表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最果てに天深く  作者: 高原 景
116/117

116

 早朝の薄闇の中で、聡達そうたつは立ち上る香の煙を見詰めていた。窓枠に座る彼の肩には申し訳程度に衣がひっかけられている。開け放した窓から流れ込む空気が、狭い部屋に籠る甘ったるい香と情事の名残を吹き散らす。朝の大気の冷たさに寝台の女が抗議するような声をあげたが、聡達は視線を向けることもしなかった。

 女は聡達が気紛れな客であることを知っている。聡達の興味が既に女にはないことに気付いたのか、詰ることも媚を売ることもせずに背を向けた。面倒な女だと思われれば、聡達は二度と彼女のもとを訪うことはないだろう。彼女にとって聡達は上客である。不興を買うのは避けるにこしたことはない。客の中には、時折擬似的な恋愛を求める者もいるが、聡達が求めるのは即物的で単純なものだ。商売で体を売る女にとっては、むしろ聡達のような客の方が好ましい。

 聡達は絶え間なく揺らめく煙から、視線を巡らせた。青灰色の雲が、夜から朝へと移ろう空に薄くたなびいている。娼館から見上げる王宮は、高く遠い。背後にそびえる山に輪郭が埋め込まれ、峻烈な影の一部となっている。まるで死んだ岩のようだと聡達は思う。王宮で繰り広げられる策謀と虚飾に満ちた宴も、そこで道化を演じる者達も、所詮は一夜の夢でしかない。王宮を象るのは血塗られた歴史の影であり、今なお権謀術策の中に積み上げられる屠られた欲望の残骸である。

 聡達は条斎士の証である首もとの宝珠ほうじゅに触れる。条斎士じょうさいしの力の強さは身に帯びる宝珠の色にあらわれる。聡達の宝珠は、最も力があることを示す黒みを帯びた緑である。宝珠は柔らかく冷たい感触を指先に伝え、弛緩していた意識がゆるゆると形を纏いはじめる。聡達はゆっくりと立ち上がった。動くのは億劫だったが、聖遣使しょうけんしとしての任務が朝から入っているため、そろそろ聖蓮院しょうれんいんに戻る必要がある。

 衣に袖を通し帯をまく聡達の姿を、寝台の女が眠たげな瞳で見詰めている。幾度も熱を交わした相手であるが、女の名も年齢も、聡達は覚えていない。聞いたかもしれぬが、とうに忘れてしまった。そもそも聡達はその女に執着があるわけではない。いちいち違う女を選ぶのも面倒なため、気付けば見知った相手ばかりを指名していただけのことだ。女もそのことはよく承知しているらしい。聡達に何か要求をするわけでもなく、客と娼婦として一時の戯れに興じるだけの間柄だ。

 身繕いを整え、聡達は一夜を過ごした部屋を後にした。愛想の良い声をかける娼館の主を適当にあしらい、街路へと歩み出す。足音が静寂に軽く響いた。

 王宮が一つの山だとすると、条斎士の学び舎である聖蓮院はその裾野に連なるようにして在る。聡達が通う娼館は都の中でも下部に位置するため、聖蓮院に戻るにはそれなりに時間を要する。聖蓮院の門に辿り着いたときには、人々が起き出す気配が既に大気に満ちていた。

 聡達のように都人ではない条斎士は、皆聖蓮院の中の宿舎に身分に応じた部屋を与えられる。聖蓮院の門を通り抜けた聡達に、門番が義務的に姿勢を正した。聡達が早朝に聖蓮院に戻ることは珍しいことではなく、誰何の声はかけられなかった。だが、聡達の鋭敏な神経は、下位の条斎士である門番が向ける批判めいた眼差しを感じ取っていた。

 条斎士の多くは神から特別な才能を与えられた存在であるという自負を抱き、矜持が高い。そのため、聡達が下町の娼館に通うのを、条斎士にあるまじき行為として良い顔をしない者も少なくはない。だが、聡達に面と向かってそれを批判する者はいない。それは、聡達が異例の若さで皇帝直属の聖遣使に任命されるほどの力を持つ条斎士であり、さらには沙羅久しゃらく惣領家の直系という立場だからである。

