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多加羅の一行が白西露峰に辿り着いたことを、悠緋は聖蓮院で知った。昼頃に都に入ったのだと、それを悠緋に知らせたのは同じ学理の講義を履修している貴族の娘である。
「今日、聖蓮院に来る途中で多加羅の人達が大路を進むのを見たわ。多加羅惣領はとてもお若いのね」
話したことも殆どない相手は、悠緋の顔を見て開口一番に言った。教材を広げようとしていた悠緋は、思わず手を止める。そろそろ都に着く頃だろうとは思っていたが、それが今日だとは――。悠緋の反応に相手は「知らなかったの?」と無頓着に尋ねて来る。悠緋は戸惑いながらも頷いた。そして不意に周囲から向けられる多くの視線に気付き、溜息を呑み込んだ。
広い講義堂には、既に多くの少女達が集っている。聖蓮院には庶民も通っているが、貴族の出自の者と同じ講義を受けることはない。そのため、今講義堂にいるのはその多くが都に住む貴族の出である。普段ならば悠緋には目もくれない娘達が、今は耳をそばだてている。
「それは多加羅惣領ではなくて、代理の兄上よ」
悠緋は感情を殺して答えた。ここ数日、各地の惣領家の者達がぞくぞくと都に集っている。そのたびに、少女達は噂話に花を咲かせる。曰く、あの所領の者達は身なりが豪奢であるとか、見目の良い兵士が多いだとか――あるいは、あの所領の者達はどれもさえない様子で田舎染みているだとか。口さがない言い様は、聞きたくなくとも悠緋の耳に届いていた。
「じゃあ、あの方は悠緋様のお兄様なのね。すごいわ」
何がすごいのか――胸に澱む言葉は苛立ちを含む。それすらも慣れた感覚で、悠緋は常と変わらずに曖昧に笑んでみせた。
「悠緋様は多加羅若衆の剣舞をご覧になったことがあるの?」
今度は一度も話したことのない少女が横合いから問いかけてくる。
「ええ。毎年秋の祭礼で見ていたから……」
「ねえ、若衆って皆どれくらいの年齢なの?」
それまで遠巻きに話を聞いていた少女達が俄かに悠緋を取り囲む。
「……都に来ている若衆なら、きっと十六歳から十九歳くらいだと思うけれど」
「悠緋様はあの銀の髪の若衆は知っているの?」
悠緋は瞬間どきりとした。銀の髪の――思い浮かぶ者はただ一人だ。灰もまた都に来ているのか。三年前は若衆に入ったばかりだった灰も、今では若衆の中枢を担うだけの実力をつけていてもおかしくはない。勿論、それは剣舞の舞い手としても言えることだ。意外なことではない筈の事実に、しかし悠緋はひどくうろたえていた。
「悠緋様?」
呼びかけられて悠緋ははっとする。灰のことを答える前にまたも質問を重ねられ、悠緋はほっとして無難な返答を繰り返した。漸く教官が講義堂に現れた時に、悠緋は思わず安堵の溜息をついた。年若い教官は、その講義の難解さと課題の厳しさで知られている。少女達はすぐに口を閉ざすと各々の席へとついた。
教官は正面の講義台に向かうと、早速教材を開いた。悠緋はその姿を見つめながら、きっと彼も多加羅一行の到着を知っているのだろうと、根拠もなく思う。教官――沙羅久惣領家の二男であり、優れた条斎士である聡達は、常と変わらず穏やかな声音で講義を始めている。
