第一章 虚白の都
多加羅の一行が白沙那帝国の都、白西露峰に辿り着いたのは、灰達が牙の民と遭遇してから二日後のことだった。眼前に広がる広大な都の姿に、誰もが一様に言葉を失った。多加羅の街もそれなりの規模を誇るが、白西露峰に比べればまるで小さい。
白西露峰はその名の由来である山脈の懐にある。都の最奥に山肌を這い上がるようにして巨大な宮殿が聳え、それ自体がまるで一つの山のように見える。そして宮殿から傾斜しながら、なだれるようにして街が扇状に広がっている。街の建物も、多加羅の者にとっては見慣れぬものである。多加羅で最も高い建物はせいぜい四階程度だが、その倍はありそうな高さのものが林立している。建造物は白色が多く、使われている石の性質か、光が当たれば白銀に移ろう。
緩やかに隆起する丘陵から都を眺め、灰もまた息を呑んだ。無論、その規模に驚いたせいもあるが、それだけではない。全貌を見渡すことさえ困難な巨大な都の、その全体を覆い尽くすようにしてちりちりと神経を焦がす気配を感じる。力を有さぬ者には決してわからぬそれは、都全体を覆う網のように張り巡らされている。
(――言霊か)
僅かに目を細め、灰は思った。条斎士が紡ぐ言霊が、都の至るところでまたたき、光を放っている。異能の目で見れば、白昼の灯火に似て、幻想的で美しい。だが、籠目のように編まれたそれに感じるのは、意識諸共体ごと絡め取られるような疎ましさだ。どのような意図をもってここまで執拗に言霊の網を編み上げたのか。一つ一つは小さな言霊の力も、重なり響き合って、それ自体が一つの強大な力となっている。穏やかならざる目的であろうことは明らかだ。少なくとも、灰自身はあの中で怪魅の力を使おうとは思わない。
灰は注意深く閉じていた怪魅の力を、さらに意識の底へと沈めた。白沙那帝国が異端と見做した存在に対してどれほど残虐か、灰は忘れてはいない。白西露峰に向かうことが、異端の身にとっては危険極まりないことはわかっていたつもりだが、その認識ですら甘かったのだと感じる。もとより億劫な心持がさらに沈む。言霊は帝国に仇成す者、異能を狩る罠であり刃だ。まるで薄刃連なる檻の中に、身を守るもの一つなく踏み込もうとしているかのような心地である。
灰はふと数日前に出会った相手を思い出していた。アザレイというその名を、心中に呟く。彼女もまた力を有している。臥南玻の一行は既に都についているだろう。アザレイの目にはこの都はどのように映っただろうか。
白西露峰に近付くにつれ、その威容は益々顕著となる。次第に迫る巨大な建造物に、まるで自身が呑み込まれるかのような錯覚を覚える。だが詩歌にその美麗さを謳われる白銀の都も、近付くほどに雑多な色彩に溢れ、人々の熱気が渦巻く場所であることが知れる。
多加羅一行の先頭を進むのは、惣領の代理である透軌と二人の玄士である。その周囲と背後を守るのは多加羅南軍の兵士、傍仕えの者達と緩衝地帯からの随行員がさらに続き、殿を進むのが多加羅若衆である。宇麗はさり気なく馬の速度を落とし、多加羅若衆達の元へと近付いた。
灰は宇麗へとちらりと視線を向けたが、特に何を言うでもなく顔は正面を向いたままだ。宇麗は灰の傍らを進む須樹に肩を並べた。
「初めて見る都はどうだい?」
「すごいな。これほどまでに大きいとは思わなかった」
明快な言葉が須樹らしい。斜め後ろから胡乱な視線を向けて来る青年――仁識は、表面的な壮麗さへの賛美よりも先に、その背後に秘められた醜悪さを考える部類の人間だろう。旅の間、一貫して仁識から向けられていたのは警戒と牽制の眼差しばかりである。いっそわかりやすすぎる程だが、宇麗自身が己の意図をあからさまにしていたのだから、人のことは言えない。
