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最果てに天深く  作者: 高原 景
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 接見の最終日は薄曇りだった。椎良しいらと対する近衛兵は十五名、隊列を組み一糸乱れぬ動きで屋敷へと向かった。よろずは列の中程、りゅう矢束やつかに挟まれる位置にいた。吐く息はいまだ白く、澄んだ空気に硬質な足音が高く響いた。

 万が惣領家の屋敷の内に入るのは、初めてのことだった。外観に違わず壮麗な中にも、梓魏独特の優美な素朴さがある。接見が行われるのは嘗て議事が執り行われた一室である。政が一人の専横に堕してからは使われてはいないそこに、椎良の姿があった。椅子に座る姿はたおやかに、だが、どこか決然とした雰囲気を纏っていた。その背後には女官達が、そして傍らには玄士正章の姿がある。その苦虫を噛み潰したような顔に、やはりこの男の案ではなかったか、と万は改めて思った。

 平伏した彼らに、椎良は言った。

「頭を上げてください」

 柔らかな声に、男達は顔を上げた。椎良は音もなく立ち上がると、真直ぐに歩み出した。誰も手を貸さぬのは、椎良がそう命じたからだろう。椎良は歩みを止め、見えぬ眼差しを近衛兵に向けた。

「日々私達の命を守る貴方達に、私から感謝を。私には貴方達の姿が見えません。どうかこの手をとり、名と、声を聞かせてください」

 一人目の兵が歩み出し、椎良の前に跪いた。白い手を戴き、頭を垂れる。

「辰志と申します。梓魏惣領家に永遠の忠誠をお誓い申し上げます」

「辰志、この先も我らとともに」

 それはまさに儀式だった。誓いの言葉に応える椎良の声は、優しくも稟とした強さを秘めていた。そして、万の知らない椎良の姿がそこにはあった。傅かれ守られるばかりの姫ではない。自らの力で立ち、己の言葉を持つ者のそれだ。玄士正章の渋面の理由を万は察した。玄士にとっては、単なる操り人形としか思っていなかった椎良の、思わぬ一面だろう。

 己の順番を待ちながら、万は心を無に保とうと努めた。最後に言葉を交わしたのは十年前、声だけで気付かれる筈がない、と自身に言い聞かせる。

「柳と申します。我らは命を賭して椎良様をお守りします」

「柳、貴方の尽力に感謝します」

 柳が列に戻り平伏するのを見届け、万は立ち上がった。僅かな距離を進む。跪き椎良の手を戴くと、その指先はひやりと冷たかった。

「万と申します。忠誠をお誓い申し上げます」

 万は頭を垂れると言った。微かに椎良の手が震えたように感じた。それとも震えているのは己の方だろうか。

「万、貴方の忠誠は私の宝です」

 万はさらに深く頭を下げ、椎良の手を離した。立ち上がり背後に下がろうとしたその時、椎良がまるで呟くように言った。

「万、教えてください。春の花は、もう咲いたのでしょうか」

 万は動きを止めた。椎良の眼差しは中空を彷徨っている。何かを追うように――追憶に浸るように――?

「お許しください。私は剣を振るう者です。花のことはわかりません」

 低く答えると、万は列まで下がり平伏した。前へと歩み出す矢束の気配を感じながら、ただ床を見詰めていた。

「矢束と申します。姫君の常に心安らかならんことを」

「矢束、貴方にも幸あらんことを」

 惑うように、椎良が再び問うた。

「貴方には花が咲いたかわかるかしら」

「いまだ蕾は固く、しかし春は遠からず参りましょう」

 澱みなく答え、矢束が退いた。

 その後に続いた者達の言葉を、万は半ば上の空で聞いていた。椎良の声だけがくっきりと、空間に余韻を残していた。接見は速やかに半刻程で終わった。外に出ると、気温は屋敷の内と左程変わらないように感じた。整然と並び歩く彼らも、近衛隊本部の門をくぐった途端に抑えていた興奮を露わにした。

