117
「悠緋様、簪はこちらになさいまし」
柔らかくかけられた声に、悠緋ははっとした。向かい合う鏡の中から、背後に立つ侍女の翠蘭が簪を掲げている。春の花をちりばめた意匠のそれは、音までも鮮やかにしゃらりと揺れた。
「いえ、もう少し落ち着いたものがいいわ。常盤色のものがあったでしょう?」
「ございますが、少し色目が暗くはございませんか?」
「あまり派手にしたくはないの。それに、衣にもあちらの方があうわ」
「衣も、もっと春めいたものになさったらよろしいのに」
翠蘭が控え目に意見するのに、悠緋は首をゆるく振って拒絶の意を示す。翠蘭にすすめられた衣は、花々が咲き乱れる淡い内衣に若緑の外衣を重ねるという、身分ある若い娘が春先に纏うに相応しい、品よく華やかなものだった。それを断り、悠緋は落ち着いた色目のものを選んだ。悠緋が翠蘭の選んだ衣を拒むことなど皆無に等しい。鏡の中で、翠蘭が戸惑いを浮かべる。それに、悠緋は気付かぬふりをした。
三年前、白西露峰へと赴く悠緋に、父の峰瀬は翠蘭を侍女としてつけた。悠緋よりも三つ年上の翠蘭が、単に年が近いということで侍女に選ばれたわけではないだろうことを、悠緋はすぐに知ることとなった。貴族としての立ち居振る舞い、作法、果ては身に着けるものの一つ一つにまで翠蘭は精通していた。初めての都に戸惑い、驕慢な貴族の子女の中で生活することを余儀なくされた悠緋を、翠蘭は公私ともに支え、ときに導いてきた。それこそが峰瀬が翠蘭に命じたことでもあったのだろう。
所領とはいえ多加羅は辺境、田舎者に殊更手厳しい都人の中で悠緋が蔑ろにされなかったのは、翠蘭の尽力によるところが大きい。彼女がいなければ、悠緋の都での生活はもっと苦痛なものとなっていただろう。
翠蘭が名残惜しげに鏡台に置いた鮮やかな簪を一瞥する。今日ばかりは翠蘭の意見を受け入れる気持ちにはなれない。都人に相応しく、華やかな春の装いを身に纏うのではなく、深く心沈む色彩を身に纏う。その意味を翠蘭が知るわけもなく、また悠緋も伝えるつもりはなかった。
悠緋は鏡の中の己を検分するように見詰める。艶が出るまで梳かしつけた髪を結い上げ、落ち着いた色彩を身に纏う姿。時に気が強そうだと評される顔は、どこか不安気に見えて、それが悠緋には気に入らなかった。まるで三年前のまま、何も成長していない少女のように見える。眉間に皺を寄せ口元を引き締める。次いで瞳を閉じ、大きく息を吸うとゆっくり吐き出す。再び目を開けると、硬質な表情の十八の娘がいた。これでいい、と悠緋は頷いた。
「行きましょう」
悠緋は立ち上がった。今日、悠緋は三年ぶりに兄の透軌と再会する。
悠緋と翠蘭が王宮から程近い屋敷に辿り着いたのは、まだ早い刻限だった。門から屋敷までは広い空間が開けていて、そこかしこに十代も半ばだろう少年の姿がある。簡素な鍛錬着を身に纏い、模擬の剣を持つ彼らは若衆に違いない。少年達が訝しげに向ける視線に、悠緋は屋敷へと向かう歩調を速めた。彼らが悠緋のことをわからなくとも無理はない。例え、悠緋が多加羅にいた時分にその姿を見たことがある者であっても、彼女のことを忘れていても不思議ではない。それでもじわりと苦く胸中に滲む感情があった。ここでも悠緋は余所者でしかないのだろう。
悠緋が通されたのは、屋敷の二階にある部屋だった。翠蘭を控えの間に残し、従僕が悠緋を案内する。廊下は薄暗く、ひやりと空気が冷えている。部屋までの短い距離をやけに遠く感じた。従僕が恭しく開いた扉をくぐる。大きな窓から差し込む陽光が視界を染めた。その落差に目が眩み、悠緋はまるでさらなる暗がりに踏み込んだかのような奇妙な心地に陥った。従僕が背後で静かに扉を閉める。
透軌は窓辺に佇んでいた。悠緋に半ば背を向けて、半身に光を浴びている。透軌がゆっくりと振り返るのを、悠緋は不思議な心地で見詰めていた。おとなしげな容貌も、文人然とした些か頼りなさ気な立ち姿も、記憶にあるものとさほど変わりない。しかし、悠緋が感じたのは強烈な違和感だった。