いつものように集中することが出来ず、悠緋は己の心情に戸惑っていた。多加羅から兄が来ると知り、悠緋は何も感じないわけではなかった。兄妹仲が良かったとは言えないが、それでも三年ぶりに会う家族である。数日前からそわそわとし、再会を待ちわびている。それに加え、何かと口さがない少女達が、多加羅の者達に対しては概ね好感を抱いているらしいことも、少なからず嬉しく感じる。
だが、今はそこに新たな感情が混じっていた。それが灰という存在のせいだということに、悠緋は否応なく気付かされる。三年前、悠緋は灰に仄かな恋情を抱いていた。そう自覚出来るほどに、今の悠緋は己の感情に客観的であり、冷静だった。幼い恋心は、都で過ごした短くはない時の中で淡く解け、今では思い出へと変化している。だが、灰に思いを致しただけでひどく動揺している。
(別に好きなわけではないのに――)
それに加えて、目の前で言霊の原理を説く聡達に、悠緋は心惹かれてさえいるのだ。だが、先程の少女に灰のことを聞かれ咄嗟に湧き起ったのは、自身でも驚くほどの疎ましさだった。灰に、ではない。灰のことを問うた少女に対してのそれである。これ以上己の心情を突き詰めるのは気が進まない。しかし訳も分からぬままに放っておくのも性に合わない。おそらく、と悠緋は指先で机を撫でながら考える。自分よりも先に灰を目にした少女に、悠緋は苛立ちを感じたのだ。だが、それは何故なのだろう。
(嫉妬――ではない)
聡達の深い声が遠く聞こえる。その言葉に意識を向けようとしながらも、悠緋は連鎖する思考の渦に呑み込まれる。
(ただ、驚いただけ――じゃないし……。何となく、大切にしていたものに無遠慮に触られたみたいな感じ……私だけの、ものに)
そう、これは独占欲だ。灰が悠緋のものであるわけはないが、少なくとも三年前に出会った少年への淡い想いは悠緋だけのものだ。とっくに消えていた筈の感情が、不意に蘇り悠緋はぱちりと瞬いた。
そうか、と思う。悠緋にとって過去のものと思っていた感情は、まだ彼女が無邪気でいられた頃の記憶の中にこそある。人の心の裏を読み、自身の力の無さを痛感し、特権意識に凝り固まった少女達の中で息を潜める。そんな自分を抑えてばかりいる今とは違う。愚かで我儘で、そして迷いなどなく人を、未来を見ることが出来た嘗ての己の、その記憶の中に少年もまた含まれているのだ。出会い反発し、そして心惹かれた、記憶そのものが今では透き通った結晶となって悠緋の中で眠っている。
なんて身勝手な――。悠緋は自己嫌悪に陥る。結局、悠緋は過去の己と、あの少年への恋心を美化し、今の自分を慰めているだけだ。本来ならば己はこのような人間ではないと――卑屈に、周囲に阿るばかりの人間ではないと、そのよすがにしているだけだ。そして、現実に灰が現われてみれば、その姿を目にしただけの少女に、まるで己の思い出が土足で踏み躙られたかのような錯覚を覚えて憤っている。そして同時に怯えている。何時までも甘い感傷に浸る己を嘲笑うかのように、現実は記憶のようには美しくはない。それを突きつけて来る。
――灰に会うのが怖い。
不意に思い、悠緋は唇を噛みしめた。勝手に偶像化し、美しい結晶に封じ込めた少年は、彼女の知らない三年の時を経て、成長し、変化して傍近くにまで来ているのだ。少年の記憶の中にある悠緋という存在は、今の自分からどれ程かけ離れているだろうか。それとも少年は、悠緋のことなど忘れてしまっているだろうか。胸の奥底にちくりと痛みが奔った。いっそ無関心であってくれた方がいいのだと、悠緋は己に言い聞かせた。
悠緋は顔を俯けた。瞼の裏が熱く、何故か泣きたい気がした。