宇麗が事あるごとに若衆頭である灰に近付こうとしていることに対して、仁識ほどではないが須樹もいい顔をしない。灰はと言えば、宇麗に対して一線を引いて決して近付けようとはしないが、あからさまに拒絶するわけでもない。穏やかで口数が少ないせいで、一見するとおとなしい印象を抱くが、それだけの人物ではないだろうことを宇麗は知っていた。
灰と公の場で初めて対したのは一月半程前、多加羅惣領家の謁見の間でのことである。多加羅惣領から若衆頭に任じられ、都へ赴くよう命じられた灰は、束の間、激情をその瞳に乗せた。烈しく鮮やかに、そこにあるのは己を支配し縛る存在への苛烈なまでの怒りだった。灰が決して表面的な印象だけでは計れぬ人物であると、宇麗はその場で認識したのである。面白い、と思った。緩衝地帯の一件で、灰が背後で動いていただろうことを宇麗は確信している。それ故に注視すべき相手だとは考えていたが、単純に灰という人間に興味がわいた。
今もまた灰は静かなばかりの面を真直ぐに前へと向けている。内心に何を思うのか、ぜひとも知りたいと思うが、灰は容易く己を見せはしない。だが、それは計算されたよそよそしさではない。宇麗がどれほど着き纏おうと、灰は構えない。その態度は灰の奇妙なまでの己に対する無頓着さ、自己が与える影響への無自覚から来るのではないか、と宇麗は思っている。灰の本質を垣間見た人間は良くも悪くも強い印象を植え付けられるが、本人だけがそれに気付いていない。おそらく、宇麗が何故灰にここまで興味を抱いているのか、灰自身はわかっていないだろう。
「これからどこに向かえばいいんだ」ぼやくように言った須樹に、宇麗は答えた。
「心配しなくてもそのうち迎えが来るよ」
「迎え?」
宇麗は頷くと指差した。折よく、前方から騎乗した人物が近付いて来る。まだ若い男だ。赤を基調とした衣を纏い、頭には平たい形の帽子を被っている。それが宮殿に仕える者の装束であることを宇麗は知識として知っている。迷いのない歩みで、多加羅一行に近付くと、男は馬上にありながら恭しく一礼してみせた。
「お待ち申しあげておりました。私は多加羅の皆様のご案内とお世話を仰せつかっております、央蓮と申します」
ほらね、と宇麗は須樹に肩を竦めてみせた。都に参集する各所領の惣領を迎えるため、その役目を担う者が抜かりなく準備を整えて待っていたのだろう。待ち構えている気配など微塵も感じさせず、その周到さが帝国らしい。多加羅からの一行であることを迷いなく言い切るあたり、情報収集は抜かりないといったところか。
央蓮の先導で多加羅の一行は街道から都の中央を貫く大路へと踏み込んだ。放射状に広がる都はまるで葉脈のように大小の道が縦横無尽に走っているが、大路だけは真直ぐに白西露峰の中心である宮殿へと続いている。都が大きくなるにつれ、大路もまたその距離を伸ばし、今ではその長さは相当なものである。先触れが出ていたのか、彼らが進むほどに、周囲から多加羅の名が囁かれる。都人の無遠慮な視線の中、多加羅の一行は進んで行った。
多加羅の一行が都人に与えた印象は概ね良いもののようだ。宇麗は沿道を埋める人々の顔を見ながらそう思った。
