110
惣領家の屋敷を辞した後、灰達は鍛練所へと向かった。灰が若衆頭を任じられたことは、日を改めて公表することとしたが、何よりもまず決めることがあまりにも多くあった。白沙那帝国の都、白西露峰の神殿で剣舞を奉じる。そのための舞い手を選ぶこと自体は容易い。だが、優れた舞い手は、若衆の中でも責任ある地位の者が多く、必然的に彼らが不在となる間の若衆を誰が率いるのかが問題だった。そして灰が若衆頭になることで、副頭を一名新たに任じることとなる。その人選が難しい。
そもそも現副頭である仁識と須樹は、年齢的には既に若衆を抜けていてもおかしくはない。だが、いまだに彼らが若衆に留まるのは、後継がなかなか育たなかったためだ。原因は透軌の前に若衆頭を担っていた加倉である。己の取り巻きを引き連れて若衆を去ったため、それまで若衆の上層を占めていた者達が一気に抜けたのである。残されたのは年齢的に若く、経験も浅い者ばかりであり、何より加倉が残した若衆内部の不和が、組織としての若衆を弱体化させていたのである。その後若衆を立て直したのは、仁識と須樹の手腕によるところが大きい。漸く仁識や須樹の後を担える者が育っているが、それでもこれだけの時間を要したのだ。
突然の頭の交替、そして都での剣舞の奉納という、若衆にとっての大事に動じず、そして公平な人選として皆が納得する人物となると、自ずと絞られもする。だが、その有為の者達から一人を選ぶのが殊更に困難だった。
諸事、大まかな事柄を決めるだけでも時間を要し、結局、灰が星見の塔に帰ったのは、既に街の灯も消え始める頃合いだった。いつになく長く感じる山道に、身の内に凝る疲労を知る。春の気配を感じる季節だが、夜も深まれば冬の名残ばかりが身を包む。吐いた息の白さに目を細め、灰は頭上を仰いだ。今宵は雲がない。星は水を透かしたかのように、頼りなく潤んで見えた。己の心持がそう見せるのだと、灰は思った。
薄手の外套は、夜気から身を守ってはくれない。体は芯から凍えていたが、渦巻く思考にそれさえも遠く感じる。目を閉じる。そうすれば、すこしでも物思いから遠ざかるか――無論、無理だ。視界を閉ざせば、最も目を逸らしたいものが闇に浮かぶだけだ。己の前に立つ峰瀬の姿、告げられた言葉――あの場に何度でも引き戻され、そのたびに自身でも制御できぬ感情が沸き起こる。怒り、だがそれが何に対する怒りなのか、灰自身にもしかとは掴めなかった。
灰は再び歩を進めた。いまだに納得することが出来ない、その思いは何も灰だけのものではない。逆らうことの許されぬ惣領の言葉に、須樹や仁識、設啓とて戸惑っているだろう。決めるべきことが山積していたのはむしろ幸いだった。何を思うにせよ、それを言葉にしている余裕などない。特に設啓と仁識は意図して己の思いを秘しているのか、口にするのは事務的な事柄ばかりだった。
それも当然のことかと灰は思う。仁識は多加羅でも力ある貴族の子弟、この一件での彼の言動は、政局に関わる父親の立場にも影響する可能性がある。己が背負う家名や義務を厭うている仁識ではあるが、不用意な発言は決してしない。そしておそらくは仁識自身の気質もあるか。彼は軽はずみな言動を嫌う。口を開くときは熟考し、己の核となる考えを得てからだろう。
そして設啓もまた立場上、軽々しく言葉を発することは出来ないだろう。多加羅の中でも有数の卸屋の一門の出である彼が、父親の意向を受けて動いているのは明らか、さらにその背後にいるのはいまや名実ともに透軌の後ろ盾となっている絡玄である。峰瀬と絡玄の遣り取りを聞かずとも、設啓の立場上灰が若衆頭になることを歓迎するとは思えぬ。
ただ一人、須樹だけは違った。混乱と、おさまらぬ感情のまま長時間の話し合いを終え、鍛練所を出た際に須樹は灰に言った。
――どのような理由で任じられたにせよ、灰は若衆頭に相応しい。だから頭を上げていろ。何かあっても、俺が全力で支える。
