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最果てに天深く  作者: 高原 景
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第二部 終章

 峰瀬は意外な客を前に笑みを浮かべた。半ばは意図的に、半ばはただ純粋に内心の感興が表に出たといったところか。対する相手は、一輪の花を思わせる慎ましやかな立ち姿である。だが、その実、緩衝地帯を裏から動かすだけの力を有する実力者であり、本来ならば直接相対することはない筈の相手だ。

「お初にお目にかかる。何故、貴女が多加羅に?」

「先程取次をお願いした方に申し上げたとおりです。私は評議会の議決結果を御報告するために遣わされました」

「媼と呼ばれる貴女が、か」

 言外に含ませた意味がわからぬ筈もないだろう媼が、まるで他意はないとばかりに微笑む。緩衝地帯の評議会は、定例会議の結果を多加羅と沙羅久、両惣領家に報告するよう義務づけられている。それ自体に何ら不自然なことはないが、使者が媼となれば別問題である。緩衝地帯を動かしているのが元締めと呼ばれる数人の卸屋であることは周知のことであったが、本来彼らは表に姿を出さぬものなのである。

「貴女が評議会の使者であると言うならば、何故このような対面を望まれる」

 二人が対しているのは、峰瀬の執務室である。本来定例報告は謁見の間で公式に行われる。しかし媼は公式での対面の前に、峰瀬個人との面談をまず申し入れたのである。媼に同行していた者達は、今は別室で待機している。

「惣領にお聞きしたいことがあったからですわ。この春、中央に全惣領家の代表が招集されるとか。それは真実なのでしょうか」

 峰瀬は驚きを露わにはしなかった。無論、驚きとは相手が中央への招請を知っていることに対してではない。それを面と向かって口に出した、ということに対してである。わざわざ真偽を問わずとも、媼ならば正確な情報を掴んでいるだろう。

「聞いて何とする」

「それが真実であるならば、惣領にお願い申し上げたいことがあるのです」

「中央への招請が、緩衝地帯に関わりのあることとは思えぬが」

 峰瀬の素気ない言葉に、媼がまるで面白い冗談を聞いたとでも言いたげに目を細めた。気の無い返事に隠した峰瀬の本心など、媼も先刻承知なのだろう。峰瀬は早々に腹の探り合いを放棄する。もとより、謀る必要性もなければ利点もない。もしかすると、先日改めて中央から届けられた命令についても知られているのかもしれぬ。

「確かに招請は受けている。だが、私は赴かぬ。中央へは透軌とうきを向かわせる」

「まあ、そうでしたか。沙羅久も現惣領ではなくご嫡男の若国わかくに様が赴かれるとか」

 峰瀬の口元が笑みの形に歪む。若国が中央に赴くのは意外ではなくむしろ予想通りのことだったが、それが決定事項なのは初耳である。

「貴女の願いとやらをお聞かせいただこうか」

「私の、ではございません。評議会からの請願ですわ。そこをお間違えになりませんように」

 媼が笑んだ。



 扉の外から名を呼ばれ、灰は顔をあげた。必要な物を詰め終えた袋を掴み、扉へと向かう。廊下で待っていた娃菜えなは、灰の姿に済まなそうな表情を浮かべた。

「これからお出掛けなんですね」

「はい。慈恵院じけいいんへ。どうかしたんですか?」

 娃菜は逡巡を滲ませながらも頷いた。

りんさんのことなんですけれど……この頃少し様子がおかしいように思うんです」

「稟が……?」

「はい。夜もよく眠れていないみたいで、塞ぎ込むことも多くて。灰様は何かご存知じゃないですか?」

 問われ、灰は戸惑う。稟の様子におかしいところがあるとは思えなかった。

「すみません。俺には何も……」

 灰の言葉に、娃菜は溜息とともにそうですか、と呟く。

「灰様には心配をかけないようにしているのかもしれませんね。でも、やっぱり私には少しいつもと様子が違うように思えるんです」

「俺も、気をつけておきます」

「ええ、頼みますね。灰様になら原因がわかるかもしれませんもの」

 信頼を込めて見詰められ、灰は気まずさを押し隠した。

 娃菜に見送られ星見の塔を出てからも、灰の気持ちは沈んでいた。稟の様子がおかしいという、それに欠片も気付くことが出来なかった己に、不甲斐なさを感じる。他に気を取られるあまり、最近では左程会話を交わしていなかったようにも思う。今夜にでも稟と話そうと心に決め、灰は足を速めた。

