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最果てに天深く  作者: 高原 景
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 水底から浮かび上がるように、ゆっくりと意識が覚醒した。微かな雨の匂い。かいは瞳を開けた。波紋のように広がる静寂の向こうで、木々の葉が揺れる衣擦れのような音が響いている。

 灰は肘をつき、ゆっくりと上体を起こした。それだけの動きがひどく辛かった。見回すと、そこは簡素な部屋だった。頼りなく視界が揺れ、脇机に一つ置かれた水差しだけが奇妙に現実的に感じられた。高い天井は仄暗く、刻を測ることは出来ない。

 どれ程眠っていたのか、灰にはわからなかった。眠る、という表現が正しいかもわからない。まるで水底から水面を通して世界を見ていたかのような、あるいは遥かな高みから地上を俯瞰していたかのような、現と隔てられながらも切り離されていたわけではない。その間も常に己を包み込んでいた存在に、灰は無言で呼びかけた。叉駆さくは僅かな空気の揺れで応えた。

 灰は寝台からおりると、そろりと足を踏み出した。歩くことは出来る。それに安堵しながら、扉へ向かった。ひやりと冷たい石の床と、体に纏わりつく白い衣の感触が生々しい。体は心許ない軽さだった。指先に力を込めることも出来ない。疲労だけではない。体の核となる部分で、何かが欠けてしまったかのような喪失感があった。

 廊下は無人だった。屋敷の奥、滅多に使われぬ一角である。意識で探るまでもなく、灰は向かう先を知っていた。廊下の突き当たり、灰がいた部屋と斜めに向かい合う形で、その扉はある。灰は壁に手をついてゆっくりとそちらへと向かった。扉を開ける前に僅かに躊躇う。深く息を吸い、扉を押した。

 その部屋もまた素気ないまでに簡素だった。窓は一つ、全てが薄暗く曖昧に、床と壁の境までもが掴みがたかった。灰は寝台に近付いた。まるで雲を踏んでいるかのように、足元が揺れる。寝台に横たわる男――げんの姿に、灰は一瞬目を閉ざした。麻痺したように動かない感情とは裏腹に、己の鼓動が忙しない。

 弦の、青白くやつれた顔は穏やかだった。ただ姿だけを見れば眠っているようだが、灰の目には弦の体と意識が深く閉ざされているのがわかった。まるで己以外の全てを拒むかのように、命の気配までもが深く沈んでいる。弦という存在自体が、ただそこに在るだけの物体になったかのようだった。体の奥に巣食う喪失感に、鋭い痛みが加わった。灰は俯く。閉ざされた弦の意識に灰は触れることが出来ない。命の揺らめきはいまだあっても、目覚めねばいずれ体の力も尽きるだろう。

 これが己の成したことの結果か――

 指先に触れた、弦の魂の熱さを覚えている。現世に引き留めようと、己の命の欠片を弦に注いだ。人の身にはあまりに危険な所業なのだとわかりながら、ただ無我夢中だった。だが、結局は救うことなど無理だったのか――。静かに、頑なに、弦は死に向かいつつある。

 どれ程そうしていたのか、雨の気配が強まったように感じて、灰は眼差しを上げた。部屋の仄暗さはさらに濃度を増している。天候のせいか、それとも時の流れのせいなのか、それすらわからなかった。背後で扉が微かな軋みをあげた。振り返ると、峰瀬みなせと一人の娘が立っていた。娘の切れ長の瞳が灰を捕え、素早く伏せられる。

「もうさがってよい」

 峰瀬が言うと、娘は一礼し足音も立てずに去った。その背を灰は目で追う。娘の姿に覚えはなかったが、その気配は眠りの中で感じ取り、知っていた。おそらくは、目覚めぬ灰の世話を命じられていたのだろう。

