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悠長に行こう  作者: 丹午心月


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第四話 しかして年が暮れる

 今年も年の瀬の十五月が遣って来た。玲太郎が産まれて十ヶ月目となり、首が据わり、発する言葉も増え、歯が生え出し、離乳食が始まり、笑顔を見せ、腰が据わり、四つん這いがいつの間にやら掴まり立ちになり、更に大股開きで不安定だが歩けるようになり、おしめも取れ、睡眠時間も大分減り、順調に成長して行き、怒涛のように過ぎて行く日々の中、明良と颯は動き回る玲太郎から目を放せずにいた。

 そして、相変わらずハソとニムがいたが以前と違って毎日通っていた。ハソ達の予想通りに、玲太郎はハソ達の事が見えていたし、声も聞こえていた。玲太郎が動けるようになった時、自主的に子守を買って出たが、玲太郎から明確に嫌だと意思表示をされ始めた為にそうだと判明した。だが、ヌトは拒否されなかった事から当然のように居続けている。

 それが面白くなかったのは明良だった。時折触れて来るニムに対しては憎悪にも似た嫌悪感が拭えないでいたし、前触れもなく念話で話し掛けて来る事も癪に障った。それもあって徹底的に無視をし続けている。ハソはそれを見て、明良に印を入れたままにしてあるが距離を取るようになった。

 ヌトは颯と上手く遣っているようで、玲太郎の傍に、と言うよりは颯の傍にいる状態だった。明良は颯が都合良く扱われているだけに思えてそれも面白くなかったが、颯はと言うとヌトの事を信用しているようだった為に何も言えずにいた。

 ヌトが何故颯に付いているのかと言うと、透虫と接触する事を手っ取り早く体得する為、颯に弟子入りしていたからだった。ヌトが池之上家に来た当初、颯はまだ日が浅いにも拘らず、透虫との接触を強めつつあり、急速且つ敏感に気配の感知が出来るようになっていた。それに目を付けて印を媒介とし、颯の精神に同調する事によって透虫と接触する感覚を得ようとしていたが、その領域に辿り着く事は甚だ難しく、ヌトにとって一日三十分程度の瞑想ではそう簡単に出来る物ではなかった。颯はそれを知ってか知らずか、透虫に対して、徐に、そして深く接触するようになった。そのお陰で颯は千里眼を会得していたが、それを知る者はヌトだけだった。

 水伯も相変わらず通っていたが忙しさから五日に一度、六日に一度になる時もあった。玲太郎は水伯が来ると笑顔で駆け寄って行き、抱き着いて離れなくなるのだが、明良はこれも面白くなかった。玲太郎の玩具も服も下着も布団も全部水伯が用意してくれた物である事は感謝していたが、それとこれとは別だった。玲太郎が夜に纏めて眠るようになってからは早朝まではおらず、玲太郎が眠ったら帰るようになっていた。水伯が帰った後は眠っていても念入りに玲太郎を抱き、より深い眠りにいざなっていた。

 明良が抱くと良く眠るのも相変わらずだったが、水伯と颯が抱くと良く話し、悠次と八千代が抱くと嫌がって泣くのも相変わらずだった。唯、以前より泣き方が増しになっていて、玲太郎の態度が軟化した事は喜ばしい事だった。ハソとニムが近付くと逃げるようになり、ハソとニムは寂しそうに遠巻きに見ているようになった。ヌトが近付くと「ぬとー」と言いながら颯の腕の中に逃げ込むのが常となっていて、明良はこれも面白くなかった。

 今日は大晦日という事もあり、八千代とヴィストと留実は朝から買い出しに行っていた。正月から七日間は店という店が休む為、どこもかしこも大安売りをしていたからだった。八千代が十時と十五時のご飯と菓子を用意しておいてくれた。大晦日と言えども明良と颯は勉強部屋にいて、遅れている分を取り戻すべく勉強に励んでいた。

「兄ちゃん、そろそろ十時じょ。ご飯にせんのん?」

 颯は座って玲太郎の左足を掴んでいた。玲太郎は俯せになっている。手を放すと四つん這いになり、前に進もうとした所をまた邪魔して足を掴んだ。

「そうだね。それじゃ食べるとするか。玲太郎にも離乳食をあげないとね」

 颯の方を見ると、颯が意地悪をしているのが見えた。

「それは止めろと先程も言ったよな? 何故遣るんだよ」

「泣っきょれへんけん遊んびょると思うとるんとちゃうだろか」

「我慢をしてるだけかも知れないだろ。止めろ」

「はーい」

 気の抜けた返事をすると手を放し、そのまま抱き上げた。玲太郎は少し怒っているような表情だった。

「はーちゃ、やーっ」

 そう言うと体を仰け反らせた。

「あぶねっ」

 颯が即座に背中を支える。

「ご飯やけん、居間に行こう。な?」

 そう言っても嫌がって腕を振っていた。颯は玲太郎を下ろすと、玲太郎は廊下側の障子の方へ這い這いで向かった。颯はそれに付いて行く。明良も立ち上がるとそちらへ向かった。明良は障子を閉めると二人を追った。玲太郎は悠次の寝室の前で止まると、掴まり立ちをして障子を開けた。そしてそのまま動かず、中で寝ている悠次を見ていた。

「悠ちゃんは寝とるけん行こう」

 玲太郎を抱き上げて障子を閉めると、玲太郎は黙って颯の首に腕を回した。

「悠次は寝てるのか。それじゃあご飯は後だな」

 明良はそう言うと二人を抜いて先に台所へと向かった。八千代がいると暖炉に火が入っていて暖かいのだが今日は空気が冷たい。作り置きしてくれている物を魔道具で温め直し、その間に必要な器を持って来た。そして玲太郎の離乳食も温める。

