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最果てに天深く  作者: 高原 景
115/117

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 翌日、かいは早くに目覚めた。繊細な装飾が施された天井に、暫し覚醒が遅れる。漸くどこにいるかを認識し半身を起こす。窓から差し込む光は、いまだ夜の気配を宿して淡い。この刻限ならば、大方の者はいまだ眠りの中だろう。

 多加羅たからでは、毎朝山に入ることを日課としていたため、灰の朝はいつも早い。慣れない場所でも、体は習慣を忠実に守るものらしい。眠り直す気にもなれず、灰はすぐに寝巻を脱ぐと若衆の装束を身に纏った。剣舞つるぎまいで纏う正装ではないため、装飾の一つとてない衣だが、鍛練着よりはましだろう。昨夜食事を知らせに来た央蓮おうれんの表情から、王宮仕えの者から見て、質素に過ぎる灰の姿が好ましくないらしいことは察している。無論、惣領家の一員として必要になることもあろうと、その肩書きに相応しい衣や礼装も持たされていたが、それを身に纏う気には到底なれなかった。

 昨夜の食事を思い出し、灰は小さく溜息をついた。央蓮に案内されて向かった広間で、透軌とうきと二人きりでとった夕食はこの上もなく気詰まりなものだった。社交辞令の一つも言えない灰と、灰がまるで存在しないかのように振る舞う透軌と、不自然なまでの静けさの中無表情で給仕する者達と、傍から見ればさぞかしおかしな光景だっただろう。早くも、星見の塔での温かな食事が懐かしかった。

 灰は鬱々とした気持ちを振り払うと、廊下へと踏み出した。侍従達は既に起きているかもしれないが、屋敷内はまだ静かなままだ。屋敷の表扉にかかった閂を外し、そっと外に出る。身を包むひやりとした空気は、多加羅のそれよりも幾分乾いている。

 大きく伸びをして井戸へと向かい、水をくみ上げる。冷水で顔を洗えば、頭の芯に残っていた眠気が消える。顔を拭うこともせず、仄かに明るむ東の空を見やった。空を覆う雲は薄く、やがて晴れることをうかがわせる。前髪からぽつりと落ちた滴に、ふと意識が逸れた時、背後に足音が響いた。振り返ると、眠そうな顔の須樹すぎがいた。

「早いな」

 須樹もまた音をたてて顔を洗うと、すっきりとした表情で傍らに立った。

「皆寝不足だろうから、今日の鍛練はきついかもしれないな」

「眠れませんでしたか?」

「ああ、はじめて見る都に興奮していたせいで、夜遅くまで眠れなかった奴が多かった。まあ、仕方がないだろう。こんなことでもなければ、一生都に来ることなどないだろう奴らばかりだからな」

 俺を含めてな、と朗らかな須樹の言葉である。

「灰はどうだ?」

 不意に問われ、灰は瞬く。都の印象だろうか。それとも昨日眠れたかどうか、だろうか。

「そうですね。俺は……部屋が豪華過ぎて少し落ち付きませんでした」

 どうやら須樹の意図とは微妙にずれた答えを返してしまったらしい。須樹がふむ、と唸る。都の印象、と問われれば、言霊に張り巡らされたまるで牢獄のような場所だと思う。昨夜のことを問われれば、唐突に零れ落ちて言葉を伝えて来た闇といい、慣れない待遇といい、興奮よりも戸惑いや憂鬱の方が先に立つ。だがそれを言っても須樹を心配させるだけだろう。