「私は一生今日のことを忘れぬ。名を呼び、お言葉をかけてくださった」

「ああ、俺も忘れぬぞ。椎良様は素晴らしいお方だ」

 口々に語らいながら、誰もが少年のように顔を輝かせていた。近衛兵の中でも位が低く、常ならば惣領家の者と目を合わせることも許されぬ立場である。彼らにとっては、記憶に刻まれる一時だった。

「おい、お前焦っていただろう」

 肩を強い力で叩かれて、万は無理矢理笑顔を作り振り返った。柳が相好を崩している。

「春の花などと問われても、風流ごととは縁が無いからな」

「風流ごとかね。単に時節の事柄をお聞きになっただけだろう」

 冷静な言葉は矢束である。

「そう言う割に、お前はなかなかに洒落たことを言っていたな。さすがに俺達のような武骨者とは違う」

「確かに。だが、柳と同じにされたくはないな」

 万は何とか言葉を押し出した。

「さて、私は万の答えもなかなかに洒落たものだと思ったがな。風流を解さぬ不調法者、故に問うてくれるな、と返す。ならば、とさらに問いたくなるのが人というものだ。お陰で私まで問われることとなった」

「矢束は相変わらずややこしいことを言う。要はあれだ、春が近いってことだな」

「何故その結論になるのか、私にはわからん」

「お前には俺の風流心がわからんか。残念だ」

「むしろわからんでよかったよ」

 前を歩く二人の遣り取りを聞きながら、万は笑みが渇いていくのを感じていた。

 空を仰ぐ。花が咲くには、大気はまだ冷たい。やがて春が来て蕾が開いた時、花は哀れだと椎良は言うだろうか。言いはしないだろう、と万は己の考えを打ち消した。椎良は記憶の中の少女と同じではない。己が十年前とは違っているように。嘗て咲いた花はとうに死んでいる。その姿を覚えている者は誰もいない。




 白沙那はくさな帝国の都――白西露峰はくせいろほう。峻嶮な山肌を這い上がるように、王城は在る。天に向かって螺旋を描くようにして屹立するその光景は、古来より数多の詩人に礼賛されてきた。だが、一点の曇りもない姿の裏には、人の目には見えず、語られることもない深い暗がりがある。

 王城の下には、大地深く広大な地下が在った。華麗な表の姿が繁栄と権力の象徴であるならば、地下は白沙那帝国が長い歴史の中で秘めてきた陰謀と闘争、殺戮の象徴である。何時の時代に築かれたものかも定かではない。時とともに拡張され枝分かれして、巨大になればなるほどに、秘める闇もまた深まっていった。

 今、一人の青年がその地下を歩いていた。聡達そうたつである。螺旋を描く黴臭い階段を降り、さらにいつ果てるともわからぬ長い通路を進む。その歩みに迷いはない。聖蓮院しょうれんいんの装束の上にゆったりとした外套を羽織り、明かりといえば手に掲げる硝子筒が一つ、無造作に背で括った漆黒の髪が周囲の暗がりに溶け込むような案配で揺れている。

 幾つもの分岐点を曲がり四半刻程、聡達は目的の場所に辿り着いた。闇一色の通路の奥に松明の揺らめき、浮かび上がるのは行く手を阻む鉄格子である。鉄格子の前には一人の兵士が直立している。兵士は鋭い一瞥を聡達に投げ、無言で鉄格子の鍵を開けた。聡達が中に入るのを見届け再び鍵をかける。背後に響くその音を聞きながら、聡達は歩調を変えることなくさらに奥へと進んだ。

 そこはごく僅かな者だけが踏み入ることの出来る領域だった。等間隔に灯された松明の明るさが、かえって暗闇を深く凝らせていた。足音ばかりが反響する湿った静寂に、不意にくぐもった音が響いた。獣の咆哮のような、苦悶故の叫びである。陰々と尾を引くそれにも聡達は表情を変えることなく、一つの扉を開けた。

