112
捕えた少年を、灰はすぐに幕舎の中に押し込めた。少年は大声を出すことも暴れることもなかった。しかし蹲りながらも、険呑を通り越して殺意さえ伝えて来る眼差しは、隙あらば牙を剥こうとする野生の獣を思わせた。
さすがに騒ぎに気付いた者もいたが、今は設啓と昴が若衆のもとに待機し、落ち付かせている。灰の背後には幕舎の出入口を塞ぐように須樹と仁識が控え、油断のない眼差しを少年に据えていた。
灰は少年に幾つかの質問を投げかけた。厩の前で耳にした言葉から、帝国語以外の言語を話すらしいことはわかっていたが、もしかすると帝国語を理解することも出来るのではないかと考えたのだ。少年は敵愾心もあらわに灰を睨みつけながら、一言も口をきかない。
灰は口を閉ざし、暫し少年を観察した。くっきりとした顔立ちの中、瞳が強い光を宿している。暗がりで定かではないが、肌の色は灰達よりも濃い。先程耳にした言葉の柔らかく歌うような抑揚を思い出す。全身を覆う見たことのない装束は、おそらく強い太陽光から身を守るためのものではないだろうか。
「……イシュアラウル」
ぽつりと灰は呟いた。途端に、それまで警戒ばかりを滲ましていた少年がびくりと体を震わせた。思わずといった風情で早口に呟く。やはり一言も理解はできなかったが、それでも何かを灰に問うただろうことはわかった。
「君の言葉は俺にはわからない。だが、君がイシュアラウルであることは間違いなさそうだね」
灰の言葉に少年は黙りこみ、そして一瞬泣き出しそうに顔を歪めた。拳を握り締めて俯く姿に、どうやら少年も灰の言葉をまったく理解出来ていないのだろうと結論づけた。
「おい灰、イシュアラウルってのは何だ?」
須樹が背後から問うてくるのに、灰は振り返らずに答えた。
「イシュアラウルは帝国語では牙の民のことです」
「牙の民……聞いたことがあるな」
「帝国の南部に住む部族の総称です。言語や文化習俗が帝国とはかなり異なる人々だった筈です」
「よく知っているな」
「俺も詳しくは知りません。白西露峰に向かう前に帝国の所領について秋連師匠に教えていただいて、それでたまたま覚えていただけです」
「あの森で追われていたのは彼で間違いないでしょうね」
仁識の言に灰は頷いた。仄かな明かりのもと見れば、全身を覆う濃い色の装束のあちこちがほつれ、大きく破れている。武器の類は持っていないようだが、持っていれば間違いなくそれを灰達に向けただろう。先程抑え込んだ時に少なからず武術の心得があるだろう動きをしていた。そうであるからこそ、己と相手の力量の差もわかるのか、素手で抵抗することの無意味さを理解している様子である。
灰はさて困った、と腕を組んだ。
森で追われている者を救いたいと思ったのは事実だが、多加羅若衆頭としての立場上、決して出来ぬことだ。まさか相手からこちらの懐に飛び込んで来るとは予想もしていなかった。
「この先どうなさるおつもりですか?」
灰は仁識を振り返る。白西露峰に向かう途上、無用の問題を起こしてはならない。無論、若衆を厄介事に巻き込むことも出来ない。だが、少年をここで放り出せば、紫聖領の者達に見つかる可能性が高い。そしてそれは、少年の死に直結しかねない。
「とりあえず紫聖領の追手が諦めるまで匿えばいいんじゃないか?」
須樹が言う。
「明日、俺達は早朝に出立します。それに匿うと言っても、明るくなればそれも益々難しくなります。できれば、夜が明けるまでには何とかしたいんですが……」
灰は俯いた。無意識に口元を掌で覆う。考える時の癖であるその動作に、須樹と仁識が口を噤んだ。
「彼を、牙の民の元に送り届けましょう」
答えはさほど時間を要さずに導き出された。それしかない、と確信を込めて言う。しかし返ってきたのは微妙な間合いの沈黙だった。常ならば打てば響くように返す仁識でさえも黙りこんでいる。不審に思って振り返ると、須樹が困ったように言った。
「灰、もう少しわかりやすく言ってくれ」
「だから、彼を仲間の元に連れて行くんです」
「どうやってそうするのか、と聞いているんです。まさか帝国の最南端まで送り届けるおつもりですか」
いらいらとした声音で仁識が言った。灰は一つ瞬くと仁識を見やった。
