣った。

「遺言ね、一応紙に書いている物はあるよ。でもこれは悠次が両親に葬儀に出ないようにとか、土は持たないようにとか、そういう事を書いてあるだけだね。ヴィストには見せたから用済みなのだけれどね」

 そう言いながら上着の内側から折り畳んだ紙を出して颯に差し出し、それを手にした颯は即座に広げた。

「悠ちゃんの字じゃ」

 顔を綻ばせて黙読する。

「欲しいのならば上げるよ」

 思わず顔を上げて水伯を見る。そして笑顔になった。

「え、かんまんの? ほなもらうわ。ありがと」

「劣化しないように保護魔術を施しておくからずっと持っていてね」

「ありがと。大切にするわ。オレが死んだ時に灰にして一緒に流してな」

 水伯がそれを聞いて「ふふ」と笑った。

「気が早過ぎるのではないかしら。颯はまだまだ死なないと思うのだけれど」

「いやあ、人っちゃいつ死ぬやら分かれへんけんな。水伯に言うとったらしてもらえそうやけん、言うとくわ」

「本来ならば私が先に逝く所なのだけれど、そうはならない事が歯痒いね」

 今度は颯が笑った。

「水伯は神様やけん、しゃーないな」

「神様ではないのだけれど、ね。玲太郎にも<あらたなかみさま>を何度も読まされてしまって、名状し難い心境だよ」

 苦笑しながら言うと颯がまた笑う。その笑い声を聞いて水伯が振り返った。

「玲太郎はあれが一番好きやけんなあ。オレもよう読まされる。もう覚えとるんちゃうんだろかと思うけんど、まだ覚えてはないみたいなんよな。覚えるまで読ます気いとちゃうだろな? ありえそう……」

 自問自答している颯を見て水伯は微妙な表情になる。颯はそんな水伯を見て悪戯っぽく笑った。

「居間にいる時は私が出す絵本で満足してくれるのだけれど、勉強部屋に入ると駄目だね」

「ほうなんじゃ。ほな居間には置かんようにしとくわ」

「そうしてくれると有難いね」

 そして水伯はまた悠次の顔の方を向いて静かになった。颯の位置から穏やかな表情の水伯の横顔が見える。颯はその様子を暫く見ていると何故か涙が込み上げて来た。我慢をして震えていると水伯が手拭いを差し出した。それを黙って受け取って目に当て、声を殺して泣いた。ハソとニムはそれを渋い表情をして見ていたが、水伯はやはり穏やかな表情で悠次の顔を見ている。