 慈恵院の門をくぐり、灰は物思いを封じた。緩衝地帯より戻ってから、慈恵院を訪れたのは二度目である。一度目は多加羅に戻ったその日、静星の死を知った。それからは若衆の活動に忙殺され、伏せっていた期間もあわせれば、随分長い間慈恵院を訪れていなかったことになる。慣れ親しんでいた筈の慈恵院の空気が、妙に遠く感じられた。まるで見知らぬ場所のような――あるいは灰自身が空気に溶け込むことの出来ぬ異物になってしまったかのようだった。

 尼僧に現況を確認し、馴染みの患者達と接するうちに、灰の心情も幾分落ち付いていった。そして冷静に思う。感じる違和感は、ただ単に慈恵院を長く訪れていなかったせいだけではないのだろう。

 灰は治療に一区切りつけ、回廊から小さな庭園を見詰めた。冬のはじめにも同じ場所に立った。その時己が何を思っていたのか、灰には思い出すことが出来ない。忘れる程の小さな物思いだったか――と、不意に一つの情景が脳裏に浮かんだ。

 陽射しの中で微笑む静星、その傍らで稟が歌っていた。その旋律が記憶の底で揺れる。泡沫の時をいずれ失うのだと、灰は確かに感じていた。そして今、灰は気付く。失うのではない。それは、何時か懐かしく焦がれるとわかりながら、否応もなく自ら手放し背後に置き去りにするものたちだった。この先灰がどのような道を選ぶにせよ、それは最早優しい時の中に留まることが許される道ではない。

「灰様」

 呼ばれ、灰は振り返った。泉が息を切らして立っていた。

「こんなところにいたんだな。今日来てるって聞いて探してたんだ」

「どうかしたのか」

 もしや患者に何かあったのか、そう思い問うた灰に、泉は気まずそうに視線を泳がせた。

「そうじゃなくてさ……前、俺言いたいこと言ってそれきりだったから」

 何故もう少しはやく多加羅に戻って来なかったのかと詰られた。それを灰は思い出す。

「あの時はごめん。灰様だって静星が死んで辛いんだってわかってたんだけどさ」

「気にしなくていい」

「灰様ならそう言うだろうと思ってたけど、俺が嫌なんだよ。なんか、自分勝手なこと言って」

「静星の最期を看取ってくれてありがとう」

 泉が無言で灰を見上げる。灰はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「静星は俺が慈恵院ではじめて看た患者だった。永くないことはわかっていたんだ。それでも何とかしたいと思っていた」

「……灰様なら、何とか出来たんだろ?」

「俺自身も自分の力で何とか出来る筈だと、思っていた。あの時は……」

 宿る響きに、泉は言葉を呑み込んだようだった。灰は視線を庭園に流した。己ならば救える筈だと、命に対する力の行使が如何に危険なものであるか、知らぬままにどこかで過信していた。そして今もなお、捨てきれぬ思いが灰にはあった。身に宿る力が、壊すばかりではなく守り救うために使えるのではないか、と。その証を求める衝動がいまだ燻っている。