「牙の民は帝国に屈したとはいえ、帝国に対しての憎しみが強く、己の土地から離れるようなことはないと聞いています。ですから、本来彼らが帝国中央部にいる筈がありません。では、何故このような場所にいるのか……おそらく彼は白西露峰へと向かう臥南玻惣領に付き従って来たんでしょう。そうであるならば、臥南玻の一行がこのあたりにいる筈です」
「臥南玻……?」
「牙の民が住む所領の名称です。確か二年程前に新しい惣領がたったんじゃなかったかな」
記憶を探り、灰は言った。白西露峰に旅立つ前に、秋連から帝国内の諸勢力について大まかなことを学んでいたが、その多くは皇族やその傍流、そして皇帝直属の貴族についてだった。このようなことが起こるならば各地の所領についてもっと詳しく聞いておくのだったと後悔する。
「つまり、彼は俺達と同じように、白西露峰へと参集された惣領に付き従ってここまで来た可能性が高い、ということか」
須樹が漸く納得が出来たとばかりに頷いた。
「なるほど。臥南玻ですか。それならば牙の民がこんなところでうろついている理由がたちますね。ですがその者達をどうやって探すおつもりですか。下手に動けば紫聖領の連中に勘付かれますよ」
そのとおりだ。灰は迷いながらなおも不安と警戒をあらわにする少年を見やった。方法がないわけではない。
「もしかして怪魅師の力で探そうと考えているのか? 俺が緩衝地帯で媼に囚われていた時、探してくれたのと同じように」
須樹が灰の思考を読んだように言った。
「この状況ではそれしかないと思います。ただ……須樹さん時のようにうまくいくかはわかりませんが……」
「どういうことだ?」
灰は戸惑う。己の力のことを言葉で説明するのは難しい。感覚でしか掴めないものなのだ。それでも案じるらしい二人の気配に押され、ぽつりぽつりと言った。
「須樹さんの時のように探す対象がはっきりしている場合には、その対象に集中すれば見付け出すことも不可能ではありません。ですが、対象がはっきりしていない場合には……全ての情報を一旦自分の中に取り込む必要があります。許容量を超えると……俺にもどうなるかはよくわかりませんが……自分の意識が呑まれてしまうかもしれません」
「……意識が呑み込まれた場合はどうなるんだ?」
灰は視線を彷徨わせた。灰の怪魅師としての力は未知数である。それがわかったのは、三年前に火を操る怪魅師と対した経験故だ。あの男は炎しか操ることが出来なかった。炎のみに特化した能力と言えるだろう。だが、灰は意識を開けば、数多の事象を余すところなく感じ取ることが出来る。そして幻の像を作り出すことも出来れば、風を起こすことも、おそらくは炎を作ることも出来る。灰はどこまでのことが出来るか己の力を把握しておらず、それ故に限界がわからない。限界を超えた自分がどうなるのかも――
黙りこんだ灰に、仁識が強い口調で唐突に言った。
「その案は却下です。他の方法で何とかしましょう」
「うまくいく可能性はありますし、この方法しかないと思います」
そう、これしかない。灰は腰にさしていた守り刀に触れる。望んで得た力ではない。嫌悪して目を背けたこともある。だが、力を有する己にしか出来ぬこともあるのだ。
「灰、だめだ」
厳しい声音に、灰は背後の二人を見やった。反論を封じる強さで向けられる眼差しに戸惑う。
「でも、今は時間がありません」
「危険だと言っているんです。不確実な方法に頼って、若様ご自身のみならず若衆まで危険にさらすおつもりですか」
若衆頭としての自覚を持て、とまるで子どもを叱るような口調で言われ、灰は言葉に詰まった。灰が無闇に怪魅師の力を使い、予期せぬ結果となれば、それは灰だけの問題ではすまない。反論出来ずに、灰は俯く。
「……わかりました。何か、他の方法を考えましょう」
素直に頷いた灰に、須樹と仁識が安堵を見せた。灰は戸惑い顔を逸らした。怪魅師である灰に課せられた役目――多加羅に潜む闇を滅するというそれを須樹と仁識に知られてから、どうにも二人が過度に灰を案じているように感じられる。
「とりあえずは幕舎や荷物を運ぶための荷馬車に乗せていったらどうだ? 臥南玻の人々も白西露峰を目指しているのであれば、都につけば彼も仲間に会えるだろう」