講義の後、悠緋は聡達に呼び止められた。少し話そうと言われ、二人で向かったのは聖蓮院に併設された植物園である。植物の育成に効能のある言霊を研究するために作られたそこは、悠緋自身も頻繁に訪れる慣れ親しんだ場所だ。植物園は食用の植物だけでなく観賞用の花々も多く育てられている。一般にも公開されているため、春先の花が咲き始めた最近では、都人も訪れている。もっとも宮殿にほど近い場所にあるため、訪れるのは貴族が多く、警備も厳重である。庶民は滅多に訪れない。
悠緋と聡達は、ちらほらと人々が漫ろ歩く中、植物園へと入って行った。風は微かに冬の名残を含んでいるが、昼から夕刻へと差し掛かる陽の光は、十分に新たな季節を感じさせる暖かさである。
「先程の講義で、集中を欠いていましたね」
ずばりと言われ、悠緋は赤面する。
「申し訳ありません」
「誰しも集中出来ぬときはあります。責めているわけではありません。ただ、貴女らしくないと思っただけですよ。何に気を取られていたのですか?」
躊躇いながらも悠緋は答える。
「今日兄達が都に入ったのだと聞いて、つい色々と多加羅のことを思い出してしまいました」
「さすがに都人は噂が速い。もう悠緋様にまで伝わったのですか」
さらりと聡達が言った。
「なかなか見応えのある隊列だったようですね。沙羅久の連中が都に入った時よりも余程都人の注目を集めていますよ」
「沙羅久の皆様ももう?」
「はい。三日程前に既に到着しています。まだ私は顔を出していませんが」
「お会いになりたくはないのですか?」
「沙羅久も惣領ではなく代理として兄の若国が来ているのですが、兄とは昔から折り合いが悪いんです。会っても喧嘩ばかりで、お互いうんざりしているんですよ」
ぼやくような口調だった。講義堂では見ることの出来ない表情に、悠緋はくすりと笑った。そして思わず無防備な言葉を零す。
「少し羨ましいです。私と兄は……喧嘩どころか、会話さえもあまりない間柄でしたから」
「それでもお会いになるのを楽しみにしているのではないですか? 私の講義で上の空になるくらいには」
悪戯めいた微笑みとひたと注がれる視線に、小さく鼓動が揺れる。
「そう……かもしれません。明日、兄のところに挨拶に行こうと思っているんです」
意識して笑顔を作り、悠緋は己自身に言い聞かせるように言った。
「三年ぶりなのでしょう。きっと皆さん、お喜びになるでしょう」
柔らかく言われ、悠緋は瞬いた。何を不安になっていたのだろう、と不意に思う。講義の間悠緋が上の空だった原因が多加羅一行の到着にあるだろうことくらい、聡達ははじめから気付いていただろう。それでも敢えて言葉をかけてくれた彼は、励まそうとしてくれたのかもしれない。そして思いを少し零すだけで、悠緋の心は僅かに軽くなっていた。
「はい。私も会うのが楽しみです」
「貴女は三年間、多加羅を離れ頑張ってこられた。ご家族とともに、少し息を抜いても良いのではないですか?」
講義の間感じていた泣きそうな切ない衝動の上に、仄かに温かな感情が重なる。
「沙羅久と多加羅は長い間いざこざが絶えませんでしたが、そろそろお互いに手を取り合っても良いころです。私もこの機会に多加羅の皆様とお会いしたい。是非、紹介してください」