「灰色の子と明良は平然としておるが、八千代と颯は泣くのよな」

「如何にも。釣られて泣きそうになってしまうのであるが……」

「わし等は涙なぞ出ぬがな」

 そう言って含み笑いをしていると、ハソが横目で睨んだ。

「そういう気持ちになるという事に決まっておろうが」

「解っておるわ。済まぬ。茶化して悪かった」

「ヌトがおるのかと錯覚したわ。全く……」

 ニムはその言に目を剥いてハソを見た。

「それは駄目ではないか。ヌトの憎まれ口が、まさか移ったとでも言うのか?」

「如何にも。手遅れであると思われる」

 今度はハソが含み笑いをした。それを見て気を抜くと頬を緩めた。

「気心の知れた者としか話さぬから少々の憎まれ口ならば構わぬか」

「わし等兄弟しか、の間違いではないのか。それとも、過去にそれ程話した子等がおったとでも言うのか?」

「おるにはおったが、もう記憶が薄れておるからな……」

「わしは其処まで馴れ馴れしくしてはおらなんだ物であるがな。一応神様、大精霊様と崇めて呉れておったぞ」

「その話は今はよいわ。止めておこうぞ」

「そうであるな。悠次には関係がないものな」

 ニムが大きく頷くと、悠次の顔を見た。

「白い布を取って呉れたのは、わし等に見せる為であると思うか?」

「灰色の子が見たかっただけではなかろうか」

「しかしわし等の気配をか…」

「感知しておるからと言って、わし等の為に取ったとは考え辛いのであるが」

 ニムが言っている途中だったのにも拘らず、ハソが被せて言った。ニムがハソを横目で見る。

「わしが話し終えるまで待てぬのか」

「済まぬ。つい言うてしもうたわ」

 また悠次に視線を戻して、些か穏やかな表情になる。

「悠次には玲太郎を抱く機会をよう奪われたが、あれも今思えば楽しい思い出よな」

「それよ。ヌトのおる前でも抱けなんだがな」

「そうであったな」

 ニムは話が思っていた方向と違った方向に行ってしまって素っ気なく返した。

「今でも玲太郎を抱いたら、あの感覚が得られるのであろうか?」

「得られると思うのであるが、どうであろうな? それにつけても、わしは悠次の思い出話がしたかったのであるが……」

「そうであるな、悠次の話をな……。そう言えば、最期まで玲太郎に逃げられておったような気がするが」

 ニムはハソの取って付けたような話題を鼻で笑った。

「玲太郎は女子おなごには慣れ易いようであるがおのこは苦手のようであるな」

「わしが悠次の話題にしたと言うに、ニムが玲太郎に移してどうするぞ」

 ハソが眉を寄せてニムを見る。ニムは苦笑してハソを見た。

「済まぬ。些か強引に思えてな。悠次も玲太郎に慣れて貰おうと頑張っておったが、玲太郎がな……」

「田井が近付くと身構えるものな。宇野田は少しばかり触れる程度なら大丈夫であるのにな」

 二体は顔を見合わせると笑ってしまった。ニムが小さく溜息を吐いて苦笑する。

「無理に悠次の話題にするのは駄目であるな」

「如何にも。悠次とはそれ程一緒の時を過ごしておった訳ではないからどうしてもな」

 二体はそのまま沈黙してしまった。颯はまだ手拭いで目を押さえていて、水伯は悠次を見詰め続けている。静かな時間が流れて行った。それだけに声を殺して泣いている颯が余計哀れに見えて、ハソとヌトは渋い表情のままだった。


 夜が明けて朝になるとヴィストと留実はいつも通りに畑仕事をしに出掛けた。水伯は二人がいなくなると、悠次とその他の物も全て広間に移した。玲太郎が悠次の傍にいたがらない為、水伯が出掛けている間は颯が面倒を見る事になり、明良が悠次の傍にいた。昨夜は遅くから未明まで雨が降っていて今朝は冷えていた。広間は広すぎて火鉢では間に合わない事もあって、水伯が魔道具の暖房器具を出してくれていて冷える事はなかった。

 ご飯は颯と明良が交代で摂り、水伯が戻ってからは明良と水伯が交代で摂った。ハソとニムが常に悠次の傍にいて、明良が一人になる事は移動と厠以外はなかった。

「どうせ直に忘れてしまうであろう悠次の顔を、少しでも憶えておく為にこうしておる訳であるが……、明良と悠次だけにしてやろうとは思わぬか?」

「わしは思わぬ。ニムが玲太郎の傍に行くならば止めはせぬわ。わしの事は気にせず、行ってきてもよいぞ」

 ハソが気の抜けた素振りで話すと、ニムも気の抜けた表情になった。

「いつもならば、悪霊はねとか、悪霊は不要とか言うておる所であるが、言わぬのであるからおってもよいのであろうて」

「若しや……、寧ろおって欲しいのやも知れぬな」

 明るい表情になったニムが言うと、ハソは鼻で笑って何も言わなかった。ハソの反応に落胆し、また気の抜けた表情になった。

 暖房が良く効いているのか、明良の頬が紅潮している。上着を一枚脱いで膝に掛けた。そして膝に肘を置いて頬杖を突いた。読書をする事もなく、ひたすら悠次の顔を見ている。膝が痛くなって来たのか、肘の下にもう片方の手を置いた。暫くそのままでいたが、俄に胡坐から正座に居直して姿勢を正す。すると障子が開いたと思ったら、直ぐに閉まった。

「代わろうか?」

 水伯だった。明良は水伯を見て首を横に振る。

「ううん、まだ大丈夫」

「そう? それにしてもここは暖房器のお陰で温かいね」

「水伯のお陰だね。有難う」

 座布団はあったがそれには座らず、明良の左隣に座った。明良は悠次に視線を移したが、水伯は明良を見ている。

「此処は今時珍しい火鉢を使っているからね」

「あれはあれでじんわりと一部が温まって好きだけどね」

「そうなのだね。私も昔は使わされていたよ。魔術で温まれるから不要なのにね……」

 明良は暫く水伯を黙って見詰めた。水伯は不思議そうな顔をする。

「どうしたのかしら?」

「水伯って、和伍に…和三にいた頃って、神様扱いをされていたのではないの?」

「されていたけれど、やれ治水だの、やれ祭りだの、やれ冠婚葬祭だのに駆り出されていたのが現実だからね。……ああ、海難事故で遺体の捜索もさせられた事があったような……。私がお世話になっていた家の当主が代替わりすると扱いが酷くなってね、最後の方は私腹を肥やして酷かったから、私の物を全て持って出ぽんしたよ。ナダールに連れて行かれるまでは別の島の海沿いにあった洞窟で暮らしていたのだけれどね」

「へぇ、そんな事になっていたんだね。あの絵本が創作された頃はどうだったの? まだお世話になっていた頃なの?」

 水伯は暫く考えると難しい顔をする。

「どうだったのだろうね? なにせ私が遣った治水は全て、感謝の気持ちが失せると崩壊する仕組みになっているから、それを防ぐ為の創作だと思うのだけれど、それがいつの頃かなどの情報は知らないし、判らないね。この島でも治水を遣っているようなのだけれど、伝で感謝の念をいだき続けるようにしているみたいだからね」