「そう言えば、今日は剣舞を披露する場所を見に行くのだったな」

 話題を変えたのは、須樹らしい気遣いなのだろう。灰は頷く。

「はい。朝食の後に央蓮殿が案内してくれるそうです」

「央蓮とは……昨日都に入った時迎えに来ていた人か」

 灰は頷く。央蓮が案内を買って出たのは、彼が灰の侍従の役目を担っているからである。

「須樹さん、お早うございます!」

 溌剌と響いた声に、須樹と灰は振り返る。若衆が宿泊している別棟の建物から出て来たのはこうだった。お早う、と返す須樹に頭を下げた昴は、灰に気付くとはっと表情を改めた。どうやら灰がいることに気付いていなかったらしい。ぎこちない挨拶は、明らかに須樹に対するものと違い、頑なに響いた。それに、昴自身が誰よりも気まずそうな顔になった。そしてまるで睨みつけるようにして灰を見る。文句があるなら言ってみろとでも言うようなその態度に、須樹が苦笑した。

「そうだ、灰。剣舞をする場所の下見に、昴も一緒に連れて行ったらどうだ?」

 え、と灰と昴の声が重なる。それに可笑しそうに笑いながら、須樹はどこか人が悪い口調で続けた。

「見に行くなら副頭ふくがしらも誰か来てほしいと言っていただろう?」

「ええ、言いましたが……」

 灰は言い淀み、ちらりと昴を見る。確かに下見には副頭もともに、とは言ったが、須樹か仁識にしきを、と考えていた。それは単純に、彼らの方が設啓や昴よりも剣舞の舞い手として熟練しているためなのだが――須樹もそれはわかっていた筈だ。訝しく須樹を見ると、彼は僅かに眉をあげてみせた。その眼差しに、灰は須樹の意図をおぼろげに理解した。

「そうですね。下見には昴を連れて行きます」

 灰の言葉に、昴が目を瞠る。先程の喧嘩腰の態度が嘘のように、それは昴をどこか幼く見せた。

「昴、朝食の後に剣舞をする場所の下見に行くので、一緒に行ってください」

 言えば、昴は奇妙に顔を歪めた。怒っているような、それでいて困っているような、灰には彼が何を考えているのかはわからず、返った答えはさらに突飛だった。

「……いいですけど……その話し方、やめてもらえませんか。気持ちわりい」

 目を見開いた灰の横で、須樹が噴き出した。

「昴、灰のこの喋り方は癖みたいなものだ。俺も昔散々言ったが、一向になおらなかった。慣れることだな」

若衆頭わかしゅうがしらが敬語なんて示しがつかないって言ってんです。なんか……こう、弱っちい感じがするじゃないですか!」

「つまり昴は灰が心配だと、そういうことか」

「なんでそうなるんですか!」

 灰そっちのけで、須樹に対しむきになって言い返す昴には、既に先程のぎこちなさはない。須樹だからこそ、何時までたっても灰に対して頑なな昴の態度を崩すことが出来るのだろう。灰には出来ないことだ。やはり人の上に立つには向いていない。自己分析に伴う苦い感覚は、この一月で幾度も感じているが、それに灰は慣れることが出来ない。己に対する失望か、と考えてみても、どうにも首をかしげざるを得ない。そもそも望まず与えられた立場に、失望するほどの期待を抱いていたわけでもなく、灰の中に降り積もるのはわけのわからない戸惑いばかりだ。

 若衆の鍛練の計画を手短に須樹と詰め合わせ、灰は一旦部屋へと戻るためにその場所を離れた。



「なんで俺なんですか?」

 屋敷の中へと戻る灰を見送っていた須樹は、背後からの問いかけに振り返る。昴がどこか憮然とした表情で、須樹を見つめていた。

「下見のことか? 行きたくなかったか?」

「いえ、そういうわけじゃないですが……。その……下見のことってわけじゃなく、なんで俺が副頭ふくがしらなんですか」

 迷うように言葉を継いで、昴はうってかわって不安を露わにした。そうきたか、というのが須樹の正直な思いだった。昴という少年は、良くも悪くも裏表がない。須樹などはそれが気に入っているが、考えていることが直接顔に出やすいために、他の若衆とぶつかることも少なくはない。故に副頭を選ぶ際にも、昴を選ぶか否かで意見が分かれたのだ。