悠緋は小さく頷いた。白西露峰で過ごした三年間、何度聡達に励まされたかわからない。沙羅久と多加羅の軋轢の歴史は長く、惣領家同士が親しく付き合うこともなかった。しかし聡達は、そんな壁を容易く越えてみせ、悠緋の心が読めるかのように、望む言葉を与えてくれる。一人の心細さを耐えることが出来たのは、聡達の励ましと支えによるところが大きい。
観賞用にと植えられた春告げの花々は、涼やかに甘い香りで空気を満たしている。木々の葉のさ緑は、今は透けるように幼い。他愛もない会話の端々に滲む聡達の気遣いが、悠緋には擽ったい。あまりに不確かな己の心地が、次第に凪いで穏やかになるのを、悠緋は感じていた。
三年間――変わったことは多くあるが、悪いことばかりではない。多加羅を去ることで、初めて得ることが出来たものもあるのだ。
「ありがとうございます。いつも励ましていただいて……」
悠緋の言葉に、聡達はふと黙りこんだ。思わず見上げれば、真直ぐに眼差しが向けられていた。まただ、と悠緋は思った。聡達は時折底知れぬ側面を見せる。今もまた、光を通さぬ森の深さにも似て、彼が何を思うのかがわからない。それを時に怖いと思う。だが、同時にその何もかもを見通すかのような双眸に、ずっと見つめられていたいとも思う。
聡達様、と呼びかけた声は、だがそれ以上続かなかった。
傍らの丈高い茂みが不意に大きく揺れて、人が飛び出してきたのだ。驚いて悲鳴をあげた悠緋を、聡達が背後に庇う。勢いを殺せず蹈鞴を踏んだ相手は、貴族に付き従う侍従のような簡素で特色のない衣を纏っている。だが、奇妙なのは、その頭部だった。頭全体を覆う頭巾を被り、顔も目元以外は全て布に覆われている。僅かに外部に晒されている部分も、影になり殆ど見ることが出来ない。そしてその手には抜き身の剣が握られていた。
交わった視線を振りほどくようにして、相手は木々が茂る方へと走り込んで行った。素早い動きはまるで獣のようだ。剣が反射するぎらりとした光だけを一瞬残し、すぐにその姿は消えた。茫然と見つめていた悠緋は、近付いて来る複数の足音にはっとした。
不審な人物が逃げて来た方角から姿をあらわしたのは、鎧の上に厚手の外套を纏った男達だった。腰の剣まですべて揃いの装束は、どこぞの貴族に仕える兵士なのだろう。
「失礼、こちらに顔を隠した不審な男が来ませんでしたか」
問うてきたのは壮年の兵士だった。
「つい先ほど、あちらの方へと逃げました」
聡達の答えは冷静だった。不審者が逃げた方向を迷わず指し示す。だが、まばらな木々の向こうに逃げた者の気配は既にない。兵士は忌々し気に顔を顰めると、背後に控える者達へと声を放った。
「戻るぞ」
そのまま一礼して去ろうとするのを、聡達が留めた。
「お待ちください。今の者は何なのですか?」
「――お騒がせして申し訳ないが、貴殿には何ら関係のないことです」
威圧的な声音と眼差しに、悠緋は身を竦ませた。だが、聡達は気圧された様子もない。
「心得違いされては困ります。ここは聖蓮院が管理する場所です。問題が起こったのであれば、我らは把握しなければなりません」
淡々と紡がれた言葉でありながら、傲然と響いたそれに、兵士があからさまに険悪な表情になる。だが、男が何かを言う前に、背後に控えていた兵士のうちの一人が前に進み出た。三十前後だろうか、精悍な容貌はどこか飄々とした表情を湛えて、興味深そうに聡達と悠緋を見つめている。彼は声をひそめ、壮年の兵士に言った。
「あの格好、おそらく聖蓮院の条斎士です」
言外に聡達の言い分の方が正しいのだと伝えるそれに、兵士が迷いを見せる。ぎこちない沈黙は、しかし柔らかな声に遮られた。