「そうなの。凄いね。そういう事が出来るという事に驚きだよ」

「信仰心を利用して強固な物を造るという手法を取っていたのだけれどね。古来から森羅万象に感謝を捧げて生きて来た民族だから、それに見合ったよい方法だったと自負はしているよ」

「水伯は思っていた以上に怖いなぁ……」

 明良が恐怖心を抱いて、些か眉を顰めると水伯を見た。

「只ほど怖い物はないものね。一度崩壊させた所には心底から反省を促した後に遣り直していたけれど、当然遣り直していない所もあるよ。神様扱いをしてさえいればどのような事でもして貰えると思えるのは、厚顔無恥と言わざるを得ないね」

 そう言うと水伯は柔和な笑顔を見せた。

「神様扱いされるという事は、大変な苦難があるんだね」

「都合が悪くなれば化け物、怪物扱いだからね。自分の心が死んで行くのは寂しかったけれど、ナダールに移住してからはそれは増しになったね。人扱いをしてくれている事が多いから、何くれとなく手を広げて今は忙しく生きているよ」

「水伯の二千五百年余りの生き様は、想像を絶する物があるけど、凄いの一言に尽きるね」

「色々あったのは確かだけれど遠い過去の事で記憶も遠い彼方にあるようだし、二千五百年足らずかも知れないよ。私も良くは判らないのだけれどね」

 苦笑していた水伯は、また柔和な笑顔になる。そこで明良がふと気付く。

「若しかして、ナダール王国時代ではなく、チルナイチオ王国の時に移住したの?」

「そうだけれどナダールでよいのよ。チルナイチオがナダールに国名を変更しただけだし、チルナイチオと言っても大昔という印象しかないから、ナダールと言った方が場所も直ぐに理解して貰えるからね」

「チルナイチオが国名を変更する頃は暗黒歴史になっているけど、何があったか知っているの?」

 暗黒歴史とは、この場合は何もなかった事にされて謎に包まれた歴史の事を言う。明良はそれに興味があるようで、目を輝かせて水伯を見た。それを聞いて苦笑した水伯は腕を組んで小首を傾げる。

「申し訳ないけれど記憶にないね。あの広大な領土を再生して軌道に乗せる事に必死だった頃だと思うのだけれど……、国名変更に至った経緯は知らない、と言うよりも、……そうだね、憶えていないね。それに国名変更の頃に拘らず、割と暗黒歴史になっている頃が度々あるから、あの国に関しては気にするだけ損だと思うよ。チルナイチオは数国を統一したロゼリオ兄弟の弟の方の名前で、その子孫が代々王として君臨していたのは知っているだろうけれど、それも優に千年は超える一時代だし、ナダールに変わってからも含めると四千年足らずになるのかしら? 兎にも角にも歴史が古いからね」

 明良を真っ直ぐに見詰めて言うと、明良も見詰め返していた。

「水伯でも知らない事があるんだね」

「それは沢山あるよ。長生きだからと言ってその間にあった事全てを知っている訳ではないし、知っていた事も記憶から消えて行くし、私に入って来る情報と言えば噂程度の物が多いのが実情なのだよ。ナダールは揺るぎないという意味だけれど、ナダールになってからも暗黒歴史はあるから国名を裏切っているよね。ふふ……。それにつけても、明良は暗黒歴史に興味があるのかしら?」

「今は誰も知らない謎だよ? それを知る機会があるのならとても嬉しいと思うね」

 苦笑しながら明良を見ると、明良はいつも通りの無表情だった。

「ご期待にえず、申し訳ないね」

「ううん、こちらこそ下らない事を訊いてすみません」

 水伯は柔和な表情で明良を見ると、今度は悠次に目を遣った。明良はそのまま水伯の顔を見ていた。

「ニムはチルナイチオとかいう国の事を知っておったか?」

 ハソがニムを見ると、ニムは少し考え込んだ。

「国名なぞ知らなんだわ。チルナイチオな。ううん、……あ、ほれ、獣人の目族がおるではないか? 知っておるか?」

「獣人な、……獣人は拵え始めたのが古くて余り判らぬわ。済まぬ」

 申し訳なさそうに言うと、ニムが些か難しい顔をした。

「そうなのであるか。それでは仕方があるまい。目族はヌトが拵えたのであるが、それの移住先が其処であったような記憶はあるが……。目族は占いに長けた種族でな、昔はわし等が見える者が多くおったのよ。それでわしは目族を追っておったのよ。そうそう、シピの拵えた湖の西側に山脈があって、其処が移住先よ」

「成程。そういう流れか。しかしヌトが拵えたとは驚きよな」

「ナダールと言う国のある陸地の北におる民族もヌトが拵えたのであるぞ。シピの拵えた湖の西側がノユで、東側がズヤ、南側がシピ、更にその南側がハソ、もっと南がわし、その東側にある別の大陸とかがケメであった筈」