須樹の代替案に、灰と仁識は頷く。荷馬車は基本的に若衆が管理している。その中に匿うことは不可能ではない。少なくとも紫聖領の者達の目がなくなる場所まで無事少年を連れ出すには、それしか方法はなさそうだった。問題はおとなしく少年が従うかどうかであり、言葉が通じないことがあまりにも厄介である。どうしたものか、と思案する。
その時、遠く響く音に若者達は顔を見合わせた。徐々に近づき来るそれは、紫聖領から。馬蹄の音だ。複数、少なくとも五人はいるか――疑いようもなく、それは若衆の野営場所に向かっていた。目に見えて、少年が震えだした。気丈にも灰達を睨みつけていた眼差しが、今は怯え揺れている。
灰は立ち上がった。
「彼を見ていてください」
返事を待たずに幕舎を出ると、灰は街道の方へと進んだ。さらさらと降る雨が、冷たく顔を濡らす。近付き来る者達が掲げる硝子筒が、かえって周囲の闇の濃さを際立たせていた。馬上の人影はどれも分厚い外套を纏い、その上からでも武器を身に帯びていることがわかった。
「何者か! 名乗れ!」
顔も定かではない相手からの誰何に、灰はゆるりと頭を下げた。
「灰と申します」
「貴様、誰の許可を得て野営をしている!」
紫聖領から来た者であれば、当然皇族傍流に仕える者達である。傲慢はそれ故ではあろうが、明らかに領地の境界を越えてなおこの態度であれば、小さな街が強固な壁で身を守るのも無理はないと灰は思う。
「我らは旅をしております。街には我らを受け入れるだけの部屋がありませんでしたので、野営をしております」
脅すためとしか思えぬ問いに、灰は目を伏せて淡々と答える。その間にも、男達が灰を取り囲むように近付いて来る。間近に硝子筒を掲げられ、灰は眩しさに目を細めた。男達は思ったとおり五人である。中心にいる四十絡みの男は、でっぷりと肥えた体を毛皮の外套に包み、腰に帯びた剣は如何にも飾りじみて華美である。周囲を固める男達はいずれも剣と矢を携え、灰を見る目は鋭い。
「珍しい形をしているな」
中心の男が妙に粘る声音で言った。何が面白いのか、男は灰の全身をなめるように見まわしている。髪の色が注目を集めるのはいつものことだが、男の凝視には何故か鳥肌がたつような嫌悪を覚える。灰は今更ながらに髪を隠していなかったことを悔いた。
「お前に聞きたいことがある。私はここらを治める者だが、不届きにも領地に侵入した者がいる。そやつを追っていたのだが見失ってしまってね。ここらで不審な者を見なかったかね」
周囲の男達が腰の剣に手をかけているのを横目に見ながら、灰は思案した。本来侵入者の捕縛に領地の主が乗り出すことなどない。懸念したとおり、夕刻からの捕り物は目の前の男にとって娯楽――人狩りだったのだろう。己に向けられる隙あらばいたぶらんとする眼差しに、さらに確信を深める。
「不審な者は目にしておりません」
簡潔な灰の答えに、男は不満そうに鼻を鳴らした。
「侵入者がこちらに逃げただろうことはわかっているのだ。お前も、偽りを申すのであれば同罪であるぞ」
灰はひやりとする。あの少年が若衆の幕舎に向かったことを真実確信しているのであれば、誤魔化すのは難しいかもしれない。さらに追及されることを覚悟した時、何を思ったか、男は馬からおりると灰に近付いて来た。灰は反射的に後ずさりそうになって、それを堪えた。男は灰よりも頭一つ分は背が低い。下から覗き込むように顔を見られて、灰はつとめて感情を出さぬようにする。香水だろうか、男が纏う絡みつくような香りが不快だった。
「髪だけでなく瞳の色も珍しい。東方の者か。何故、この地に東方の者がいる」
完全に相手の関心がこちらに移っているのを感じ、灰はひとまず安堵する。背後の幕舎の中で耳を澄ましている仁識と須樹の気配が尖っている。すぐにでも飛び出して来かねない。牙の民の少年から意識を逸らせたのは良いが、このような場所で無用の問題を起こすのは如何にもまずい。灰はつとめて冷静に言葉を紡いだ。
「我らは東方の者ではありません。多加羅から参りました」
「多加羅とな」
はい、と灰は従順を装う。
「多加羅と言えば、確か東の所領であったな。なるほど、そなた東方の血を引いておるのだな」
いい加減に己の外見に興味を持つのをやめてくれないだろうか、と灰は些か苛立ちを覚えた。奇異に思われることには慣れているが、男の興味は奇妙に歪な興奮を含んでいるようで気色が悪い。