「やはりここにいたか」

 灰は答えず、眼差しを逸らした。言葉を出すことすらひどく億劫だった。

「随分長く眠り続けていたが、体は大丈夫なのか?」

 灰はただ頷くにとどめた。実際には、体は万全とは言い難い。立っているのがやっとの有様だ。己の命を削り他者に分け与えるという行為がどれ程に危険なことか、灰は身を以て感じていた。眠っていた間叉駆が灰を包み込み、力を注いでくれた。それがなければ、目覚めることすら出来なかったかもしれぬ。

「……俺はどれくらい眠っていましたか?」

「四日間だ」

 四日――。そんなにも時が経っていたのか。稟が案じているだろう、と灰はぼんやり考えた。これまで星見ほしみの塔を長期間あけることはあったが、何も告げず離れることはなかったのだ。

仁識にしき須樹すぎといったか、若衆の二人には咎め立てをしていない。些か事情を聞かせてもらったが、信用に足る者達のようだ」

 灰の沈黙をどうとったのか、峰瀬はそれ以上二人の若衆については触れず、問うた。

「弦が目覚めるかどうかわかるか?」

 灰はゆるゆると首を振った。そうか、と呟いた峰瀬の声は低い。このまま目覚めねば、弦の体は保たない。そのことに、峰瀬も気付いているのだ。

「もう少し休んだ方がよい。部屋に戻りなさい。弦のことは案じずともよい」

 灰は咄嗟に峰瀬を凝視していた。泰然と峰瀬は佇んでいる。

 何故、と問いたかった。何故弦を人柱にしたのか。何故弦でなければならなかったのか――問い詰めて思うまま詰りたかった。だが、それがどれ程に無意味なことかもわかっていた。例え問うたところで、峰瀬が真意を灰に明かすことはないだろう。灰が首にかける黒玉と同じことだ。闇を封じるためならば手段を選ばぬ峰瀬と、闇を滅することも命を救うことも出来ず、それでも足掻く己と、決して相容れることなど出来ぬ。相手を認めれば、それはすなわち自身を否定することに繋がる。

 人柱が弦でなければ、己はどうしていただろう。ふと灰は思った。何もせずに人柱が闇に喰われるのを見ていたのだろうか。弦だからこそ、彼が闇に喰われるのを阻もうとしたのだろうか。力をふるうたび迷いに捕われる。何が正しいのか、そもそも正しいことなどあるのか、思い惑う。今回のことだけではない。これまでの選択と決断、その一つ一つが圧し掛かるように重く感じられた。

 気付けば、口は勝手に言葉を紡いでいた。

「俺はもう大丈夫です。星見の塔に帰ります」

 言いながら、灰は意識だけで叉駆に呼びかける。祈るように、弦を助けてくれ、と。叉駆ならば自然の内にたゆたう力を弦に分け与えることが出来るだろう。灰に対してそうしたように。もう手遅れかもしれぬ。だが一縷の望みがあるならば、それに賭けてみたかった。

 ――頼む。

 灰の思いに、ふわりと空気が揺れた。温かな叉駆の気配が離れ、弦を包み込むのが見えた。灰は目を閉ざした。彼に出来ることは、何もなかった。



 梓魏しぎの地にもまた、長い冬の終わりが来ようとしていた。

 よろずが再び兄と接触したのは、前回言葉を交わした時から一月以上が過ぎた頃だった。

 公休日、いつものように決まった経路を辿り街へとおりた弦は、人混みの中、密かに己の後をつける存在に気付いた。わざと足を緩めると、一人の女が追い越しざま彼の懐に小さな紙片を滑り込ませていった。さり気なく脇道へと入り込み、万は紙片を広げた。兄の筆跡で書かれていたのは、深夜の刻限と場末の酒場の名だった。

 酒場は寂れた裏通りにひっそりと在った。椅子と卓が乱雑に並べられた薄汚れた店内に客の姿はない。店の主人らしい男がちらりと万を見やり、無言のまま顎で店の奥にある階段を示した。万もまた何も言わず階段へと向かう。兄の部下か、梓魏の街に潜伏する北限の民だろうが、互いに何者であるか知らぬ方が身のためというものだろう。