「久しいな、悠緋」
穏やかな声に、悠緋は我に返った。
「お久しぶりです、兄上」
事前に幾度も内心で繰り返していた挨拶の言葉とは程遠い、あまりにも素っ気ない返答だったが、透軌は気分を害した様子は見せなかった。
「元気そうだな。聖蓮院での生活はどうだ?」
「はじめは慣れないことも多くありましたが、周りの皆様にも支えられて、充実した毎日を送っております」
笑みを刷きながら、悠緋はすらすらと答えた。実際には、己の条斎士としての能力の低さに悩み、貴族の娘達の中で己を押し殺して生活をしている。それを、兄の透軌には知られたくないと不意に思った。
「兄上はあまりお変わりありませんわね」
「悠緋にそう見えるならば、そうなのだろう」
透軌が口角をあげた。
「だが、三年は短くはない年月だ。悠緋は随分変わった」
「そうでしょうか?」
「ああ。多加羅にいた頃よりも大分落ち着いたようだ」
「……もう十八になりますもの。いつまでも子供ではいられません」
ふと、沈黙が落ちる。決して兄妹仲が良かったわけではない。淡々と紡がれる会話は、久方ぶりの再会を果たした兄妹の、喜び溢れたものとは程遠いものだった。しかし、悠緋自身が覚悟していたほど冷淡な空気にもならず、どこか空疎な穏やかさに満ちている。それでいて、思考が鈍く沈むような、奇妙に纏わりつく齟齬を感じる。それを振り払うように、悠緋は問うた。
「父上はお元気でおられますか? 兄上が父上のかわりに来られたということは、父上はもしやご病気なのですか?」
「父上は時折体調を崩されるが、最近ではそういうことも少なくなった。お元気でおられる」
「良かった……。父上は文ではお体のことに何も触れておられないから、気になっていたのです」
思わずほっとした声音になる。父の峰瀬は、悠緋が多加羅にいた時分から時折ひどく体調を崩すことがあった。がっしりとした体から肉がそげ、容貌がやつれていくのに、悠緋は気付いていた。この三年、最も気にかかっていたのが父親の容態だった。
「今回、私がかわりにつかわされたのは、父上の体調のせいではない。次期惣領として私に見聞を広めさせるためだ」
悠緋の疑問に先回りするように、透軌が続ける。次期惣領という言葉に、悠緋はどきりとした。そしてまた一つ違和感を重ねる。このように透軌が自らを次期惣領として明確に発言することは嘗てなかったことである。おとなしげな容貌も、どこか頼りなくすら感じる細身の立ち姿も、三年前とさほど変わってはいない。だが、悠緋の記憶にある透軌は、常に期待と重圧を一身に負い、それらに応えようと己を圧していた。時に卑屈にすら見えるその姿を、悠緋は幼さゆえの残酷さと潔癖で、嫌悪すら感じて眺めていたのである。だが、目の前の兄からは、あの頃にはなかった落ち着きと、揺るぎない自信のようなものが感じられる。
「やはり、兄上もお変わりになられました」
透軌は悠緋の言葉に目を細めた。三年で悠緋が変わったというならば、当然、透軌も変わってしかるべきだ。それも、多加羅惣領として生きることを決められている彼が、何も変わらぬままに時を過ごす筈がない。都で無為の三年を過ごした悠緋とは違う。纏わりつく違和感の正体は、つまるところ、兄妹で歩む道が過去よりもさらに離れたことが原因なのだろうか。
悠緋は内心の苦い思いを押し殺す。多加羅に帰ることを心待ちにしていた。決して親密ではない兄との再会も、心のどこかで楽しみにしていた。だが、懐かしい者との再会は、むしろ悠緋に疎外感と孤独を感じさせる。先ほど若衆に向けられた眼差しを思い出し、悠緋は唇を引き結んだ。
このようなこと、幼い頃から自覚していた――思考の底で囁くような声を聴く。とうにわかっていたことだ。多加羅にとって悠緋という存在はかけがえのないものではないのだ。