 傲慢――それ以外の何者でもない。灰は苦く思う。

「……あのさ……もう一つ灰様に言わなきゃならないことがあるんだ」ぽつりと呟かれた泉の言葉に、灰は我に返った。泉もまた庭園を見詰めていた。

「ここで少し前に、患者のお婆さんが一人死んだんだ。俺は殺された、と思うんだけどさ、老師は自殺だって言ってた」

「はっきりしないのか?」

「胸に短剣が刺さってて、それに俺、逃げていく変な男を見たんだ。でも老師はお婆さんが自分で胸を刺したんだろうって」

 僅かに揺れる声音に少年の恐れと動揺を知り、灰は穏やかに問うた。

「誰が亡くなったんだ?」

「名前はわからないんだ。誰にも名乗らなかったから。でも、灰様は知っている筈だよ。最期、息を引き取る寸前に灰様に伝えてほしいことがあるって言ってたから。灰様の患者の一人だったんじゃないかな」

「俺に?」意外な言葉に灰は驚く。

「うん。それもはやく伝えないと、と思っててさ」

 戸惑い、灰は患者の顔を思い浮かべる。静星以外に、灰が直接受け持っている患者の中でこの冬に死んだ者はいない。それも名乗ることすらしない老婆など、思い当たらない。そこで、掠めるようにして浮かんだ姿があった。一度、声をかけてきた不思議な老婆がいた。

 ――お若いの、これはうつつかい?――

 信じられぬものを見たかのように己を凝視する鋭い眼差しが、不意に思い出された。

「その人が、何と?」

 ひそりと頭を擡げる得体の知れぬ緊張とともに、灰は尋ねた。

「よく聞き取れなかったから自信がないんだけど……」

 泉はゆっくりと、なぞるように言葉を紡ぐ。

「どうかいしずえのこを守ってほしい……て」

 確かそんな感じだった、と些か自信がない様子で泉が付け足す。定かに意味を捉えぬまま紡がれた言葉に、灰は眉を寄せた。いしずえのこ――反芻し、呟く。

「礎の子」

 ざわざわと、背筋を這い上がる理由もわからぬ不安が不快だった。礎の子――声に出すのを躊躇う程の強い力を感じる。まるで言霊のように。そして、灰は確かにその言葉を知っていた。星見の塔の書庫の片隅、今では存在さえ忘れられているだろう古書に、それはあった。朧な記憶を辿ろうとして灰は思わず顔を顰める。それに、泉が不安気な声をあげた。

「灰様、どうかしたのか?」

 灰は眼差しを緩める。

「いや、何でもない」

「礎の子って何なのかな」

 いっそ無邪気な程の泉の問いに、灰は答えられなかった。あの老婆が、何故一度会っただけの相手に不可解な言葉を遺したのかがわからない。それ故の不安なのだと、灰は思おうとして失敗する。

 引きずり込まれる。

 ――何故?

 否応もなく。

 ――何に?

 何もわからぬままに、直感よりもさらに深い部分で、灰は胸詰まるような鋭い予感を知る。新たな季節を兆す風に、灰は苦しい呼気を逃がした。一人の老婆が命を絶ったという小さな庭は、静寂の内にある。