 薄暗い通路とは対照的に、その部屋はそこかしこに硝子筒が灯され、明るかった。四方の壁には天井まである棚が設えられ、乱雑に書が積まれている。部屋の中央には大きな卓が置かれ、その上にも雑然と紙が散乱していた。その紙の束に屈みこんでいた人影が、頭を上げた。小柄な男である。年中地下にいるせいか、痩せた顔は青白い。聡達の姿を認めるなり、声高に言った。

「ああ、聡達様、あれをどうにかしてくださいよ」

雅浪がろう様か」

 言いながら聡達は外套を脱いだ。切れ切れの悲鳴は、いまだこびりつくように響いている。気の無い様子で卓に近付いた聡達に、男はなおも言い募った。

「まだ試験段階の法術だから試す程度でいいと何度も申し上げているのに、相手が衰弱するまで使うんですよ。あれじゃあ実験になりませんよ。殺しちまう。ただでさえ異端は不足してるってのに」

「誰に言霊を試しているんだ?」

「一月程前に捕えた農夫ですよ。水脈を読むんだか何だか、まあ大した力を持ってるわけじゃありませんけどね。井戸を掘るにはいいんでしょうけど。聡達様が実験をなさったらいいんですよ。雅浪様より余程言霊の扱いが上手い。この前なんか雅浪様が炎使いの男を殺しちまって、あれには参りましたよ。あの怪魅師けみしは気に入ってたってのに」

「炎使い?」

「ほら、聡達様が三年前に多加羅から連れて来た男ですよ。いつまでたっても幼児みたいな奴でしたけど、従順で怪魅の力も強いし、実験では重宝してたんですよ。それが、この前雅浪様がまだ法式が完成していない言霊を使ったせいで死んじまった」

 ふてくされたように男は言う。それを聞き流しながら、聡達は卓の上の紙を取り上げた。幾つもの文字が書き連ねられている。そのどれもが言霊として音に乗せれば強い力を発する特殊なものばかりである。多くの条斎士はこのような言霊が存在することすら知らないだろう。知っているのは条斎士の中でもごく一部、聖遣使だけである。

「悲鳴が止まったな」

 聡達は呟いた。程なくして二人の人物が足音高く部屋に入って来た。一見して貴族とわかる大柄な体躯にきらびやかな衣を纏った男、雅浪である。雅浪の背後には如何にも従者然とした男がつき従っている。雅浪は聡達の姿を見るや顔を顰めた。

「何をしに来た」

「言霊がどれ程完成したか見に来ただけですよ」

「実験は私に任されている。好き勝手に出入りをしてもらいたくはないな」

「実験?」

 聡達は口角を上げた。

「拷問をしたければ他でおやりになればいい。ここでの目的は異端を殺すことではなく、支配し傀儡と成すことにあります。雅浪様のようなやり方では、言霊が完成する前に捕えた異端が全て死んでしまうでしょう」

「私に意見するつもりか」

「滅相もない。八大楼宗家はちだいろうそうけの血を引くお方に意見など、私はそのように豪胆でありませんよ。同じ聖遣使として御助言申し上げているだけです」

 言っている内容とは裏腹に、聡達の声は冷たい嘲りに満ちていた。雅浪の顔が益々歪む。

「ふん、ならば私も聖遣使として貴様に忠告しておいてやる。貴様がそのような態度をとっていられるのもあと僅かだ。新皇帝がおたちになれば、貴様の聖遣使の身分などすぐに剥奪されるだろう。せいぜい後の身の振り方でも考えておくんだな」

「新皇帝とは、雅浪様には既にこの帝国の行く末がわかっておいでのようだ」

「貴様と私では立場が違うということだ」

 聡達の揶揄に気付かぬ様子で、男は優越感を滲ませて言った。

「いくら皇女様に媚を売ったところで無駄だ。皇女様が帝位を継がれるわけがない。いまだ人形遊びに興じておられる様など、見ていて虫唾が走る。近付こうと思う者の気が知れぬわ。私なぞ頼まれても近寄りたくはない」