 ハソは驚いてニムに顔を近付けた。

「それはまことか? この島国の子等もほぼほぼヌトが拵えたのであろう?」

「移民を除けばそうなるな」

「混じっておるのかと思うたら、ある意味混じっておらぬのであるな」

 そう言われてニムは暫くの間、目を閉じた。目を開いて小さく頷く。

「出揃っておる情報ではそうなるが不思議な物よな」

「ヌトは知っておるのか?」

「どうであろうな? その辺の細かい事に興味はなさそうではあるが……」

「この子等の親がヌトとは……、恐ろしい……」

「わしは獣人ならば耳族を拵えたのであるが、玲太郎等に混じっておらぬな。後ナダールのある陸地の南の方におる民族もわしなのであるが…」

「混じっておらぬでもよいではないか」

 ハソは苦笑しながら言うと、何かを思い付いたのかニムを不快そうな表情で見る。

「混じっておったら、親という事を盾に明良に取り入る気か?」

 ニムは気が抜けた表情になる。

「ハソはそういう事しか言えぬのか……、情けのうなるぞ」

「混じっておる方が良さそうな発言をするから勘繰ったまでよ」

「そういう積りで言うたのではないわ。混じっておったら面白いのになと、単にそれだけよ」

 横目でニムを見ているハソは、また何かを思い付いたようで表情が変わった。

「玲太郎は直感的に親がヌトであると気付いて受け入れたのではなかろうか」

「それはないな」

 即座に否定すると、真顔でハソを見る。

「あの独特の気配、あれで受け入れたのではないかとわしは見ておるのであるが。逆に心地好かったのやも知れぬぞ」

「あれで受け入れるのであろうか」

 ハソは眉を顰めた。ニムが苦笑する。

「実際に受け入れておるのであるから疑う余地もあるまいて。わし等とは相容れぬ独特の気配よ」

「ヌトだけあのようになっておるのは甚だ疑問よな。チムカは何を考えておったのであろうか」

「今となっては訊きたくとも訊けぬものな」

「如何にも。寂しい事よ」

 二体はそれぞれ視線を他へ移した。明良は暖房器具のお陰で顔が紅潮したままだったが、それを見た水伯は思う事はあっても何も言わずにいた。


 翌日、葬儀は全身藍色の伝統的な礼服に身に纏った水伯が神楽三座を舞ったのみで終え、後は悠次が土に還るのを待つばかりとなっていた。八千代が言うには正午前には土に還るとの事だったが正確な時間が判らなかった事もあり、念の為に十三時から待機していた。正方形の白く大きな和紙を広げてその上に死装束の悠次を寝かせて包み、更にもう一枚その下に敷いて広げていた。死装束も和紙で出来ており、それも還った土と共に海に流す事になっている。

 玲太郎は悠次の所にいる事を嫌がっていたが、今日で最後になる事もあって颯が連れて来ていた。水伯の神楽を見ている時は大人しくしていたのだが、それ以外はごてていた。それもあって明良が抱いて宥めている内に寝てしまった。

 十三時八十分を過ぎて暫く経つと悠次が土に還った。その場にいた全員がそれを見ていた。

「ゆうちゃん、ちゃいろになってへんになった。えー?」

 玲太郎が起きて見ていたようで、そう言った。明良は玲太郎を見て穏やかな表情になる。

「人はね、死ぬとこうなるの。土になってこの星の一部になるんだよ」

「ほし?」

「そう。この土地やほかの土地や大きな海やそういうの丸ごと全部の事ね」

「ぜんぶのことね」

 八千代のはなを啜る音が聞こえてきたが、八千代以外で泣いている者はいなかった。玲太郎は八千代の方を見て眉を顰めたが何も言わなかった。

「では土を持っておきたい人は手を挙げてくれるかしら?」

 水伯が言うと、玲太郎以外が挙手した。

「三人ね。解りました」

 土を浮かせて小さな陶器の中に入れ、二重になっている紙で蓋をして空色の組紐で結んだ。それを五個作る。それぞれの前に跪いて渡して行く。最後に明良の前で跪くと明良に渡し、玲太郎にも差し出した。

「玲太郎はまだ良く解らないだろうけれど、これは持っておいて欲しい」

 玲太郎はそれを手にすると見ながら頷いた。

「悠次が生きていたあかしだからね」

 水伯が優しく言うと玲太郎はまた頷き、それを聞いていた颯は陶器を強く握り締めた。その間に還った土は和紙に包まれて見えなくなっていた。魔道具の暖房器具もいつの間にやら止まっている。