 聡達は、居室で高位の条斎士に許された濃緑色の内衣を身に着け、さらに白色の長衣を纏うと黒の帯で締める。最後に聖遣使の証である銀の腕輪を右腕に嵌めると、居室を後にした。聖遣使の正装を纏った聡達の姿に、途中すれ違った幾人かの条斎士が慌てて頭をさげた。聖遣使は大きな権限を与えられている。条斎士が聖遣使として任務を行う時、同じ条斎士といえども逆らうことはできない。

 聖蓮院の内部の一室に辿り着いたとき、丁度八つの刻であることを示す高い鐘の音が響いた。その音が止む前に扉を開けた聡達に、中で待っていた二人の男のうち一人が驚いた表情を浮かべた。聡達が刻限に遅れると思っていたらしい男は、驚きから一転憮然とする。

「珍しく早いものだな。貴様が定刻どおりにあらわれるとは」

雅浪がろう様こそお早いですね」

 聡達の言葉に、相手は僅かに探るような様子を見せる。八大楼宗家はちだいろうそうけの出自であることを鼻にかける相手に常日頃から辛辣な言葉を投げつけている自覚がある聡達は、他意のない言葉にも過剰な警戒を抱く様子に冷めた眼差しを向けた。雅浪の傍らには、常に行動をともにする従僕が無表情に佇んでいる。従僕自身は条斎士ですらないが、条斎士の中でも特に身分の高い者が、傍仕えを置くのは珍しいことではない。もっとも、聖遣使としての立場をかさに着ての横暴が目立つ雅浪の場合は、八大楼宗家の名に泥を塗らぬためのお目付け役という役目も負っているのだろう。

 雅浪は苦々しく聡達を睨み付けた。

「どうせ貴様のことだ。今日の任務のことなど忘れ果てて、下賤な女の褥の中にでも潜り込んでいるものとばかり思っていたがな」

 聡達は思わずにやりと笑んでいた。身分と図体ばかりの愚鈍な男ではるが、時に正鵠を射ることもある。無論、つまらない任務を忘れるほど女に溺れることなどありはしないが。雅浪は嘲弄にかえされた笑みに、苛立ちを募らせたようだった。

 皇家と深い繋がりがあり、絶大な権力を握る八大楼宗家は、皇族に次ぐ貴族の筆頭である。惣領家もまた高位の貴族ではあるが、八大楼宗家と比べれば明確な身分の違いがある。聖遣使は貴族であろうが平民であろうが同等であるとされるが、身分による序列は容易く消えるものではない。聡達の態度は雅浪にとって我慢がならぬものなのだろう。

 聡達は雅浪の物思いになど頓着せずに、踵を返した。

「では、異端を狩りに参りましょう」


 聖遣使の任務は、主に異端を捕えることである。邪法を行う者、異能を有する疑いのある者を調べ、時に抵抗されれば命を奪うこともある。危険を伴うため、複数名で任務にあたることは珍しくない。競争意識の強い聖遣使同士で馴れ合うことはないが、相性の良し悪しというものは確かにあり、聡達がともに馬を進める相手は、相性で言えば最悪の部類だろう。もっともそれは雅浪が一方的にぶつける敵愾心が原因ではあるが。