 颯は玲太郎を連れて居間へと行き、明良の為に障子を開放しておいた。中に入ると火鉢の傍でひざまずいて顔を上に向けた。

「神様~、よろしくおねがいします~」

「やみたまー、よおちくおが~」

 玲太郎が真似をした。颯は玲太郎を見ると微笑んだ。すると火鉢の中にある炭が赤くなった。

「ハソ様~、ありがとうございます~」

「あいがとだま~」

「玲太郎、ハソ様だよ、ハソ様。言うてみ?」

「えいたおー、えいたおー」

 颯の目を見詰めて自分の名前を言った。颯は微笑む。

「れ・い・た・ろ・う」

 徐に発音して見せたが玲太郎は上を向いて指を差した。

「ぬとー、ぬとー、ぬとー」

 浮いて天井付近にいるハソは苦笑した。不満顔になったニムが口を開く。

「わしがヌトかよ」

「如何にも。わしもヌトになってしもうたわ」

 ヌトは名前を真っ先に憶えられているのが嬉しいらしく微笑んだ。

「顔が皆同じなのであるから致し方あるまい、のであるが……」

 間を空けると二体を見て得意満面になる。

「わしを差して三度言うたのやも知れぬな」

「有りる。しかしこういう用をわし等に遣らせて礼を言いがてらに名を言うて呉れても、玲太郎は憶える気がないように思えるのであるが……」

 眉をしかめてハソが言うと、ニムが何度か軽く頷いた。

「名を教えようにも近付けば嫌がるからな、手立てがこれしかないのが如何いかんともし難いわ」

「それにしても、ニムとわしが近付くと名は言わぬが、ヌトが近付くと名を言うというのがな。何故なにゆえあのような事になるのよ?」

「わしに判る訳がなかろうて」

 透かさずニムが答えると、ヌトも真顔になった。

「わしが知りたいわ」

 三体が話している間に、颯は玲太郎を専用の小さな椅子に座らせて食堂の方へ行っていた。玲太郎は一人でいるが、三体は大人しく見守っている。

「以前は抱かせて呉れていたが、何時いつの間にやら拒否されるようになってしもうた事は辛い所よな」

 ハソが感じ入りながらと言うと、ニムが大きく頷いた。

「あれは何時頃であったか……、動けるようになってからか? 逃げられるようになってしもうたな。眠っておる所を抱くしかのうて、それも儘ならぬようになって来たわ」

「わしなぞ抱いてもおらぬのに近寄ると逃げられるのであるが」

「ヌトの場合は名を呼ばれながら逃げられ、颯に抱き着いて行って終わりであろうが。わし等は逃げ惑われて絶叫されるのであるぞ」

 ヌトを見ながら悲愴感溢れる表情でハソが言った。ヌトはその時の光景を思い出す。

「あれは大笑いしたわ。あはは。あの時のお主等の顔と言うたら……。あはははは」

 場都合の悪そうな表情になったニムも思い出す。

「別の日にも同様の反応をされたな……。あの時は明良が駆け付けて、顔を紅潮させて、であるからお前等が大嫌いだと怒鳴られたのは痛かったわ」

「あの時はあの時で笑わせてもろうたわ。あはははは」

 二体とは正反対の反応を見せるヌトは、二体から睨まれていたが気にもならなかった。

「しかし颯は早い段階でわし等が見えるようになると思うておったのであるが当てが外れたな」

 ハソは首を傾げるとヌトを見た。

「森羅万象に感謝を捧げねばならぬのであろうが。颯はそういった事は遣っておらぬように見受けるのであるが」

「確かに遣ってはおらぬが玲太郎という例外が傍におるから、それが当てまるかが疑問であるな」

 そう言ったニムを横目で見たハソが真顔になる。

「赤子の頃に見えておるという事は特別ではないぞ。ようある事であるからな」

 言い終わって少し間を置いて続けた。

「わしが幽せいする以前の話であるから、今ではちごうとるやも知れぬな」

「いや、そうでもないぞ。今でも赤子の頃は見えておる子の方が多いわ。わしが見回った限りではそうであったぞ」

 ヌトが肯定するとニムが少し目を剥いた。

「そういう事は早く教えて呉れよ。わしは特別な事だと思うておったぞ」

「見えぬ赤子もおるからな、特別と言えば特別よ」

 ハソが取りつくろうように言うと、ヌトが「ふ」と笑った。

「確かに見えぬ赤子もおるな。昔と比べて減っておるように見受けるが、それでも見える子の方が多いと思うぞ。大人は駄目よな。見えておる子はおるにはおるが、わしの知る限りでは片手で事足りるわ」

 疑念を抱いている事が表情に出ているニムがヌトを見る。

「最近も観察を遣っておったような口振りであるがまことに遣っておったのか?」

「わしは子に遣う気なぞ持ち合わせておらぬからな、割と最近まで色々と遣っておったのよ」

 ニムに微笑んだ。

「そう言う癖に此処では気を遣っておろうが」

「そのような気はなかったのであるが、成り行きよな。そうせねば、此処に来させて呉れなんだであろうが」

 池之上家に来た当初の事を思い出したヌトは無表情になった。ニムが不敵に笑う。

「当然」

「如何にも。ニムもわしもそれはもう颯には気をつこうておったからな」

「それよ。あれをち壊す心算が透けて見えたら力尽くで来させぬようにしておった所よ」

 ヌトは驚いた表情をニムに見せた。

「ニムがそのような事を言うとは……、これは驚愕よな」

「如何にも。そのような事を考えておったのか」

「久しく出うておらぬ観察対象が三人もおるのであるから大切にせねばな」

 それを聞いてヌトが鼻で笑った。

「その割には明良を大切にしておらぬな。やはり念話を飛ばしておるのであろろう? それはもうきろうて呉れと言うておるような物であるぞ」

 最後は些か軽蔑を籠めてに言いながらニムを見ると、返答に窮したニムは険しい表情をしていた。

「もうニムは手を引くにも引けぬ状態なのよ」

 苦笑しながらハソが言った。ヌトが冷ややかな表情になる。

「颯が、兄ちゃんに手を出すなというような事を言うておった時にしておけば良かったのよ」

其処そこは後悔しておるぞ。……しかし今更止められぬのよ。真摯に接しておればいずれは態度が軟化して呉れるのではないかと、些か期待しておるのであるがさて……」

 ヌトと目を合わさずに言う。ヌトは横目でそのニムを見る。

「些かだと? 嘘を吐け。相当期待しておるであろろうが」

「いや、まことに些少よ。実らずともよいのよ。虚しさは残るであろうがな」

 爽やかな表情で言うとヌトは黙った。そこへ明良と颯が盆に色々と載せて来た。明良は足もとに盆を置くと障子を閉め、そしてまた盆を持って座卓の方に向かって玲太郎の隣に行くと、座卓の上に食器を並べて盆を下に置いた。この時間はいつもなら麺類なのだが八千代がいない為、燻製肉と野菜の炒め物と茹で玉子と具沢山の味噌汁だった。玲太郎に匙を渡すと明良と颯が合掌をする。

「頂きます」

「いただきまーす」

「いたやちまー」

 皆で食前の挨拶をすると食べ出した。玲太郎の匙の持ち方が覚束ないが、明良と颯は気にせずに自分の食事を進めていた。明良が時々玲太郎に目を配る。その二人の向かい側にいる颯の隣にヌトが行くと、玲太郎が目を遣った。

「あーちゃ、ぬとー、ぬとー」

 玲太郎はヌトを指で差しながら、明良の方を向いて言った。

「ヌトはよいから、ご飯を食べて。零さないようにね」

 優しく微笑んで言うと、玲太郎は食べ物が入った口の中に指を突っ込んだ。

「あいっ」

 手に食べ物を付けて明良に見せる。

「くれるの? 有難う」

 明良は微笑を崩さずに手に付いた物を箸で摘んでは食べ、摘んでは食べ、殆どなくなるまでそれを繰り返す。最後は盆に載せていた濡れ手拭いで手を拭いて遣る。

「あーちゃんはあーちゃんのご飯があるから大丈夫。玲太郎は玲太郎のご飯を食べてね。有難う」

 玲太郎は微笑むと雑炊を匙で掬い、口に運んだ。

「ヌトが余計な行動を取る所為で……」

 ハソが渋い表情になって小声で言ったが、ニムは無表情で無言だった。しばらくそのままでいたが、我に返ってハソを見た。

「わし等が益々嫌われるように仕向けておるのか?」

「いや、何も考えておらぬ。強いて言えば颯の傍におろうと思うて来ただけよ」

 無表情で玲太郎を見詰めているヌトが言う。

「赤子の内は見えておっても大きゅうなるに連れて見えぬようになるが、玲太郎は何時まで見えておるのであろうな」

 上で浮いている二体は玲太郎を見下ろした。

「ずうっと見えておると思うがな」

 ニムが言うと、ハソは眉を顰めた。

「どうであろうな。見え続けて呉れるとよいのであるが、それよりも早く覚醒して呉れぬか。魔力がどれ程度の物なのか知りたいわ」

「それは言える。わしはチムカに似た魔力がどう変化するか、それに興味がある」

 俄かに表情を明るくしたニムはハソを見た。

「覚醒しておらぬ今の魔力がチムカに似ているから何かしら期待してしまうのは解るが、過度の期待は禁物ぞ」

 無表情で玲太郎を見続けているヌトが言った。

「わしはチムカに似ているからではのうて、レウの見立てに興味があるわ」

「ま、レウの今までの行動を見ておればそう思うのも頷けるがな。ハソの場合はそれよりも透虫の反応で確信めいた物があるのではないのか」

 ヌトが視線だけを上に向けてハソを見ると、ハソは目を合わせた。

「透虫等の反応が異常であるからと言うて確信は持てぬよ。わしは全てを知っておる積りではおるが心驕りやも知れぬからな」

 そう言うと苦笑した。ヌトはそれを見てからまた玲太郎に視線を移した。そして明良に気付かれないように細心の注意を払いながら玲太郎の零した物が下に落ちる前に椀に戻していた。上に浮いている二体と明良はそれに全く気付いていなかった。