「悠緋、私達が白西露峰にいる間は、この屋敷で生活するといい」
己の思考にしばし沈み込んでいた悠緋は、唐突な兄の言葉に目を瞬いた。
「この屋敷で? 何故ですか?」
「この先、多加羅惣領家の一員として、悠緋も我らと行動をともにしてもらう」
「私もともに……ですか?」
愚かしく言葉を繰り返すことしかできない。兄は苛立ちをあらわすこともなく、かと言って彼女を説得する熱心さを込めるでもなく続けた。
「ああ、そうだ。王宮から、悠緋も惣領家の一員として行動するよう通達が来ている。そのためには、聖蓮院よりもこの屋敷で生活した方が何かとやりやすい」
突然のことに驚く悠緋に、透軌は続ける。
「すでに召使達に命令を出し、悠緋の侍女に荷物を纏めるため、聖蓮院に一旦戻るように伝えさせた」
悠緋は小さく息を呑む。兄の言葉に思考が追い付かない。
「翠蘭は聖蓮院に戻ったのですか?」
「そう言っている。急ぐよう命じたから、既に出ただろう」
「翠蘭は私の侍女です。そのようなことは、まず私に言っていただかないと」
思わず強い口調で言った悠緋に、透軌はちらりと視線を向けた。
「あの侍女は、多加羅惣領家に仕える者、つまりは惣領に仕える者だ。今、この場では私が惣領に代わる者だ」
まるで幼子に言い聞かせるような言葉に、悠緋は唇をかんだ。
「侍従に部屋まで案内させよう」
感情の波一つ見せずに、透軌が言った。悠緋は何も言い返すことが出来ず、小さく頷いた。それで兄との対面は終わりだった。退室すると、廊下で待ち構えていた侍従が頭を下げた。
侍従に案内された部屋は屋敷の三階にあった。まるで悠緋のためにあつらえたように、若い娘が好む明るい色彩でまとめられている。侍従が去り、悠緋はぽつりと一人部屋に立ちつくしながら、両手を握りしめる。肉体の感覚の明瞭さとは裏腹に、現実感が薄い。兄との再会を果たすだけのつもりが、今や多加羅惣領家の一員としてここで暮らせという。昨日からの日常が不意にくるりとひっくり返ったかのような不安が、悠緋の足元を覚束なくさせる。
と、不意に響いた掛け声に、悠緋は身を竦めた。繰り返し空気を震わせるそれに誘われて、窓辺に寄る。窓からは屋敷前の広場が一望でき、整然と並ぶ若衆がゆったりとした動きで剣を振るっている。剣舞の鍛錬であるとすぐにわかった。思わず硝子に顔を近付けて見入る。隅々まで若者達を見渡し、悠緋は己が無意識にただ一人の姿を探していることに気付いた。幾人かの若者の顔には見覚えがあった。だが、求める者――灰の姿はなかった。
灰も都に来ていることは、聖蓮院の噂で知っていた。どのように変わろうと、灰をわからぬはずはない。灰との出会いを思い出す。はじめは惣領家の曰くある血族の一人だとは知らなかった。そして二度目の対面――蔑みの眼差しの中、怖気づくこともなくまっすぐに前を向いて歩く少年の姿を、悠緋は今でもはっきりと覚えている。灰の印象は、その姿のままに、研ぎ澄まされた鋼の銀と、掴みどころなく高く深い天の青だ。
そして、唐突に理解していた。透軌に感じた違和感、その最たるもの――それは兄が身に纏う色のせいだったのだ。ひやりと冷たく、まるで悪寒のような震えが背筋を走る。我知らず衣の袖を目の前に掲げ、ぎゅっと瞼を閉じる。翠蘭の意見を押し切って身に纏った暗い色調。対照的に、透軌が身に纏っていたのは、春を寿ぐ明るい翡翠色だった。その美しい色彩が、まるで毒々しい蛇のようにまぶたの裏に揺れる。しかし悠緋が知る透軌は、春のはじめに決して明るい色彩を身に纏おうとはしない筈だ。
初春――それは、透軌と悠緋の母が自ら命を絶った季節である。その記憶は、幼い兄妹の心に決して消すことのできない深い影を刻み、それは長じても変わることはなかった。母親の死は、透軌と悠緋が共有する数少ない過去の一つであり、感情を僅かばかりでも重ね合わせることができる唯一の記憶でもある。
否――その筈だった。