「老師はどこにいる?」

「さっき西棟で見たよ」

「そうか」頷き、灰は歩き出した。

「なあ、何かまずかったか? 俺、老師にはお婆さんの言葉のこと伝えてないんだ。遺言みたいだったから他の人には言ったらだめなんじゃないかと思って……」

 慌てて後をついてくる泉の頭に、安心させるように掌を置く。

「大丈夫だ。泉は間違ってはいない。老師が自殺だと言っていたのなら、何か知っているかもしれないから、話を聞きたいだけだ」

「そっか」安堵を浮かべた泉に、灰は視線を向けた。

「ただ、他の誰にもさっきの言葉は言わないでほしい」

 泉は灰の顔を暫し見詰め、そこに何を読み取ったのか唇を噛み締めると一つ頷いた。

「わかった」

「よし」もう一つ、柔らかく泉の頭を撫でると、子供扱いするな、と憮然とした顔で泉が呟く。それに小さく苦笑を零して、灰は足を速めた。



 灰が慈恵院を後にしたのは午後も半ばを過ぎた頃だった。常よりも早く切り上げたのは、他に思考を取られ、どうしても意識が散漫になってしまったが故である。

 泉から伝えられた老婆の言葉、その意味を知ろうと老師に話を聞いたが、尚更困惑が深まっただけだった。老婆が遺した言葉の意味が掴めない。

 老師の話では死んだ老婆は自らを仙寿せんじゅであると言ったらしい。そのうえ、灰の未来をも知っているのだと。

 ――遠くない未来、多加羅を永久に去り、東の地へ赴く。そのように言っていた。

 老師は老婆の言葉を信じられぬ様子だった。しかし、そのすべてが虚偽だと思っているようでもなかった。この世の事象全てを知ることなど、人にはかなわない。故に己には到底信じられぬことであっても、即ち偽りであると断じることなど出来ぬ。そう前置いて、老師は老婆が彼に語ったという内容だけを灰に伝えた。

「灰様!」

 唐突に名を呼ばれ、灰ははっと顔を上げた。とりとめのない思考が破られる。ちらほらと人々が行き交う道の向こうに、見知った若衆の姿がある。若衆は灰に駆け寄ると、安堵を滲ませた声で言った。

「星見の塔に行ったら慈恵院だと言われたもので、今から向かおうと思っていたんです。休みの日に申し訳ありませんが、急ぎ鍛練所に来てください」

「何かあったんですか?」

「惣領からの使者が来て、副頭四人に正装で惣領家の屋敷まで来るようにとの命令があったんです」

「要件は?」

 嘗てないことに思わず問えば、若衆も戸惑いを浮かべわからない、と答える。

「使者は何も言っていませんでした。十三の刻までには屋敷に来るように、とだけ」

「わかりました」灰は頷くと、道を駆けた。十三の刻まで一刻程しかない。

 鍛練所では既に須樹すぎ仁識にしき設啓せっけいが準備を終えて待っていた。灰は急ぎ準備を整えると、広場で待つ三人の元へと向かった。

 若衆の正式な装束は、白の簡素な武闘着の上に、濃紫から群青へと色を移す長衣を羽織り、漆黒の帯できっちりと締める。銀糸で細かな刺繍が施された長い裾と手首までを覆うゆったりとした袖は、剛健でありながら華麗である

 正装した四人が集えば、何事かと遠巻きに様子を窺っていた若衆達から小さな感嘆の声が漏れた。祭礼での剣舞以外で、若衆が正装することは滅多にない。

 剣舞は多加羅若衆の誇りであるため、副頭は武術だけでなく、舞い手としての技量も求められ、剣の軌跡と衣の波のような動きが美しく調和する程に見事とされる。現副頭の四人は歴代の舞い手の中でも優れていると評判だった。自然と若衆達の視線には羨望と誇らしさが込められていた。

 四人連れだって鍛練所の門を潜り道へと踏み出す。足早に進めば、道行く人々もまた珍しい若衆の正装に眼差しを注いでいた。

「一体何事だろうな。灰は何か知っているか?」

 歩きながら、漸く須樹が口を開いた。他の二人の張り詰めた表情から、彼らもまた突然の呼び出しに驚いているのがわかる。若衆頭である透軌からの命令ならばまだしも、多加羅惣領が直接若衆を呼び出すなど嘗てなかったことだ。