 玲太郎が綺麗に食べ終わると、明良が空いた椀を持って席を外した。戻ってくると少し湯気の立った乳が入った碗を玲太郎の前に置いた。

「少し熱いから、ふーふーしてゆっくり飲んでね」

「ふーふー?」

「そう、熱いからふーふーね」

 玲太郎が手に持っていた匙を明良が取ると、それで乳を掬って何度か息を吹き掛けてから口に運んだ。玲太郎はそれを口に入れて飲み込む。

「あちゅいない」

「熱くないのなら良かった。ふーふーして飲むんだよ?」

 そう言うと匙を玲太郎に戻した。玲太郎は言われた通りにして匙で掬っては息を吹き掛けてから飲み出した。明良と颯は白飯のお代わりをして食べ続けていた。

 食事が終わり、明良が食器の後片付けをしている間、颯と玲太郎は居間に居続けた。遣る事もなく、二人して火鉢の傍で寝転んでいると悠次が遣って来た。

「ご飯食べてもうたん?」

「うん、食べてもうた。持って来おか?」

 颯は寝転んだままで悠次の方を見て訊いた。悠次は寝間着に綿入れ半纏という薄着だった。

「ほんな格好で寒うないん?」

「ほんなに寒うないじょ。ほな自分でご飯持ってくるわ。ありがとう」

 そう言って障子を閉めて行った。颯はまた天井を見た。

「玲太郎、寝たんか?」

 玲太郎は何も答えなかった。颯は上体を起こして玲太郎の様子を見ると、目を閉じて静かにしていた。

「玲太郎、起きとれへんの?」

 やはり何も答えない。寝ているようだ。颯は上体を寝かせてまた天井を見ていると、悠次が盆を持って戻って来た。颯は起き上がって火鉢を悠次の傍に移動させた。火鉢は然程大きくなく、颯でも余裕で動かせた。悠次はそれを見ると笑顔になった。

「ありがとう。ほないただきます」

「オレは玲太郎を勉強部屋で寝かせてくるわ」

 そう言うと玲太郎を抱き上げて居間を出て行った。玲太郎の睡眠時間が大分減った事で、居間にあった玲太郎の布団は撤去されていた。

 一人残された悠次は雑炊を食べ始めた。玲太郎も食べるから薄味という事もあり、梅干しを二個も追加していた。その所為で時折顔を顰めている。


 十三時を少し回った頃、颯は玲太郎を連れて散歩に出掛けた。散歩には勿論三体とも付いて行った。明良はその間に自分達の寝室、勉強部屋、客間、居間、食堂の五部屋と玄関と西側の縁側の掃除をしようと画策していた。二日前に大掃除をしていたが毎日の掃除は欠かさない明良だった。

 晴天の下、颯は玲太郎の手を引き、玲太郎の歩調に合わせて徐に歩く。颯はこれが苦手だったが、玲太郎が歩き始めると雨の日以外は一緒に散歩をするようになった。以前は明良が玲太郎を乳母車に乗せて散歩をしていたのだが、いつの間にかその役目が颯になっていた。

「玲太郎、そろそろ抱っこされへん? まだ歩くん?」

「えいたおーあゆく」

 颯は小まめに玲太郎の意思を確認する。颯の手を強く握る小さな手が、時折力が抜けて放れそうになる為だった。

「れ・い・た・ろ・う・あ・る・く」

 聞き取り易いように強めに発音をするが、玲太郎は聞いていないようだった。足下を見ながら一歩、また一歩と確実に歩を進めている。

「幼子ながら意思表示が出来て偉いぞ」

 ハソが後ろから大声で言った。ニムは笑う。

「そのような褒め方をしても、玲太郎には届かぬよ」

 二体は距離を取って後ろから付いて行っていたが、ハソは玲太郎の上を飛んでいる。

「ヌトよ、此方こちらに来てわしの隣を飛んで呉れぬか。視界に入って呉れるなよ」

 ニムが言うと、ヌトが振り返った。

やかましい。静かにしておれ」

 毎度この遣り取りをしているが、ニムは今日も言うだけ無駄だった事に大きな溜息を吐く。

「散歩となるとヌトは其処が定位置よな。後ろから眺めるのも乙と言うに……」

 ハソは遠回しに言った。

「わし等とは違う場所におりたがるよな」

「如何にもそういう所があるな。わし等とは違う視点で見ておりたいのであろうな」

「ふむ……」

 二体はヌトではなく二人の後ろ姿を見ながら話した。玲太郎に合わせている為、遅々として歩が進まずにいる。冷たく吹き荒ぶ風が容赦なく体に当たる。

「今日は寒そうであるな」

「如何にも。颯が珍しくえり巻をしておるわ」

 ハソが頷いて颯の黒い襟巻を見た。ニムはいつもより丸く見える玲太郎を見る。

「玲太郎も厚着をさせられて動き難いのではなかろうか」

「それでいつもより遅いのやも知れぬな」

「転ぶのではなかろうか」

「それはないであろう」

 二体がたわいない会話をしている間も、玲太郎は歩いていた。暫くは頑張っていたが、立ち止まる事が増え、颯の顔を仰ぎ見る度数も増えた。颯は玲太郎と目が合うとその度に何も言わずに微笑んでいたが、玲太郎は不貞腐れて行った。

「んん」

 最後はそう言って颯の脚にしがみ付いた。颯は笑いながら玲太郎を抱え上げるといつもの散歩道を早足で歩いて行く。歩いている一帯は田圃たんぼで今の時期も水が張られていた。更に南に進むと防風林があって、そこまで行くとやや遠回りになるが違う道を通って家路に就く。玲太郎は歩いては颯に抱かれて休む事を繰り返した。

 二人は正午前には家に到着した。玲太郎を抱えて走って来た颯は息を切らせている。玲太郎の靴を脱がすと先に式台に上がらせる。四つん這いで式台からあがり框を上って廊下を進み、勉強部屋へ行くか、居間へ行くか迷っていた。そんな玲太郎を後ろから手を伸ばして座らせると外套を脱がせた。自分も外套を脱ぐと服が置かれている部屋へ向かう。玲太郎はその跡を追った。

 物音を聞いた明良が勉強部屋から出て来て、食事の用意をする為に台所へ向かう。颯と玲太郎はそれを廊下で見ていた。二人は居間に入って火鉢の傍に行くと、颯が天井を見上げた。

「神様~、おねがいします~」

 火鉢の炭に火が点いた。それを確認すると颯は頭を下げた。

「ニム様~、ありがとうございます~」

 玲太郎は真似をせず、颯の背中にくっ付いていた。

「丸で興味なしかよ」

 ニムが苦笑する。ハソは少々怒っている。

「今日はわしの番であろうが。何故なにゆえ順番を守らぬのよ?」

「よいではないか。それ程度の事で怒るなよ」

「では明日もわしの番ぞ。ニムは休め」

 呆れ顔でヌトが間に割って入る。

「お主等は仲がよいのか、悪いのか、良う判らぬな。それにつけても、明日は元日であるからな、他の兄弟の所へ新年の挨拶とやらをせぬのか。わしには不要であるから、お主等は此処に来ずともよいぞ」

 二体は驚いてヌトを見た。

「明日は元日か。…それならば灰色の子が迎えに来て、西の大陸におる玲太郎等の祖父に挨拶をしに行くのではなかったか。わしはそれに付いて行くぞ。そのついでにレウに会いに行こうと思うておるのよ」

「玲太郎には付いて行くが新年の挨拶なぞせぬぞ。ハソがレウの所に行ってもわしは行かぬからな」

 ハソに続いてニムが言うと、ヌトは眉を寄せた。

「お主等も行く気満々かよ……」

「如何にも」

「ヌトだけに行かせるかよ。わしも祖父とやらを見たいわ」

 横目でヌトを見ているニムが不敵に笑った。すると廊下の軋むが聞こえて来て、居間の前で音が消えたが、また軋む音がした。そして障子を開けて入って来たのは悠次だった。

「ご飯に間におうたわ」

 笑顔で颯に向かって言うと、颯と颯の膝の上に座っている玲太郎が振り返る。

「そろそろ出来るっちょった?」

「いや、分からん。僕の分の雑炊もあっためてもらおうと思て頼んで来ただけ」

「ほな玲太郎の事、見よってくれる? オレは兄ちゃんを手つどうてくるわ」

 そう言うと玲太郎を椅子に座らせた。

「玲太郎、ちょっと待っとってな。ええ子でおってよ」

 玲太郎は颯を見る。

「やっ」

「やとちゃうんよ。はーちゃんは、あーちゃんの手伝いをしてくるけんな」

「やーあー」

 玲太郎の頭を撫でると居間を出て行った。悠次は玲太郎に近付き過ぎると嫌がられる為に向かい側に座った。玲太郎は悠次には目もくれず、不貞腐れた表情で火鉢の方を見ている。悠次は頬杖を突くとそんな玲太郎を見詰めていた。三体も黙って見守っている。颯と明良が入って来るまで沈黙は続いた。