「どうして――」
呟き目を見開いた。兄にとって母親の存在は特別だった。母親が死して後、兄は母親について滅多に語らず、感情もあらわにすることはなかったが、それでも変わらぬ強い情愛を抱いているらしいことを悠緋は察していた。だからこそ、毎年この季節を迎えるたび、兄は無言のまま喪に服すのだ。
だが、兄が身に纏っていた色彩は、母の死を悼むものではなかった。それどころか、瞼の裏に映る鮮やかな残像は、悠緋が纏う沈んだ色調をまるで嘲笑うかのように殊更に明るい。まるで母親の死など、最早気に留めることではないのだとでも言うように。それは悠緋が知る兄ではない。
そこまで考えて、悠緋は身を震わせた。この三年で何が透軌を変えたのか。不意に、父親の不在がこの上もなく不安なことに思えた。父が多加羅に残っている理由は、真実、透軌が言ったとおりなのだろうか。
白西露峰で過ごしていた間、多加羅で何が起こっていたか悠緋は何も知らない。彼女自身がこれほどまでに変わったように、多加羅の人々もまた何も変わらずにいるはずがないのだ。悠緋は唇を噛み締める。わからないまま悩むなど益体もないことだ。だが、透軌に聞いたところで、答えてなどくれないだろう。先ほどの素っ気ない対面だけでも、透軌が悠緋に必要最低限のこと以外語るつもりがないのだとわかっていた。それならば、聞くべき相手は一人しかいない。
躊躇が身を竦ませる。それを振り払うように悠緋は強くかぶりを振り、窓辺を離れた。迷いのない足取りで廊下へと出る。人気がないのを幸いに――翠蘭がいなくてよかったと悠緋は考える。彼女がいたら止められていただろう――足早に階下へとおりる。小気味よく響く己の足音に気持ちを鼓舞され、悠緋は広い玄関を通り抜けると、大きく正面の扉を開いた。光の眩しさに思わず手を翳す。ゆっくりと手を下ろすと、広場の若衆達が彼女を見つめていた。丁度剣舞の練習が一段落ついたところなのだろう。悠緋は扉の前の数段を駆け降りると、中でも年かさに見える少年に声をかけた。
「灰はいるかしら」
少年は戸惑いもあらわに、悠緋を見つめている。鈍い反応に悠緋は語気を強めた。
「灰はいないの?」
「……若衆頭は宿舎の方で打ち合わせ中です」
若衆頭との言葉に、悠緋は僅かに目を見開いた。無論、少年が気づかぬほどではあるが。それでは灰は若衆頭となっているのだ。
「それならば灰のところに案内しなさい。彼と話がしたいの」
「あなたは……?」
問われて、悠緋は溜息を吞み込んだ。少年の顔に浮かぶのはあからさまなほどの不審だ。声音には、彼らの主、惣領家の者を呼び捨てにすることへの怒りさえ滲んでいた。
「多加羅惣領家の悠緋です」
悠緋は昂然と頭をあげた。じわじわと少年の顔に驚きが広がり、遅すぎる理解の色が浮かぶ。少年はがばりと頭をさげると、叫ぶようにして言った。
「失礼いたしました! 惣領家の方とはわからず!」
「いいのよ。わからなくても無理はないわ。それよりも早く案内してちょうだい。大事な話があるの」
少年は踵を返すと、駆けるようにして若衆が宿舎にしているらしい建物へと向かう。悠緋を通すために若衆達が素早く道を開けた。悠緋は注がれる視線を感じながら、宿舎へと向かった。無表情を装いながらも、鼓動は次第に速度をあげていく。我知らず拳を握りしめて、悠緋は宿舎の入り口へと踏み込んだ。
「若衆頭……お客様です!」
悠緋を何と呼べばよいかわからなかったのだろう。少年は言いよどみながらも、廊下の先の部屋へと声をかけた。悠緋は思わず足を止めた。綺麗に磨かれた石の床に眼差しを落とすと、大きく息を吸った。鼓動は少しも落ち着いてくれない。しかし無様な姿を見せることだけはしたくなかった。
「今行きます」
柔らかな声音に、悠緋は顔をあげた。記憶にある声よりも少し深い。その姿が部屋の入り口にあらわれたとき、悠緋は我知らず呼吸を止めていた。何を期待していたのか、悠緋自身にもわかってはいなかった。しかし、あらわれた灰の姿に、悠緋はそれまでの追憶と物思いがたちどころに色褪せるのを感じていた。