「いえ、何も知りません」硬い声になることを繕うことが出来ず、灰は言葉を切った。幾分語調を弱めて続ける。

「おそらく、公式の場で若衆として立て、ということなのでしょう」

「何か心当たりでもあるんですか?」

 仁識が灰の横に並び立ち問うた。灰は頷く。鍛練所へと向かう道すがら、そして今に至るまで、灰が考えついたのはただ一つだった。

「もしかすると緩衝地帯が関係しているかもしれません」

「緩衝地帯!?」須樹の声が僅かに跳ね上がる。何故、と呟くのに、灰は答えた。

「緩衝地帯で評議会が開催された後には、多加羅と沙羅久の両惣領家への報告が義務付けられています。この前評議会が開かれたので、おそらく丁度今頃報告がされる筈です」

「評議会ですか。あり得ますね」

「問題は、何故俺達が呼び出されるか、だな」至極冷静な設啓の言葉である。

「まさか、この前の一件か?」

「それは……ないとは思いますが……」

 緩衝地帯での一件は、既に何事もなかったこととして片が付いている。そして弦からの報告でことの顛末を把握しているであろう峰瀬も、敢えて触れることはしない筈だ。尤も、灰には峰瀬の思考がすべて読めるわけもなく、考えも及ばぬ思惑があるのかもしれなかった。

「……急ぎましょう」

 足を速め灰は先頭に立つ。命じられた十三の刻が迫っていた。

 惣領家の屋敷に辿り着いた四人は、待ち構えていた侍従に連れられて屋敷の奥へと案内された。無言で先を歩く侍従に問おうにも、それが許される空気ではない。廊下を歩きながら、灰はどこに向かっているのかを察する。

「謁見の間に連れて行かれるようですね」副頭だけに聞こえるように呟く。

「謁見の間……」

 須樹の声に狼狽が混じるのは致し方ないことだった。謁見の間は多加羅惣領と公式に向き合う場である。当然、対するのは中央や他所領からの使者、多加羅の中でも貴族など相応の地位を有する者達ばかりである。庶民や一介の若衆が立つことを許される場ではない。

 謁見の間の扉は閉ざされていた。侍従の姿を認めた衛兵が扉に手をかけ、大きく開ける。

「若衆副頭が参りました」侍従の声が重々しく響く。

 謁見の間には少なくはない人影があった。中央に峰瀬が座り、その傍らには透軌が立っている。さらに三人の玄士が控え、主だった貴族も揃っているようだった。素早く左右に視線を走らせた灰は、謁見の間の奥、惣領と程遠くは無い場所に立つ者達の姿を捉え、僅かに目を見開く。遅れ、背後で須樹と設啓が驚く気配がした。

 灰は正面を見据えると真直ぐに歩を進めた。注がれる視線は痛いほどだ。背後に三人の気配が続いた。須樹が背筋を伸ばした。仁識はまるで挑むように前を見据え、設啓が拳を握り締める。謁見の間の中程に達すると、峰瀬が徐に口を開いた。

「これで揃ったな」

 膝をつこうとする若者達の動きを身振りだけで止めて、峰瀬は立ち上がった。

「皆に集まってもらったのは他でもない、今春の中央への招請について伝えることがあるからだ。知ってのとおり、都へは我が息子透軌を向かわせる」

 若衆副頭にとってはまるで初耳のことではあったが、他の者達は既に知っていたのか驚く気配はない。だが、続く言葉にざわめきが波紋のように広がった。

「そして、この程、緩衝地帯の評議会から同行の申し出があった」

 言いながら、峰瀬が自然な動作で一隅に立つ者達を示した。

「評議会からの使者、媼殿だ」

 初老の優しげな女性が美しく一礼した。驚きの囁きが空気を揺らす。しかるに、集められた者達は彼らが何者か知らなかったのだろう。媼の背後には明るい色の髪を短く刈り、簡素な衣に身を包んだ長身の女が立っていた。女と灰の視線が一瞬交錯する。鋭い視線の主から、灰はさりげなく顔を背けた。

「お許しになられるのですか」

 絡玄が問う。非難の響きは、誰の耳にも明らかだった。

「無論だ。今中央の政情は非常に不安定になっていると聞く。彼らは中央の動向に明るい。我らの助けとなってくれるだろう」

「緩衝地帯の者が同行するなど、前例がありません」注意深く選ばれた言葉だったが、込められた意味は明白である。両惣領家と緩衝地帯は互いに不可侵、緩衝地帯はどちらの惣領家にも傾いてはならない――その暗黙の掟を壊すことにはならないのか。答えたのは峰瀬ではなく媼だった。