灰を案じる思いが、籠っていた。峰瀬が何を意図しようと、周囲の者がこの決定にどのような眼差しを向けようと、須樹は言葉を揺るがせにはしないだろう。だが、そうであるからこそ、灰の心は沈んだ。灰の傍近くにいれば、否応もなく須樹もまた巻き込まれる。その誠実さが、仇となる。
――若衆はお前が率いよ。
厳然と命じた声が、今も耳の奥にこびりついている。峰瀬の傍らで、透軌が一瞬浮かべた表情、そこにあったのは何か――灰は自嘲する。わかるわけがない。普段から、若衆の報告以外では言葉さえ交わさぬ相手の心情など、灰にははかりようもない。だが、透軌が穏やかな容貌の下に隠した思いが、決して明るいものでなかったことは確かだ。おそらく峰瀬は灰を頭とすることを、透軌に告げてすらいなかったのだろう。惣領とその継嗣、そして父と息子、いずれの関わりであれ、複雑な思いを抱くのではないかと灰も察しがつく。
星見の塔が黒い影となって浮かび上がるのを見上げ、灰は小さく息をついた。僅かに体から力が抜ける。二階の小さな窓から淡い光が漏れている。書庫だ。秋連が古書の研究でもしているのか、既に稟と娃菜は眠っているだろう。
灰はしばし迷い、書庫へと向かった。
「今日は遅かったのだね」
机に向かって何やら書きものをしていたらしい秋連は、灰に穏やかな笑みを向け、言った。そういえば、自分は慈恵院へ行くと言って星見の塔を出たのだと、灰は思い出す。それすらも、同じ日の出来事とは思えぬ。灰はすすめられるままに傍らの椅子に座り、言葉をさがした。だが、自分でも整理出来ぬものを、うまい言葉が見つかる筈もなく、灰はただ事実だけを告げることにした。
「惣領の命により、若衆頭として白西露峰へ向かうこととなりました。出立は初春の頃、あと一月程先です」
いくらなんでも直截に過ぎた、と灰は秋連の表情を見て思う。
「白西露峰に? またどうして」
秋連は筆を置くと、灰へと向き直った。正面から問われ、灰はかえって居心地の悪さを感じる。この師には心情を読まれることが多い。己でもはかりきれぬ気持ちを読み取られるのは居心地の良いものではない。
「中央への参集を各所領の惣領が命じられたようです。それとあわせ、若衆の剣舞を神殿に奉じよとの、命が下されたとか。惣領の仰せでは、事はどうやら惣領家の忠心をためすものであり、惣領家の者が剣舞を奉じるのが良いだろうとの御判断です。それから、緩衝地帯の者が多加羅と沙羅久、双方に同行するようです」
言いながら、灰は媼とその背後に控えていた者達を思い出す。顔を合わせたい相手ではなかった。背の高い女の――名は宇麗だったか――射るような眼差しが勘違いであれば、と思い、灰は己に呆れた。甘い見たてだ。
「そうか、灰が若衆頭に……。透軌様が惣領の代行として都に赴くのだろうね」
秋連はいまだに驚きを浮かべながらも、既に多くを察した口調である。中央にすべての惣領が集うことは珍しいが、ないわけではない。その最たる事例が皇位継承期の参集である。中枢を牛耳る八大楼宗家にとって、そして覇権を狙う貴族達にとって、時に惣領の存在は権力争いの駒となり、切り札ともなる。現皇帝は高齢で病に伏せりがちである。遠からず崩御するだろうと、噂の域を超えた信憑性を込めて囁かれている。
「しかしなぜ剣舞を神殿に奉納するなどという話が出たんだろうね」
「皇女の白華様が御所望だと惣領は仰せでした」
「皇女白華様といえば……西妃様の第二子であられたか」
最後は呟くように言って秋連は愁眉を曇らせた。灰に向けられた眼差しに案じる思いが滲んでいる。それが単に権謀術数渦巻く都へと向かう弟子を慮る範疇を超えているように思えて、灰は戸惑う。若衆頭として剣舞を舞うだけのことで、このように懸念の瞳を向けられるだろうか。もしや、と灰は思った。秋連は多加羅が秘する真実を知っているのか、あるいは詳細は知らずとも察しているのかもしれない。多加羅は帝国の異端、嘗ては神であった荒ぶる闇を内に秘めた存在だ。峰瀬の言葉は正しい。剣舞の奉納で、帝国が求めているのは服従と忠誠の姿である。