 階段は薄暗かった。長く掃除すらしていないのか、隅にたまる埃が分厚い。昇りきると、細い廊下の両側に幾つか扉がある。そのうちの一つが待ち構えていたかのように開かれ、清夜すがやの姿があった。

「刻限どおりだな」

 言いながら清夜は万を中に招じ入れた。答えようとして、万は言葉を呑み込んだ。薄暗い部屋の中に、もう一人いたのだ。女だ。きっちりと黒髪を結わえ、鋭い眼差しを万に注いでいる。背筋の伸びた立ち姿に、街で紙片を渡して来た相手だろうと察しがついた。

「……女を使うとは、あんたも変わったな」

 呟いた万の言葉を聞いているのかいないのか、清夜は事務的な口調で言った。

「彼女は私の部下だ。名を更紗さらさという。更紗、この男が万だ」

 女は万を一瞥する。その表情には苦さがある。どうやら信頼されていないらしい、と万は内心に溜息をついた。

「愛想のないことだな」

 ぼやく万に向けた女の眼差しは冷たさを通り越して険しくさえあった。

「何か進展はあったか」

 どうやら兄は軽口にさえ乗る気がないらしい。万は肩を竦めると言った。

「別に取り立てて変わったことはないが、都行きの準備で近衛はてんてこ舞いだ。各所領の惣領が都に召集されるらしいな。玄士の正章せいしょう様は椎良しいら様が都に赴くべきだと声高に唱えているが、誰も異議を唱えそうにない」

 各所領の惣領が帝国の都、白西露峰はくせいろほうへと召集された。その噂は既に公然のものとなっていた。惣領がいまだたっていない梓魏からは、惣領代理として椎良が赴くこともまた、皆の知るところとなっている。それはつまり、梓魏の次期惣領が椎良であると、公に知らしめることだった。椎良が惣領となることに反対する意見がないわけではなかったが、いまや絶対的な権力を有する玄士正章の前では力無い囁きにしかならなかった。

 万はにやりと笑んだ。

「狙い通り、都までの道中について、俺の経験を参考にしたいとお偉方が言ってきた」

「当然だろうな」

「清夜様、この男本当に信用がなるのですか」

 突然割って入った声に、万は女を見た。年の頃は彼よりも上だろう。鋭い眼差しが全体に硬質な印象を与えるが、顔立ちは柔らかく美しいと言えるだろう。万は鼻を鳴らすと、意図的に顔を歪めた。

「その台詞そのまま返してやりたいんだがな。あんたこそ信用なるのかね。だいたいあんた人をつけるのが下手過ぎるぜ。素人じゃあるまいし、もう少し上手くやってくれよ」

「何だと!」

「いい加減にしろ、万。更紗も、気持ちはわかるが抑えてくれ。こういう男なんだ」

「言ってくれるじゃねえか」

 憮然と呟く万に、清夜は溜息をついた。

「お前の物言いは、まるで人を馬鹿にしているように聞こえる」

「そいつは悪かったな。だが、俺はその女を知らん。あんたは信用しているが、下手に素人を関わらせるのは考えものだぜ?」

「彼女の仕事は主に連絡折衝だ。お前のように専門の訓練を受けたわけではない」

「まあいいさ。で、わざわざこのような場所に呼び出して、何か言いたいことでもあるんじゃないのか?」

「その通りだ。この先はお前との連絡役は彼女に任すつもりだ。それを伝えたかった」

「どういうことだ。あんたはどうするつもりだ」

「私は別行動で都に入る」

「都に? 何をするってんだ」

「お前が気にすることではない」

 万はもどかしさと腹立たしさを抑え込んで清夜を睨みつけた。何故わざわざ他人を介するような方法をとるのか、更紗がいなければ問い詰めているところだ。清夜は万が彼の弟、飛雪ひせつであることを秘している。更紗もまた万の真の名を知らぬ可能性が高い。知っていればもう少し違う態度を示すだろう。清夜の殊更に素気ない物言いが、そのまま警告だった。ここで下手なことを言うわけにはいかない。