背が高い、とまず思った。髪の色と瞳の色は、思い描いていたままだ。身に纏う濃紺の鍛錬着に映えている。先代多加羅惣領に愛された祖母から受け継いだのだろう異国の容貌は、はるかに大人びたものとなっている。硬質な精悍さは、悠緋の記憶にはないものだ。だがそこに浮かぶ驚きの表情は、不思議なほどに三年前の無口な少年を彷彿とさせ、ようやく悠緋は落ち着きを取り戻した。
「……悠緋様」
「お久しぶりね、灰」
つんと顎をあげて悠緋は言った。部屋の中では見覚えのある顔が幾つも驚きをあらわにしている。三年前の祭礼の折、言葉を交わした者もいる。名を何といっただろう。
「少し灰に話があるのだけれど、いいかしら?」
誰にともなく言うと、灰の背後にいた者達が素早く動く。おそらくは副頭を担う者達なのだろう。広場にいた少年達よりもよほど整然とした迅速な行動だ。灰は誰もいなくなった部屋へと悠緋を招き入れた。迷いのない物腰は、確かに上に立つ者としての自覚を感じさせて、悠緋を戸惑わせる。彼女が知る灰は、決して表に立つことを好まず、己の意思を明らかにすることも拒んでいるふしがあった。これもまた変化なのだろう。
悠緋が部屋に入ると、灰が背後で扉を閉める。部屋に華美さはないものの、設えられている調度はどれも一級品ばかりだった。大きな卓を囲むようにして椅子が幾つも置かれている。会議を行う場なのだろう。背に灰の眼差しを感じ、悠緋は振り返った。まっすぐに視線がぶつかり、さらに鼓動が跳ねる。そんな己に腹を立て、出た言葉は意図したものよりも随分と険悪なものとなった。
「数年ぶりの再会だというのに、ご機嫌伺いの一つも言えないのね」
灰は僅かに目を見開いた。途端に、悠緋は内心で己を罵倒する。灰にしてみれば、理不尽な言いがかりでしかないだろう。もともと、悠緋と灰は親しく言葉を交わすことすらしない間柄だった。この三年間、繰り返し相手を思い出していたのも、悠緋だけに違いない。灰は悠緋の存在など忘れていてもおかしくはないのだ。
「ご機嫌伺いを言ってほしいのですか?」
思わず眼差しをおとした悠緋は、灰の言葉に咄嗟に反応できなかった。そのようなものほしくはないだろうと、まるで言外に言われたように感じて灰の顔を見上げる。呆れるでもなく、責めるでもなく、柔らかな苦笑に迎えられて、悠緋は思わず息をのんだ。
「お元気そうでよかった」
「あなたも」
反射的に返しながら、悠緋はさりげなく手を衣の影に隠す。少しでも気を抜けば、震えてしまいそうだった。泣き出したいのか、笑い出したいのか、己でもわからない。灰は悠緋を忘れてなどいなかった。
「話というのは多加羅のことよ」
悠緋の言葉に、灰が表情を引き締める。
「先ほど、兄上とお会いしたわ。兄上は多くを語ろうとなさらなかったけれど、なぜ父上が白西露峰に来られなかったのかしら」
直截に問う。
「あなたは理由を知っている?」
「……透軌様が次期惣領として見分を広められるよう、惣領代理として白西露峰へ赴くことをお命じになられたのだと思います」
答えは透軌と同じだ。だが、灰の静かな声音に滲むものに、悠緋は気づいていた。警戒、緊張――もしくは嘘。
「兄上もそのように言っておられたわ」
悠緋は一歩灰に近づくと、その顔を見上げた。
「でも、それは本当のことなの?」
沈黙が落ち、灰の眼差しが揺れる。驚き、戸惑っている。だが、それだけだろうか? あまさず灰があらわすものを汲み取ろうと、悠緋は注意深く相手を見つめる。
「灰、私は今日からこの屋敷で生活します。兄上が、この先は多加羅惣領家の一員として行動するようにお命じになったからよ。でも、私は今の多加羅のことを何も知らないわ。多加羅惣領家の一員として行動せよと仰られながら、兄上は私には何もお話しにはならない」