「それでは海に行こうね」

 広間の障子が勝手に開き、還った土を包んだ和紙が先に出て行った。水伯はその後に続き、皆も立ち上がって更に続いて行く。それにヌトも続き、ハソとニムはそのまま天井と屋根を透り抜けて上空へ行った。皆、それぞれの扉からあらかじめ決めていた通りに乗り込んだ。

 箱舟は箱型で屋根が付いているが窓は付いていない。横側に扉が各二枚取り付けられていて、それを開けて乗り込む。これに乗って箱舟の周りを水伯の魔力で包み込んで空中に浮いて飛ぶ。ちなみに陸船おかぶねも箱型なのだが横長の直方体で最大七十人が乗れるようになっていて窓が付いている。陸船とほぼ同じ型で荷物を運ぶ船は陸荷船と呼ばれていて、陸地から少し浮いて飛ぶ。上空を飛ぶ旅客空船は更に大きくて形状は様々、二百乃至ないし五百人は乗れる船が主流でやはり窓が付いている。

 雲一つなく、真っ青な空の下、土を包んだ和紙の後を箱舟は六十六尺の高さを維持して飛び、直線距離で約半里ある海へ向かう。下級免許であれば飛べる高さは、坂道以外で三乃至五寸と決まっているのだが、水伯は特級免許を持っていて飛べる高さは制限されなかった。

 後ろに座っている明良が玲太郎を抱いていたが、高さに燥いで身を乗り出していた。

「玲太郎、気を付けないと駄目だよ」

 明良が落ち着かせようとしていたが、玲太郎は聞く耳を持たなかった。

「みて、あれ! なに?」

 指を差して明良を見る。明良は指の方向を見て、どれを差しているのか探した。

「あれはどれの事なの?」

「ほらー、あのそうじごけのはなのいろのやつ」

「濃い緑か。……となるとあれだね、防風林だよ。冬も木の葉が緑色をしている木を常緑樹と言うんだよ。ヒイの木と言う木ね」

「ふうん。ひいのき」

「ヒイの木の皮は服に使われているんだよ」

「へぇ、そうなの」

 水伯が振り返り、自分が来ている装束を軽く摘んだ。

「これも皮維ひいの木の皮から出来ている服だよ」

「そうなの?」

 玲太郎は装束に手を伸ばし、服を掴んだ。

「あ、皺になるから、そんな持ち方はしないで。水伯、ご免なさい」

 明良が玲太郎の手首を握ると服から手を離そうとした。

「大丈夫だよ。気にしないでね」

 水伯が優しく言うと、玲太郎は服から手を離した。

「ごめんなさい」

「皺になっていないから平気だよ」

 柔和な表情で言うと、玲太郎も微笑んだ。

「水伯、怖いけん前向いとってくれへんで。いけると分かっとっても、なんやおとろしいわ……」

 颯が眉を顰めてそう言うと、水伯は急いで前を向いた。

「ご免ね」

「少々いけるわよ。颯は案外びびりよな」

 水伯の隣に座っている八千代は平然としていた。颯は身を縮めている。

「ナダールのじいちゃんとこに連れてってもらう時にもっと高いとこまで行くけんど、あれは大き目の建物やけんおとろしいないんよな。ほなけんど、箱舟でこの高さはなんやおとろしいじょ」

「解る。道なりに低く飛んでいると平気だけど、これで高く飛ぶと頼りないよね」

 そう言って明良が頷いているのを見た颯は何度も頷いた。水伯が颯の方に向く。

「ナダールで強制覚醒して魔術が使えるようになったら、一人で空を飛ぶ練習をするのだけれど、そのような弱気で大丈夫なのかしら」

 水伯はそう言って「ふふふ」と笑っていた。笑い終えると真顔になる。

「とは言えども、魔力の質や量で飛べる高さが決まって来るから、此処まで飛べるかどうかはまだ判らないけれどね」

「颯ならば覚醒さえすればこれ程度の高さなぞ余裕で飛べるわ」

 明良側にいたヌトが思わず言ったが、聞こえているのは玲太郎だけだった。

「それなんだよね。魔力量と質がどんな物か判らないから、希望の進路に進めるかどうかも判らなくて困るんだよね」

 玲太郎はヌトの方を見て指を差していたが、その手を押さえて下げさせた明良は表情をやや曇らせた。颯はそんな明良を見て大きく頷いた。

「オレも覚醒するまでは進路が決められへんけん、希望もなんもないなあ……」

 水伯がまた振り返ると明良を見る。

「覚醒式は四月上旬、ナダールの新学期は十月一日で受験は六月中旬、合格発表は七月上旬、和伍で卒業したら受験まで約半年は準備期間があるし、進路変更を余儀なくされても約二ヶ月あればまた新たな道を探れるよ。その時はその時でまた相談に乗るからね」