白西露峰は政治や文化、そして権力の中心地であり、そこに住む都人は、余所者に辛辣で些か驕慢である。辺境の所領から来た者など、無粋な田舎者とでも思っていそうだが、多加羅は文化芸術に秀でた所領として知られている。実際、多加羅一行が身に纏う装束一つをとっても、一級の職人に織られ染められた布が使われ、仕立てや意匠も、都人が好む派手さこそないが、品が良く粋である。目の肥えた者にはその価値がわかるだろう。
そして、何よりも人目を引くのは、やはり若衆の存在だ。参集する者は当然所領の中枢を支える重鎮ばかりだ。そのような面々の中で、十代ばかりの若衆は異彩を放つ。浮ついた雰囲気のない清潔さを感じさせる姿が、はやくも都人の好奇心を疼かせるのか、傍らを進む宇麗でさえ向けられる視線の熱さを感じる。
「まるで見世物だな」
須樹は居心地が悪そうに身じろぎ呟いた。それに宇麗は頷く。
「実際そのとおりなのさ。逆に言えば、己を誇示する機会でもある。所領によっては、都人に己の富を見せつけるために殊更に飾り立てて大路を進む場合もある」
「くだらぬな」
うんざりとしたような仁識の言葉に、宇麗は苦笑を噛み殺した。如何にも貴族然とした仁識は、存外に口が悪い。
「外部の者が都人の好意を勝ち得ることも大切なことだ。嫌悪され蔑まれるよりも味方にしておいた方が何かと都合がいいからね。貴族連中もそれがよくわかっているから、都人の噂には敏感だ」
仁識は何も言い返しはしなかった。宇麗の言葉をじっくりと考え込む様子である。
若衆が剣舞を神殿に奉納すれば、さらに都人の注目を集めるだろう。そして娯楽に飢える皇族や貴族連中をも、若衆は清新な魅力で惹きつけるに違いない。しかも若衆頭は惣領家の血を引くうえ、目を引かずにはおかない異国の容貌を持つ若者だ。灰が人の注目を集め持て囃されることを嫌う性質だろうことは、短い付き合いの中でも十分にわかることだ。だが、周囲は彼を放ってはおかないだろう。容易く想像がついて、宇麗は望まぬ嵐に翻弄されるだろう灰に、密かに同情した。
――もっとも、翻弄されるままに踊らされるだけの器とも思えず、同情よりも興味の方が若干勝ってもいる。
「臥南玻の連中は既に着いているだろうが……おそらく、都人は臥南玻に対しては厳しい意見を持つ者が多いだろうね」
何気なく言うと、ちらりと灰が宇麗へと視線を向けた。珍しく彼の興味を引けたらしい。宇麗は灰へと告げる。
「臥南玻惣領は灰様ともう一度お会いになりたいと仰せでしたが、それはあまりお勧めしません。少なくとも、臥南玻と関係があるのだと大っぴらにはなさらない方が良いでしょう。いまだに臥南玻はまつろわぬ民という印象が強いですからね」
「臥南玻との遣り取りを聞いていたのか」
須樹の言葉には僅かに責める響きがあった。
「聞くつもりなどなくとも聞こえてしまったので。他意はありませんよ」と、これはあくまでも灰に向かって言った。数日前の臥南玻と若衆の対峙は、宇麗にとって興味深い一事だった。聞くつもりなどなくとも聞こえた。それは嘘ではないが、一言一句聞き洩らさぬように耳をそばだてていた、というのが正しい。
「緩衝地帯からの指図は受けぬ」
「これは失礼」
灰とは話さえさせるつもりがないらしい仁識に、宇麗はわざとらしく一礼してみせた。宇麗とて己の役割を忘れたわけではない。若衆と慣れ合う気は毛頭ないのだ。宇麗の目的は、不安定な状態にある緩衝地帯の未来のため、多加羅と沙羅久の動きを見極め、今後の展望をはかることだ。だが、改めてそう思いながらも、宇麗はこの先に何が起こるのかを密かに楽しみに感じ始めていた。