「副頭に指名されたくなかったのか?」

 須樹の問いに、昴は慌てたように首を振った。

「まさか! 選ばれたのはすごく嬉しいですよ。家族のためにも俺はいずれ南軍なんぐんに入隊して身を立てるつもりですから。若衆で役職に就くのは当初からの目標でした」

 ただ、と続ける言葉は僅かに濁っていた。

「俺よりも余程副頭に合う奴がいるでしょう。俺なんか……何かと周りに突っかかるし」

「周りにと言うより、灰に、だろう、そこは」

 昴がぎょっとする。あれだけ剣突をくわせておいて、周囲にばれていないとでも思っていたのだろうか、と須樹は些か呆れる。

「昴は灰のことを嫌っているのか?」

「嫌っているというか……灰様は剣術の腕は確かだけど、普段はぼんやりして何考えてんだかわからないじゃないですか。須樹さんや仁識にしきさんがなんで灰様を買ってるのか俺にはわかりません」

「灰には若衆頭の能力がない、と思うわけか?」

「はい」

 昴のあまりの迷いのなさに、須樹は思わず苦笑する。裏表がなさすぎるのも考えものだ。

「灰様が副頭になったのも、今回若衆頭に指名されたのも、全部惣領家の者だからじゃないですか。身分だけで選ばれて、本当に能力のある者が排除されるなんておかしいですよ。俺みたいに、若衆から力をつけて南軍で生きていきたい奴にとったら、正直灰様みたいな存在は邪魔だし、気に食わないです。若衆頭だって、須樹さんか仁識さんがなるべきだ」

 一気に言い切ると、昴はまるで喧嘩を売るような眼差しを須樹に向ける。

「つまり、俺や仁識が灰を買っているのも、灰が惣領家の者だからだと思っているわけか?」

「え……いや、それは……」

 途端に昴は狼狽したようだった。須樹と仁識のことは若衆頭に相応しいと言いながら、灰の能力は否定する。ならば、須樹と仁識が灰を認めていることはどう考えるのか。当然の指摘だったが、昴には盲点だったらしい。須樹は小さく溜息をついた。

 昴は多加羅でも特に貧しい地区の出である。幼い頃から働き小学院にもろくに通っていない。それでも人一倍努力をし、独力で読み書きを身につけ、若衆に入ってからも着実に力をつけた一人である。おそらく昴が灰に向ける反感の多くは、灰の身分に対するものなのだろう。

「確かに、副頭の候補者は他にも何人かいた。最終的に昴ともう一人にまで絞って、結局多数決でも決まらなかったから、最後は灰が昴を副頭に選ぶと決めたんだ」

 初めて知ったのだろう、昴が驚きに目を見開いた。

「……そうだったんですか」

「俺も仁識も、灰を認めている。だが、それは三年間、同じ若衆として灰とともに行動し、互いを理解してきたからこそ出来ることだ。灰をどう思うか、それは昴の自由だ。だが、昴はそこまで灰を知ってはいないだろう?」

 灰にも問題はある、と須樹は心中に付け加えた。例え灰自身が望んだ結果でなくとも、彼は今や若衆頭なのだ。普段から灰は己の意見を滅多に口にしないため、須樹や仁識がその意をくむことが多かった。だが、これからはそれでは許されない。上に立つ者として昴に、そして若衆にどう接するか、それは灰自身が己で解決すべき問題だった。

「昴もこれから灰がどんな奴か知っていけばいい。それでもやはりあいつを受け入れ難いなら、それはそれで仕方がないだろう。ただ、若衆副頭としての役割は、そういう感情に左右されずにしっかりと果たしてもらう必要がある。灰も若衆頭になりたてで戸惑っていることも多いと思う。昴も支えてやってくれ」

 少し説教臭いか、と思いつつも須樹は言わずにはおれなかった。それを真剣な表情で聞いていた昴は、暫く黙りこんでいたが、はい、としっかりとした声で答えると大きく頷いた。