一息に言って、悠緋は唇を噛んだ。言葉にすることで改めて自身の立ち位置を自覚せずにはいられない。惣領家の一員でありながら何も知らされず、おとなしく思考を閉ざし、口を噤んでいればいいのだと、そう言われているようではないか。何も知らず、知らされもしない、まるで十の少女ででもあるかのように。
「私は知りたいの。この三年間に多加羅で何が起こったのか。父上がどのように過ごされ、なぜ白西露峰に来られなかったのか。本当のことを知りたいのよ」
「惣領が来られなかったのには、別に理由があるとお考えですか?」
「ええ。少なくとも、次期惣領の見分を広めるためだなんて理由でないだろうことはわかるわ。そんな理由で、白西露峰に代理の者を送るはずがない。父上が白西露峰に来ようにもそれがかなわない、何か別の理由があるに違いないわ」
「なぜ、そう言い切れるのですか?」
灰の瞳が僅かに細められる。それに悠緋は背筋が震えるのを感じた。三年前には決して向けられることのなかった眼差しだ。悠緋の意図を訝り、その言葉の裏を読もうとしている。
「私も馬鹿じゃないのよ。現皇帝が病に伏しておられる今この時に、白西露峰に全所領から惣領が集っている。あらゆる策謀と思惑が渦巻いている場所で、何が起こるかもわからない。経験が浅く正式な惣領ですらない兄上には荷が重すぎる。それなのに、父上は兄上を代理にたてた。来たくても来れない事情があるのだと考えるのが自然だわ」
そう、何もかもが不自然なのだ。思えば、分不相応な能力にもかかわらず、悠緋が白西露峰の聖蓮院に送られたのもおかしな話だ。多加羅には何かがあるのだ。悠緋には知らされていない、何かが。
「灰、あなたが知っていることを私に話してほしいの。これは命令なんかじゃない。私が一人の人間としてあなたに頼んでいるの」
悠緋は躊躇い、そして意を決する。灰を見据えて、ゆっくりと刻み付けるようにして言った。
「同じ惣領家の一員として、そして家族としてあなたに頼んでいるのよ」
悠緋はすぐに己の失敗を悟る。言葉を告げた瞬間、灰の濃藍の瞳が暗く染まり、表情からは一切の色が抜け落ちていた。真冬の凍てついた氷のような温度を感じさせない眼差し、そこに秘められたものをあらわす最も近い言葉があるとすれば、それは拒絶に違いない。続けようとした言葉が、喉元から胸に重く沈んでいく。
「惣領や透軌様が語られない、それがすでに一つの答えなのでしょう。俺にはそれ以上のことを申し上げることはできません」。
声ばかりは穏やかに、突き放す答えだった。確かに灰から向けられていた悠緋への関心が、まるで分厚い岩に隔てられたように、冷たく遠ざかっていくのを感じる。悠緋を突き動かしたのは焦燥であり、直観だった。
「どうしてそんなにも憎むの?」
まるで言葉に殴られたかのように、灰が上体を揺らした。衝撃を受けたのは灰だけではなかった。悠緋自身が己の言葉にしばし息をのみ、そして卒然と深く納得していた。もどかしく灰を取り巻いていたもの。悠緋自身が感じ取りながら、掴むことができずにいた苛立ちの正体。
「そう、そうだわ。あなたは初めから、私達を、多加羅を憎んでいた。決して頭を下げたりせずに、無言のまま私達を責め、拒絶していた。なぜ?」
「……何を仰られているのかわからない」
眼差しが逸らされる。かつて無口な少年が宿していた繊細な翳りが、その横顔に浮かんでいる。悠緋は狂おしくなる。
「いいえ、わかっているはずだわ。私ですら気づいたことよ」
それは嘘だ。悠緋だからこそ気づいたことだ。三年前にははっきりと掴むことができず、それでも絶えず感じ取っていた。かつて抱いた幼い恋情には常に苛立ちが付きまとっていた。灰に心惹かれながら素直になれなかったのは、悠緋自身が灰という存在を認めることができなかったのではなく、灰が向ける敵意を悠緋自身が無意識に感じ取っていたからだ。
でも、なぜ?