多加羅一行は街を通り抜け、都の深奥へと進んで行った。山肌を這い上がるような都の形状は、そのまま住む者の貴賤をもあらわしている。庶民が住む街並みを抜ければ、より豊かな者、そして身分の高い者が住む地区へと続いて行く。そこまで来れば、さすがに人々が物見高く沿道を埋めることはない。だが、密かに、そして庶民の開けっ広げなそれよりも遥かに執拗に向けられる視線は、かえって居心地の悪いものだ。
やがて前方には見上げる程に高い宮殿と、それを取り囲む堅固な城壁が見えて来た。城壁の外側には深い溝が掘られ、宮殿の内部へと入るにはたった一つの跳ね橋を渡るしかない。その跳ね橋は、今はおろされ、十名はいるだろう兵士に守られていた。央蓮は大路から逸れ、横道へと入って行く。目的の場所が近いらしい。
央蓮の先導で向かったのは、城壁に程近い区画にある、瀟洒な屋敷だった。高い垣根に囲まれ、屋敷の前には広場がある。これだけの広さがあれば十分に剣舞の鍛練が出来るな、と灰は辺りを見まわした。厩や井戸といった設備もしっかりしている。貴賓を迎えるための屋敷なのだろう。
馬からおりると、傍近くにいた若衆が素早く彼の手から手綱を奪っていく。今までならば馬の世話も自身で行っていたが、若衆頭になってからはそれもなくなった。灰が命じる前に周囲が何くれと灰の世話を焼くのだ。立場上当然のことだと仁識あたりなどは言いそうだが、灰自身はいまだそれに慣れることが出来ない。
「灰様もこちらへ」
唐突に呼ばれ、灰は振り返った。屋敷の入り口に立つ央蓮が、灰へと眼差しを据えていた。
「お部屋へご案内をいたします」
若衆の視線を背に感じながら、灰は咄嗟に拒む言葉を呑み込む。旅の道中と同じように、若衆と行動をともにするつもりだったが、央蓮の言葉にそれが許されないことを知る。
「あとは任せてください」
仁識の落ち付いた声音に、灰は「頼みます」と一言残し、屋敷へと向かった。屋敷の扉を潜りながらちらりと背後を振り返ると、仁識が初老の男と話しているのが見えた。若衆にも世話をする者がつけられているのだろう。
屋敷の内部は外観が与える印象よりもさらに豪華だった。多加羅一行が逗留する間の召使いや侍従が既に屋敷を万全の状態にしていたのか、磨き抜かれた床にも、見慣れぬ装飾の施された家具にも、埃一つない。
「透軌様と灰様、絡玄様と藤玄様には、それぞれ侍従がお世話申し上げますので、ご要望がありましたらその者にお申しつけください」
澱みない央蓮の説明に、絡玄が苦虫を噛み潰したような顔になる。灰はそれを見ながら無理もないか、と考えていた。多加羅から都へ誰が向かうのか、事前に知らせていたわけではない。央蓮の言葉は、多加羅の動向が事前に逐一把握されていたことを示している。
いつの間に、と思うが、おそらくは旅の途中だろう。白沙那帝国の権力を支えるのは強大な武力と強固な信仰だけではない。帝国全土に目を光らせるその情報収集能力もまた帝国支配の礎だ。周到に整えられた上質の待遇も、言いかえれば全てを監視されているということか――。
絡玄の横では、透軌が無表情を貫いている。旅の間、灰は殆ど透軌と言葉を交わしていない。さらに遡れば、緩衝地帯で騒動があった頃からか。以前から透軌が何を思うのか灰には読めなかったが、最近ではさらにそれが顕著になっていた。透軌の眼差しは、決して灰には向けられない。
それぞれに宛がわれた侍従が部屋へと案内する中、灰の案内は央蓮が行った。何となしに不自然さを感じながらも、灰は央蓮の後に続く。灰に与えられた部屋は屋敷の二階にあった。絨毯が敷き詰められた部屋は、豪奢という言葉が相応しい。透軌の部屋は三階だが、これよりもさらに贅沢な造りとなっているのだろう。僅かに入るのを躊躇う灰に、央蓮が淡々と言葉を紡いだ。