「わかったよ。ところで、緩衝地帯の一件はどうなった。邪魔をした奴について調べると言っていたな。何かわかったか?」

「調査は打ち切りになった。今回の一件、おそらく耶來やらい内部での権力抗争が絡んでいる。これ以上深追いせぬ方がよいとの由洛公ゆらくこうの御判断だ」

「だが……蛇達を奪ったのは多加羅の者かもしれぬと言っていただろう」

「多加羅の者であれば、蛇を多加羅かあるいはおうなに引き渡した筈だ。だが、蛇は鬼逆きさか來螺らいらへと連れ去った。蛇を奪った者達は、おそらく鬼逆の手下だったのだろう。あの姿や力も、国境地帯の者であれば納得出来る」

「何だ、そんな変わった見た目なのか? そいつは」

「暗かったせいで定かにはわからぬが、東方の民のようだった。異端の力といい、帝国民ではなかろう」

「異邦者か」

 何気なく呟き、万は顔を顰めた。既視感――何時だったか、誰かに対してこの言葉を使ったことがなかったか? そう遠い記憶ではない。あれは確か冬の初めの頃だった。万は曖昧な思考を振り払う。今はそのようなことを考えている時ではない。

「そもそも依頼する先を間違ったってことだな」

「我らにとっては幸いなことに、耶來側も今回の一件が明るみに出るのは避けたいところだろう」

「計画が失敗して、沙羅久惣領家との取引はどうなった」

「そちらは既に新たな動きがある」

 清夜の表情からそれ以上のことを言う気がないのは明らかだった。

「とにかくお前は」

「何も考えず椎良様のお命を守っていろ、だろ? わかっているさ。仕事はきっちり果たす」

 兄の声を万は遮る。

「わかっていればよい。今後はどれ程椎良様の傍近くに仕えることが出来るかが鍵となる。慎重にやってくれ」

「ああ」

 万は浅く頷いた。清夜の言葉の裏に込められた意味に、万は気付いていた。彼が飛雪であることを、椎良に悟られてはならない。

(大丈夫だ)

 内心の思いを、万は眼差しだけで兄に告げた。己はただ椎良の命を守るためだけにいる。いわば剣であり楯だ。武器に人格は必要ない。それ以前に言葉も交わすことすらないだろう相手が、彼の存在に気付く筈もない。

 万はそう信じていた。


 椎良が突然に近衛兵との接見を望んだのは、万が清夜と対した三日後のことだった。

「日頃から警備に尽力している者達一人一人に言葉をかけたいと、姫君たってのお望みだ。決して無礼のないよう心せよ」

 軍処方を通じて知らされたそれに、誰もが驚きを露わにした。惣領家の者が兵士との対面を望むなど、これまで例がない。それも位に関わらず、一人一人に対したいという。日頃から惣領家に忠義を尽くしている近衛兵にとっては、この上ない栄誉である。

 表面的には他の者達と同じ喜びの表情を作りながらも、万の心中は穏やかではなかった。栄誉どころの話ではない。椎良の支持基盤を固めようとする玄士の思惑かとも考えたが――むしろそうであってほしいと願いすらしたが、考える程に一つの推論に辿りつく。図らずも、同じ考えに達した者がいた。矢束やつかである。

「何故、椎良様は近衛兵との面会をお望みになったんだろうな」

 部屋で矢束が問うてきた時、万は寝台に横になりさして興味もない兵法書に目を通していた。扉へ視線を投げたのに気付いたのか、矢束は言った。

「大丈夫だ。りゅう優理ゆうりは警備に当たっている。当分は戻らぬ」

 鋭い男だ。万は苦々しく相手を見やった。

「我らを鼓舞し労うためだろう。御立派なお方だ」

「それもあるだろうな。だが、それだけではなかろう」

 言うと矢束は寝台に腰をおろした。万と向かい合う形である。万は書を傍らに置いて身を起こした。どうにも誤魔化しのきかぬ相手である。

「今日椎良様とお会いした者の話では、お言葉をくだされ、御手に触れることを許されたという」

「ああ、それは俺も聞いた」

 接見は数日間に分けて行われる。既に接見を終えた者も、これから接見を受ける者も、近衛兵の間ではもっぱらその話題ばかりである。万は接見の最終日に椎良のもとへ赴くことになっていた。柳や矢束も同じ日である。よりにもよって、という思いが万にはある。