「一月程前、多加羅惣領に白西露峰に参集せよとの皇帝からの御命令がありました。我らはその命令に従い、都に赴く途上でございます」
男は面白い程に目を見開いた。皇族の傍流ともあれば、各所領の惣領へと出された白西露峰参集の命令を知らぬ筈がないだろう。男が灰から一歩身を引いた。
「そうであったのか」
声に潜む失望は、新たに見つけた獲物に手出しが出来ないとわかったが故か。僅かに広がった男との距離に、灰は気付かれぬよう息をつく。
「して、そなた達は何故この雨の下野営をしているのだ? 見ればまだ少年ではないか。まさか、そなたが多加羅惣領ではあるまいな。主はどこにいる」
「多加羅惣領代理として、後継ぎであられる透軌様が街におられます。我らは透軌様におともしている多加羅若衆です」
「多加羅若衆と言えば聞き覚えがある。そうそう、確か白華様が余興に呼び寄せると噂になっていた者達だな。剣舞とやらを舞うのだろう? 都にまで評判が届くのだから、どのようなものかと私も楽しみに思っていたのだよ。そなたも舞うというのであれば、さぞかし見ものであろうな」
答えかねて灰は無言を貫いた。なおも灰に眼差しを残しながらも、男は馬に跨った。
「私は皇家乙派の堅昇と申す者だ。旅の無事を祈ろう。いずれ、都で会おうぞ」
冗談ではない――内心に呟きながらも灰は頭を下げた。男達の気配が遠く離れてから、漸く灰は体から力を抜いた。男の視線がいまだ体に纏わりついているかのように感じ、一度強く頭を振る。雨に濡れた前髪が厭わしい。それを些か乱暴にかきあげて、灰は幕舎へと戻った。
須樹と仁識の案じる眼差しに迎えられ、灰は僅かに安堵した。どうやら思った以上に気を張っていたらしい。
「いらぬ関心をもたれたようですね」
仁識の指摘に灰は思わず顔を顰めていた。
「仕方がありません」と苦く返す。
多加羅の名を出せば手出しをされないだろうことはわかっていたが、出来るならば使いたくない手だった。各地の惣領が白西露峰に集められるのは、皇位継承という嵐の前触れだ。有象無象の思惑が蠢く最中で、惣領もまた権力争いの駒となる。そのような状況で、皇族傍流の男と関わり合いになるのは、極力避けるべきだったろう。灰が多加羅惣領家に連なる者であると知られれば、尚更に厄介である。
幕舎の奥に蹲る少年は、言葉はわからずとも状況を察しているようだった。痛いほどの警戒が僅かに緩んでいる。灰は思わず微笑む。
「まだ夕飯の残りはありますよね」
灰は言った。
少年に夕飯の残りを食べさせ、冷えぬように毛布を渡すと、少年は躊躇いながらもそれを体に巻きつけた。出来れば傷の手当てもしたかったが、相手がそこまで気を許すとは思えず、灰は少年をそっとしておいた。少年はといえば、眠るのを何とか堪えているようではあったが、耐えきれなくなったのか、いつの間にか小さく蹲るようにして眠っていた。
灰は副頭と交替で少年を見張りながら、短い睡眠をとった。設啓と昴もまた事情を聞き、少年を荷馬車に匿うことに反論はしなかったが、心底賛成しているようでもない。あるいは戸惑いが大きく、是非の判断にまで至っていないのかもしれない。
夜明けが近い頃合いに、灰は幕舎から出た。雨は既に止んでいた。ひやりと冷たい空気の中大きく伸びをし、辺りの気配を伺う。紫聖領の森は昨夜の緊張と騒々しさが嘘のように静まり返り、若衆の殆どもまた穏やかな眠りの中にいる。
灰は身中に凝る疲労に小さく溜息をついた。成り行きで若衆頭となり、命じられるままに白西露峰に向かう。神殿に奉納する剣舞も、先の紫聖領の男の言葉を借りれば貴族連中の余興でしかない。疎ましい役目だ。多少ましな事と言えば、惣領家の一員として扱われていないことくらいか。透軌に同行するのは玄士である絡玄と藤玄だが、実質的に力を有しているのは透軌の後ろ盾となっている絡玄である。その絡玄が普段から灰への嫌悪をあからさまにしているため、この旅でも必要以上に透軌に近付かずに済んでいる。灰にとってはむしろ有難い。
灰は東を見やった。夜の底に、細い光の筋が生まれている。見るともなしに見つめていると、強い風が正面から吹きつけた。どう、と鳴く颶風に、外套が大きく翻る。灰は腕を翳し、そして瞠目した。風の中に、囁きがある。まるで呟くように、拍動を刻むように、それはたゆたう優しさで灰の耳朶をくすぐった。
風の歌――?