 柔和な笑みを見せると、明良は若干頬を緩めた。玲太郎も水伯を見て一緒に微笑んだ。

「有難う」

 明良が言うと水伯は頷いて颯を見る。

「颯も相談に乗るからね、いつでもどうぞ」

「ありがと」

 水伯が前を向くと笑顔だった颯は怖いと言いながらも眼下に広がる景色を覗き込んで眺め始めた。その景色は見え方は違えど、悠次と一緒に歩いた道、二人で竿を担いで釣りに向かった道、雨に降られて走って帰った道、たわいない話をしながら歩いた道、転んで背負って貰った道。悠次が病気になったり、玲太郎が生まれたりして二人で過ごした年月の記憶は物心が付いてからの約十年だが、颯にとっては悠次との大事な思い出が詰まった約十年だった。様々な思い出が頭の中に浮かび、その度に涙が一粒、また一粒と落ちて行く。

 水伯は沖に出てから箱舟を止めて徐に下降した。海面まで後一尺という所で停める。

「合掌をお願いします」

 水伯が言うと玲太郎以外が合掌をした。玲太郎は周りを見て手を合わせた。すると土を包んだ和紙が下降し、海中へ入って行った。明良と颯は位置的にそれを見る事が出来なかった。水伯と八千代は沈んでいく様子を見えなくなるまで見守っていた。

「お直り下さい」

 そう言われて手を元の位置に戻す。水伯は顔を左側に向ける。

「簡略でご免ね。でも神楽は真面目に舞ったからね」

「水伯さんに舞ってもろうただけでほんまに十二分じゃわ。ありがとうございました」

「お世話になりました」

「水伯、ありがと」

「なりました。ありがと~」

 全員が礼を述べると、水伯は柔和な笑顔になって頷いた。

「では帰ります」

 箱舟が徐に上昇し始めて高度が六十六尺まで来ると北上して帰路に就いた。玲太郎の「あれはなに?」攻撃が続き、明良が答え続けていた。上空から見ると家が一軒もなく池之上家周辺が過疎地である事が良く解った四人だった。


 家に着くと水伯は箱舟を消し、広間に置かれている八足台や供物は残して燭台は消し、暖房器具は八千代の部屋に移動し、そしていつもの黒尽くめの服に着替え、きちんと昼食を摂ってから帰宅した。

 颯が玲太郎を見てくれる事になり、明良はまた広間に入って八足台の前に座っていた。水伯が念写で遺影を作ってくれていて、それを見に来ていた。悠次の事を気には掛けていたものの、臨床研修を始めてからは会う事が極端に減っていて、それが心底悔やまれた。何故かハソとニムが広間に、それも相当近くにいた事もあって明良は早々に退室した。

「わし等の事なぞ気にせず、ゆるりとしていけばよいのに」

 ハソが言うと、ニムは頷いた。

「わし等と同様にこの絵を見に来たのであろうな」

「しかし灰色の子も色々と遣りおるな。絵描きなぞ不要ではないか」

「わし等は遣ろうとは思わなんだが、若しやしたら遣ろうと思えば遣れるのではなかろうか」

「ええ? この絵を念写する事をか? ……遣れぬ事はなかろうな。練習は必要であろうが」

 二体は無表情で顔を見合わせる。暫くするとニムが口を開いた。

「家の木に飾りたい絵なぞないわ」

「わしはチムカを飾っておきたいが、チムカの顔なぞ忘れてしもうたわ」

 そう言ったハソは苦笑した。ニムは暫く目を閉じていた。

「そう言えれば、わしもチムカの顔を明確には思い出せぬわ」

 目を開けるとハソを見た。ハソは軽く何度も頷く。

「シピなら憶えていそうではあるがな」

「それはあるな。シピがチムカの傍に一番おったものな」

 そう言って悠次の写真を見るとニムは顔を渋くさせた。

「この島国の子は輪廻転生を信じておるが、それはないのよな」

「分離型の子等は思念が消えると対の精霊も一緒に消滅するものな。……そう言えば、誰が初めに分離型なぞ考案したのであろうな」

「ノユではなかったか。精霊を人形に籠めて獣人を拵えておったが、切り離したらどうなるかといったような理由であった気がするな……。それで違いが明確に判るように人間を作った筈であるが」

「そうであったのか。ノユも色々と考えおるな」

「ハソも喜んで真似をしておったのに、忘れてしもうたのか。嘆かわしい」

「あの頃の事で憶えておる事も多少はあるわ」

「わしも物忘れは酷いが、幼い頃の事は割と記憶に残っておるぞ」

 ニムが得意満面で言うと、ハソが苦笑する。

「幼い頃に子を拵えておった記憶がないのであるが……。拵え始めたのは、体が大きくなってからではなかったか?」

「何……?」

 そう言われたニムは顔を顰めながら必死に思い出そうとしている。ハソは一頻ひとしきり笑った。

「ニムもうろ覚えなのが良う解ったぞ」

 そう言われて情けない表情になったニムは俯いた。

「済まぬ……」

「気にするな。わしも耄碌もうろくしておるからな」

「子の言う所の三十億年は優に生きておるのであるから致し方なし」

「多分ではあるが、それの倍は生きておるぞ」

 ニムは愕然としてしてハソを見る。

「それはまことか!?」

 大きく頷くハソは真面目な顔をしてニムを見る。

「レウと共にケメの監視を始めたのが約三十億年前になると言うだけで、正確に言うと少し足りぬから三十億弱になる。レウが監視しておる時間としておらぬ時間がほぼ同じになったと言うておったから、それを踏まえると倍は生きておる事になるのよ」