「近衛長、さがりなさい」
静かな衣擦れとともにゆっくりと歩み来る女性は、その手をどこかあどけない容貌の侍女に預けている。女性が身に纏う白い毛皮の外套は、都では目にしない珍しいものだが、悠緋には見覚えがあった。梓魏が産地であるそれは、多加羅の貴族が高級品として好んでいたものだ。長い髪を高く結いあげることをせず緩やかに纏めているのが、女性の清楚な美しさを引き立てている。
女性は侍女に導かれるようにして、悠緋達の前へと歩を進めた。閉ざされた双眸に、悠緋ははっとした。
「失礼をいたしました。私どもにも何が起こったのかわかってはいないのです」
「先程逃げた者は剣を持っていましたが、もしやお命を狙われましたか。しかもそれだけ護衛の者がおられながら取り逃がしたと、そういうことでよろしいですか?」
あからさまに過ぎる聡達の言葉に、近衛長と呼ばれた兵士が気色ばむ様子を見せた。女性の周りを固める兵士達は他に三人、言葉通りであるならば、貴人を間近で守る近衛の立場にあるのだろう。兵士の中でも精鋭中の精鋭しかなれぬ役職である。
「貴様、黙って聞いておれば――」
「おやめなさい」再び嗜める女性の言葉は穏やかに優しいが、逆らい難い響きを秘めていた。
「あの……」思わず声を出した悠緋は、一斉に向けられた視線に身を震わせたが、しっかりと顔をあげると続けた。
「失礼ですが、梓魏惣領家の椎良様でいらっしゃいますか?」
女性が驚いたように眉をあげた。悠緋へと向けられた顔は、しかし僅かにその方向がずれている。それに悠緋は益々確信した。梓魏惣領家の後継ぎである姫が盲目であると、それを知ったのは随分前のことである。
「ええ、仰るとおり、私は梓魏惣領家の椎良です。貴女はどなたですか?」
「私は多加羅惣領家の悠緋です」
それから、と言葉を継いで、悠緋は傍らの聡達を見やった。躊躇うその先を、聡達があっさりと引き継ぐ。
「私は沙羅久惣領家の二男、聡達です。まあ、その肩書よりも今は聖蓮院の条斎士として考えて頂いた方がいいのですがね」
明かされた二人の名に、梓魏の近衛兵達は言葉をなくしている。
「お二人ともお名前は存じ上げております。このような場所で出会えたのも何かのご縁かもしれませんわね」
どれほど驚きを感じていようとも、椎良の声は平静だった。
「聡達様に何があったのかをご説明差し上げなさい」
椎良が呼びかけたのは、件の飄々とした兵士だった。兵士はほんの僅か躊躇う様子を見せたが、短く是と答える。
「聡達様、悠緋様、申し訳ありませんが、私は屋敷へと戻らせていただきます。また後日、改めてお会いしましょう」
「そうはいきません。椎良様ご自身から話をお聞かせいただきたい」
「私は目が見えません。そのような者の証言には何ら価値はありません。それに……」ふと椎良が笑んだ。
「先程の賊は物盗りの類でしょう。そのような者が出入り出来るなど、聖蓮院にとっては由々しき事態だとは思いますが……私は少し疲れてしまいました。申し訳ないのですが、休ませていただきたいのです」
おっとりと微笑まれて、聡達は肩を竦めた。
「そう仰られると耳が痛い。もっとも、この場所に物盗り風情が入り込んだことなど、いまだ嘗てありはしませんが」
そう言いながらも、聡達は椎良をそれ以上とどめようとはしなかった。一礼してゆっくりと遠ざかる椎良達を、聡達と悠緋、そして報告を命じられた近衛兵が見送る。椎良が完全に視界から姿を消してから、近衛兵は聡達へと視線をやった。