「確かに君が若衆頭として舞うのが相応しいのだろうが……。大丈夫なのかい?」
「舞い手は皆手練です。都に発つまでまだ少し時間もありますし、重責とはいえ、失敗はしないでしょう」
「君は、大丈夫なのかい?」
躊躇い、それでも問うた秋連の言葉に、何が、と問い返すことが出来ない。
「……剣舞は皆で作り上げるものです。特に問題はありません」
「そうか。それにしても、白華様のご所望だというというのも気になる」
「どのような方かご存知なのですか?」
「相当に奇矯な人物だと言われている。あまり良い噂は聞かないね。このような辺境に届く噂などどこまで本当かわからぬものだが、逆にここまで届くからこそ、無視できぬ事実があるのか、とも思うのだよ」
「白華様が剣舞をご所望なのは、あくまでも体裁上のことなのではないでしょうか」
「そうであればよいが、白華様のお母上である西妃様は神殿と非常に縁のある方だと言われている。上辺だけではない、その裏側とも繋がりが深いと」
神殿の裏側――その暗部。真先に浮かぶのは異端狩りという言葉だ。やはり秋連は知っている。その思いを灰は深くする。多加羅の闇だけではない、灰が身に宿す力もあるいは――。都の神殿はまさに白沙那帝国の礎である一神教の総本山である。異端と見做されている怪魅師には危険でしかない場所だ。
まだ何か言いたそうな秋連の表情に敢えて気付かぬふりで灰は言葉を続けた。
「俺がいない間、稟のことをお願いします」
「君がまた長期間多加羅を離れるとなるとがっかりするだろうね」
「娃菜姶に最近稟がふさいでいると聞きました。師匠は何かお気づきですか?」
「確かに最近元気はないね。でも理由はわからないな」
すまない、と謝られて、灰は小さく首を振った。彼は稟の様子に気付きすらしていなかったのだ。長年ともに生活をしてきた稟に対してでさえこうなのである。人の気持ちにあまりにも疎い。そのような者に人の上に立つ資質があるとは到底思えなかった。憂鬱に囚われそうになり、灰は気持ちを切り替える。既に決せられたことだ。この先は成すべきことを成す、ただそれだけだ。
「それから、秋連師匠にお願いがあります。俺に帝国中枢部の歴史と、それに続く現在の趨勢をお教えください」
灰は言った。多加羅惣領家の一員として異端の身で都に赴く危うさ、それが己一人に及ぶものであればよいが、そうではないだろう。何よりも、その危険を若衆に負わせてはならない。そのためにも、武器となるものが必要であり、灰にとっての武器は知識だった。秋連は真剣な面持ちで灰を見詰め、頷いた。
「わかった。だが、今日はもう休んだ方がいいね。疲れた顔をしている。明日も早いのだろう?」
灰は頷き、秋連の言葉に従った。
書庫を後にして自室に向かいながら、灰は込み上げる溜息を呑み込んだ。明日は若衆達に灰が頭となったことを告げる。決めるべきこともまだ多い。考えるだけで尻込みする己の気持ちを切り離し、迫る現実に向かうしかない。
自室に入り、灰は明かりを灯すこともせずに寝台に体を投げ出した。全身から疲労がゆっくりと流れ出すような感覚、それに被さるように、急速な眠気が意識を覆っていく。
半ば眠りに浸されながら、灰はそういえば、と遠い記憶を手繰る。否、実際にはそう遠くはない筈だ。何か、気にかかることがあった。眠りは忘却だ。掴もうとする端から思考が零れ落ちていく。
何か――そう、泉の言葉だ。違う、泉ではない。死んだ老婆の言葉――名も知らぬ相手が、彼に遺した不可解な言葉だ。
――礎の子を守れ……
漸く紡いだその言葉は、曖昧な現と夢の狭間ではらはらと崩れる。灰は眠りに落ちた。
稟はゆっくりと身を起こした。静寂の向こう、扉の閉まる音がしてから大分たっている。灰は既に眠っているだろうか。体が冷えるのも構わず、稟は寝台から抜け出した。窓辺に立ち硝子に額をつける。裸足の足元から背筋へと、冷気がひたひたと這い上ってくる。己の吐く息で視界が淡く曇る。