「御安心なされよ。白華びゃっか様は美しき者を愛でることがお好きなだけ。雅浪様のような方がお傍に寄られることは白華様の方がお望みにはなられぬ」

 稚気さえ含む聡達の笑みを、雅浪は怒りもあらわに睨みつけた。険悪な空気に不穏な気配が混じる。今しも攻撃の言霊を放とうとでもするかのように、雅浪の敵意が膨れ上がる。圧力となって向かってくるそれに、聡達は顔色一つ変えるでもなかった。

 聖遣使には身分というものは関わりがない。どのような出自であろうと、銀の腕輪を皇帝から下された時に、神と帝国に仕え異端を狩る者として同等の立場となる。だが、雅浪のように貴賤の別に拘る者もまた多い。尤も、身分による隔たりがなくとも、条斎士として並外れた力を有し己に絶対の自信を持つ者達の間に、友好の情が生まれることなど滅多にない。

「そのような態度をとっていられるのも今のうちだけだ」

 やがて雅浪は吐き捨てるように言うと、部屋を出て行った。荒々しい足音が遠ざかるのを聞き、聡達の傍らで小柄な男が安堵の溜息をついた。

「まったく、雅浪様を挑発などせんでください。ここで法術を使われでもしたら、貴重な資料に傷がついてしまいますよ」 

 地下に籠り言霊の開発だけに心血を注ぐ男の慨嘆に、聡達は皮肉な笑みを返した。

「案ずる必要はない。あの雅浪様に俺を攻撃するだけの度胸なぞありはしない。せいぜいが抵抗も出来ぬ相手を痛めつけるしか能の無い男だ」

「お願いですから、雅浪様本人にそんなこと言わないでくださいよ」

 うんざりとした様子で男は言った。再び紙の山に向かう男に、聡達は言った。

「この前の言霊は完成したのか」

「ああ、あれは打ち止めです」

「未完成でもいい。渡してくれ」

「おすすめはしませんよ。加減が難し過ぎるってことで。下手すると相手の精神を壊しちまう」

「構わぬ。その程度で壊れるような異端ならば、そもそも必要はなかろう」

「しょうがないなあ。ですが、未完成だってことを忘れないでくださいよ。不都合が生じても私は知りませんからね」

 ぶつぶつと言いながら男はひとしきり卓の上を探り、一枚の紙を差し出した。実験段階で中止になったというとおり、ぞんざいな扱いである。聡達は紙を懐に入れると外套を羽織った。

「邪魔したな」

 再び通路に踏み出しかけて、聡達はふと振り返った。

「お前もたまには地上に出たらどうだ」

「ここにいる方が余程退屈しませんよ」

「それはどうかな。近々、面白いことが起きるやもしれんぞ」

「面白いこと?」

 くぐもった声で問う男に笑みを残し、聡達は扉を閉ざした。



 悠緋ゆうひは歩みを止め、回廊の窓から見える広い景色を見やった。白い矩形の中に、空は鮮やかである。乾いた風に、ふと多加羅を思った。今の季節、多加羅では雨が多い。初めは冷たく、次第に温かく、雨は大地を潤す。やがて気紛れな雨雲は去り、大地は緑に覆われる。金笹が濃く染まる夏、やがて風に涼が混じれば祭礼の時、秋である。

 悠緋は小さく溜息をついた。既に夕刻、聖蓮院にも人影は少ない。門には彼女を迎えに侍女が来ているだろう。

「また、お会いしましたね」

 正面からかかった声に、悠緋ははっとする。聡達がゆったりとした足取りで近付いて来ていた。聖蓮院の条斎士が身につける装束の上に、濃緑の外套を肩口から斜めにかけている。

「悠緋様は余程ここからの眺めがお好きなようだ」

「少し物思いを……」

 言いかけて悠緋は俯いた。溜息を聞かれただろうか、と思う。

「もうすぐお父上に会えますね」

 悠緋は顔をあげた。

「各所領の惣領が、初春に都に召集されたと聞きました。私の父は長く患っていますので、沙羅久惣領家からは兄が来るでしょう。若国わかくにといいますが、これがなかなかに口煩い。今から顔を合わせるのが憂鬱です」