「お待たせ~」

 颯が言うと、玲太郎がそちらを見た。颯の盆に載っているのは颯の分と悠次の雑炊だった。奥側に行って盆を下に置くと座卓に並べ出した。悠次の前に丼を置くとそこへ匙を入れる。

「はい、どうぞ」

 次に自分の箸を汁椀の上に載せる。明良ももう並べ終え、玲太郎に匙を渡していた。各々が挨拶をすると食べ出した。ヌトは颯の左側に行くとまた玲太郎が汚れないように気を配った。悠次は目の前にいる玲太郎を見ながら食べていたが、それに気付かない程、ヌトは上手く遣っていた。玲太郎はヌトの方を見る事もなく、目の前にある雑炊に集中していた。

 今度は颯が食器の後片付けをしに台所に向かった。悠次が火鉢に当たっていたが近付きすぎると玲太郎が嫌がる事もあって、明良は玲太郎を膝に乗せて冷えないように温めていた。玲太郎は食後の眠気と戦っていたが、程なく眠ってしまった。

「玲太郎が眠ってしまったから、布団に寝かせて来るよ」

 そう言って立ち上がると居間を出て行った。悠次はそれを見送り、また火鉢に顔を向けて温まっていた。颯が戻って来るかと思っていた悠次は、いつまでも火鉢を独占していた。


 十六時を過ぎ、全員が勉強部屋にいた。明良は本に向かい、悠次と颯は話をしていた。玲太郎はおまるに跨って一点を見詰めて気張っている。

「うんち出た?」

 颯が気張っている玲太郎に訊くと、玲太郎は何も答えない。

「玲太郎、うんち、出えへんのんかいな?」

 また訊いてみたが、やはり無反応だった。

「ほう何度も聞かれん。今頑張って出っしょるんやけん」

 悠次は言ってから颯を見ると、颯は無表情になった。

「ほんで、颯は不思議な現象はどこまで体験したって?」

「ほなけん、気配がはっきりと分かるようになったって言よるんやけんど」

「僕の気配も分かるん?」

「当然分かるよ。動いたらほれも気付けるくらいに気配が分かるようになっとるじょ」

「ごっついよな。僕もめい想しよるけんど、ほこまで行かんじょ」

 感心していても、視線は玲太郎に向いていた。颯も玲太郎を見ている。

「悠ちゃんはどんな感じなん? 目を閉じたらまっくらでも、なんか感じるとか、なんかちらっと見えるとかないん?」

「真っ暗なままでなんも感じんな。僕は才能がないと思うわ」

「ほんまにな。ほなしゃーないな。水伯もまっくらなだけでもええんじゃって言よったけんな」

「ほうやな、言よったな。ほなけんど、僕も感じられるもんなら感じてみたいわ」

「気配を?」

「うん」

「なんちゃええ事ないじょ、ほんまに」

 力を籠めて言うと悠次が颯を見た。

「なんや実感がこもっとる言い方やな」

 颯も悠次を見る。真剣な表情になると、悠次が身構えた。

「ほんまにええ事やなかったもん。気配が動くだろ? ほいたら寝られへんのんよ。起きてまうんじょ。ほれが何度も続いたらほらイヤになるわ」

 そう言って、また玲太郎の方に向いた。悠次も玲太郎の方に顔を向けた。

「水伯はめいそうをやり出したら続けた方がええって言うけん、気配のせいで寝られへんかっても毎日続けたわ」

「ほんで?」

「ほんで、細かい所まで分かるようになったんよ」

「ほれで成果が出たんやけん、良かったな。僕はほんまになんもないんじょ」

 苦笑する悠次を颯が見ると、悠次もそれに気付いて颯を見た。

「なんもない方がええかもよ」

「ほうかいな?」

 二人は示し合わせたかのように同時に玲太郎の方に向いた。

「兄ちゃんもなんもない方がええと思うよな?」

 明良は集中していて声が届いていなかった。

「聞こえてなかったか……」

 呟くと、悠次が小声で笑った。

「兄ちゃん、今は集中しとるけんな。してなかったら、うるさいっちゅうて怒られとるわ」

 颯がそう言うと、思わず顔が緩んだ悠次は即座に引き締めた。

「ほうやな」

 そう返事をすると、玲太郎が少し疲れた面持ちで颯を見た。

「うんちない」

「え? うんち出んのんかいな? ほなやめる?」

「やっ」

「ほな頑張ってうんち出して」

 玲太郎は不貞腐れるとおまるから下りた。それを見た颯が立ち上がり、下着とズボンを持って玲太郎の所に行って穿かせる。そしておまるが汚れていないか確認をしてから蓋をした。玲太郎は颯の服を掴んで悠次の方を見る。

「悠ちゃんの所に来るかいな?」

 悠次がそう言って両手を広げて見せたが、玲太郎は眉を顰める。

「ゆーちゃ、やー」

 悠次は拒否されて苦笑し、玲太郎は颯の背中に額をくっ付けた。

「玲太郎? なにしよん?」

 左手を後ろに回して玲太郎の背を触った。

「いひひひひ」

 くすぐったいのか玲太郎は笑うと四つん這いで明良の方へ向かった。明良の服を掴み、そのまま立ち上がる。明良がそちらに顔を向けた。

「どうかした?」

「あーちゃ、うんちあゆない」

「ん? あるのにないの?」

 明良は玲太郎を膝の上に乗せ、お腹に手を当てた。指先に少し力を入れて下腹部を円を描くように押していく。玲太郎が「うんちあるない」と言うと必ず遣る按摩あんまだ。これが玲太郎には効くらしく、中々出ない時は明良の所へ行って遣ってもらう。二人はそれを眺めていた。

「兄ちゃん、あんま師にでもなるん?」

 そう訊いたのは悠次だった。玲太郎に按摩を続けながら悠次を一瞥する。

「何故、按摩師になると?」

「いや、なるためにツボを心得とるんかと思て」

「医師の免状を取る為に本を色々と読み漁ったんだよ。その中に無関係の按摩のツボの本があってね。南洋では古来より人気だって水伯が持って来てくれたから、とりあえず読んだんだよ。旅行すると便秘になり易いから覚えていたのが役に立ってるだけだね」

「ふーん、ほうなんじゃ。兄ちゃんはべんぴにならなそうやのにな」

 そう言ったのは颯だった。悠次は苦笑して話題を戻す。

「ほんで他に役立ちそうなんはなかったん?」

「うーん、目の疲労を取るとか、足の疲労を取るとか、そんなの」

「実際にやってみて疲れは取れた?」

 悠次が食い付いて来て明良は驚いたが顔には出なかった。また悠次に一瞥をくれる。

「遣った直後はよいけどね。一応毎日遣っていても効果があるのは数分程度だね。若しかしたら遣り方が悪いのかも知れないね」

 言いながら自嘲的に笑った。

「ほなけんど玲太郎には効っきょるけん、兄ちゃんもほの内効いてくるわ」

 力付けるように悠次が言うと、颯が大きく頷いた。

「ほうやな。兄ちゃんは頭がええけん、ほの内出来るようになるわ」

 玲太郎に触れているからか、いつもよりは柔らかな表情をしていたのが消え失せ、完全な無表情になる程に明良は嬉しくなかった。

「別に出来なくてもよいのだけどね」

 本音を漏らすと玲太郎が明良の顔を見た。

「うんちあゆ」

「うん、解った」

 明良は慌ててズボンと下着を脱がせると、玲太郎の脇の下に手を入れておまるの所まで運んだ。颯はおまるの蓋を取って横に置く。そこに玲太郎を下ろした。玲太郎は気難しい表情になり、明良は自分の文机ふづくえへ向かった。

「兄ちゃんはほんまに医師になるつもりなん?」

 明良は玲太郎のズボンと下着を拾うと、振り返って悠次を見た。

「いや、免状を取るだけ。その次はナダールに行って強制覚醒して、魔力の程度を知ってから進路を決める積り」

 そう言いながら玲太郎の傍に行ってズボンと下着を置き、また自分の文机に向かって歩く。

「あれ? 兄ちゃんは水伯が言よった方法でかくせいするんとちゃうかったん?」

「本は借りて読んで少し遣ってみたけど、胸の辺りに細い管があるように感じられないから、僕には合っていないみたい」

 颯の方を全く見ないで言うと、座布団の上で胡坐を掻いた。

「ほうなんじゃ」

 そう言った颯の明るい声とは反対の少し難しい表情になると玲太郎を見た。明良は手を組んで上に伸ばすと徐に何度か左右に倒してから手を下ろした。玲太郎は顔を真っ赤にして気張っている。臭いが少し漂って来た。悠次はそれを全く気にしていなかった。

