二話
「――息を止めて。少し、眩しくなるよ」
ヨハンが呟くと同時に、店内の灯りがふっと消えた。
カウンターの上、少女の薬指に嵌められた【貪食の環】だけが、脈打つ心臓のように鈍い赤黒い光を放ち始める。ヨハンが左手に握るタガネの先を指輪の亀裂へ静かにあてがい、右手で純白の金槌を振り上げた。
カン――。
高く澄んだ金属音が静寂を切り裂いた。
その瞬間、店内の空気が一変する。
指輪の亀裂から噴き出したのは、血のような赤ではなく、無数の星屑が渦巻く「夜空の奔流」だった。ヨハンの金槌が指輪を打つたび、少女とヨハンの意識は現世の光景を離れ、指輪の中に封じられた記憶の深淵へと引きずり込まれていく。
『――見ろ、ヨハン。これが墜ちた星の記憶だ』
視界一面に広がるのは、何千年も昔の滅びゆく古代帝国の風景。
空から降り注ぐ巨大な隕石。燃え盛る都市の中で、一人の星鍛冶職人が狂気と絶望に満ちた目で炉を見つめていた。
『この指輪は、ただの兵器や呪具じゃない』
散り散りになる星の記憶の中で、指輪の真の成り立ちが明かされる。
かつて、滅びの運命を前にした古代の王が、星の残骸を使って鍛え上げさせた儀式具――それが【貪食の環】だった。
王の目的は、自らの帝国の記憶と歴史を指輪に刻み込み、永劫に遺すこと。だが、星の残骸に秘められた質量とエネルギーはあまりにも強大すぎた。
「記憶を護るために造られた器」は、いつしか「他者の記憶と生命を貪り食う化け物」へと変質したのだ。
『助けて……お母さん……!』
『記憶が……俺の生きた証が消えていく……!』
指輪に呑み込まれてきた数千年の死者たちの悲鳴が、過剰な精神波となって少女の脳内になだれ込む。少女は頭を抱え、悲鳴を上げた。
「あぁぁぁぁっ! 記憶が……私の記憶が、塗りつぶされる……!」
指輪に宿る無数の死者の念が、少女の「残された最後の記憶」――ヨハンと出会ったこの場所の記憶すら喰らい尽くそうと、黒い触手となって少女の心核へ伸ばされる。
「星の残骸に囚われた幽鬼どもが……僕の客に手を出そうなんて、百年早いよ」
響き渡るヨハンの静かな声。
暗闇の中、ヨハンの眼鏡の奥の瞳が、青く煌々と輝いていた。
ヨハンはタガネを握る手にぐっと力を込め、叩きつけるように金槌を振るう。
カン! カン! カン!
激しい打撃音が音階を奏でるように響くたび、白銀の衝撃波が指輪内部の黒い念を次々と砕いていく。
「君が求めたのは『記憶の保存』だったはずだ。だが、奪い、喰らうだけの記憶に価値などない!」
ヨハンの叫びとともに、純白の金槌が指輪の核心部――赤玉石の真上へと振り下ろされた。
「――崩落せよ、破星の残影!」
パキンッ――!!
甲高いガラスの割れるような音が店内に響き渡った。
指輪の中心に走っていた黒い亀裂が一気に広がり、赤玉石が粉々に砕け散る。
指輪に囚われていた無数の星屑と死者の記憶が、夜空へと還る流れ星の群れとなって、砕けた天井(の虚像)を通って上空へと昇っていった。
光が収まり、店内に再び静寂とロウソクの灯りが戻る。
「……あ……」
少女は息を荒らしながら、自分の右手を見つめた。
薬指を固く締め付けていた鈍色の指輪は脆い灰となり、パラパラとカウンターの上へ崩れ落ちていく。
指輪の嵌まっていた皮膚には赤く痕が残っていたが、不気味な黒い脈動は跡形もなく消え去っていた。
「外れ……た……?」
「言ったろう、僕の店で客を死なせたりはしないって」
ヨハンは汗を拭い、金槌とタガネを愛おしそうに布で拭いながら棚へと戻した。そして、ポカンと立ち尽くす少女の前に、温かいハーブティーの入ったカップを差し出す。
「さあ、冷めないうちに飲みなよ。精神の摩耗にはこれが一番効く」
少女は恐る恐るカップを受け取り、温かい湯気を吸い込んだ。そして、ハッと目を見開いてヨハンを見つめる。
「私……思い出せる。お母さんの笑った顔も、妹が歌っていた小さな小鳥の歌も……全部、消えてない……!」
涙が次々と溢れ、カップの水面を揺らした。
ヨハンは満足そうに小さく頷くと、腕を組んで微笑んだ。
「よかった。……さて、それじゃあ約束の研磨料を払ってもらおうか」
「研磨料……『指輪を外した後の、最初の思い出』……ね?」
少女は溢れる涙を袖で拭うと、真っ直ぐにヨハンを見つめ、今日初めての心からの笑みを浮かべた。
「私の名前は、エルナ。……星鍛冶のヨハン、あなたと出会えてよかった。これが……私の新しい最初の思い出よ」
ヨハンは少し照くさそうに眼鏡のフチを指で突くと、「上出来な支払いだ」と呟いてハーブティーを一口含んだ。
二人の新しい物語が、この小さな店から静かに動き始めようとしていた。