 冗談とも本気ともつかぬ聡達の言葉に、思わず悠緋は笑った。

「漸くお笑いいただけた。悠緋様には憂鬱な表情よりも笑顔がよく似合う」

 聡達の眼差しが近い。悠緋は鼓動が跳ねるのを感じた。慌てて目を逸らす。

「多加羅からは父ではなく兄の透軌とうきが参りますの。昨日知らせの文が届きました」

「兄君が? それは楽しみですね。私は兄君にはお会いしたことがありませんので」

「あら、聡達様は父とお会いになったことがありますの?」

「ええ、以前に一度。御立派なお方です」

 にこりと聡達が笑んだ。

「兄君が都に来られた時には、私を御紹介ください。未来の多加羅を担うお方のお話を是非お伺いしたい」

「兄もきっと喜びますわ」

「それでは、私は所用がありますので。お気をつけてお帰りください」

 言うと聡達は悠緋の傍らを歩み去った。聡達の長い髪が肩口を掠める。悠緋は聡達の姿が見えなくなると、溜息をついた。先程とは違う、熱を帯びた響きにどきりとし、悠緋は足早にその場をあとにした。

 憂鬱な気持ちの上にまた一つ、惑いが生まれていた。苦い喜び、そして恐れ――すれ違うようにして顔を合わせただけの相手に、何故これ程鼓動が揺れるのか、悠緋は戸惑う。

 ――恋などではない。悠緋は思う。間違っても恋うてはならぬ相手だ。ともに惣領家に生まれ、遠く故郷を離れている。その境遇の相似が、このように曖昧な気持ちを相手に抱かせるだけなのだ。

(どうして兄上が来られるのかしら。召集されたのは惣領である父上の筈だわ)

 出口のない物思いを振り払うように、悠緋はかねてよりの気掛かりに思いを移した。昨日多加羅の父から届いた文には、兄が都へ赴く理由は書いていなかった。

(父上が来られたら、多加羅に戻りたいとお願い申し上げるつもりだったのに……)

 条斎士としての先も見えず、都での生活は寂しさばかりが募っていた。父が都に来るならば、多加羅に戻る許可を得てもらうよう頼むことが出来ると、悠緋はそう考えていたのである。だが、惣領代理である兄の透軌ではそれは不可能だろう。記憶にある透軌の面影は、まだ少年の繊弱さを残している。もとより左程言葉を交わすこともなかった兄妹である。己の我儘を言うのは憚られた。

 ――本当に多加羅へ戻りたいの?

 ひそりと、心の中で囁く声がする。浮かんだのは聡達の面差だった。都を去れば、もう二度と会うことはあるまい。

(ええ、そうよ。多加羅へ、戻らなければ。このような気持ち……)

 悠緋は唇をかみしめる。このような気持ちは抱くべきではないのだ。今ならば、ただ一時の気の迷いですますことが出来る。三年前とは違う。己が恋を出来る立場でないことはわかっていた。恋うても密やかに秘めていなければならない。それが辛いから――

(違う。誰かに恋をするのはいい。でも、あの人はだめだわ。あの人に恋をしてはいけない。でも、何故――?)

 何時の間にか悠緋は立ち止っていた。不安には励ましを、孤独には優しさを、聡達はまるで悠緋の思いを全て見通すかのように、彼女が望むものを示してきた。穏やかに笑みながら。だが、その瞳は、陽の光さえ差し込まぬ森の深奥、そこに垂れ込める滴るような緑にも似て、暗く掴み難い。

(私、あの方が怖いのだわ)

 悠緋は足元の影を見詰める。己の小さな影が頼りなく、寄る辺なく体が揺れる心地がした。怖いのだ、と言い聞かせながらも、見極めようとする程に聡達に惹かれている己がいる。絡めとられたように身動きすら出来ず、聡達の瞳の奥に潜む思いを知りたいと願っている。回廊の鋭角的な象形の中で一人、戸惑いは波のように掴みどころもなくすり抜けていく。

 無性に、多加羅の空が見たかった。

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