一話
その街の路地裏には、看板のない小さなお店があった。
看板の代わりに、ドアノブへ掛けられているのは古い真鍮製の天秤。風が吹くと、キィと小さな音を立てて傾く。
店主の名は、ヨハン。
銀のフレームの眼鏡をかけ、いつも少し眠そうな目をしている青年だ。
彼が商っているのは、普通の宝石や骨董品ではない。
彼が扱うのは――「星の残骸」と、そこに宿る「願いの対価」だった。
「いらっしゃい。……おや、随分と大きな悲しみを背負って入ってきたね」
カウンターの奥で、硝子瓶に入った青い粉末を薬さじですくっていたヨハンが顔を上げた。
店のドアに取り付けられたベルが涼やかな音を立て、入ってきたのは、全身を黒いローブで包んだ少女だった。フードの隙間から覗く髪は、まるで宵闇をそのまま切り取ったかのように深い黒。しかし、その瞳だけは、血のように暗い赤色に濡れていた。
「……あなたが、星鍛冶のヨハン?」
少女の声は震えていた。恐れからではない。押し殺した激しい憤怒と、絶望からだ。
「そう呼ばれることもあるね。で、僕に何の用だい? ここは普通の客が買い物を楽しむ店じゃない。命か、あるいはそれ以上に重いものを支払う覚悟がある者だけが扉を開けられる場所だ」
少女は無言のまま、自分の右手をカウンターの上に出した。
その細い薬指には、不気味な鈍色に光る、歪んだ金属の指輪が嵌められていた。指輪の中央には、黒い亀裂の入った小さな赤玉石が埋め込まれている。
「これを……私から引き剥がしてほしい」
ヨハンは眼鏡の位置を少し直し、少女の指輪に顔を近づけた。
そして、フッと溜息をつく。
「……【貪食の環】か。参ったな。君、自分が何にはめられたか分かっていて言っているのかい?」
「分かっているわ……!」
少女は噛みしめた唇から血を滲ませながら訴えた。
「これは、身につけた者の『生命力』と『記憶』を糧にして、所有者に絶大な魔力を与える呪いの指輪。……私の故郷の村は、これを使った帝国軍の騎士一人の手によって、一夜にして灰になった」
「なるほど。で、君はその騎士から奪い取り、復讐のために己の指にはめた……違うかい?」
「……復讐は果たしたわ。村を焼き払った男は、私がこの指輪の力で肉体を砕いて殺した。……でも、指輪は外れなくなった。私の大切な思い出を、一つ、また一つと喰らいながら……私を蝕み続けているの」
少女の瞳から、一筋の涙が零れ落ち、カウンターの木目を濡らした。
「昨日は……お母さんの顔が思い出せなくなった。一昨日は、大好きだった妹の歌声が聞こえなくなった。……このままだと、私は自分がなぜ泣いているのかすら、忘れてしまう……!」
ヨハンは静かに薬さじを置くと、棚の奥から一本の古びた細身のタガネと、小さな小さな「純白の金槌」を取り出した。
「いいかい、お嬢さん。星の残骸で造られた呪具は、一度契約した主の魂に根を張る。それを力ずくで外せば、指どころか腕ごと、最悪なら君の存在そのものが砕け散る」
「構わないわ。思い出をすべて喰われて空っぽの化け物になるくらいなら、ここで死んだ方がマシよ」
「威勢がいいね」
ヨハンはくすりと笑い、白銀の金槌を指先で弄んだ。
「でもね、僕の店じゃ『客を死なせる』のは不吉なんだよ。……代償を払ってもらうよ、お嬢さん」
「代償……? 私にはもう、お金も、大切な思い出も……何も残っていないわ」
「違うよ」
ヨハンは少女の瞳をじっと見つめ、その細い薬指をそっと指先で包み込んだ。
「僕が欲しいのは、君が指輪を外した後に作る『新しい一番最初の思い出』だ。それを僕に半分、分けてもらう。それが僕の研磨料だ」
少女は驚いたように目を見開いた。
「さあ、始めようか。星の呪いを砕く、一秒間の銀河を」
ヨハンがタガネを指輪の亀裂にあてがい、小さな金槌を高く振り上げた――。
(新しい物語の序章です。この物語をどのように進めたいか、ご希望を教えてください!)