「いやいやいやいやいや、レウが日日ひにちを数えておった事に驚きを隠せぬな……。ええ? ずっと数えておったのかよ……」

 驚いた、と言うよりは顔を顰めて不快感を露にした表情になっていた。

「正確には数えさせておった、であるがな。専用の精霊を拵えておったわ」

「げえっ」

 それを聞いて益々不快そうな顔をしたニムは変な声を出した。

「態々精霊を拵えておったのかよ……。レウは変態であるな……」

「獣人の歴史が約十億年早いそうであるから、子を拵え始めたのは約四十億年前になるな。数字を聞いてもどれ程の年月か今一つ把握出来ぬであろう?」

「出来ぬな……。玲太郎を観察しておる年月でさえももう判らぬわ。年の数を言うた時に判る程度ぞ」

「感覚としては一週間程よな」

「それは大袈裟であるぞ。ひと月程ではないか」

「大差ないな……。しかしながら、これも振り返るとまた短く感じるのであろうな……」

 ハソが寂しそうに言うと、ニムは悠次の写真を見ながら頷いた。

「子の命は実際はかないからな……。瞬く間よ」

 ハソも悠次の画像に目を遣る。

「悠次はまことに短かったが何年と言うておったか……、十二…三年か? 硬化症になりながらも頑張ったよな」

「本来ならば半年前後で死ぬ所を数年生きておったのであるからな、頑張ったという言葉は違うと思うがな」

「田井が頻りに奇跡と言うておったものな」

「それよ、それ。奇跡ぞ」

 ニムは満足気に頷いている。ハソはそれを見て微笑んだ。

「それではぼちぼち玲太郎の所に行くわな」

「わしも行くぞ。灰色の子の舞も見られたし、悠次の土が海に揺蕩たゆたう様も見られたし、念写の絵も近くから見られたし、非日常はこれで終わりにして日常に戻るとするわ」

 そう言ってハソよりも先にニムが玲太郎のいる勉強部屋へと向かった。ハソはそれを追い掛けた。向かっている途中、食堂で八千代と明良が話しているのが見えた。そこを通り過ぎて天井付近に上って勉強部屋へと壁を透り抜けて入る。すると、玲太郎と丁度目が合ったハソは動きを止めた。何か言われるのではないかと思ったが何も言われずに済み、ニムの傍へ向かった。颯は勉強をしているようで文机に向かっていて、玲太郎は一人で輪投げを遣っていた。ヌトは珍しく颯の横にいて、玲太郎を眺めている。


 颯は休憩を挟みながら勉強を続けていたが十八時を過ぎると俄に立ち上がって部屋を出て行った。玲太郎は明良に連れられて居間で寛いでいて、そこに飛び込んで行った。

「わっせとったわ。玲太郎、散歩行こ」

 明良が振り返ると、玲太郎も笑顔で振り返る。

「ええ? さんぽはあるの? いくいく」

「私も行くよ。どうせ防風林の方に行くんだろう?」

「うん、久し振りにあっちを歩きたいなと思て」

 明良にそう答えると、玲太郎が颯の下まで駆けてきた。

「すぐいこう」

 そう言う玲太郎の前で屈むと苦笑した。

「外とうを持ってこんとな。外は寒いじょ」

「わかった」

 明良も颯の所まで来ると玲太郎を抱き上げて、服を置いてある部屋へ向かった。颯もそれに続く。

 八千代に声を掛けてから家を出た三人は防風林に向かって歩き出した。玲太郎が疲れたらどちらかが抱くという事になり、乳母車は持って行かなかった。いつもと違う道という事もあって、玲太郎は明良と後ろを歩いている。颯は時折振り返りながら前を歩いた。結局行きも帰りも颯が玲太郎を抱き上げる事はなく、明良一人が玲太郎を抱いて歩いた。


 夕食前までに戻り、明良と玲太郎は勉強部屋へ行くと、颯は夕食の準備を手伝いに台所へ行った。

 夕食の時間になるとヴィストと留実が食堂に遣って来た。颯は二人を空気のように扱い、三人分の夕食を居間へ運ぶ。玲太郎が椅子に座って待機していた。当然ながら明良もいた。ヌトはいたが、ハソとニムはまた広間へ行っているようだった。