「灰様には透軌様とご一緒に明後日の式典にご参加いただきます。その他にもご出席いただく行事をまとめていますので、ご覧になってください」
渡されたのはこれもまた触れたこともないほど滑らかな巻き紙である。その紙一枚で、庶民の一月分の生活が賄えるほどの価値があるだろう。巻き紙を広げ、そこに連ねられた文字に灰は思わず溜息をつきそうになった。
「これすべてですか?」
「そこに書いてあるもの以外にも、予定が入ることはございます」
灰が望むのとはまさしく逆の答えを返し、央蓮は態度ばかりは恭しく頭を下げた。
「食事の準備が出来ましたらお呼びいたしますので、それまでお体をお休めください」
去って行く央蓮を見送り、灰は今度こそ抑えきれずに溜息をつくと、部屋へと踏み込んだ。旅で草臥れた外套と背嚢が、いかにも部屋に不似合いである。迷った末に荷物と巻き紙を無造作に寝台の上に放り、灰は窓へと歩み寄った。正面に面している部屋からは、広場がよく見える。若衆達が旅の疲れも感じさせずに活発に動き回っていた。昴が笑顔で錬徒と話しているのを見るともなしに見ながら、灰は外套を脱いだ。
巻き紙に整然と連ねられた文字は、この先灰が白西露峰でどのような立場となるかを如実にあらわしていた。多加羅惣領家の血筋として、次期惣領である透軌の横に侍る。おそらくは灰自身だけではなく、透軌や絡玄も望まぬだろうそれは、帝国中枢の求めである。
体の奥底から吐き気のように沸き起こったのは、強烈な違和感だった。しっかりと踏みしめて立っている筈の己の体が、まるでどこかから吊るされ寄る辺なく揺れている心地になる。何もかもが齟齬を伴い、色ある風景ですら現実感を失っていく。
だが、その感覚に灰は覚えがあった。白西露峰に行くよう峰瀬に命じられてから、否、それよりさらに前から、時折掠めるようにして感じていた。捕われてしまえば否応もなく引きずられるそれに、灰はただ気付かぬ振りをしていただけだ。
――何故、俺はこのような場所にいる。
耳の奥で静寂が鳴る。來螺の歌い手の息子、多加羅惣領家の血筋、怪魅師――そのどれもが灰でありながら、灰自身ではないかのように――まるで己を模した像が、寄る辺なく佇んでいるように感じる。
その時、視線の先にいた昴が、まるで呼ばれたかのように灰の方へと顔を向けた。瞬間、昴が笑顔を消した。かわってそこに浮かんだのは戸惑いと、何故か怒りのように見えた。するりと顔を逸らし、背を向けた昴に、灰はすとんと力が抜ける心地がした。
視線をあげると、白西露峰の街並みが広がっている。奇妙に煙るような大気に、街はどこまでも延々と続いているかのように見えた。その果てのなさ。だが、確かにそこには数多の人の営みがあるのだ。
ああ、そうか、と妙に静かな心地で思う。灰は別段、何者と名付けられるような存在ではないのだ。それが正しい認識というものだろう。どのような生まれであろうと、どれ程の力を有していようと、灰個人の存在など微々たるものに過ぎない。肩書を背負い、それによる義務と役割を与えられてはいるが、それとて灰自身の在りようを左右するものではない。させるつもりもない。
灰は腰帯に挟んでいた守り刀を抜きとると、寝台横の机に置いた。木と木が触れあう乾いた音が微かに響く。それが、奇妙に凝り固まった自身の思考に共鳴する。疲れている。それを唐突に自覚して、灰は寝台に座り込んだ。慣れない柔らかさに体が沈む。顔を俯けて目を閉じるが、眠る気にはなれなかった。