眠れない日はこれで何日目か、もはや数えてもいない。眠りを遠ざけているのは稟自身だった。眠るのが怖い。眠りの向こうにあるものが怖い。毎夜のように何かを夢に見る。夢を見たという自覚はない。だが目覚めれば、その記憶が稟には残されていた。それゆえに夢を見た、と思う。
だが記憶は、夢と断ずるにはあまりにも克明だった。今よりも幼い頃に見た、とりとめのない御伽噺のような夢とは異なる。風の音、纏う衣の色、抱かれる温もり、たった独り取り残された豪奢な部屋の冷たさ、そして彼女を取り巻く人々。すべてが鮮明に、消し難く記憶に焼き付けられている。まるで実際に見てきたかのように。そして夢の中の人々は、彼女のことを決まって同じ名で呼ぶ。時に異なる名もあったが、やがてそれは消え去り、ただ一つの名のみが残るのだ。
はじめての夢の記憶はいつだったか、初冬の頃ではなかったか。その時はまだ何も感じはしなかった。だが、目覚めるたびに積み重なる記憶に、何時しか稟は怯えを抱くようになった。まるで己という器が、膨大な記憶で満たされていくような、そんな恐怖である。
この頃では、昨日の記憶と、夢の記憶が混じり合い、どちらが現の出来事か迷うことさえあった。稟という、今ある名さえも、夢の名に塗り潰されそうに感じることがある。
――兄様。
声に出さず、白い息だけで呟いた。毎日忙しくしている灰と、最近ではまともに話していない。一事は床に伏していた灰に、心配はかけたくない。だから顔を合わせても極力平気な振りをし、必要以上に灰と接することを避けた。だが、今は無性に灰に名を呼んでほしかった。夢の名に呑み込まれる前に。
――このままでは消えてしまう。
これまで幾度も、それこそ数えきれぬほど幾度も、彼女の存在は夢に押し潰され、夢に呑み込まれ、最後はただ一つの名のものとなったのだ。どこから来るのかわからぬその記憶こそが、既に稟のものではない。
「兄様」
堪え切れず、声に出す。助けて、と。だが何から助けてほしいのか、稟自身にもわからない。夢と現の記憶、その区別がつかないなど、戯言としか思われぬだろうことを彼女とて知っている。
稟は両手を握り締める。どれだけ抗おうと、眠りは必ず訪れる。明日目覚めた時、彼女の欠片は残っているのだろうか。稟という名の少女は消えて、ただ一つの名の存在になりかわっていたら――そうしたら灰が気付いてくれるだろうか。
凍えた指先には、既に感覚がなかった。稟は覚束ない足取りで寝台に戻る。毛布にもぐりこみ、体を丸めた。暗闇の中で白く力無い小さな手を、稟はじっと見詰めていた。眠りに囚われるその時まで。
風が吹き過ぎて、万の前髪をくすぐるように揺らした。無意識に視線を流しそうになり、万は自制した。直立不動の近衛の中にあって、僅かな動きも乱れとなる。新しく誂えられた近衛の装束は、まだ寒さの残る旅の道行きに備え、防寒も考慮されている。それを重く感じるのは、あまりに身軽な一人旅が身にしみついているからだろう、と万は思った。
惣領家の屋敷の前に近衛が待機し、既に半刻は過ぎている。屋敷の周囲にも多くの人々が犇めいているが、静寂を壊すのを憚るように、皆一様に黙りがちだった。無理もないだろう。近衛が一堂に会することは珍しく、それだけで威容を醸し出す。
彼らは惣領家の姫、椎良が都へと出立するその時を待っていた。椎良とともに都を訪れる貴族連中もまた準備を整えて彼らの背後に集っている。もっとも彼らには軍人の規律はない。ただ思い思いに時間を潰している様子だった。
惣領家の継嗣である椎良が市井の人々の前に姿を現すことは滅多にない。今はその数少ない機会であり、静けさの中にも押し殺された期待が満ちている。椎良が都へ出立するという、その事実もまたどこか人々の気持ちを浮き立たせているのだろう。遠い都への憧れが、人々には根付いている。近衛の中にも庶民と同じ心持の者がいることに万は気付いていた。都は遠く眺める幻であるからこそ美しいのだと、それを知る万にとっては先が思いやられる。