灰が怪魅の力を解放したのは無意識だった。歌に誘われるように意識を解く。その瞬間、無防備に開いた力が撓んだ。まるで波と波がぶつかりあうように、力が逆巻き、捕われる。大気が震えた。無数の硝子が一斉に砕け散るような余韻を残し、灰の怪魅の力が弾け砕かれる。その衝撃に、灰は知らず膝をついていた。眉間の奥深くに剣を突き立てられたかのような痛みを感じ、たまらずに目を閉じた。
荒い息を繰り返し、痛みの波が引いていくまで灰はじっと蹲っていた。漸く鈍い疼痛にまでおさまり顔を上げると、東の空は既に複雑に織りなす朝の色彩に染まっていた。
灰はゆっくりと立ち上がる。ひどく消耗していた。無理な力の使い方をすれば疲弊することは経験上知っていたが、僅かに力を開いただけでここまで体力を奪われたのははじめてだった。否、力を開いたせいではない。何の警戒もせずに解放された灰の力を絡め取り、呑み込み、そして弾いた者がいる。まぎれもなく怪魅の力だった。無論、灰自身の、ではない。あの歌――誰かが大気を渡る風に己の力を乗せていたのだ。
その時、大地が微かに揺れた。
灰は鋭く振り返った。考える前に体が動く。若衆の幕舎の間を走り抜け、丘陵の先を見渡す。意識で捉えるまでもない。見つめるうちに、灰のもとには幾人もの若衆が集まって来た。街道の先に幾つもの騎影。迷うことなくこちらに向かい来るそれに、若衆達から戸惑いの呟きが漏れる。
「副頭は前へ。他の者は隊列を組んで待機してください」
灰の指示に、眠りから覚めたばかりだろう若者達が即座に反応した。副頭達が集ったのを確認し、灰は須樹に言った。
「須樹さん、彼を連れて来てください」
須樹は僅かに目を瞠り、すぐに頷くと踵を返した。灰は騎影を再び見やる。全部で二十騎程か、街道を外れ真直ぐに若衆の夜営地に向かって来る。いずれも黒い装束で全身を覆っている。おそらくは男ばかり、その中で初老の一人だけが頭から布を被らず、白銀の髪を風に晒していた。
「臥南玻……」
傍らで仁識が呟く。若衆達の間をとおり、須樹が件の少年の腕を掴んでつれてくる。少年は寝起きの顔に驚きと歓喜を張り付けて、何事かを叫んだ。それに応えて先頭を走る男が片手を上げる。やがて若衆の眼前で男達は馬を止めた。
灰は睥睨する男達の前へと進み出た。途端に視線が集中する。まるで敵に向けるようなそれに、若衆達の間に緊張が高まる。黒装束の男達は、まとまった動きをしているが、誰が主なのかしかとはわからない。視線をはしらせた灰の前に、一人の男が進み出た。年の頃は三十前後か。険しい眼差しを灰に注いでいる。
と、その時男の傍らから低い声があがった。それに男は振り返ると小さく頷く。男にかわり進み出たのは、全身のみならず顔の下半分をも薄紗で覆った人物だった。
「我らは臥南玻から参った。そこにいるのは我らの仲間だ。我らの仲間を追い、傷つけ、捕えたのはお前達か」
灰は思わず目を瞠った。凛とした声は、紛うことなき女性のものだ。まだ若い。きれいな帝国語だが、南部の抑揚か、耳慣れない響きがある。見えるのは瞳ばかりだが、そこに宿る光に灰は見入った。一瞬の視線の交錯――灰の髪を風が揺らした。心をかすめるように歌が流れる。女もまた、灰を見つめて僅かに目を見開いた。小声で何かを呟き、しかし紡いだのは厳しい声音だった。
「我らの仲間を返してもらおう」
灰はすべての感情を消して緩やかに笑んだ。
「誤解をしておられるようだ。我らはその少年を傷つけてはいない。その者は夜半に我らの夜営場所に迷い込んだため今まで保護していた」
灰は少年の背をやんわりと押した。少年は戸惑うように瞳を揺らし、小走りに仲間のもとへと向かう。臥南玻の言葉での遣り取りはわからなかったが、灰達に向けられていた厳しい眼差しは次第に解かれ、最後には気まずそうなものに変わっていた。