「緩衝地帯は多加羅惣領だけではなく、沙羅久惣領にも同様の申し出を行っております。無論、お許しいただくか否かは、惣領のご判断次第ですけれども」

 どちらの惣領家に傾くわけでもない。選ぶのはあくまでも多加羅であり沙羅久だと――脅しともとれる内容に、絡玄の顔が更に険しくなる。だが、最早反論の余地がないことは明らかだった。峰瀬の判断に誤りはない。緩衝地帯から両惣領家に差し出された供物は同等、拒めば、微妙な力関係が沙羅久に傾く危険もある。

「惣領、何故若衆副頭までこの場にお呼びになったのですか」

 重い沈黙を破ったのは透軌だった。尤もな疑問である。

「中央への招請が若衆にも関わりのあることだからだ。先日、中央から使者が来た。此度の招請に際し、名高い多加羅若衆の剣舞を都の神殿で奉納するようにと、皇女白華(びゃっか)様がお望みとのことだ」

「何と……!」

「皇女様が!?」

 皆の動揺を見詰める峰瀬の表情はどこか可笑し気ですらあった。焦点を結ばず巧妙に隠されたもの、それに気付いた者は多くはないだろう。

「中央の神殿に奉納とは、何とも名誉なことですな!」背後に響いた誇らしげな声すら遠く、灰は峰瀬を見詰めた。胃の底に石が落ち込んだかのような感覚があった。

「よって、中央へは若衆も赴くこととなる。人選は若衆に任せる」

 峰瀬が灰を見据えた。

「灰、今この時より若衆はお前が率いよ」

 唐突な宣告に、謁見の間が静まりかえった。灰は茫然と峰瀬を見やる。

「惣領、お待ちください!」

「何だ、絡玄」

「中央の神殿への奉納という大事、しかもお命じになったのが皇位継承権を有しておられる皇女様なのですぞ。まさに、惣領家の威信がかかっております。若衆頭は透軌様であるべきです」

 中央の神殿は白沙那はくさな帝国の信仰の拠点である。そこで奉納を行うことがどれ程に重い意味を有するか――絡玄の言葉に、浮ついていた空気が俄かに冷める。決して失敗は許されぬ。

「なればこそ、灰に若衆頭として剣舞を奉じよと言っている」

「おそれながら、それこそ惣領家の名を落としかねませぬ。惣領家の者が舞うなど……」

「絡玄、違えるな。試されているのは我らの威信ではない。我らの忠心だ。剣舞を多加羅惣領家の者が舞うことに意味がある」

 そしておそらくそれこそが狙い――灰は声に出されぬその言葉を聞いたように思った。

「透軌、異論はあるか?」

「いえ、ございません。惣領の仰せのままに」

 色の無い声音で透軌が答えた。俯きがちなその表情から、灰は何らの感情も読むことが出来なかった。

「灰、若衆頭として、立派に神殿への奉納を果たして参れ」

 命じる声は冷厳と響いた。

 灰が託されたもの、それは惣領家の一員として白沙那帝国への忠心を示すことだけではない。何よりも帝国が秘する異端の象徴として、一つ神に対する絶対的な服従を示せと――灰は拳を握り締めた。膝を屈し頭を垂れる、ただそれだけのことだ。だが、軋むように心が否、と唱えていた。不意に鋭い怒りが沸き起こる。隠しきれぬそれが、峰瀬に気付かれても構わなかった。だが、拒むことが許される筈もない。

「承知いたしました」

 灰は答えた。その言葉が、重く己自身を縛る鎖となるだろうことは、わかっていた。

 終章に入りました。あと一話続いて、第二部は終わります。(やっと!!)

 うう、長かった。内容的にも、期間的にも。もう少しどうにかならんものかと思いますが、なかなか。第三部も構想自体は結構固まっているのですが、やはり亀の歩みになりそうな予感です。そもそも書けるんだろうか……。

 ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!


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