だが、それだけではない。期待や浮わついた空気の底には、梓魏の人々が無意識に抱く不安もまた見え隠れする。梓魏は帝国でも辺境の地であり、元来外との行き来を好まない。所領内で自足する気風があり、外部への警戒心が強い。一度外へ出た者にも、その視線は向けられる。梓魏の民は変わらぬ日常が崩れることを嫌うのだと、万はそう理解している。そして惣領家の者が梓魏を離れるのは、変わらず続く筈の日常が崩れる一事である。椎良が都へと赴くことは避けられぬことではあったが、それでも批判的な意見を口にする者とているのだ。
漸く屋敷の扉が開き、椎良とその側近達が姿を現した。椎良の母親は不安を隠しもせずに娘の手を握り締めている。盲目の娘を導いているというよりも、縋りついているように見えた。玄士は椎良の傍らに立ち、その背後には息子を従えている。庭園での一件以来、玄士の息子はおとなしくしているようだが、きらびやかな旅装に万は内心でげんなりした。梓魏惣領家を実質的に動かしている玄士その人が梓魏を離れることはないと聞いていたが、どうやらその息子が都へと向かうらしい。無論、玄士は息子を代行に据えるほど愚かでも無能でもない筈だ。信頼の置ける人材を随行員の中に配してはいるだろう。だが、あの息子の性質を考えれば、己が玄士の代行であり随行員の中心だと考えていてもおかしくはない。
面倒なことだ、と万は苦々しく思う。万の第一の目的は椎良の命を守ることだ。あの若者はその任務上、邪魔な存在になりかねない。否、確実に邪魔な存在になるだろう。相手が自分のことを忘れてくれていればよいのだが、と万はありもしない望みをもつ。
馬車へと歩んでいた椎良が、足を止めた。やんわりと母親の手を外し、見えぬ眼差しを屋敷前の広場へと彷徨わせる。その動きに、密やかな囁き声さえも潮が引くように消えた。その空気の動きを感じたかのように、椎良は集う人々へと向き直った。
椎良の声は凛と、静寂に響いた。
「私はこれより、白沙那帝国の都、白西露峰へと向かいます。私が戻るその時まで、皆は常と変らず心穏やかに過ごしてください」
広場全体を覆う空気が揺れたように万は感じた。椎良の言葉に、それまで知らず人々を縛めていた緊張と不安が解れたのか――都への出立も変わらぬ日常の延長に過ぎぬと、いずれ己が戻るその時まで、ただ安らかにあれ、と。それは梓魏の民を支配する者、惣領としての言葉だった。
椎良の背後に立つ玄士の表情には驚きと苛立ちが浮かんでいる。では、彼は知らなかったのか、と万は思う。椎良が決して守られるばかりの姫ではないことを。幼い頃から人々の上に立つことに悩み、主としての在り様に葛藤し続けていた、そのような女性であることを。人々の眼差しは今や一点に向けられている。椎良その人へと。
玄士の顔に次いで浮かんだ焦燥にも似た表情に、万は苦笑を呑み込んだ。さぞ不安なことだろう。それまで己の傀儡と成す存在、ただの操り人形としか思っていなかった相手が、突如彼の知らぬ言葉を発したように感じているに違いない。そしてその人形はこれから彼の手を離れ、都へと向かう。様々な思惑が渦巻く所領の未来さえ左右しかねないその場所へ。
万は人々の向こう、梓魏の街を遥かに越えて、空と大地の狭間を見詰めた。冬は既に去った。訪れる春は、その内に秘める膨大な命で大気を染めるだろう。冬の初め、梓魏へと歩んだ道を、今また逆に辿る。だが、あの時とは全てが違う。万は剣の柄に触れる。この先何が待ち受けていようと、己の心はここに、と誓う。ただ一振りの剣としてあればそれでよい。
「参りましょう」
椎良の声が響いた
更新まで1年以上間があいてしまいました。
とりあえず、第二部はこれで終了です。色々と考えていたことはあったのですが、書こうとしてもなかなか書けず、最もシンプルな形で終わってしまいました。
第三部は更新できるのか……いささか自信はありませんが、物語は書き手の中で続いているので、ゆっくりでも形にできたら、と思います。
こんなにも更新の遅い物語ですが、少しでも楽しんでいただければ幸せです。
今後ともよろしくお願いいたします!