「今回見つかった異端は女だったか。どのような力なのだ」

 事前にとうに調べているだろう事柄を、敢えて尋ねてくる相手に、聡達はうんざりとしながらも答えた。

「風を起こす能力を有する異端とのことです」

「確実なのか?」

「いえ。だから信憑性を確かめに行くのです。今のところは様子を探るだけでよいでしょう」

「神殿へ密告する文が投げ込まれたのだったな。文を書いたのは何者なのだ」

「同じ村に住む者らしいですが、名は明らかとなっていません。真実異端の力を有する相手であるなら、報復を恐れてのことでしょう」

「ふん、偽りならば、密告者を罰さねばならんな。文を投げ入れた者を探し出してやる」

「どうぞ、ご随意に」

 素っ気なく返し、聡達は視線を流した。王宮に程近い高台に建つ瀟洒な屋敷を視野におさめ、すぐに顔を背けた。沙羅久から訪れた者達に与えられた屋敷である。兄の若国わかくにが白西露峰に入って既に三日が経つが、聡達はいまだに屋敷を訪れてはいない。兄がしびれを切らしている頃だろう。そろそろ顔を出さねば、聖蓮院にまで迎えを寄越しかねない。苦い溜息をのみこみ、聡達は一日の予定に兄を訪問することを加える。

 そういえば、とふと思考が彷徨う。多加羅たから惣領家の一女である悠緋ゆうひもまた、今日、次期惣領とみなされる彼女の兄に会いに行くのだと言っていた。話さえあまりしないような仲なのだと、昨日交わした会話の中でこぼしていた、その時の表情を思い出す。複雑な思いがあるらしいが、どこか幼い子供のような寄る辺なさを浮かべていた。

 悠緋が白西露峰に来て三年が経つ。はじめこそ聡達を警戒していた悠緋も、今では彼に信頼と好意を抱いているだろう。しかし、心を許しきってはいない。沙羅久と多加羅の間に横たわる複雑な敵対関係のせいばかりではないだろう。どこかで、聡達が意図して悠緋に近付いたことを察しているのかもしれない。

 聡達が悠緋に近付いたのには目的がある。多加羅に潜むという闇を抑えるための秘術を探る、その聖遣使としての任務のためだ。しかし悠緋が秘術はおろか、多加羅が秘める闇の存在も知らぬだろうことを、聡達は既に確信している。それどころか、悠緋は己が人質として都に呼ばれたことすら知らないだろう。もはや探る必要もない相手になおも聡達が近付くのは、単純に悠緋という存在が彼にとって興味深いからだ。

 悠緋自身の条斎士としての能力は大したものではない。通常ならば都の聖蓮院に入ることはかなわないだろう。惣領家の一員としての品と知性を身につけてはいるが、それも抜きん出ているわけではない。だが、悠緋自身は己のそんな凡庸さを理解しているようだった。そして三年間を白西露峰で過ごしながら、都の色に染まらぬ無垢な気配を纏い続けている。

 愚かしく無力でありながら聡明。それが、聡達の悠緋に対する印象である。秘されたことのすべてを知れば、悠緋はどのように変わるだろうか。なおも澄んだ空気を纏い続けることが出来るのだろうか。それを聡達は知りたいと思う。その子供じみた好奇心で、微温湯のような悠緋との関係をいずれ己が壊すだろうことを、聡達は高揚も覚えぬまま予感する。あるいは、悠緋もまた聡達が彼女を守る存在ではなく、傷つける存在であることに勘付いているのかもしれない。時折不安に染まる悠緋の眼差しを思いながら、聡達は馬を進めた。


 目指す村は、白西露峰から馬で二刻程の穀倉地帯にあった。既に農作業が始まっているのか、赤茶けた大地の其処此処に、身を屈める農夫の姿がある。広大な畑地に比べ、村は慎ましやかなものだった。四十軒程の小さな家々が身を寄せ合うようにして建っている。馬で通り過ぎる彼らに、村人達は一様に怯えと疑念を浮かべた顔を向けた。彼らも、聡達と雅浪が纏う白い衣と銀の腕輪の意味を知っている。

 密告に書かれていたとおりに村を進み、聡達と雅浪、そして従僕の三人は一軒の家の前で馬を止めた。その物音に、家の扉が開かれる。出て来たのは、気弱そうな三十半ばの男だった。どこか病的な神経質さをうかがわせる顔が、懐疑を込めて向けられる。