無言の問いが聞こえたかのように、灰が頭を振った。
「俺が多加羅を憎もうが、拒もうが、あなたには欠片も関わりのないことだ」
「……否定はしないのね?」
灰が再び悠緋を見つめる。断固とした拒絶と、淡く揺れる惑い。
「あなたには嘘をつきたくない。……なぜかはわからないが……」
悠緋は深く息を吸った。心臓のあたりがどくどくと煩い。渦巻く思いが凝っている。はっきりとは形を成さないそれを、力任せに目の前の相手に投げつけたい衝動と、臆病な子供のように抱きしめて蹲りたい衝動とが鬩ぎ合っている。
「そう。それならいいわ。今はそれだけで」
やっとのことで悠緋は言った。
「でも、一つだけ教えてちょうだい。父上はお元気でいらっしゃるの?」
静けさが落ちる。灰が顔を歪めた。三年前には見ることができなかった彼の感情を、この短い対面の間だけでいくつ垣間見ただろうか。焦れるほどの間をおいて、灰はようやく口を開いた。
「惣領は、一年程前から体調を崩されることが多くなりました」
「……ご病気、ということ?」
「わかりません。何の病かは不明だと医師は言っていました」
「でも……お命にかかわるほどではないのでしょう?」
灰が首元に手をやる。無意識の動きなのか、何かを掴むような動きを見せたまま、灰はふと放心したような空気を纏った。水底から透かし見るように、悠緋を見つめる。その眼差しに悠緋は息苦しさを覚える。溺れているようだ。
「私に嘘はつきたくないのでしょう? 本当のことを言ってちょうだい」
「嘘をつかない、という意味ではありません」
灰は小さく溜息をつくと手をおろした。
「俺にはわかりません」
「嘘ね」
「どうとらえていただいても結構です。ただ、惣領は必要ならば、必ず悠緋様にお知らせになるはずです」
「だから安心しろ、と?」
怒りが沸き起こる。ここでもまた悠緋は疎外されるのか。娘が父親を案じている、ただそれだけのことではないか。できることならばすぐにでも多加羅に帰って、父親の状態を確認したいほどなのだ。
「惣領は悠緋様には安心していてほしいのではないですか?」
まるで独り言のように、灰は静かに言った。それが嘘ではない、灰の心からの言葉なのだと、悠緋にはわかった。ひくりとしゃくりあげるように喉が小さく鳴る。悠緋は歯を食いしばると灰を睨みつけた。
「わかったわ」
それ以上一言も口にすることができないまま、悠緋は逃げるようにして灰の傍らを通り過ぎる。部屋を出る時、確かに注がれる灰の視線を感じながら、悠緋は振り返ることができなかった。
駆けるようにして屋敷に戻る間、悠緋は一度も顔をあげなかった。ようやく部屋にたどり着くと、扉を閉ざし背をそのままもたせかかる。驚いた表情で若衆が悠緋を見ていた。廊下の途中で下女らしき少女が悠緋に何か声をかけていた。そのどれもを、悠緋は一顧だにせず駆け戻ったのだ。唇を噛み締めて床を睨みつけると、悠緋はそのままずるずると蹲った。
「馬鹿みたい」
ぽつりと呟く。一体自分は何をしたかったのだろう。兄の態度に感じた違和感、父親の不在、その理由を知りたかった。確かにそうだ。灰ならば話してくれるなどと、少し前まで考えていた自身があまりにも愚かに思える。それでも、たとえ愚かだとわかっていても、やはり悠緋は灰の元へと行っただろう。
銀色の髪、藍色の瞳。硬質で凛々しい立ち姿。三年前、確かに彼女は灰に淡い恋をしていた。その恋は一度色褪せた。そして今、灰と再会して悠緋が感じたのは、かつての幼い恋心などとは比べ物にならないほどの感情の渦だった。どうしてあのような相手に恋などしたのだろう。あれほどに謎に満ちて、おそらくは憎悪と敵意を多加羅に抱く相手に。
