6・雪の降る情景
「もうダメだ……年末に不渡りが出る」
「でもあなた、一度目は大丈夫でしょ?」
「どっちみち相手先の信用を失って、その後は立ち直れない」
「仕方ないじゃない。今更言っても」
「もうダメだ……」
「ダメなんて言わないで」
「くそっ、ウチは年を越せるのか……」
外は凍てつく風が吹いていた。
百夏がお風呂場を出て階段の前に差しかかった時、茶の間から聞こえた父と母の会話だった。
彼女の家は、イヤホンのジャックを製造している小さな工場で、以前二十人いた従業員は全員姿を消し、今では父母と兄の三人で切り盛りしている。
友人が起業する為の借金の保証人になり、その友人は破産申告して尚、サラ金から逃げる為に夜逃げをした。
借金だけが平井家に重く圧し掛かった。
タダでさえ自転車操業の町工場に、他人の借金を返す余裕などない。
しかし、返さなければ工場と住まいは担保に取られてしまう。
百夏には詳しい経緯や借金の仕組みはよく判らないが、この家が危機に面している事だけは充分に判っていた。
しかし、彼女にはどうする事も出来ない。
ウリをやれば、少しは家計の助けになるだろうか……
そんな事を何度も考えた。
しかし、地方都市で売春なんてなんだかピンと来ないし、方法だってどうしたらいいのか判らなかった。
百夏の家が急激に傾いたのは、高校に入った歳だった。
彼女はとりあえず高校に入るとアルバイトを始めた。
ショッピングモールの入り口に在るハンバーガーショップで、それなりの時給はもらえる。
しかし、普段は学校に行っているから、まともに働けるのは土日だけ。
放課後も出来るだけバイトに入るようにはしているが、平日は2〜3時間しか出来ないのが実状だった。
家計を助けるまではいかなかったが、お小遣いは一切貰わなかった。
時折母が気を使って財布を取り出すが、その度に彼女は貰う事を拒んだ。
「大丈夫だよ。あたしバイトしてるし」
兄の優は五歳年上で、大学を中退して家業を手伝っている。
百夏はそんな兄を不憫に思っていた。
自分よりもずっと我慢して、諦めて、妥協して……
百夏がそれを見たのは、高校に入学した最初の冬だった。
あの日も冷たい空気に、暗闇は凍えていた。
小雪がちらつく寒い日だった。
彼女はバイトの帰りに仲間連中とお茶をして、帰宅したのは夜の九時をまわっていた。
シャッターの閉まった工場の前に兄の姿が見える。その傍らにはコートを着て首にマフラーを巻いた髪の長い女性がいた。
道路向かいの街路灯の明かりが届いて、光る雪輪の中で彼女の姿は意外とはっきり見えた。
女性は頬に手を当てる。
泪を拭っている様子だった。
彼女は優が大学時代から付き合っていた女性で、百夏も一度だけ会った事がある。
ほっそりとして、京人形のような涼しげで暖かい瞳の持ち主だった。背中にかかる艶やかな黒髪がサラサラと揺れる度に、甘くていい香りがした。
兄は途中で大学を辞めた。
家の工場を手伝う為だ。
おそらく結婚を意識した付き合いだったのだと思う。
優に触れる彼女の佇まいが、何故だかそれを感じさせた。
しかし、今の優には結婚どころか、デート代の捻出も出来はしない。
女に金を使えない男は、容赦なく切り捨てられる。
彼女は足早に立ち去ると、街路灯の光の境域から凍りつく暗闇に姿を消した。
消えた闇の中からヒールの靴音だけが硬く響いて、小さくなって次第に消える。
優はその場で膝に手を当てるように前屈みになると、肩を震わせた。
百夏には、彼のすすり泣く声が聞こえた気がした。
百夏は、何故あの晩、あんな事をしたのか判らない。
彼を元気付けたかったのか、慰めたかったのか……
それとも、まだのん気に友達とお茶をして笑い会ったりする軽佻浮薄な自分自身を、傷つけたかったのかもしれない。
幼い頃、五つ違いの兄は百夏を非常に可愛がった。
百夏も優のそばから片時も離れる事は無かった。
彼女が七歳の時、優は既に小学六年生。小学校へ入学したての百夏にとって、六年生の優は学校では遠い存在だった。
それでも朝も帰りも一緒だった。
優はクラスメイトに時折冷やかされていたが、本人は気にしてない。
草野球もサッカーも鬼ごっこも、いつも百夏は兄について行った。
優の友達は、不満そうに愚痴を零しながらも、百夏を仲間に加えてくれた。
兄の後をついて行かなくなったのは何時からだろう……
優に初めて彼女が出来た時か……それとも自分が始めてブラを着けた時か、既に記憶は曖昧になって霞んでいる。
ただ、一緒にお風呂に入らなくなった後も、トコトコと後をついて回った記憶はある。
ある日、優が振り返った拍子に、膨らみ始めた彼女の胸に兄の手が当たった。
妙な感触だった。
百夏は一瞬止まって、笑みを零した。
恥ずかしくはなかったが、優の顔は震撼させた心を隠したような、奇妙な笑みに包まれていた。
冷たい雪は降り続いていた。
サッシの窓ガラスが白く曇って外の景色は見えないが、音も無く降り注ぐ雪の気配は確かにある。
百夏の部屋は温風ヒーターと加湿器を使っていたが、兄の部屋はストーブだった。
ストーブの部屋へ入ると、何だかファンヒーターより暖かさを感じた。
広がる熱の暖かさだ。
穏やかで、穂のかで、微かに灯油の燃える匂いがした。
絹のような柔らかい素肌が暖気を吸った。
その夜、百夏は優に処女をささげた。
緊張と弛緩の中で零れる涙は、官能に呑み込まれてゆく。
ストーブの上のヤカンが、シューシューと音を立てて蒸気を発していた。
投稿ペースを少し落としますので、ご了承ください。