 矢束は万の目を覗き込むようにして言った。

「庭園の湖で椎良様をお救いしたのは玄士の息子殿ということになっている。だが、私が思うに、椎良様は真実がそうではないとお気付きなのではないか? 玄士の息子殿ではなく、近衛兵の誰かがお命をお助けしたのだと。だが、表立ってそれを言うことは出来ぬ。出来ぬが故に今回のように近衛兵一人一人に会いたいと、そう仰せになったのではないか。そうであれば、姫君が真実お会いになりたいのはただ一人、万、お前だということになる。私にはそう思えてならぬ」

「考え過ぎだ。姫君の真意など俺にはわからぬ」

 万は素気なく答えた。庭園での一件は矢束に知られている。仕方のなかったこととはいえ、聡い相手だけにやりにくいことこの上ない。今もまた矢束は探るような視線を向けてくる。何か疑念を持たれるような態度をとっていただろうか。万は注意深く最近の行動を思い返した。

「お前は不思議な男だな」

 ぽつりと矢束は言った。

「何だ、突然に」

「いや、私が万ほどの年齢で同じ立場ならば、もっと喜んでいただろう、と思ってな。状況を考えれば椎良様をお助けしたと名乗り出ることは出来ぬが、椎良様が真実に気付いておられたならば、これ程に誇らしく喜ばしいことはないだろう。だが、万はあまり嬉しくはなさそうだな」

「誰がお助けしたかなど瑣末なことだ。肝心なことは椎良様が御無事であること、そして二度とあのようなことが起こらぬようにすること、それだけだ。不思議なことなど何もないだろう」

 万の言葉を聞いているのかいないのか、矢束ひとしきり考え込む様子だった。やがて得心したように頷くと、ぽつりと呟いた。

「そうか、わかった。お前には色がないのだ」

「何だって? 何がないって?」

「各地を彷徨い人よりも多くを見てきただろうに、色というものが感じられぬ。欲ともいうかもしれん。人は己の核の周りに様々な欲を纏うものだ。欲の上にこそ、生きる目的も夢も生まれる。だが、万を見ているとその欲がない。それとも全てを削ぎ落した末にしか得られぬものを望んでいるのか。そうであれば、むしろ誰よりも強欲かもしれぬな」

「おいおい、俺を相手によくわからん人生哲学を論じるのはやめてくれ。常々思っていたが、近衛兵などより学士の方が余程向いているのではないか?」

「そうかもしれぬ。興味深い対象を見つけるとつい観察したくなる。悪い癖だ。忘れてくれ」

「俺には矢束の方が余程興味深い人間に思えるよ」

 そうか、と矢束は笑った。それに応えて笑いながら、万は思考が凍るのを感じていた。渦を巻くように不安が生じる。虚像を演じる万を評した矢束の慧眼に対してだけではない。椎良の真意である。

 万自身も、もしかすると、と考えていた。湖中で椎良へと手を伸ばしたあの時、椎良の意識はまだあったのではないか。目が見えずとも、助け上げた者が玄士の息子でないことに気付いている可能性はある。そうであれば、椎良がこのような手段で己を助けた者に感謝を伝えようとするのも頷ける。

 例えそうでも、名乗り出なければよいだけのことだ。不安を抑え込むように、万は己に言い聞かせた。

 ――全てを削ぎ落した末にしか得られぬものを望んでいるのか。

 万は苦く笑った。椎良の楯となり剣となって、彼女の命を守る。それ以外に何を望むにしても、己が得られるものなど何もないだろう。

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