「あ、あんたらは誰だ」

「我らは聖遣使だ。しょうという女はいるか」

 雅浪が問う。男は大きく体を震わせた。声が軋むように割れた。

「しょ……翔なら俺の妻です。何の用ですか?」

「その女に異端の嫌疑がかかっている。故に我らが調べに参った。女を出せ」

 異端、と男の口が動く。

「そうだ。隠し立てすればお前も異端の仲間とみなす。もっとも、異端を妻にした時点で、お前の魂は汚されているだろうがな」

 雅浪は怯える男を睥睨しながら続ける。

「帰れ! 母さんは異端なんかじゃない!」

 突然響いた高い声に、男がびくりと肩を揺らす。男の背後から小柄な人影が飛び出すと、雅浪の前に立ちはだかる。まだ十歳ばかりの少年だった。擦り切れた衣と手足の細さが、一家の貧しさを物語っている。

 聡達は改めて家の様子を眺めた。裕福とは言い難い村の中でも、特にみすぼらしい。ぐるりと村を見回すと、いつの間にか道から村人の姿は消えていた。今や、村人にも何が起こっているのかは明らかだろう。だが、止める者はおろか、近付く者もいない。家に逃げ込み扉を固く閉ざしているのだろう。女が真実異端であるならば、この一家はもとより村の者から忌まれていたのかもしれない。

「家に入っていなさい」

「いやだ! 父さんも、なんではっきり言わないんだよ! 母さんが異端なわけないだろ!」

 少年は恐れ気もなく雅浪を睨み付けた。

「お前の母親が異端であると密告があったのだ。我らは真実を確かめねばならん」

 雅浪の声に苛立ちが滲む。聡達は静観を決め込んだまま、父子を見やった。怒りに頬を赤らめる子供とは対照的に、父親の顔色は今やどす黒く沈んでいる。落ち着きなく彷徨う男の視線が、聡達の凝視とぶつかる。その瞬間怯えだけではない不可思議な色を浮かべるのを聡達は確かに見た。

「帰れ! 帰れよ! 異端だなんてでたらめだ!」

「小僧、逆らえばお前とて無事には済まぬぞ」

「なんだよ! お前達なんか怖くないぞ!」

 気色ばんだ雅浪が口を開く前に、凛とした声が響いた。

「おやめ」

 家の中からあらわれたのは、小柄な女だった。農民らしく骨太な体つきに、顔立ちも平凡である。

「聖遣使様、私が翔です。私にご用だとか」

 雅浪は虚を突かれたようだった。これまで何度か異端と対したことのある聡達にしても、ここまで凡庸な相手は初めてである。だが、と聡達は口元を歪める。女の強い眼差しが、その凡庸さのすべてを裏切っている。しかし、雅浪はそこに反抗の色だけを読み取ったようだった。

「お前が異端であるとの密告が神殿に行われた。我らはその真偽のほどを確かめに参った」

「私が異端だなんて、おかしなことを。私はそのようなものではありません」

「それを証だてることが出来るのか」

 女は気丈に雅浪を睨み付けた。

「証だてるも何も、聖遣使様こそ私が異端であるとどうやって確かめるのです?」

 もっともな言葉だった。だが、聡達は女の賢しげな答えこそが雅浪の望むものであると知っていた。

「確かにお前の言うことはもっともだな。だが、確かめる術ならばある」

 雅浪の声に滲むものに気付いたのは聡達だけではなかった。女の顔が僅かに強張る。女が何かを言う前に、雅浪が低く歌うように言霊を発する。発動された言霊の力が、雅浪の腕に纏わりつく。女の目が大きく見開かれる。それに雅浪は、にいと口角をあげた。

「お前、これが見えているだろう」

「――何を……何も見えてなんかいませんよ」

 女の答えにも頓着せず、雅浪が大きく腕を振るう。鞭のように撓る力の波が、女の体を打った。女が悲鳴をあげて地面に倒れこむ。駆け寄ろうとする子供に、女が鋭く叫んだ。

「来るんじゃない! 離れていなさい!」

 凍りついたように立ち竦んだ子供に、女がそれでいい、とでも言うように大きく一つ頷く。雅浪が馬をおりて近付くと、女は蹲りながらも怯むことなく睨みあげた。

「真実を言えば痛い思いをせずに済む」

 優しげですらある声音に、女が浮かべたのは嫌悪の表情だった。聡達は雅浪の背をうんざりとした思いで見つめる。異端であるかどうか探るだけだという、そのことは既に雅浪の頭から消えているだろう。異端をいたぶることを何よりの楽しみとする男には、最早目の前の獲物しか映っていない。もっとも、こうなるだろうことを見越していながら止めなかったのは聡達自身である。