「とんだ誤解をしてしまったようだ。すまない」
いっそ潔いほどの言葉は、主と思しき男からだった。やはり独特の抑揚がある。女よりも幾分たどたどしい発音だった。躊躇いもなく馬をおりると灰に歩み寄る。その際少年に投げた眼差しは、決して優しいばかりのものではなかった。ひえ、とでも言うように少年が首を竦めた。
「私は臥南玻惣領のカナエだ。私の仲間がとんだ迷惑をかけた。しかも一晩匿ってくれたようで感謝する」
男は上背のある灰よりもさらに背が高い。見上げる形で、灰は緩く頭を振った。
「いえ、感謝されるほどのことはしていません」
事実、灰は追われる者がいると知りながら、助けようとはしなかった。成り行きで匿ったに過ぎないのだ。だが、男は灰の言葉を単なる謙遜ととったのか破顔する。
「いいや、この見知らぬ土地で、我らに手を差し伸べてくれる者などごく僅かなのだ。我らはこれから急ぎ白西露峰へと向かうため、貴殿に謝礼も出来ぬが、せめて名を教えてほしい」
「俺は多加羅の灰と申します。我ら多加羅若衆も、多加羅惣領家に付き従い、白西露峰へと向かう途上です」
男は驚いたように早口に何事かを口走った。咄嗟のことだったのか、慌てて帝国語に切り替える。
「帝国語はどうにも不得手でな。それにしても驚いたな。貴殿も所領の一員として白西露峰に向かうのか」
「お前は風の民ではないのか」
唐突に問うてきたのは件の女だった。何時の間にか馬をおりてカナエの傍らに立っている。灰は言葉に詰まった。カナエが女を軽くねめつけた。
「すまぬ。これは私の妹でアザレイという。どうも口が悪くてな」
「いえ、かまいません。俺は多加羅の者ですが風の民の血を引いています。風の民のことをよくご存知ですね」
「我らの仲間にも風の民が一人いるのでね」
あの男だ、と指差された先を灰は目で追う。そこには、一人白銀の髪を晒した初老の男がいた。鷹のように鋭い容貌をした男は、まるで睨みつけるようにして灰を凝視していた。抉るようなその眼差しに、灰は眉根を寄せた。
カナエとアザレイは身軽く馬に跨ると、灰を一瞥した。
「すまないが、先を急ぐ。後日に必ず礼をしたい。白西露峰で会おう」
奇妙な日だ、と灰は思う。これで再会を約されたのは二人目だ。一人はもう二度と会いたくはないが、カナエの人となりには惹かれる。そして、と灰はアザレイと呼ばれた娘を伺い見た。全身を覆う装束に、顔の下半分も隠し、見えるのは瞳ばかりだ。その強い煌めきに束の間意識を捕われる。既視感――そう、まるで風の歌に絡め取られた時のように――
カナエの一声で、牙の民は馬首を街道へと向けた。一斉に地面を打つ蹄の音に、朝の大気が揺れる。あっという間に遠ざかる騎影に、灰は眩しく目を細めた。
「嵐のような連中ですね」
ぽつりと呟く声がする。言い得て妙である。灰は若衆を振り返った。呆気に取られたように牙の民を見送る彼らに、灰は命じた。
「幕舎を畳んで、朝食の準備に入ってください」
三々五々動き出す若衆を横目に、須樹と仁識が近付いて来る。
「牙の民はよくここを突き止めたな」
気の抜けたような表情で須樹が言った。
「まるではじめからわかっているようだったな」ぼそりと、これは仁識の言葉である。
「でもまあ、何とか解決出来て良かったじゃないか」
それには答えず、灰は既に街道の遥か先を進む牙の民を見やった。
実際に彼らはここに少年がいると知っていたのだ。それを灰は確信する。あの歌――まるで気ままな風のように自由奔放な――あれは怪魅の力だ。少年を捜し、おそらくは少年の身に起こったことも、ある程度掴んでいたのだろう。
灰はひたりと向けられた強い眼差しを思い出す。アザレイ、と心中に呟いていた。
アザレイは顔を覆う薄紗をはぎ取った。冷涼とした風に笑みが漏れる。女性は外で顔を晒してはならないという牙の民の掟が、アザレイには疎ましい。薄紗越しでは涼やかな空気も味気ない。カナエはそんなアザレイに呆れたような眼差しを向けただけだった。