 朝食の時間を確かめるためその場を離れた昴を見送り、須樹は思わず大きく伸びをする。朝から慣れないことをするものではない。肩のあたりが妙に凝り固まるような感覚に、心底そう思う。

「面倒見の良いことだな」

 響いた声に、須樹は大仰に溜息をついてみせた。暫く前から、開け放した扉の向こうで仁識がやり取りを聞いることに、須樹は気付いていた。

「物影から見物とはいい趣味だな」

「私は須樹と違って余計な面倒事には関わらぬ主義なのでね」

「よく言う。以前から灰と昴の様子を気にしていただろう」

「さて、何の事だか」

 にんまりと人の悪い笑みを仁識は浮かべた。

「そういえば、仁識ははじめから昴を推していたな。灰と昴がここまでぎくしゃくするのがわかっていたら、推しなどしなかったのではないか?」

 少しはかき乱してやろうかと意識して問えば、仁識は呆れたような眼差しを向けて来た。

「そんな子供じみたことを考慮するわけがないだろう。一番まともな人材が昴だったから、推しただけだ。他は使えないからな」

 言うことに容赦がない。有為な人材は他にもいるだろう、と喉元まで出かかったが、それを制して続けたのは仁識だった。

「昴は責任感もあるし、意欲も高い。いずれ若様とはうまくやるだろう。むしろ、昴を良く思わない連中の方が問題だろう」

「気付いていたのか」

 仁識がじろりと須樹を睨み付ける。当たり前だろう、と言外に伝えられて、須樹は肩を竦めた。須樹ですらわかったことを、仁識が察していないわけがない。副頭として候補に挙がった者達の中には、昴とは逆に灰に対して肯定的な者もいた。否、肯定を通り越して崇拝に近い。自他共に認める副頭候補であったその若衆は、今では昴に対して明らかな敵意を向けている。旅の途中にも、幾度か二人が険悪な遣り取りをしていたのを須樹は知っている。昴が神経質になっていることの一つの要因でもあろう。

「度が過ぎた崇拝は時に嫌悪よりも厄介だ」

 須樹は仁識が何を言いたいかを察する。

 灰はその身分や立場、そして見た目や雰囲気という、彼を象る全てが目を惹かずにはおかない存在だ。それは理不尽な批判や嫌悪に繋がることもあるが、逆に盲目的な崇拝や偶像化にも繋がりかねない。どちらも灰自身を理解したものとは言い難い。むしろ、闇雲な崇拝の方が嫌悪よりも厄介かもしれない、と須樹は思う。己が作り上げた虚像に心酔する者は、実際の灰の姿が少しでも自身の理想と異なれば、抱く感情を負の方向へ容易く転化する可能性もあるだろう。

「皆はじめての都に浮ついている。このような時には、些細なことでも大きな問題に繋がりかねない。私達も気を引き締めていかねばならないな」

 須樹は頷き、いまだ目に慣れない風景を見やった。都は曙光に染まり、巨大な建造物の影が刻々と形を変える。それは複雑に重なり合い、蠢いているかのようだ。

 須樹はふと不安を覚えた。それまで確かに捉えていたはずのものが、次の瞬間には異なるものへと変化へんげしているような――あるいは隠されていたものが不意に顕わになったかのような、そんな錯覚に陥る。未来への不吉な予感にも似たそれに、須樹は我知らず眉を顰めた。不安など抱く必要など何もないのだと思うほど、須樹は無知ではない。だが、不安を透かしてこの先に待つ未来の形を見定めことは、到底出来そうになかった。



 白沙那帝国が奉じる一神教は、その教義において、神の聖性から恩寵として特性を与えられた存在が人であると唱える。男であり、女である、それもまた特性のあらわれである。神から与えられたものであるがゆえに、男と女の間に優劣はない。また、生まれの後先にかかわらずすべての人は神のまえに平等である。

