104
結界の内は轟々たる有様だった。
光の網を避けるように中心部に集まった闇は、漆黒の嵐だ。そこから幾つもの黒い奔流が牙を剥いて灰に押し寄せる。迫り来るその一つを、灰は剣の一薙ぎで打ち払った。剣に触れた箇所から闇が破裂し、光の粒子に変じる。片足を軸に回転し、背後から襲いかかる闇に剣を突き刺すと、一気に怪魅の力を注ぎ込んだ。大蛇のような闇のうねり、その先端から本体である巨大な塊に向けて力が奔る。音もなく、闇が内側から破砕した。
灰の抵抗に、闇の触手が一斉に中心の塊に吸い込まれ、漆黒の球体となる。思わぬ手強い敵の出現に相手の出方を測るような、それは闇そのものに意思が宿ったかのような動きだった。球体は灰が胸にかけた黒玉と奇妙な程似ていた。息詰まる程の闇の波動は、だがほんの一部でしかない。地中にはさらに巨大なうねりが、出口を求めて蠢いている。
地中に意識を向けた、その一瞬を狙い澄ましたかのように、闇が鞭のようにしなって横合いから灰へと迫った。咄嗟に身を屈めてそれを避けた灰だったが、焼けつくような痛みに右足を取られる。足首に細い触手が絡みついていた。引きずられそうになり、左膝をつく。
――来る。
灰は剣の切先を地面に触れる程に下げた。
正面から灰を呑み込まんと闇が迫る。灰は剣で空間を斜めに切り上げた。その軌道に乗せて、怪魅の力を叩きつける。視界を覆う程に近付いていた闇の触手が切り裂かれ霧散した。風の刃となった力は、さらにその背後、球状の闇をも貫き砕く。だが、穿たれた穴はすぐにどろりと塞がれる。
と、傍らで叉駆の咆哮が響いた。獣の巨躯が具象化し、灰の右足首を捕える触手に飛びかかる。その牙に切り裂かれ、闇がするすると逃げた。
牙を剥き出して唸りながら、叉駆が灰に寄り添う。
再び闇が空間を奔る。今度は多方向から、避けようもない速度で触手が迫った。叉駆が飛びかかろうと身を低く撓める。
「叉駆、動くな」
言うや、灰は剣を地面に突き立てた。その一点を中心に、四方へと力を迸らせると、迫り来る闇が解けるように光に呑まれた。
苛立ちをあらわすかのように、闇の表面が小波立つ。灰はゆっくりと立ち上がり、鋭く目を細めた。仄かな光の気配――弦の魂はまだ取り込まれてはいない。だが、このままでは助け出すことは出来ない。怪魅の力で滅したところで、地中から闇は溢れ続け、いずれ灰の力の方が尽きるだろう。そうなる前に闇を封じなければならない。灰は焦りを抑えつける。
(考えろ。何か方法がある筈だ)
深く息を吸う。方法は一つ、ある。迷っている時間はなかった。剣を離す。地面に落ちる前に、剣は形を崩し、消えた。灰はゆっくりと闇へと近付いた。
闇がじわりと形を崩し、左右へと広がった。飛び立つ前の鳥のようなそれを、灰は奇妙に静かな心持で見詰めていた。翼の内に包み込むようにして、闇が灰を取り巻いた。視界が閉ざされる前の一瞬、こちらを凝視している峰瀬の姿が見えた。須樹と、それに重なり仁識の声が聞こえたように思ったが、漆黒のうねりの向こうに全てが消え、灰は闇に包まれた。
闇に取り巻かれながらも、灰は呑み込まれたわけではなかった。寄り添う叉駆の力と、自身の怪魅の力に守られ、灰は辺りを見回した。闇が灰を捕えようとするも、張り巡らされた力に弾かれ、その度に衝突の余波で風が生まれた。衣の裾がゆらゆらと揺らめく。
灰は呼ばれるようにして歩を進める。歩く程に、体から意識が乖離するような感覚に支配される。
(近い――)
魂と魂には引きあう性質がある。静星の魂に触れられた時の感覚を灰は思い出す。常であれば肉体という殻に阻まれて感じることはないが、一度それから解き放たれれば、魂は互いに呼び合い結びつこうとする。
もしかすると、と灰は思う。闇の本質もまた同じなのかもしれぬ。貪欲に命を求めるのは、闇の内に捕われた魂の群れがそうさせているのか。まるで孤独に耐えかねるように――そうであれば、闇のどよめきは魂の叫びそのものなのだ。だが、最早救うことは出来ぬ。
そして今、救うことがかなうのはただ一つの命だけだ。
灰は張り巡らしていた怪魅の力を解く。阻むものがなくなったのを察したのか、闇が灰を取り巻いた。全身を闇に浸されながら、灰は両手を虚空に伸ばす。その先に、求める光が在る。