「ほの本は水伯にもう返したん?」

 明良の方に顔を向けて訊くと、明良が頷いた。

「とっくに返したよ。読みたかった?」

「ちょっと興味があるな」

「それじゃあ水伯に言っておくから、また持って来てもらおう」

「忘れんとってな? 約束じょ」

 言ってから立ち上がる。

「ほなまた寝てくるわ。おやすみ」

「おやすみ」

 颯は顔を悠次に向けたが、視線は玲太郎に向けたままだった。

「お休み」

 明良は悠次の方に目を向けたが、悠次は既に障子の前に立っていた。

「臭うだろうけん、開け放しとくわな」

 気を回して障子を開けたまま出て行った。冷たい空気が一気に流れ込んでくる。

「うわあ、一気に冷えたな」

 颯が体を縮めて言った。明良は無反応で立ち上がって縁側の方の障子を開けると、そのまま窓も開けに縁側へ行った。玲太郎は出し切ったのか、颯を見て笑う。

「うんちない」

「終わった? ほなちょっと待ってな」

 尻を拭く葉を本棚の横に置いてある箱に入れていた。それを取りに行って、玲太郎の横にひざまずいて尻を拭く。葉をおまるの中に入れてから、一旦部屋を出ると戻って来て玲太郎に下着とズボンを穿かせた。

「ほな手を洗いに行こか」

「うん」

 玲太郎の脇に手を入れると持ち上げて脱衣所にある洗面台に向かった。明良はおまるから排泄物が入った容器を外して取り出し、綺麗な容器と交換すると汚れた方を持って台所から外へ出て行った。それから暫くは誰も勉強部屋に戻って来なかった。


 十八時になると八千代とヴィストと留実が帰って来たが、誰も玄関に出迎えに行かなかった。八千代の呼ぶ声が聞こえてようやく颯が動き出し、玄関へ行くと荷物が沢山置かれていた。

「呼んだ?」

 気怠そうに言うと八千代が笑顔になる。

「久し振りに魚が食べられるじょ。いっぱいこうて来たけん、今日は煮付けにするわな」

「え! 魚や、言うてくれたら釣って来るのに」

「ほなけんど、玲太郎が産まれてからこっち釣りやしとらんのんとちゃうん? ほれに玲太郎見よるし、時間がないだろ?」

「ほらほうやけんど……」

「すり身の揚げ物も作るわな。颯、好きだろ?」

「ほんま! ありがと!」

 にわかに表情を一変させて歓喜した颯は、置かれた荷物を運ぼうと手を伸ばした。

「明日の雑煮に入れてあげるわな。あ、運ぶんやったら、これを台所に持ってってくれるで」

 言いながら大き目の紙袋を渡した。それを受け取ると八千代を見る。

「他に台所に持ってくやつはあるんかいな?」

「後、これとこれとこれ。この二つはばあちゃんが持って行くけん、こっちお願い」

 八千代は中でも一番重い物を颯に渡した。

「はいな」

 紙袋を受け取ると台所へ向かう。台所の中央にある台に荷物を置くと八千代が後ろから遣って来た。荷物を置くと、紙袋を開けて中身を出し始めた。颯は八千代の隣に立って、出される物を眺めている。

「さっきおらんかったけんど、父ちゃんと母ちゃんはなんしよんかいな?」

「ああ、まだこうて来とるもんがあって、それを取りに行っとるんよ」

「ふうん、何をこうて来たんかいな?」

「服とか、玲太郎の玩具とか、本とか、まあ機嫌取りじゃわな」

「服……。また兄ちゃんにもやされて終わるんだろな……。オレらのんももやすんやもんな」

 顔を顰めて颯が言った。八千代は鼻で笑った。

「三つ子の魂百までって言うけんなぁ。明良もやられた事は忘れへんし、やり返し続けるだろな。ひつこおないように見えてかなりひつこいけんな」

「ほれにしても、たん生日になんもくれんのに、こういう日にくれるっちゅうんも変な話よな」

「貰えるもんはもろとき、ありがたあのうてもな。ほれで親の務めを果たっしょる気でおるけん、させとったげて」

「分かった。まあ、オレは父ちゃんの事も母ちゃんの事も、好きちゃうけんど、きらいでもないけん、どうでもええけんどな」

 そう言って声を出して笑った。八千代も釣られて笑ったが、内心では笑い事ではなかった。

「ほういや、明日ナダールのじいちゃんちに行くけんど、ばあちゃんもいっしょに行くんだろ?」

 八千代は手を止めて颯を見た。颯も八千代を見る。

「ばあちゃんも行くっちょったで?」

「言よったよ。父ちゃんらは呼ばれとれへんけんど、ばあちゃんは呼ばれとるけんな」

「ほんまにな。すっかり忘れとったわ。どうしよ……、着て行く服がないわ……」

「オレも普段着で行くよ。向こうのじいちゃんはほういうんは気にせんじょ」

 八千代はまた袋から物を出し始めた。颯はまたそれを眺めた。

「ほうかいな? ほなマシな格好をしていくわ。気にせんっちゅうても侯爵様やけんなあ。…ほんで水伯さんは何時に来るんかいな? 聞いとる?」

「十九時っちょったと思う。晩ご飯前やな。ほんで向こうでご飯を一緒に食べるとかなんとか言よったような気がする」

「えっ、ばあちゃん、小刀や四つまたの使い方が分からんじょ」

「イノウエ家は元は和伍の人やし、オレらやけん、はしが出てくると思うじょ」

「イノウエ家がナダールに行ったんは、和伍やのうて和三の時じょ」

「ほんま、まだ習ってなかったわ。ばあちゃん、よう知っとるな」

「前にイノウエ家の歴史は二千年有余年っちゅう話を聞いとったけんな。和合暦は今年で千四百二十五年やけん、全然足りてないだろ。まだ和伍になってなかった事くらい、ばあちゃんでも分かるじょ。ほれとな、こういう時は和伍の人やのうて、和人わじんって言うんじょ」

 そう言った直後にふと顔を上げると、「ふうん」と言いながら軽く何度か頷いている颯を見た。

「ほういや、あの子らも割とええ服をこうとったけんど、行く気いでおるんだろか」

 颯は眉を寄せて八千代を見た。

「呼ばれてないのに? あれ? 父ちゃんらの前でほんな話やしてなかったと思うんやけんど」

「ヴィストさんのお兄さん一家のお葬式は皆で行ったけんど、家を捨てて出て来とっても正月に行くっちゅうんだろか? 今まで行ってないし、明日も行けへんよな、やっぱり……」

「うん、呼ばれてないけん行けへんと思うじょ」

「ほうだろか? ばあちゃんの取り越し苦労だったらええんやけんど……」

 そう言うと、全ての物は出せなかった為に一旦出ている物を片付け出した。颯は八千代に指示を仰ぎながらそれを手伝う。そして残りの物を紙袋から出し始めた。

「今年は大豊作っちょったし、ほれで服をこうただけとちゃう? オレはほう思うんやけんど」

 八千代は手を止めて暫く動かなかった。そして真顔になって颯を見る。

「ほうだろか。服は留実がこっしゃえるけん買う事はまあないんよな。基本的に余所行きをこっしゃえへんけん、買うとなったら余所行きとしか考えられへんのやけんど」

 紙袋に顔を向けると、また取り出し始めた。

「まあ、今までにない程の豊作やったけん、ご褒美にこうたんかも知れんな。ほれにしても子供らの服は普段着やったけんど……」

「どうせ兄ちゃんにもやされるけん、ふだん着にしたんちゃう」

 八千代は含み笑いをした。颯は八千代を見た。八千代は手を止めて颯を見ると笑顔になった。

「ほうかも知れんな」

 また物を出す。颯はそれを眺めた。

「はっきり言うて服は水伯が用意してくれるけん、いらんのんやけんどな」

「ばあちゃんも、つい服をこうてまうじょ。今日はこうて来てないけんど」

「ばあちゃんのは着るよ。ありがと」

「どういたしまして」

 二人は顔を見合わすと笑顔になった。

「よっしゃ。これでこうて来たもんは皆出した」

 そう言って袋を折り畳みながら掛け時計に目を遣った。

「晩ご飯の用意をするにはまだ早いな。お茶でも飲もか」

 出した物を片付けながら言った。颯は鉄瓶と小さな鍋を手にした。

「うん。ほなお湯わかすわ。ほれと玲太郎用に乳をあっためるわな」

「悪いけんど、ヴィストさんと留実にも聞いて来てくれるで?」

「分かった」

 鉄瓶に水を入れながら返事をすると魔道具の焜炉こんろの上に置いて火を点けた。鍋はその隣に置いて、先に台所から出て行った。一通り声を掛け終え、一応悠次の部屋を覗いてみると眠っているようだった。そして静かに障子を閉めた。颯が台所へ向かう頃には明良と玲太郎が居間へ移動していた。八千代とヴィストと留実は食堂で、その他は居間で茶を飲んだ。颯が乳を温め過ぎて大分熱くなっていて、明良が念入りに息を吹き掛けて飲ませていたが、玲太郎が時折「あちゅう」と言っては明良が「ごめんね」と謝っていた。