 しかし、すべての存在の同等を唱えながらも、与えられる恩寵には差があるのだと、神の代弁者である司祭は説く。恩寵が豊かであればあるほど、人は優れた特性を与えられ、それを磨くことで神の聖性へと近づくことがかなう。そのような、恩寵に恵まれ特性に優れた者こそが、人々を導く役目を神から担わされたのだと。

 一神教の教えは、力で他国を支配下に置いた帝国の姿勢を支えるものである。平等を標榜しながら、力あるものが他を圧することを肯定する。そして神に与えられた特性から逸脱する存在は、異端であると見做される。異端は神の恩寵から見放された存在であり、周囲の人々の特性をも汚す。そして、異端の穢れは死をもってしか祓うことはかなわないとされる。

 神の前の平等――生きる権利は、あくまでも掲げられた教義に倣う者、威光に屈する者にのみ与えられる。逸脱する者、まつろわぬ者には、過酷な支配か、残酷な死がもたらされるのだ。

 灰は信仰と権威の象徴である神殿を見上げた。白沙那帝国が奉じる一神教の総本山である。多加羅の神殿とは比べ物にならぬほどに巨大な尖塔が、天を突き刺しているかのようだ。白い神殿の壁面は、近付けば幾何学的な装飾が施されていることがわかる。鮮やかな色硝子がはめ込まれた窓が連なり、明度をあげる陽光を弾いている。三百人は楽に立てるだろう神殿前の広場もまた壮観である。様々な色の石がはめ込まれ、複雑な模様が描かれているが、僅かな凹凸もなく磨き抜かれている。神殿は、波一つない鮮やかな湖面にたつ白銀の墓標のようにも見えた。

 どこまでも壮麗で清冽な神殿の姿は、しかし異端にとっては弾劾と迫害の象徴である。あるいは死そのものか――。神殿の前で怪魅師けみしである己が剣舞を奉納する、その皮肉を灰は思う。

「すごい……」

 傍らで気圧されたように昴が呟いた。それに灰は我に返った。昴の顔に、僅かに恐怖にも似た色がある。灰にも彼の気持ちがわかった。数日後、彼らはこの場所で、都人を前にして剣舞を披露するのである。

「多加羅の剣舞は都でもよく知られております。噂に違わぬ見事さであるのかと、誰もが心待ちにしております。普段は王宮からお出にならない皇族の方々も、剣舞のために王宮から下られるとのことです」

 灰と昴を神殿まで案内した央蓮が淡々と言う。それを聞き、昴の顔色がさらに悪くなった。皇族は庶民からすれば目にすることもかなわない雲の上の存在、文字通り神にも等しい者達である。誉れよりも重圧を感じているだろう昴に、さらに追い打ちをかけるように央蓮が続けた。

「もちろん、剣舞をご所望された白華びゃっか様も来られます。当然ご存じでしょうが、白華様は現皇帝の正当なるお血筋にして、皇位継承権を持っておられる尊いお方です。それに加え、白華様ご自身が優れた舞楽の才をお持ちです。これまでも多くの才能ある芸能家を見出してこられました」

 響きばかりは丁寧な央蓮の言葉は、裏腹に蔑みを滲ませている。昨日から央蓮と接する中で、幾度も感じた響きである。若衆が剣舞を披露することが分不相応だと言いたいのか。あるいは、辺境から来た田舎者に対して抱く軽侮の念が滲んでいるのか。いずれにせよ、灰自身は気にもならないが、委縮するばかりの昴には、央蓮の言葉は毒にしかならない。

 そして昴は央蓮が向ける侮りを読み取れぬほど鈍くはない。挑発するような言葉は、昴が持つ負けん気を刺激したらしい。険悪な眼差しを央蓮に向けて何事かを言おうとした昴を、灰は軽く手を掲げることで止める。僅かな動きに虚を突かれて黙り込んだ昴の前に歩み出ると、灰は央蓮に対した。

