105
屋敷を出た須樹と仁識は、鍛練所に程近い一角にある展望台へと向かった。もとは戦時の監視の場として設えられたそこからは、街の全貌と、さらに街を囲む壁の向こうまでを眺めることが出来た。街の周囲は、茜を帯びた大地がうねるように続いていた。遠からず金笹の種が蒔かれ、やがて一面鮮やかな緑に染まるだろう。
外套が大きく風を孕んで翻った。山の冷涼とした気配が近い。
「それにしても、三年前から灰の怪魅の力を知っていたとはな……」
ぼやくような須樹の言葉に、仁識は小さく笑う。屋敷を出てから、既に互いに知っている限りのことは明かしていた。緩衝地帯で実際に何があったのか、そして多加羅に巣食う闇の歴史と灰に課された役割。一方、仁識からは、三年前の出来事、設啓が透軌と絡玄の意を受けて灰の動向を探っているらしいこと、そして透軌から灰と親しくすることへの牽制とも取れる接触があったこと――これには、苦くざらついた感覚を須樹は覚えた。
須樹は、仁識と設啓の間で交わされていた険悪な遣り取りを思い出し、そういうことだったのか、と今更ながらに得心していた。無論、設啓の行為を是とは考えられないが、緩衝地帯で卸屋と間近に接した須樹には、卸屋として生きる者の迷いない強靭さを感じずにはいられない。それと同時に、灰を疾剣と評した設啓の真意を思い、不安を覚えていた。
「須樹こそ、緩衝地帯でのことなど端から言う気がなかっただろう。お互い様だ」
須樹は苦笑で返して、視線を遠くへ投げた。
「雨だな」
ぽつりと須樹は呟いた。遥かな地平が薄墨に染まっている。雨雲と靄のように煙る雨は、空と大地の境を曖昧に溶かしていた。
「来るか」
「風次第だな」
「鳳が鳴いたか」
須樹は仁識をちらりと見やる。冗談を言ったのかと思ったが、横顔は存外に真剣なものだった。冬から春へ、季節の移り変わりは雨とともに来る。天空からの春告げの一声は、既に大地に齎されているのかもしれぬ。
「お前は若衆を辞めた後はどうするつもりだ?」
須樹は唐突な仁識の言葉に顔を振り向けた。
「外延部の剣術道場から誘いを受けているから、当分はそこで師範方でもしようかと思っている」
「南軍には入隊しないのか」
「軍隊はどうも性に合わない。それならば、まだ子供達を教えている方がよい。師範方など給金は僅かだが、それでもいつか一人立ちする元手にはなるだろう」
「家を出るのか?」
「さすがにいつまでも親に負担をかけることは出来ない。それに、親父の店を継ぐのは俺ではないからな」
「そういえばお父上は弟子をとっていたのだったな」
「ああ。二年……いや、三年になるか。もう一角の職人になりつつある。出来が良いと親父も喜んでいる。俺がいつまでも家にいてはやりにくかろう」
「それで剣術道場の師範方か」
「まあ、軍隊に向かぬなどと言いながら、南軍に入ることを望む者達を育てるというのも妙な話だがな」
外延部にある剣術道場は貧しい者達のために開かれている。貧しい界隈では、子供達が家族を助けるために幼いうちから働きに出るのはごく一般的なことであり、若衆に入るような余裕はない。だが、彼らの多くがやがては南軍に入ることを望んでいる。出口がない貧困の、そこから抜け出す僅かな可能性が軍隊にはある。尤も栄達の道を歩む者はごく少数、それ以前に南軍への入隊には試技がある。ある程度の剣術の技量が入隊に際して必要とされるのだ。剣術道場は若衆に入ることの出来ない貧しい少年達が、南軍への入隊を目指して通う場所なのだ。
「本当は緩衝地帯にある伯父の店を手伝わぬかという話もあったのだが……親父などは剣術道場の師範方などよりその方が良いと思っている」
須樹は仁識に苦笑を向けた。
「給金も剣術道場などより余程良いのに、と呆れられた」
仁識が僅かに首を傾げて瞬くのを須樹はおかしく見やった。給金、などという言葉は仁識にとって身近なものではないのだろう。若衆では、実績に応じて僅かながらも給金を支給される。街の治安に寄与していることへの対価であるが、貴族の子弟は慣例として給金を受け取ることはない。労力に対する対価、という考え方が貴族の矜持には馴染まないのだ。仁識などは給金の有無など、そもそも気にも留めていないだろう。
「何故、伯父君の店を手伝わぬ。悪い話でないならば受ければいいだろう」
「……今、多加羅を離れる気にはなれない」