「私は何も知らない」
悠緋の呟きは、掌に落ちた。
何も知らないからこそ、恋などと甘い感情に浸ることができたのだ。白西露峰で過ごした三年間は、確かに悠緋を変えていた。以前の悠緋は、灰の表面的なことに囚われていた。隠された意図や秘められた心に思いを馳せることもなく、知ろうとすらしなかった。今も灰の本心は見えない。それでも、三年前には気づけなかったことに、今は気づくことができる。
つまるところ、灰という青年は悠緋の記憶に住むあの少年とはかけ離れた存在なのだろう。おそらくははじめから。悠緋が考えていたよりもずっと複雑で、影を秘め、そしてはるかに誠実なのだ。
――あなたには嘘をつきたくない。……なぜかはわからないが……
柔らかな声を思い出し、泣きたいような、叫びたいような思いに囚われる。まるで嵐に翻弄される木の葉のような心地に悠緋は陥る。少し前まで思い描いていた灰との再会は、このようなものではなかった。もっと穏やかに、もっと大人の女性として、余裕ある自身の姿を悠緋は想像していた。一方的に幼い恋心を抱いた相手への奇妙な意地もあったかもしれない。だが短い対面の間で、悠緋がひそかに抱いていた諸々の思いや夢想は、いっそ見事なまでに砕かれ消えていた。何よりも悠緋を戸惑わせたのは、それが不快ではないということだ。
悠緋は大きく息を吐き出すと立ち上がった。改めて新たな住居となる部屋を見渡す。親しみは感じない。それでも白西露峰に来てからはじめて、悠緋は寄る辺ない心地からほんの僅か解放されていた。多加羅から遠く離れ、追憶にしか縋ることができなかった昨日までとは違う。どれほど孤独であろうと、悠緋は今多加羅の者達とともにいるのだ。手を伸ばせば触れる位置にいる。言葉を交わし、視線を交わらせて、同じ時を紡いでいくことができる。知らないことばかりならば、これから知っていけばよいのだ。多加羅のこと、父のこと、兄のこと――そして、灰のこと。
不意に悠緋は聡達の姿を思い浮かべていた。明朗で物おじせず、高貴な者に相応しい傲慢ささえも感じさせる聡達は、灰とはまさに対照的な人間だろう。それでも、彼らにはどこか似通った部分があるように悠緋は感じた。どちらも謎が多く、掴みどころがない。聡達が多加羅惣領家の者達に紹介をしてほしいと言っていたことを思い出す。近く彼らは対面を果たすだろう。灰と聡達は、互いをどのように感じるだろうか。
多加羅と沙羅久の軋轢にもかかわらず、この三年間、聡達は悠緋を支え続けてくれた。聡達に心惹かれていることを悠緋は自覚しているが、その思いは灰に向けるものとは全く異なっている。だが、どう違うのか、悠緋にも明確に言葉にすることはできなかった。
悠緋は窓辺に立つ。若衆が再び剣舞を舞っている。遥か高く迷い雲が一つ、風に千切られて空に溶けていた。
長らく投稿していませんでしたが、ようやく続きを書けました。正直書けると思っていなかっただけに、自分でも意外です。物語を紡ぎ文章にすることは、かなりのパワーを要することで、つまるところそれだけのパワーがわかなかったということなのでしょう。それが今少しずつでも書き始めることができ、書き手自身が喜びを感じています。
物語の展開は大部分が未定で、今回書くことができたのは悠緋の行動力のおかげです。登場人物に助けられた形ですが、これで少しずつでも物語を進めることができれば、と考えています。
これほどまでに間が空いてしまい、読んでいただいている皆様には本当に申し訳なく思っています。
何はともあれ、少しでも楽しんでいただければ幸せです!!