 ヴィストと留実は茶を飲み終えると、服と玲太郎の玩具を持って居間に来た。明良はいつもの無表情で礼を言い、颯も礼を言い、玲太郎は顔を向ける事すらなかった。その後は颯の口八丁で凌ぎ、二人は皆が喜んでいると思い込んで居間を出て行った。慣れない事をした颯は自己嫌悪に陥っていたが、明良が労った事で復活していた。二人が持って来た物を見る事もなく、暫くは気の抜けた時間を過ごした。


 明良が玲太郎を連れて浴室へ行くと、颯は台所へ様子を窺いに行ったが、まだ食事の用意を始めていなかった。仕方がなく居間に戻って炭を灰に埋め、貰った服と玩具を勉強部屋へ移動させた。

(颯、颯、明良が服を燃やすとはどういう事だ?)

 付いて来ていたヌトが念話で訊いた。他の二体の気配は居間にあるままだった。風呂上がりに二人が来るだろうと待っているようで、気配を感知すると口を開く。

「前に兄ちゃんが服をもやっしょった事があったんよ。びっくりしてほれをばあちゃんに言うたら、昔は母ちゃんが兄ちゃんの服を作んりょったんやって。ほんでほれを着させるために、水伯からもろた服とかほういう服とかをもやした事があったけん、ほれの仕返しちゃうでって、ばあちゃんが言よった」

(成程。それにしても颯の母ちゃんは過激であるな。明良も燃やさずとも良かろうに)

 颯は頷いた。その場に座ると荷物を置く。

「兄ちゃんのちっこいころの外見が、ほらもうかわええ女の子だったんやって。ほなけん母ちゃんが兄ちゃんに作る服って、ひらひらしとったらしいんよ。ヒダがいっぱいあるって言うん? 兄ちゃんはほれがごっついイヤだったんやって。ほれで水伯に頼んで今着よるような服をもらうようになったんやけんど、母ちゃんは兄ちゃんに似合わんっちゅうて怒って、着られへんようにもやしてもうたんやって。まあ、ほういう事があって兄ちゃんもちっこいころは、水伯にたのんで母ちゃんがこっしゃえた服をもやしてもらいよって、ほれでばあちゃんも手伝うようになって、火が使えるようになったら自分でもやすようになったっちゅう話。まあ、もやさんでもええのになってオレも思うんやけんどな」

(明良は根に持つのであるな……)

「うん、ほなけんオレもおこらさんように気い付けとるんよ」

 そう言うと玲太郎の玩具がどのような物か紙袋から出して確認し始めた。既に持っている玩具と酷似していて、置いておく価値がないと判断すると入っていた紙袋に戻して部屋の隅に置いた。服は見る気もしなかった。袖口と身頃の裾を搾った上着なのはよいが、色が桃色と珊瑚色と紅紫色だった。明良と悠次は美貌でその手の色も似合うのだろうが、颯は全く柄ではなくて気に入らなかった。それも部屋の隅に置いて、戻る気のなかった居間へ戻った。

「今だれもおらんけんって話しかけてくるんはやめてよ」

 一人の時はいつもこうして先に釘を刺しておく。神様と崇められている存在であるのは重々承知しているのだが、颯が一人の時は敬語を使う事はなかった。颯もまた、許した事にしてはいたが眠られなかった日々の事を根に持っていた。颯は黙々と灰に埋めた炭を火箸で掘り出して別の炭を上に置く。


 明良と颯は玲太郎の離乳食が始まって以来、居間で食事を摂るようになっていた。悠次は食堂だったり、居間だったり、その時々で違がっているが、兄弟が揃っている時は居間で摂る事が多い。今年最後の食事は居間で四兄弟が揃って摂っていた。

「久し振りに煮魚、うれしいな」

 悠次が言うと、颯が悠次の方に顔を向けて頷いた。

「ほうやな。玲太郎が産まれててから釣りに行ってなかったけんな」

 悠次は言い掛けた言葉を呑んで、煮魚を解して身を少し摘むと口に入れた。颯は蕎麦を豪快に啜っている。それを玲太郎が口を開けて眺めていた。

「あーちゃ、えいたおーいゆ、あえいゆ」

 颯の方を指で差して言った。明良は颯に一瞥してから玲太郎を見た。

「蕎麦が欲しいの? これ?」

 そう言って蕎麦が入った丼を玲太郎の近くに持って行き、箸で持ち上げて見せた。

「こえいゆ」

「解った」

 蕎麦を一本だけ器用に摘むと、玲太郎の口に運んだ。玲太郎は颯の真似をして垂れた蕎麦を啜ろうとしていたが、全く啜れていなかった。明良が摘んで口の中に入れていく。

「良く噛んでね」

 言われた通り、良く噛んでから飲み込む。それを見守っていた明良は穏やかな表情になる。

「美味しい?」

「ん、こえいゆ」

 蕎麦を気に入ったようで、明良を見ながら蕎麦の入った丼を指で差す。明良はまた一本、玲太郎の口に運び、垂れた蕎麦も摘んで口へと運ぶ。

「良く噛んでね」

 その様子を見ていた颯がまた豪快に蕎麦を啜る。それを横目で見た明良は顔を颯に向けた。

「玲太郎が見ているから、颯も良く嚙んで」

「わあっあ。ほえにしえおいつおはいうきおへんおい急にほしがうんや、どんなここおがわいかいあ」

 口を手で覆って言うと、玲太郎を見ながら多目に咀嚼したが玲太郎は颯の方を全く見なかった。

「玲太郎がこっち見とれへんわ」

 思わず言ってしまった颯を明良が見る。

「見てないからと言って遣らないのは駄目だからね。きちんと噛んで」

「はーい」

 気の抜けた返事をしたが明良は気にせず、蕎麦を玲太郎の口に運んでいる。その合間に自分の食事を進めていた。悠次はずっと玲太郎を見ながら食べていた。玲太郎の長いまつげが気になって仕方がなかった。正面にいる明良の睫を見ると、色が淡くて長さが今一判らなかった。その視線に気付いたのか、明良が悠次を見た。

「何?」

 悠次は慌てて口の中の物を飲み込んだ。

「あ、いや、玲太郎のまつ毛が長いなあと思て。兄ちゃんと比べよった」

「僕より長いと思うよ。現時点でもね」

「ほうかいな? ほれはないんちゃう?」

 颯が首を伸ばして顔を前に突き出すと玲太郎と明良を見比べた。

「よう分からんわ」

 そう言って笑うと、煮魚の身を解した。悠次はそんな颯を見て笑っている。

「まあたしかに玲太郎のまつ毛は長いけんな。兄ちゃんも長いけんどな。ほんな事より、こうてきた魚が青筋とは思わなんだわ。こんなちっこいんやったら、オレがつってきた方が良かったんちゃうん」