暫く進み、カナエは馬の速度を落とした。そのすぐ後ろを少年が肩をおとしてついていく。既に大方のことはわかっていた。少年が野営場所を抜け出したのは、昼間に通り過ぎた森にいた初めて見る獣を狩るためだった。旅の間中、カナエや大人達に監視紛いの視線を向けられ相当にむしゃくしゃしていたらしい。その末の暴走、と言える。
少年が見た獣はおそらく鹿と呼ばれるものだろう。アザレイも目にした時にはその美しさに驚いた。馬に似て穏やかで優美な顔立ちと、それにそぐわぬ猛々しい角を持つ。少年が惹かれるのも無理はないが、この旅の重要性を知っていれば決して勝手な行動をとるべきではない。しかも獣を狩るために入り込んだ森は、どうやら有力者の領地だったらしい。見つかり罪人同然に追われ、途中で貴重な武器までもなくしたと言う。殺されなかっただけましだろう。しかも逃げた先で馬まで盗もうとしたのだから、カナエの怒りは相当なものだ。
アザレイは先程の邂逅を思い出す。自然を感じ取るアザレイの力で少年を捜し始めたのは夜半である。少年の気配を捉えること自体はさほど難しくなかったが、どこにいるのかを明確に掴むのに思いの外時間がかかり、居場所を見つけた時には夜明けが近付いていた。そして、と続く思考は曖昧に揺れる。少年の気配を追っていたあの時、アザレイの力に何かが触れた。無防備にまるで構えることもなく触れて来たそれを、アザレイは咄嗟に掴み取ろうとした。瞬間、捻じれ千々に砕けたそれは、確かにアザレイの力と同質のものだった。だが、あの力はほんの欠片程度に違いない。さらにその奥に、気圧されるほどに大きなうねりがあった。
「……灰」
そっと呟く。銀の髪、藍の瞳――視線が交わった瞬間に感じた、底知れない空を覗き込むような感覚――間違いなく、あの力の主は彼だ。
「アザレイ様」
己の思いに沈み込んでいたアザレイははたと顔をあげた。主馬頭が何時の間にか傍らにいた。白銀の髪が鋭く朝の光を弾いている。
「あの青年は風の民なのですか?」
アザレイは瞬く。寡黙な男は滅多なことでは口を開かない。むしろ言葉を出すのを厭うている感すらある相手である。男は牙の民の言葉は話すことが出来るが、帝国語は全く話すことは出来ない。もともとの言葉が異なるから、というよりも、帝国への嫌悪ゆえに言葉を覚えることさえ忌避したのだと、アザレイはおぼろげに理解している。
「いや、風の民の血を引くだけで、帝国民らしい。何と言ったか、多加羅……というところから惣領家に付き従って白西露峰に行くのだと言っていた。我らと同じだな」
男は眉根を寄せる。多加羅、と呟くように言った。
「何か気になることでも?」
答えは期待していなかった。そのため、男が迷う素振りを見せながらも口を開いたことに、アザレイは驚いた。
「あの青年も白西露峰に行くというなら、この先また顔を合わせることもあるでしょうか」
男がこれ程に長い言葉を紡ぐのをはじめて聞いたかもしれない、とアザレイは思う。
「カナエは都で会うつもりみたいだ。仲間を助けてもらった恩もあるし。気になるのならば同行すればいい」
私も気になるしね、とは口に出さず心の中で呟いた。
「気になる……そうですね。気になります」
男は呟くように言った。その目は最早アザレイには向けられていない。己の思考に捕われているらしい男は、だからその呟きがアザレイに届いたことには気付かなかっただろう。
「……あまりにもリーシェン様に似ている」
アザレイは再び己の殻に閉じこもったらしい男に、声をかけることはやめた。男が零した言葉――その響きに、触れるのを躊躇う感情の発露があった。
地平を離れた太陽は、既に闇を追いやり眩しい光で地上を染めている。目指す都はもうすぐだった。