「名を聞こうか。近衛兵」
「万と申します」
「変わった名だ。名というよりも通称か?」
「よく言われますが、一応本名です」
どこか惚けた物言いの兵士は、それでも姿勢を崩さずに直立している。悠緋はまじまじと兵士の顔を見た。彼女自身、惣領家の出自であるため、近衛兵を見慣れている。兵士の中でも特に優れた者達であるため、だいたいにおいて彼らは誇り高く、頭が固い。だが、目の前の万と名乗った男は、どうにも飄然として掴みどころがない。それでいて、その所作にはやはり鍛え抜かれた兵士としての芯が感じられる。
「まあ、いい。先程の、あれは本当に物盗りなのか?」
「そうだと思います。椎良様が散策をしておられる時に、突然茂みの影から飛び出して来て、金を出せ、と。大方名のある貴族とでも思ったのでしょう」
「子供騙しのような話だな」
「そう言われましても、事実しか申していません」
悠緋は、問いつめる聡達の言葉にうろたえた。確かにこの植物園で物盗りの類が出たことは一度もない。だが、それが本当に有り得ないかと言うと、絶対とは言い切れないだろう。しかし聡達の物言いは、まるで万が偽りを言っていると断定しているかのようだ。仮にも梓魏惣領家の近衛兵に、それは礼を失する。
「悠緋様」
突然に名を呼ばれ、悠緋は聡達を見やった。聡達は万に視線を据えたまま続ける。
「申し訳ありませんが、先に聖蓮院に戻ってください。この件については、他言する必要はありません。私が対処しておきますので」
その声に逆らい難い響きを感じ、悠緋は頷く。聡達は聖蓮院でも力ある条斎士であり、悠緋とは全く立場が違う。そのことをまざまざと突きつけられる。万にちらりと視線をやると、思いがけず彼は悠緋を見つめていた。まるで観察するようなそれは、不愉快さを感じさせはしないが、悠緋を臆させるには十分な鋭さがあった。
悠緋は非礼にならぬ程度に頭を下げると、足早にその場を後にした。何か腑に落ちぬ思いがあったが、それが何なのか悠緋にはわからず、ただ漠然とした不安だけが胸に落ちた。
「あのお方にはお聞かせ出来ぬ、ということでしょうか」
万は悠緋のほっそりとした後ろ姿が十分に離れてから、目の前の青年に問うた。白西露峰に来てから既に五日経っているが、他の惣領家に属する者と顔を合わせたのは初めてである。多加羅惣領家の悠緋、そして沙羅久惣領家の聡達。二人ともに惣領家の後継ぎではないが、同じ東方の所領である梓魏からしてみれば、重要な相手である。
「深読みが過ぎるな」
図星だろう、という内心の声を万は呑み込んだ。油断がならぬ相手だと感じるのは、勘違いではないだろう。不意に聡達の端正な顔立ちが歪み、笑みを浮かべた。途端に空気が変わったように感じ、万は目を眇める。悠緋がいた時には微塵も感じさせなかった何か――。
万は殊更無表情に問うた。
「このようなことがあった後で、多加羅惣領家の姫君をお一人になさってよろしいのですか?」
「ああ、構わぬ。私がおらねば彼女に害なす輩なぞいない」
どうということのない質問に、返された答えは意想外のものだった。万は聡達の言葉の意味を捉えかねる。聡達とともにいる方が、悠緋の危険が増すとでもいうことか。そうであるならば害なすのは、聡達に何かしらの敵意のある者か――それとも聡達自身が悠緋に害なす者だとでもいうのか?