「そのようなお方の前で剣舞を披露出来るのは身に余る光栄です。しかし、剣舞はあくまでも武術の型を象ったものであり、我らは芸能家ではありません」

 分不相応な田舎者の見世物であろうが、若衆が恥じることなど何もないのだと、央蓮に対してではなく昴に伝えるつもりで灰は言った。昴が込められた意味に気付いたか否か、背後の気配から読み取ることは出来なかったが、央蓮には正確に伝わったらしい。央蓮はほんの僅か、惑うような表情を浮かべたが、すぐにそれはのっぺりとした無表情の下に塗り込められる。その眼差しが、灰の背後に向けられていた。

「都の神殿は如何です」

 間近に響いたそれに、灰は振り返る。昴の向こうに長身の男が立っていた。怪魅の力を深く封じているとはいえ、人よりは気配に聡い灰がまったく気付かぬうちに近付いていたらしい相手に、央蓮が恭しく頭を下げた。

 央蓮に小さく首肯することで答え、男は灰に薄く笑んだ。学士のようにゆったりとした飾り気のない衣を身に纏っているが、暗色の布地が放つ光沢と背の中ほどまで延ばされた髪が、男の身分が貴族階級以上であることを示している。実際、王宮仕えの高慢をあらわにする央蓮が礼を示すほどの相手ではあるのだろう。だが、それ以外に身分を示すものは何もなかった。

 男は年齢さえも掴みづらい。老年の賢者のようにも、いまだ無色の気配を纏う青年のようにも見える。僅かな既視感を抱き、そのような己に訝しさを覚えながら、灰は不躾になりかねない視線を伏せた。

「聖なる社、信仰の礎、権威の象徴、あるいは抑圧と支配の具現。この神々しさの前に、どれほどの骸が積み重ねられてきたか、わからぬものだ。真実を見通す瞳を持つ者にならば、神殿を染め上げる血の鮮やかさが見えるであろうな」

 さらりと零された不穏な言葉に、反応したのは央蓮だった。恭しく頭を下げながらも、咎めるような眼差しを男に向ける。神殿が帝国支配の礎として果たした役割は周知のことである。だが、それはおいそれと口に出してよいことではない。おそらくは高い身分を有するであろう都人が、初めて対する相手に何を意図してそのようなことを言うのか、灰は測りかねる。

 答えを求めていたわけではないらしい男は、同じ口調で続けた。

「多加羅惣領家の灰殿とお見受けする」

 灰は驚きを抑えながら、是と答える。いかに多加羅惣領家の一員であろうと、都人に己が知られているとは思えない。その疑問を読み取ったように、男が声に笑みを滲ませた。

「今都は各所領の惣領家の話題で持ちきりだ。都人は皆退屈している故、目新しいものに飛びつく。どこから漏れたのか、ある所領の惣領などは、荷物にしのばせた宝石の数まで取り沙汰されているくらいだ」

 珍しい見てくれの惣領家の者の名が知られぬ筈がないのだと、男は言いたいのか。気安い男の態度に反応を選びかねて、灰は沈黙する。恭順でも戸惑いでもなく、用心深さを示すそれに、男は僅かに笑みを深めたようだった。

「私は孤月こげつと申す者、いずれどこかでお目にかかることもあろう。灰殿も存分に都を楽しまれるがよい」

 声をかけてきた時と同様、男は意図を何も感じさせずにあっさりと背を向けると、広場を横切っていく。通りがかりに気紛れに声をかけたのだと、そう思わせる男の態度である。だが、灰は己の眼差しが鋭くなるのを止めることが出来なかった。

「央蓮殿、今のお方はどなたですか?」

 男の姿が神殿の向こうに消えてから、灰は問うた。

「あのお方は……今はご身分をお明かしになるおつもりではないのでしょう。そうであるならば、私からは申し上げることは出来ません。いずれ、正式な場で対されることがあれば、自ずととおわかりになります」