ぽつりと須樹は言った。緩衝地帯から多加羅に戻り、ずっと考えていたことだった。峰瀬の言葉がなくとも、もとより須樹の心は決まっていた。仁識はそうか、とだけ言った。峰瀬との遣り取りについて、まだ仁識とは話していない。互いに注意深く避けているのだ。ほんの一刻程前の峰瀬との対峙は、須樹自身の胸の内に冷たく薄暗い感触を残している。仁識もまた同じなのだろう、と思う。
「仁識はどうするつもりなんだ?」
仁識はすぐには答えなかった。須樹は風に靡く仁識の長い髪を目で追った。貴族の証である。若衆でなければこのように並び立つことなどなかっただろう相手なのだと、今更ながらに思う。三年前までは、同じ若衆であってもまともに言葉を交わすこともなかった。己とは相容れぬ立場の人間なのだと、漠然と見做していたのだ。
「父親がおそらくいずれかの官職を用意する筈だ。その椅子に座る」
素気なく仁識が言った。乾いた口調だった。
「それを望んでいるのか?」
以前ならば決して問わぬだろう言葉を、須樹は投げかける。遠くの雨雲は刻々と形を変える。
「望んでいるのかもしれぬ。考えずに他人の思惑通りに動くのは楽だ」
「仁識が考えるのをやめるなど、鳥に飛ぶなと言うようなものではないのか」
「どうだろうな」
皮肉な呟きには苦笑が混じる。
「ただ、今後の多加羅を見届けるために、官職に就くのもまた一つの手段ではないか、とそう思うようになってきた。息は詰まるが、手の届かぬところでもどかしい思いをするくらいならば、渦中にあって自ら動ける方がいい。今回のことで心底そう思った」
「……緩衝地帯のことか」
「それもあるが、それだけではないな。この多加羅に秘められているという、あの闇だ。何も知らず、これ程に多くの人々が暮らしている。己の足元に何が蠢いているか知りもせず、当たり前のようにこの先も今の生活が続くと信じているのだ」
言いながら仁識の顔が歪む。吐き捨てるように続けた。
「何も知らずに安穏と生きてきた。これからも、何も知らずにいたかもしれぬ。そのようなこと、我慢がならぬ」
須樹には仁識の気持ちがわかった。闇から逃げ目を逸らすのではなくあくまでも正面から立ち向かおうとする、如何にも仁識らしい物言いである。
到底抗し得ない、あまりに大きな恐怖――それが闇だ。目の前に広がる穏やかな街の風景は、闇の存在を知った今となってはあまりに脆く見える。人柱として横たわっていた弦の姿が、いまだ生々しく脳裏にこびりついていた。その姿は、穏やかな街の姿であり、無力を知る己の姿でもあった。闇の前では、己とてただ喰われるだけの生贄だろう。
「正直に言うと、惣領にはあのように偉そうなことを言ったが、俺自身に出来ることなど何もないのではないかと……思わずにはいられない。闇に対しているのは灰であって、やはり俺には何も出来ない。灰を支えるなど、無理ではないか。灰を守るなどと言ってもどうすればよいのか」
自嘲気味に須樹は言った。衝動のままに峰瀬に言い放った言葉に嘘はなかったが、冷静になるほどに、己の無力を痛感する。峰瀬の求めに迷いなく応えはしたが、具体的にどうすればよいかと考えると、何もわからない。
「確かに闇そのものには太刀打ち出来ぬ。だが、問題は闇だけではない」
仁識が目を細めた。
「闇は確かに恐ろしいが、その他にも危うい現実があるだろう。お前が聞いた若様の話では、帝国中枢部にとって多加羅は異端の象徴だ。言ってみれば、帝国にとって多加羅という存在そのものが、何としても滅したい闇そのものだ。いや、正確に言えば違うか。おそらく帝国が消したいのは異端を封じる力を有する多加羅惣領家そのものだ。この先、峰瀬様がお亡くなりになれば、多加羅は必ず弱体化する。透軌様に今の多加羅を支えるだけの力量はない」
穏やかならぬ言葉に、須樹は己の顔が強張るのを感じた。
「条斎士である峰瀬様でさえあれ程に体を病んでおられる。条斎士ですらない透軌様に闇が抑えられると思うか? この先闇を封じることが真実かなうのかどうかは、おそらくは若様の存在にかかっている。だが……」
珍しく、仁識が言い淀んだ。まるで苦さを舌先に感じたかのように、仁識の口元が歪む。
「透軌様は若様に対して、複雑な思いを持っておられるようだ」
「複雑な思い?」