 悠次がいなくなる前と変わらず、流れて行く時間に虚しさを感じている颯は珍しく無口だった。それにいつかは慣れるのだろう。だが、当分は悠次がいなくなった寂しさを胸に時間を過ごす事になる。柄にもなく神妙な面持ちの颯を見た玲太郎が心配そうにしている。

「はーちゃん、へんなじょ。だいじょーぶ?」

「ああ、ごめん。いけるよ。大丈夫」

 そう言って微笑むと、玲太郎は少しの間だけ見詰めてから野菜炒めに目を遣った。明良も颯を見ていたが直ぐに漬物に目を遣った。ヌトは颯の隣にいて玲太郎を見詰めている。部屋には明良の沢庵を嚙む音が響いた。

 食事を終え、颯が食器を下げた後、茶碗に茶を入れて持って来た。黄粉きなこまぶしたお萩もあった。水伯が昨日作ってくれていた物だ。玲太郎は半分食べて満足したようで、残りは颯が食べた。明良は二個、颯は三個半食べていた。

 今夜は二個の月が両方とも満月でとても明るい。それを眺める為、玲太郎と颯は風呂に入る前に外へ出た。靴を履かす手間を省くため、玲太郎を抱いていた。いざ見てみると、二個の月は離れた所にあって視界に二個共を同時に入れる事は困難だった。

「離れとるけん、見づらいなあ」

「みにくいなあ、みづらいなあ」

 二人はあっちを見て、こっちを見てを忙しなく繰り返していた。

「二あつとも満月って珍しいんやって。水伯が教えてくれたけん、見えて良かったなあ」

「ふたあつゆーたら、あーちゃんおこるんじょ」

「ほんま。ほな二つ。オレの言葉遣いを真似しよったら怒られるんだろ? ほなけんとか、じょとか」

「またそんなことばづかいしてってゆーのよ」

 それを聞いて颯は思わず声を出して笑った。

「んも~、わらうはめっよ」

 玲太郎は至って真剣なようで、颯を叱った。

「ほうやな、笑い事とちゃうな」

 和やかな雰囲気の中、後ろで玄関の戸の開く音がした。颯は誰だか判っていたが振り返る。

「珍しいな。こういうん興味ないと思とったわ」

 颯が驚いた様子で言うと、玲太郎は月を指差した。

「まんげつなのよ」

「そうだね、満月だね」

 颯の隣に立つと空を見上げた。

「月が明るいから、星がいつもより暗く見えるね」

 明良も首を左右に振って二個の月を交互に見ている。

「どうしてこうも離れているのか……」

 思わず文句が出た明良は片方だけを眺めた。

「片方ずつしか見えんけん、しんどおなるよな」

「うん、しんどおなるのよ」

「ほれにしてもたまに夜空を見上げるんもええな。星がきれいじゃ」

「ほしがきれいじゃ」

 明良は颯の真似をする玲太郎に顔を向けると頬を少し緩めた。

「気温が下がると空気中の不純物が少なくて綺麗に見えるんだよ。だから冬は星が綺麗に見える季節なんだよね。天体観測には持って来いだよ。ほら、星を見てくれる? 光ったり、暗くなったり、きらきら瞬いているよね? 冬だからこんなに綺麗に見えるんだよ」

「兄ちゃん、ほんなむつかしい事言うたって、玲太郎に分かる訳がないと思うわ」

 玲太郎は明良を真顔で見ていたが無言だった。

「玲太郎、今のん分かったん?」

 颯の方を見ると首を横に振った。

「わからないのよ~」

「星を見てごらん。一個の星をずっと見るんだよ? そうすると光ったり、暗くなったりするから。それを瞬くと言うんだよ」

 玲太郎は夜空を見上げて瞬きをした。それを見ている颯が微笑む。

「ちかちかしよれへんで?」

「ちかちか?」

「光が明るうなったり、暗あなったりする事よ」

「わからん~」

 首を傾げて颯に寄り掛かると欠伸をした。

「眠いん? ほなもう風呂入ろうか」

「うん、ふろはいる」

 玲太郎は颯と入浴して以来、颯と一緒に入浴するようになってしまって明良は寂しかった。今は髪を乾かす事と歯磨きをまださせてくれているが、これらもいつかはさせて貰えなくなる事を思い、更に寂しくなった。

「ほな兄ちゃん、お先」

「おさき~」

 二人は明良を置いて家の中に入って行き、ヌトも当然のようにくっ付いて行く。ハソとニムはそれを屋根の上から見ていたが俄にそれぞれの家の木の有る方向へ去って行った。

 明良は一人になると、また二個の月を交互に見る。颯がまだ約二歳だった頃、八千代が颯を背負い、四人で夜空を眺めた事があった。明良はそれを思い出して懐かしみながら星を眺めた。瞬きを忘れて見入っていた所為か、二筋の涙が流れた。

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