初めて顔を合わせた相手に、物騒な思考である。だが、そのような物思いを引き出す何かを、聡達から感じずにはいられない。
「別に彼女に聞かせたくないわけではない。単にここから先は私の興味本位でしかないからな」
「興味本位ですか? 先程申し上げたことしかありはしませんが」
「物盗りなどとふざけたことをまだ言うつもりか。梓魏惣領家後継ぎを狙うとなると、大方北限の民あたりの刺客だろう」
問いかけですらない。万は息を呑む。
「私にはわかりかねますが、確かに物盗りらしき物言いをしていました」
「つまらん」
吐き捨てるようにして言いながら、不意に聡達は気だるげに姿勢を崩した。口調までもががらりと変わる。
「まあ……どうでもいいがな。俺は兄貴ほど梓魏には興味がない」
万は内心の動揺を押さえつけて、聡達を睨みつけた。
「……何を仰られているのかわかりません」
「思っていた程、梓魏の姫君は愚かではなかった、ということはわかったが――」
「聡達様」
固い万の声音に、聡達はゆるりと眼差しを向けた。仄暗く、それでいて奥底に何かが揺らめくようなそれに、万の背筋が粟立つ。暗殺者としての本能が警鐘を鳴らす。
(何だこいつは――)
「案ずるな。別段俺はお前らのところの姫君になど興味はない。俺の獲物は別にいるからな」
だがな、と聡達は万にひたと視線を据えたまま笑んだ。
「警告はしておいてやる。せいぜい気を付けろよ。所領内で足を引っ張り合っていては、外から喰われることになる」
それはそれで面白そうだが――と、聞き捨てならぬ一言を呟き、聡達は興味が失せたとばかりに顔を背けると、万を一人残して去って行った。万は茫然とその背を見送る。聡達の言動に理解が追いつかない。
椎良を襲ったのは、聡達が言ったとおり北限の民の刺客だろう。兄の清夜から命じられ、椎良の近衛兵となってはや数箇月、その間一度としてしかけて来なかった刺客は、守りの厚い梓魏ではなく、この白西露峰で初めて姿をあらわした。だが、よりにもよってこの植物園だとは――上流階級の者しか訪れぬような場所で、警備も手厚い。聡達が言う通り物盗りなどあろうはずもない。刺客の気配に気付いてすぐに万は心中にこの大馬鹿野郎が、と怒鳴ったものだ。
椎良を守る。その責務の上で、刺客は敵だ。だが、同胞から送られたそれは、正体が明らかとなれば北限の民の立場を危うくする。それに加えて、都で梓魏惣領家後継ぎが命を狙われているなどと周囲に知られれば、どのような事態になるかわかったものではない。
成功させてやる気など毛頭ないが、やるならもっと頭を使え馬鹿野郎が、と罵りたくもなる。仕留めることも勿論出来たが、何とか逃がすにとどめたのだ。ここで刺客の正体が北限の民と明らかになっても、それは北限の民のみならず梓魏惣領家にとっても何ら益の無いことなのだ。椎良もそこらの複雑な状況がわかっているからこそ、堅物の近衛兵よりも、柔軟な言動が出来る万を残したのだろう。
そこまで考え、万ははっとする。近衛兵は皆愚かではないが、北限の民には厳しい意見を持っている者が多い。そして、高度な政治的な思考が出来るほど、彼らは都の政情に明るくはない。それ故、深く考えもせずに椎良に襲いかかった者が北限の民かもしれぬと言いかねない。それは内部の紛争を明らかとし、梓魏の立場を悪くする。しかも相手が沙羅久の聡達となれば、尚更に知られてはならないだろう。そこまで考えたうえで、椎良は万をこの場に残すことを決心したのだろうか。
万ならば、複雑な事情を理解し、なおかつ北限の民をも守る発言が出来ると考えたというのか。それは一体何を意味しているのだろう。
――思っていた程、梓魏の姫君は愚かではなかった、ということはわかったが。
さらに聡達の言葉を思い出し、万は頭を抱えた。若い頃から悪所通いを重ねる勝手気ままな御曹司、それでいて条斎士としては稀有な程の力を有するという、せいぜいその程度の認識しかなかった相手である。
だが、あれは何だ。あの男は一体どのような人間なのか、万ははかりかねる。一筋縄ではいかぬ厄介な相手であることだけは確かだろう。彼が言うところの獲物が、あの多加羅惣領家の姫君であるならば、心底同情を禁じ得ないところだ。
万は畜生、と吐き捨てる。一振りの剣風情には、些か荷が重い。
「わけがわからねえ」
答える者とてなく、呟いた言葉は春先の風に散らされるばかりだった。
1週間に1話……もはや無理かも、と思いつつ何とか更新です。
過去の登場人物がぽんぽん出て来るので、少しわかりづらいかもしれません。登場人物紹介をあげようかどうか、少し迷っています。
ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!