「自分が心底欲しいと思いながら決して得ることのかなわぬ力を、まるで当たり前のように、しかもその価値もわからぬ様子で有している者が目の前にいたとしたら、お前はどう感じる?」
些か掴みづらい仁識の言葉を、須樹は反芻した。
「どう感じるも何も、それは仕方がないことだろう。人それぞれ有しているものは違う。己にも、その相手にはない何かしらの価値があるかもしれんし、それを見つけるべきだろうな」
仁識は苦笑した。
「須樹ならばそうだろう。だが、そのように考える人間の方がおそらくは少ない。ましてや、他の者が享受している力が、己が生きていく上では欠くことの出来ぬものであれば、何も感じずにいることなど不可能だ」
仁識が須樹を振り返った。鋭さを秘める眼差である。須樹は仁識が何を言いたいかを察して、思わず眉を顰める。
「つまり……透軌様が、灰の力を妬んでいる、ということか?」
「力と言っても怪魅師の力ではない。おそらく透軌様は闇の存在も、若様が怪魅師であることも知らされてはおられないだろう」
仁識は己の思考を吟味するように僅かに首を傾げた。
「求心力、とでも言おうか、透軌様には若様のように人を惹き付け、率いるだけの力がない。知力であれ武術であれ、人より秀でたところがない凡庸さを、御自身でよくわかっておられるだろう。そのうえで、己が如何に生きていくべきかを見据えておられる。若様よりも勝っておられる点と言えば、その冷静さと自覚だろうな。そうであるからこそ、尚更に己よりも優れた者に対しては敏感にならざるを得ない」
須樹にとっては意外な透軌の人物評である。多加羅の後継としてしか認識していなかった透軌という存在を、仁識の言葉は血肉の通った一人の人間として浮かび上がらせるものだった。多分に厳しい仁識の言葉ではあったが、不思議と辛辣さは感じられなかった。
そして、また一つ、須樹は己と仁識の違いを見た思いだった。鬼逆は灰を『力』と形容していた。仁識もまた灰を何がしかの力の象徴として見ている。それが例えば怪魅師としての力であり、あるいは並外れた思考力や洞察力であり、人を惹きつけずにはおかない求心力なのだと、須樹も理解は出来た。だが、須樹自身が灰について考える時、まず浮かぶのは柔らかな印象であり、危うさを孕んだ静けさだった。それは三年前の初夏に見も知らぬ相手の傷をその場で治療する少年の面影であり、驚く程の鋭さの合間に見せる無防備さであり、遠くを見詰めるらしい横顔の寄る辺の無さだった。
須樹の物思いを、仁識の言葉が破る。
「この先透軌様が多加羅惣領となられた時に、果たして若様にどのように対されるか。厄介なのは帝国中枢部どころか、多加羅内部にこそあるかもしれぬ」
「…………」
「今回の緩衝地帯での一件も、結果的には若様の判断のもと全て解決した、という印象を人々に与えている。この先多加羅中枢部の権力亡者達が若様を放っておく筈もない。透軌様の覚えめでたい絡玄様一派に対抗したい勢力には、若様は格好の素材だ」
「透軌様がどのように思っておられようと、闇の存在を知れば灰に対しておかしなことはしないだろう」
「さて、それはわからぬ。いずれにせよ、若様にとっては厳しい状況になるだろう」
須樹は力なく呟いた。
「そのようなことは、俺にはまるで雲の上の話だ。惣領は灰の傍近くで守り支えよ、と仰られるが、俺になど何が出来る。それこそ何も出来はしない」
「そうでもないだろう。協力者がいれば、若様も少しは動きやすくなる筈だ。若様の性格を考えれば、この先も怪魅師であることが知られぬという保証はない。若様が存外に短気で向う見ずなのはわかっているだろう。その点、須樹のように慎重な者が傍にいれば、少しは危険も減る筈だ」
「そうかな」
「お前は今まで通り、若様の傍らにいればいい。私は立場上、それは難しい。若衆でいる間はいいが、若衆を抜けたら今までのようにはいかぬだろう。だが、官位に就けば多加羅中枢の動きも少しは知ることがかなう。透軌様の出方を探ってみることも出来るだろう」
須樹はまじまじと仁識を見た。思わず笑むと、仁識が怪訝な表情を浮かべた。
「何が可笑しい」
「いや、可笑しいわけではない。感心していたんだ。やはり仁識は人より随分先を見通しているな。俺はどうしたらいいかわからずおろおろしているというのに」
「幸か不幸か、私には三年前に闇を見てから十分に考える時間があったからな。いい加減、若様の首を絞めてでも本当のことを言わせるつもりだったが、手間が省けた」