 灰は思わず央蓮を見る。灰の視線に、央蓮ははっとしたように表情を繕ったが、その直前、あらわになっていたのは苦々しさだろうか。おそらくは央蓮よりもはるかに身分が高いだろう相手に対して向けるにしては、不自然なほどに強いものである。その違和感を胸の内に刻み付けて、灰は昴を振り返ると笑んだ。

「神殿も確認しましたし、屋敷に戻りましょう」

 孤月の雰囲気にのまれたように黙り込んでいた昴は、気圧されたのを恥じるかのように束の間唇を噛み締めたものの、しっかりとした眼差しを灰に向けると頷いた。




 男は足を引きずりながら、厩へと向かった。朝一番の馬の世話は、主馬頭である男の仕事である。常になく重く感じる体は、いまだ残る旅の疲れのせいだけではない。臥南玻がなはを旅立ち白西露峰はくせいろほうに向かう途上で、男は冷たく凝ってしまったとばかり思っていた怒りと憎悪が、再び身内を焼くのに気付いていた。決して忘れたわけでも消えたわけでもないそれらは、男が己の無力を知るたびに徐々に力を失い、諦めとともに封じ込め、目を逸らしたはずのものだった。まるで己の感情に呼応するように、足に負った古傷が常になく痛む。

 そして、身を噛む憎悪をも圧して、今男の気持ちの大半を占めるのは、旅の途中に出会った若者のことである。東方の多加羅という所領から来た、名を灰というらしい。それは白沙那帝国の言葉を解さない男に、惣領家の一女であるアザレイが伝えたことである。

 数日前に対した相手の姿が、鮮やかに脳裏に浮かぶ。若者の色彩は明らかに風の民であることをあらわしていた。そして、何よりも男を驚かせたのは、相手の容貌である。遥か遠い記憶の底、どれほどに時間が経とうとも色褪せずに浮かぶ面立ちと、若者の容貌はあまりにも似ていた。性別の違いはあれど、記憶の中の乙女が男であればあのような姿であったろうと思わせる。違いと言えば、乙女の瞳が淡く澄んだ紫であったのに対し、若者の瞳がどこまでも深く底のない天空のような藍色であったことだろう。

 ――リーシェン様

 三十年以上前、白沙那帝国との戦いの折、幾重にも守られた聖域から連れ去られた清らなる乙女の名を、男は心中に呟く。乙女を正体もわからぬ帝国民に連れ去られた時の怒りと悲しみが、生々しく蘇る。風の民の戦士として白沙那帝国との戦いに赴いた男が、敵の捕虜になるという恥辱にも己の命を絶たず永らえたのは、生きていればいつかは連れ去られた乙女を見つけ出すこともかなうのではないかと、儚い望みを抱いたが故である。だが、それがいかに愚かな希望であるか、男ははじめから心の奥底では理解していたのだ。

 厩の入り口で男は足を止める。彼の気配に馬達が嘶くのを聞きながらも、動くことが出来なかった。あの若者は、記憶と感情を封じ込めるために築いた壁を容赦なく打ち破る存在である。あれほどに似ているとなれば、最も考えられるのは若者が乙女の血を継いでいるということだ。

 男は顔をあげると、己の役目を果たすべく、厩の中へと入った。慣れた手順どおりに体を動かしながらも、思考はかつてないほどに目まぐるしく動いていた。

 あの若者が真実乙女の血を継ぐ者であるとしたら――

 確かめねばならない。男は己に言い聞かせる。故郷を遠く離れ、何もかもを諦め投げ出して、あとは死を待つばかりだった。しかし、己が無為なる人生は、ただ今この時のためだけにあったのかもしれぬ。男は滑らかな馬の首筋を撫でながら、掌に熱い血潮を感じる。その力強さに、男は不意に瞼が熱くなるのを感じた。

 愚かな希望も、失意の日々も、今も心を蝕む憎悪も、すべてが束の間遠ざかる。二度と聞くことはないだろうと思っていた、遠い故郷の草原を渡る風の音が、確かに響くのを男は感じていた。

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