「どんな真実。私が何を言ったところで、あんたらは自分の信じたいものしか見ないんだろう。そんな真実に何の意味がある」

「生意気な女だ」

 言うなり再び雅浪が腕を振る。常人には不可視の力に打たれ、再び女の体が跳ねる。痛みに抑えようもなく悲鳴が響き、悲痛な子供の叫びが重なる。聡達は耳障りなそれに眉を顰めた。

「言え! 異端め!」

 幾度も打擲を繰り返す雅浪の横顔に、隠しようもなく愉悦が浮かびあがる。地面に蹲る女の背に、うっすらと血が滲む。子供は絶え間なく叫び、その父親は凍りついたように立ち竦んで、だらしなく口を開けている。

 不意に、聡達はそのすべてを厭わしく感じた。終わりのない暴虐の単調さ、その騒擾の疎ましさ。何もかもが意味をなさない騒音となり、聡達の神経を軋ませる。

 聡達は馬をおりると、息さえ乱して言霊の力を振るう雅浪に近付いた。

「おやめください。殺すおつもりか」

 雅浪は聡達を見下ろすと、顔を歪めた。その醜悪さに、聡達は吐き気を覚える。

「命を奪えとの命令ではないはず。我らはただ確かめに来ただけです」

「ならば貴様には確かめることが出来るのか。異端は痛めつけねば本性をあらわさん!」

「いくらでも方法はあります。少なくとも、雅浪様のように無駄な力を使う必要など何もない」

「無駄だと!?」

 気色ばむ相手に、聡達は口角をあげてみせた。

「ご覧にいれましょう」

 雅浪が不承不承腕をおろす。歩み寄る聡達に、女は救いを求めるような眼差しを向けた。小声でのやり取りは聞こえなかっただろう。女には、聡達が一方的な暴虐を止めたように見えたに違いない。聡達は女の前に立つと、腕を掴み引き上げた。痛みに強張る体を引きずるようにして、女は立ち上がる。聡達の意図を訝しみながらも、女は必死の様相で言った。

「……私は、本当に異端なんかじゃあないんです。どうか、こんなことやめてください」

「密告書には、お前は風を操る力があると書いてあった。風を操るとはどのようなものだ」

「何を仰ってるのか……」

「ただ空気を揺らすだけか。それとも刃のように物を切り裂くことが出来るのか」

 感情を乗せぬまま響く聡達の言葉に、女が不安を滲ませる。

「本当に……本当に、私には何のことだかわからないんです。どうか助けてください。こんなことおかしい。私には家族がいるんです。子供がいるんです。あの子には、私が必要なんです。どうか……あなたにも心があるのなら、どうか……」

 救いを求める女の言葉もまた耳障りな雑音となり、聡達を苛立たせた。女に顔を近付け、囁く。

「何も言わねば、どうにか切り抜けられると思ったか? 力を振るわねば、ばれぬとでも高を括っていたか。いずれにせよ愚かしいな」

 女の顔から気丈な仮面が剥がれ落ちるのを、聡達は観察する。

「俺は今からお前の子供を殺す」

 呟くような聡達の言葉に、女が息をのむのがわかった。

「止めてみせろ」

 言うなり、聡達は言霊を紡いだ。瞬時に編み上げられた力は、女を痛めつけた雅浪のものよりもはるかに強力である。女の眼がゆっくりと見開かれるのを、聡達は妙に時間が引き伸ばされたような心地で見詰めていた。

 まるで蠅を払うように、腕を振るう。その瞬間、女が叫んだ。言葉でさえない不明瞭なそれは子供の名かもしれなかったが、聡達にとっては意味をなさないことに変わりはなかった。