 言い終わると煮魚の身を口に入れた。悠次も煮魚の身を解す。

「ちっこいけんど、おいしいじょ」

「おいしいんは、ばあちゃんの味付けのたまものよ」

 颯が生意気な口を利く。

「ほらほうやけんど……」

 悠次はそれ以上は何も言えずに苦笑すると、颯は蕎麦を豪快に啜った。悠次が羨ましそうにそれを見ている。

「僕もソバ食べたいなぁ」

 思わず言ってしまった。颯は丼を見てから悠次を見た。

「オレのんがちょびっと残っとるけん、食べるで?」

「かんまんのん?」

 悠次の目が明るく輝いた。

「かんまんよ。ん」

 丼を悠次の傍に置いた。それを見ていた明良が手で口を覆った。

「良く噛んでから飲み込めよ?」

「うん、分かっとる」

 笑顔で言うと、蕎麦を数本摘んで啜る。

「汁は残しとってよ。飲むけん」

 悠次は何度か軽く頷いた。

「兄ちゃん、お代わり行くけんどいるで?」

「お願い」

 茶碗を差し出されると受け取って、自分の茶碗も盆に載せて部屋を出て行った。明良は玲太郎にまだ蕎麦を食べさせている。雑炊を食べずに蕎麦に夢中の玲太郎を悠次が見ていた。颯が戻って来ると小振りの丼が盆に載っていた。盆を座卓に置くと、颯が悠次を見た。

「悠ちゃん、ソバ残っとったけん持ってきたじょ。こっち食べ」

 そう言うと颯が丼を除けて、小振りの丼を置いた。

「結構あるな。うれしいわ、ありがとう」

「雑炊が残ったらオレが食べるわ」

「ほんまにな、ありがとう。とりあえずソバを先に食べるわな」

「兄ちゃん、はい」

 明良に茶碗を差し出すと、明良が受け取る。

「有難う」

 明良が言うと、颯は頷いた。穏やかな時間が流れる。今年最後の食事を兄弟水入らずで過ごした。食後には三人が茶を、玲太郎は山羊の乳を飲んで温まった。


 二十一時になり、悠次と玲太郎は夢の中へ行き、明良と颯は勉強部屋にいた。大晦日だからと怠ける事なく本に向かっているのは明良だけで、颯は瞑想をしていた。千里眼を体得する為、千里眼が使えるようになってから玲太郎の寝顔を毎日覗き見していた。玲太郎の寝顔を約三十分見続けるだけなのだが、時折真っ暗になって何も見えなくなる事があった。ヌトが颯に入れた印から透虫の接触に介入すると必ず起こる現象だったが、慣れていて気にならなかった。

 瞑想が終わると玲太郎の玩具で遊び出した。輪を投げて三本の棒が立った内のどれかに入れば頬を緩めて喜んだ。輪は全部で十五個あった。ヴィストが買って来ていた玩具というのがこれと酷似していて、これは全てが木製だが、ヴィストが買ってきた物は輪が布製で、目標となる台に付いた棒は一本だった。

(うん、やっぱり父ちゃんがこうてきた方はいらんな。わっかも五個くらいしかなかったしな)

 俄におかしくなってきて笑い声が漏れた。

「どうかした? 何か面白い事でも思い出した?」

 明良の声が聞こえてきて、驚いて明良の方に振り返った。

「いやな、父ちゃんのこうて来たオモチャがこれに似とってな、だいぶちゃちかったなと思て」

「なんだ、そんな事か。そこに置いてある服も色からして安物っぽいしね」

「はっきり言うて悪しゅみよな」

 言い終えると鼻で笑った。明良は本に顔を向けたまま言う。

「母ちゃんの趣味だよ。昔から僕に着せるのは桃色とかその類の色だった。それにしても颯が着そうな色がないのは不思議だよね」

「ほうやな。色からして、兄ちゃんのためだけにこうて来たんとちゃうで」

「それはそれで嫌だな……。水伯に頼んでナダールで寄付して貰うから明日持って行く。」

 颯はそれを聞いて目を丸くした。

「えっ! もやさんのんかいな?」

「うん。この前、ナダールのお祖父じいちゃんの所に行った時に、水伯が孤児院を幾つも運営してるという話を聞いて、滅多に貰えない貴重な服だから、そこに寄付するのもよいかと思ってね」

「へえ! ほうなんじゃ。喜んでもらえるとええな」

 感心する颯を尻目に読書を再開した。颯は輪を取りに行くと、戻って来て座布団に座ってまた輪を投げ出した。明良は集中しているのかと思いきや、どうやら輪と棒の当たる音が気になるらしく、時折颯の方に顔を向けた。

「颯はまだ入浴しないの? もう二十一時過ぎてるけど……」

「ほうやな、そろそろ風呂に入ろか」

 持っていた輪をその場に置いて立ち上がると、静かに部屋を出て行った。しかし浴室の前を通っていると物音がして戸を少し開けて脱衣所を覗いた。そうすると棚に二人分の着替えが置かれていたのが見えて、戸を閉めるときびすを返した。部屋に戻ってきた颯を見た明良は察したのか、何も言わなかった。

「先に入られてもうとったわ」

 そう言って座布団に腰を下ろし、置いてある輪を投げ始めた。明良が本を閉じて体を颯の方に向ける。

「話があるんだけどいい?」

 颯は手を止めて明良に顔を向ける。

「長い?」

「長くない」

 それを聞いて体を明良の方に向けて居直った。

「なに?」

 真面目な面持ちになって訊く。

「医師の臨床研修で田井先生の所に三年通う事になったから、玲太郎を連れて行くかどうかの相談をしたいんだよね」

「決まったんじゃ。おめでとう。田井先生って悠ちゃんを見てくれよるあの年寄りの先生やな?」

「そうだよ。この近所だと田井先生しかいないけど、薬草師でもあるし、治癒師でもあるから、師事するには打って付けの人なんだよね」

「へえ、ほな良かったな。ほんで玲太郎はどうするんかいな? オレ一人で見よってもええよ」

「それなんだよね……。短くて三年、長くて四年通うんだよね……」

 そう言って黙り込んだ。颯はヌトの気配がする方を目だけで見る。

「ばあちゃんや悠ちゃんですら近付かんのに、田井先生は余計ムリとちゃうん。…ん? ばあちゃんは手を握れるくらいになっとるけん悠ちゃんよりマシか」

 明良は頬杖を突いて視線を下に向けていた。

「ほんで先生の所にはいつから行くん?」

「一月の十五日から行く事になってる」

「時間は?」

「九時から十九時」

「片道どれくらい?」

「徒歩で一時間二十分くらいだろうか?」

 二人は暫く黙った。そして先に口を開いたのは颯だった。

「ナダールでかくせいして、こっちで魔術を習いながら医師の勉強するっていうんは出来んのんかいな?」

「それは無理だね。ナダールで覚醒するとナダールの魔術学校に通う決まりなんだよ。それに和伍では魔術というよりも霊術に近い物を教えてるから、習得するのに時間が掛かるみたい」

「ほうなんじゃ。ほなあかんな」

「それよりも玲太郎を連れて行って、玲太郎が大丈夫かどうかが問題なんだよね」

「うん、ほれが一番やな。田井先生には連れてってもええって言われとるん?」

「一応許可は貰ってる。診察台が幾つかあるから、そこの一つを使えばよいって返事が来た」

「ほうなんじゃ。ほなけんどしんさつ台って高いんとちゃうん? 玲太郎が落ちてまうんとちゃうん?」

「落ちないように囲いを付けて貰えるから大丈夫。玩具と絵本を持って行っても、一人で頑張れるかどうかが問題なんだよね。患者が来ない間は僕が見ていられるけど、患者がいるとなるとそうも行かなくなるのがね」

 颯がまたヌトの方を見て黙った。

「ヌト達三体には任せられんけんムリじょ」

「それは当てにしていない。寧ろ当てにする気がない」

 そう言い切ると、少し気の抜けた表情になった。

「それは本当にどうでもいいんだけどね……」

「残念やけんど玲太郎が行くんだったら、ニムとハソは付いて行くと思うじょ」

「叫ばれたくないだろうから近寄らないと思うんだけど、どうだろう?」

 颯がヌトの方を見るとまた黙った。

「とおまきに見ているだけと思うってさ」

「やはりまだ観察する気でいるのか……。それはそれで鬱陶しいな……」

「あきらめ。ほんなに簡単にはなれて行かんじょ」

 この事に関しては達観しているのか、颯は受け入れていた。

「そうなのか。でも触られるのだけは本当に嫌なんだよね」

 また颯が目を上に遣って黙る。

「気配の感知を体外でも出来るようになって、……ふれられる前に逃げればよいってよ」

 明良は髪を粗雑に掻き上げて、少し眉を寄せた。

「簡単に言ってくれる……」

「まあ、ヌトは神様らしいのに、千里眼もうまあに行かんけんどな。あはははは」

 颯は笑い終えると明良を見た。

「兄ちゃんが連れて行くんやったら、昼過ぎに迎えに行ってもええじょ」

「正午過ぎ?」

「うん、もうちょっとはよう行こか?」

 明良は目を横に向けて暫く考えた。

「それじゃあ正午過ぎくらいを目安に迎えに来て貰おうか。それが一番いい気がして来た。正午過ぎだと丁度お昼休憩だから診療所に確実にいるしね。急患で往診に行く場合もあるだろうけど、背負ってでも行くよ」