最後はぼやくように言う。須樹は思わず笑った。正面から吹きつけた風に、僅かに雨の匂いが混じっている。やがて来る春の息吹が、そこにある。
「だが、問題が一つある。支えようにも、当の本人が嫌がるのが目に見えているのだがな」
「まったくだ」
「それにもう一つ、厄介な奴が残っている」
不審気な仁識に、須樹はにやりと笑った。
「冶都だ。あいつ今頃ぶんむくれてるだろうな。覚悟しておいた方がいい。当分今日のことを根に持つだろうよ」
心底嫌そうに溜息をついた仁識だったが、笑いを抑えかねるように顔を歪めた。だがそれも束の間、真剣な顔を須樹に向けた。
「わかっているとは思うが、冶都には何も言うなよ」
「……ああ、わかっている」
須樹はぽつりと答えた。
峰瀬は手元の巻き書から顔を上げ、立ち上がった。長時間座り続けていたせいか、背中に重みを感じる。それとも歳のせいか、と自嘲気味に思いながら窓辺へと寄った。既に日は暮れていた。夕刻から降り出した雨が、今も硝子を濡らしていた。
扉が叩かれる。短く答えれば、入って来たのは白玄だった。
「惣領、もうお休みになられてはいかがですか」
「お前こそ、そろそろ屋敷に引き上げてはどうだ。老体をいじめるものではないぞ」
峰瀬が振り返ると、思った通りの渋面があった。
「御冗談を仰られては困りますぞ。なるべく御無理はなさらぬようにと、何度も申し上げているというのに」
「灰は目覚めたか」
白玄の言葉を遮り、峰瀬は問うた。一瞬何かを言いかけ、白玄は諦めたように溜息をついた。
「まだです。深く眠っておられるようです」
「弦はどうだ」
「弦も目覚めてはいません。体が相当に弱っているため、目覚めねばこのまま体力が尽きて快復せぬかもしれぬと、医術者は見立てております」
峰瀬は再び窓外へと視線を投げた。
「……惣領、闇は無事封じられたのですな」
「ああ。実際にその目で見ただろう」
「私の目には、ただ光のようなものが見えただけです」
「あの時、灰は弦の魂から言霊を分離し、直接に闇を封じた。人柱を媒介にして封じるよりも余程強力な方法だ。当分、闇が溢れることはあるまい」
「そのようなことが可能とは……怪魅師とは測り知れぬ存在ですな」
「使いようによっては最強の武器となる。だが、誤れば自らを滅ぼす。両刃の剣だ」
「あの若者達は信用がなりましょうか」
「人の良いお前でも、懐疑的にならざるを得んか?」
くつくつと峰瀬は笑った。
「笑いごとではありませんぞ。あの闇を前にして冷静でいられる人間はそうはおりませぬ。あの二人の落ち着きようは腑に落ちませぬ。よもや灰様が真実を明かしておられたのでは……」
「そうかもしれぬ。そうであれば灰があの二人を信じている、ということだ。お前は灰が信じた人間を信じることが出来ぬのか?」
「そういう問題ではありませぬぞ。もし真実を明かしておられたのならば、あまりに軽はずみであらせられる」
「良いではないか。灰には新たに支えとなる存在が必要だ。だが、灰は容易く人を信じはせぬ。彼らならば、灰も受け入れるだろう」
言いながら、峰瀬は別のことを思う。三年を多加羅で過ごしながら、灰はどこまでも孤独であろうとした。それは本能的に自由を求める彼の性ゆえであると、峰瀬は気付いていた。灰が多加羅に留まるのは、心の内に根深く巣食う罪業の念と、本人もおそらくは明確に自覚していないだろう多加羅への屈折した執着ゆえだ。だが、やがて世界の広さに気付いた時、灰は躊躇いもなく多加羅を去るだろう。
峰瀬は二人の若者を思い出す。灰を思う気持ちに嘘はなかろう、と思う。恐れを知らぬ純粋さは若さゆえだろうか。それとも屈することを知らぬ傲慢さゆえだろうか。灰にとって彼らは支えになるだろう。そして同時に、その存在が灰を多加羅に繋ぎ止める鎖にもなる。
「白玄、人柱は何も弦でなくとも良かったのだ」
言うと、峰瀬は振り返った。
「……ですが、言霊を魂に刻むには、それ相応の者でなければならぬと……」
「父上は非力な孤児や病の乞食を人柱にした。言霊の欠片を刻むだけならば誰でもよいのだ」
「では、何故」
「私は知りたかったのだ。灰の力が如何程のものなのか」
本人すらも自覚せぬ怪魅師としての力が、どれ程のものであるのかを――
凝然と己を見詰める白玄に峰瀬は笑む。
「結果は、私の想像を超えていた」