 聡達の腕から過たず子供を狙って放たれた力の束は、唐突に巻き起こった強風に弾かれ、ひきつるような響きを残して砕かれた。何が起こったのかわかっていないだろう子供の前髪だけが、風の名残に揺れている。

 須臾の出来事である。だが、言霊の力を壊した風が、自然に起こったものでないことは明らかだった。両手を握りしめて女が地面にへたり込む。がくがくと震え出すその姿を、聡達は見下ろした。

「お前は異端か」

 静かな問いに、女が顔をあげた。恐怖――それとも憎悪だろうか。女の目に暗い光が凝集する。

「……はい」

 か細い声で女が答える。子供が嘘だと叫び、雅浪が背後で何かを言っている。聡達は一顧だにせず続けた。

「お前を都に連行する。抵抗しなければ、家族の無事は保障しよう。だが、お前がその異端の力を少しでも振るえば、無事では済まない。わかったか」

 女が少しでも刃向えば、聡達は迷いなく条斎士の力を子供に向ける。それをわかっているだろう女は、口を戦慄かせ、小さく頷いた。震える手が力なく地面に落ちる。漸く訪れた静寂に、聡達は言霊の力を解放した。

「……何故……そっとしておいてくれないのです。私の風なんて、誰も傷つけたりはしないのに……。ただ少し変わった力があるだけなのに……」

 何故――その問いに、聡達は答えなかった。ただ、全てが疎ましかったのだと、耳障りな雑音を消したかっただけなのだと、そう告げれば女はどのような顔をするだろうか。己の思考の益体のなさに、聡達は唇を歪めた。女が己の答えに何を見出すにせよ、それが救いでないことだけは確かだろう。

 雅浪が乱暴に女を引き立てるのに子供が取りすがる。雅浪の従僕が子供を払いのけるのを、聡達は見やった。子供が母親に会うことはもう二度とないだろう。妻を失うだろう男が顔をゆがめる。その顔に浮かぶものは絶望のようでもあり、歪な笑みのようでもあった。聡達は視線を逸らした。


 白西露峰に辿り着いた時、西の空は仄かな紅に染まっていた。女を都に送るための荷馬車を準備するのに思いの外時間を要し、都に戻ったのは予定よりも遅い刻限となっていた。女を地下の牢獄に入れるため王宮へと向かう雅浪と別れ、聡達は聖蓮院へと向かった。兄の若国のもとを訪れる気はとうになくなっていた。耳の底に、異端として捕えられた女の慈悲を乞う声と、子供の叫びがこびりつき、不快だった。

 多加羅の者達に与えられた屋敷の前を通ったのは、他意のないものだった。ただ最も聖蓮院に早く辿り着く道を選んだ結果である。その門扉の前を通り抜ける時、聡達はふと足を止めた。中から聞こえる整った掛け声に、どこか虚ろな意識が引きずられる。高い木立に遮られ内部を見ることはかなわないが、おそらく若衆が鍛錬でもしているのだろう。

 皇女である白華びゃっかの命により、多加羅若衆が剣舞を神殿に奉納することは、都でも噂となり都人の関心を集めている。聡達は、白華本人の口から剣舞について聞いていたが、さして興味を抱いてはいなかった。せいぜい都人の退屈凌ぎ、毛色の変わった見世物でしかない。

 聡達の足を止めさせたのは、若衆の掛け声に想起された、常に記憶に引っかかる少年の存在のせいである。初めて顔を合わせた時はまだ十四、五だった相手、灰は三年を経てどのように変わっているだろう。悠緋のように今も変わらぬまま、潔癖で潔い空気を纏い続けているのだろうか。

 灰が異端なのではないかという、三年前に抱いた疑念は、いまだ聡達の胸中にある。そして灰の母親の命を奪ったのは、聡達の腹違いの兄、滝斗たきとである。その一つをとっても、聡達に興味を抱かせるには十分な相手だった。

 再び歩き出した聡達は、我知らず笑みを浮かべていた。女と子供の叫びは、すでに意識の中から消えていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