「ほんで玲太郎がイヤがったら、また考えようだ」

「そうしよう。話はそれだけだから。有難う」

 明良はそれで納得したのか、体の向きを変えて居直った。また本を開くと栞を挟んでいなかったようで、読んでいた一面を探し出した。颯はまだ明良の方を向いている。

「兄ちゃん、父ちゃんか母ちゃんの前で明日ナダールに行く話をしたで?」

「いや、していないよ」

 紙を繰りながら颯の方を見ないで答えた。

「ようしになる話はした?」

 明良は顔を颯の方に向ける。

「ここを出る時、というか直前くらいにするよ。その時に養子縁組に関する書類を書いて貰う積りでいるけど、どうかした?」

「いや、聞いてみただけ」

「大丈夫。ちゃんと颯も連れて行くから。玲太郎もね。悠次には申し訳ないけど、それまで生きている保証がないからね……」

「ほなけんど、余命半年くらいって言われよったんがまだ生きとるじょ」

「それが奇跡って言われているからね」

「今生きとんがキセキなんじゃ……。ほな近い内に死ぬん?」

「近い内かどうかは判らないけど、硬化症は不治の病、罹ったら治らないんだよ。必ず死に至る病気だからね」

「ほなけんど、一時いっときと比べて顔色もええし、ご飯もよう食べよるし、いけそうな気がするけんどな」

「この前、田井先生に診て貰った時は、進行が凄く遅くなっているだけで、少しずつでも進行はしているから楽観しないようにって言われたよ」

 颯はそう言われて黙ってしまった。明良はやや寂しそうな表情になる。

「先生も以前に悠次の顔色を見て驚いてお出でだったからね。奇跡がいつまで続くか、静観するしかないんだよ」

「ほうかいな。ほなしゃーないな」

 明良が本の方に顔を向けて読書を再開した。颯は納得が出来ないといった表情で輪を取って投げた。ヌトは颯に馬鹿にされて些か苛立ったが、実際に出来ないので直ぐに治まった。颯が寝ている間に瞑想をしているが丸で進展しなかった。颯に便乗している時ですら毛程も接触出来なかったが、何かが掴めそうな気になってくるから不思議だった。今夜も徒労に終わるだろうが、颯に便乗した時の感触を忘れない為にも瞑想にふけるつもりでいる。


 颯が布団に入って二十分が経過した。いつもなら既に夢の中にいる筈なのだが、今夜はまだ眠られずにいた。目を開けて天井を見詰めている。玲太郎の寝息が時折聞こえてくる。玲太郎の寝台はもうなくなり、子供用の小さな布団で一人眠っている。颯は玲太郎がおしめを外してからと言うもの、夜中に起きて用の世話をするようになった。それを知った水伯が一周十時間の目覚まし時計をくれた。これのお陰で一日も欠かさず夜中に起きる事が出来ていた。

 目を閉じても桜輝石おうきせきの光が届いて真っ暗とはいかなかった。掛け布団を頭まで被り、横に向くと体を丸めた。すると、玲太郎とヌトの気配の他に別の気配が俄に出現した。

(これは……誰かが千里眼をつこうとるな。誰だろ?)

 千里眼が使える者と言えば、颯の知る限りでは水伯、ハソ、ニムしかいない。ハソとニムが通うようになってからこういう事が良くあるし、その気配が二つある事もあった。

(ちっこおてヌトでないっちゅうんしか分からんけんど、まあ水伯とちゃうだろな。ハソかニムに決まっとるわな)

 ふと思い立って、千里眼を使ってハソを見てみる事にした。どこに住んでいるのかすら知らないが、気配は知っている。眠くなるまでその気配を探そうと、水伯との約束を破って瞑想を始めた。

 一方明良は読書を止め、瞑想をしていた。大抵は単色で複数の玉が奇妙な森のような場所を転がって行く映像を見るのだが、今日はそうではない日のようで水伯に貰った音石のような物が一個見えていた。

(うん、何なのか判別出来ない。僕はこういうのよりも気配感知が出来るようになりたいのに……)

 見える光景に不満を抱いた。だからと言って、その光景が変わる事はなかった。それを延々と瞑想を終えるまで見続けた。目を開けると桜輝石に目を遣り、暫くそれを見詰める。気配感知への一歩が踏み出せないでいる自分に失望していた。医師になる為の第一段階である医術の筆記試験に合格したこともあって、ここ最近は水伯から瞑想関連の古書を借りて読んでいるが、どれもが探している内容と違っていて疲労感が増すばかりだった。

(あの映像を見せている物の正体が知りたいのに、それに触れている本がない。見えている事自体を一個の能力として扱っている物ばかりだから、探すだけ無駄なのかもな。水伯も能力と言っていたし、訊くだけ無駄だろうか。それにしても僕が見ている物は一体何なのだろうか……)

 瞬きを忘れていて目が乾いて気持ち悪くなり、両目を擦った。その後、固く瞼を閉じたり、開いたりして目の調子を見ていた。瞼に違和感があって、二重がいつも通りにならないのか、数度瞬きをして瞼の違和感をなくした。それから時計を見ると二十四時になろうとしていた所だった。

(早いけど寝るか)

 文机に置かれている桜輝石を持つと立ち上がり、火鉢の傍に行って屈むと炭を灰に埋め、また立ち上がって勉強部屋を後にした。既に寝間着になっていて足が特に冷えていて、厠に行ってから脱衣所の洗面台で手を洗い、そして漸く寝室へと向かった。障子を開けると颯が珍しく掛布団に潜っていて顔が見えなかった。真ん中に陣取っている玲太郎は良く眠っているようだ。足下の方を静かに歩いて自分の布団へと辿り着くと持っていた桜輝石を枕元に置いた。そして着ていた毛糸の上着を脱いで掛け布団の上に広げ、掛け布団を捲って中に入って行く。足下には湯たんぽがあって温かい。足が温まってくると体も温かくなってきて、目を閉じると闇に吸い込まれるように意識が遠退いた。いつもは桜輝石に厚手の布を掛けておくのだが、それも忘れて眠ってしまった。

 颯はハソの気配を探して色々見て回った。気配を辿る事はまだ出来ず、手当たり次第に見て行くしかなかった。それが只の覗き見になっていただけだった事もあり、明良が部屋に入って来て中断したら、衣擦れの音が聞こえてきて目を開けた。暫くすると静かになり、掛け布団から頭を出した。それからまた暫くして上体を起こした。目を閉じている明良の方を見ると桜輝石の明りが眩しかった。布団から出てそれに布を掛けに行く。玲太郎の枕元にある桜輝石にも布を掛けた。残りの颯の枕元にある桜輝石はそのままにして、布団に入って横になる。

(世界が広すぎて見て回るんはムリじゃ。ただののぞきやしやめようや。寝よ)

 ヌトともう一つの気配を近くに感じながら目を閉じた。もう一つの気配は微小だったが、誰の気配だか判らない事もあって気になった。

(ハソかニムか知らんけんど、ほんまやめてほしいわ)

 眉を寄せて目を固く閉じる。暫くそのままでいてから力を抜いた。

(無じゃ……、無にならんとあかん)

 頭を空っぽにして、脱力して、夢の中に誘われる時を待った。しかし、その微小な気配がどうしても気になって夢を見る事はなかった。颯は沸々と湧き上がる怒りで目が完全に冴えてしまった。

 結局この日は目覚まし時計が鳴り出す前に玲太郎を起こし、勉強部屋へ連れて行っておまるに座らせる事となったのだった。

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