どれ程座り込んでいたのか、灰は顔をあげると大きく息をついた。何時までも益体もない思考に捕われて蹲っているわけにもいかない。若衆の様子を確かめに行こうと立ち上がりかけて、ふわりと視界に過ったものがあった。それを目で追い、灰は身を強張らせた。
ふわりふわりと、時折形を崩しながら、漆黒の靄が漂っている。茫然と見つめながら、灰はそれがまるで蝶のようだと思った。と、漆黒が震えるようにして幾つもの形を作り出す。灰の思考をなぞるように、それは大小様々な歪な蝶を象っていた。凝然とする灰の前で、一つが煙のように解け、他の一つへと溶け込んでいく。それを幾度も繰り返し、やがて一つの蝶だけが残ると、それは灰の眼前でまるで何かを訴えかけるように音もなく翅を揺らした。
(――まさか……)
灰は衣の下から首にかけていた黒玉を引っ張り出す。黒玉は僅かに輪郭をぼやかしていた。蝶を象る力は、黒玉から溢れたものだ。灰は背筋が凍る心地がした。多加羅の闇――封じの言霊から零れ、灰が捕えたそれは、完全に灰の力により抑えられ形を保っていた筈だ。それが、灰が気付かぬうちに解け、零れ出している。
言霊から逃れた闇は、命を求め呑み込もうとする。呑み込まれた命はすぐには消えずに闇の中で漂う。灰が捕えた闇にも、過去に喰われた魂が幾つも漂っていた。消すのを躊躇い黒玉として封じた闇は、時間が経つほどにその濃度を薄めていく。闇は命を喰らわなければ、最後には自然に宿る力と同様に壊れかけた魂達とともに静かに消えていくのだ。それが多加羅に潜む膨大な闇の本体から切り離されたことによるものか、それとも闇とは本来そのような性質を有しているからなのか、灰にもわかっていない。だが、少なくとも黒玉に封じた闇は時に命を求めて灰の力を喰い破ろうとすることはあっても、灰自身が力の具現として利用する時以外に、その意思を離れて漂うことなどない。
灰の眼前で密やかに揺れるばかりの闇は、凶暴さが微塵もない。まるで灰に何かを伝えようとしているかのようなそれは、儚ささえ感じさせる。
灰は思わず手を差し出していた。漆黒の蝶はその指先にそっととまった。伝わるのは闇の冷たさと壊れかけた魂の煌めきだ。戻れ、と念じる。ここで怪魅師の力を使うことは出来ない。ただ呼びかけたそれに、漆黒の蝶は応えるように翅を揺らした。灰は目を瞬いた。闇と接する指先から何かが灰の内へと流れ込んできた。すんなりと受け入れたのは、その感触がただ只管に柔らかだったからだ。
――……キケン
音ではないそれは、不思議と囁くような心地で灰の頭の中で響いた。
――……ココハトテモキケン トテモコワイ
灰の戸惑いなどよそに、漆黒の蝶は唐突に崩れると、黒玉へと吸い込まれていった。まるで伝えるべきは伝えたとでもいうような動きである。
「どういうことだ?」
思わず呟くと、それは静けさの中に惑うように落ちた。流れ込んだ想念は闇のもの。だが闇は本来意思など宿してはいない。消えるまでただ喰らうだけの無機質な存在、その筈だ。事実、これまで灰は闇と思考を交わしたことはない。一体何が起こったのか、わからいないまま灰は己の掌を見つめていた。
指先に宿る闇の残滓が、やがて冷たい予感となって全身に広がっていく。黒玉は、今はただ固いばかりだった。
第三部の第一章「虚白の都」です。
一週間に一話更新を!なんて思いながら、早くも挫折しそうです。こんなにストーリーを決めずに書きだしたのもはじめてなので、この先どうなるか全くわかりません。
亀の歩みですが、少しでも楽しんでいただければ幸せです。今後ともよろしくお願いいたします!