幾筋もの闇が体を貫くのを感じた。おぞましい――そして、哀しい。視界がぶれる。指先から、光が漏れる。闇に絡み取られ、体から奪われようとしている。それが己の魂を形作るものなのだと、灰はひどく冷静に認識していた。体の感覚が遠い。
――来い。
呼びかける。囁くようなそれに、闇の内を漂っていた光が、揺れた。微かに惑いながら、もう一つの魂の存在に引かれて光はゆっくりと灰の指先に落ちた。触れた一点から、熱さが迸る。慄く程のそれに、灰は半ば手放しかけていた肉体の感覚を思い出す。歯を食いしばり、両手に光を包み込むと、灰は己を絡み取ろうとする闇を弾き飛ばした。白熱したように視界が染まる。切り裂かれる闇のどよめきが、意識を貫く。それに、灰は思わず瞳を閉じていた。
実際に光を具現させていたのかもしれぬ。瞼の裏を光の残滓が揺れる。ゆっくりと目を開いてまず視界に映ったのは、地面だった。灰は蹲るようにして膝をついていた。叉駆が体を包み込んでいるのを感じる。両手の内の魂は、光の渦だった。見詰める程に引きこまれそうになる。両手で包み込める程でありながら、どこまでも深い空に似て、底がない。
灰は光の渦の表面に薄らと凝るものに気付く。命の揺らぎとはあまりに異質な、それこそが言霊だった。
魂を奪われて、闇が一層猛った。間断なく浴びせられる執拗な攻撃を弾きながら、灰は言霊に意識を集中した。時間をかけることは出来ない。ここで怪魅の力が尽きれば、弦の魂のみならず、灰も闇に呑まれるだろう。
言霊は音である。だが、音として条斎士に唱えられる前は、あくまでも人が作り出した象形でしかない。言霊の本質は形なのだ。今、灰にはそれがはっきりとわかった。魂に食い込むようにして刻まれた言霊は、うっすらと、文字を象っていた。
その言霊は鎖を思わせた。四つの異なる文字が複雑に絡み合っている。それこそが多加羅惣領家が代々守り継いできた秘術、白沙那帝国中枢部の叡智を以てしても解明出来ないのも無理はなかろう。書物で言霊の知識を少なからず有する灰にしても初めて目にするものだった。
言霊を壊さぬよう、灰は怪魅の力を伸ばす。自身の意識の波が、まるで繊細な触手のように言霊に絡みつくのがわかる。灰の力に捉えられて、りん、と澄んだ鈴の音に似て、言霊が震えた。こめかみを汗が流れる。極度の集中に、額の奥に鈍い熱さが広がっていく。ゆっくりと、光から言霊が浮き上がる。言霊は、春先の蝶にも似て、掌にも包みこめそうな程に小さく、儚く見えた。だが、その内に闇を封じ込める力を秘めている。人が扱うにはあまりに大きく、危険だ。
幾重にも怪魅の力で包み、灰は言霊を一気に地中へと放った。解放を求めて蠢く闇の中へ、言霊は一条の光となって打ち込まれた。光に惹かれるように、闇が殺到する。怪魅の力を喰い破り、闇が言霊に触れた。その瞬間、言霊に込められた力が弾けた。
闇が吠えるのを、灰は聞いたように思った。まるで悲鳴のように、それはびりびりと空間を震わせる。網のように広がった言霊の力が闇を絡め取っていくのがわかる。それは地中に留まらず、地表にも溢れ出す。灰と叉駆を取り巻いていた闇が言霊から逃げようとするかのように拡散し、そして崩れ落ちるようにして地中へと引きずり込まれた。
轟音の後に、静寂が落ちた。
一瞬で、全ての闇が消えていた。
灰は顔を上げた。ちらちらと揺れる結界の向こうに、大地の色が見えた。
再び手の中を見る。揺らめく光が、あまりに眩しく見えた。その先に、弦の姿がある。漆黒に視界を覆われていた時にはわからなかったが、弦の体は灰のすぐ傍にあったのだ。灰はほっとする。立ち上がれそうにない。
右手を伸ばし、弦に触れる。鼓動が弱い。魂が抜け落ち、闇に捕われ、体は時を止めつつあった。魂より先に、器である肉体が壊れようとしている。手の中の光が、帰る場所を見失ったかのように、寄る辺なく揺らめいている。
「死ぬな」
呟く。
――闇は既に死した者達の墓場に過ぎません。例え、灰様のお力をもってしても決して救うことがかなうものではありません。それをお忘れなきよう……
諭すような弦の声が聞こえる。
――わかっている。この力ではただ滅するか、支配するしか出来ぬ。
「だが俺は、癒し守るために使いたい」
囁きとともに、灰の体からゆっくりと光の粒子が抜け落ちていった。灰の魂から零れ落ちた命の欠片が、惑うように揺れ、弦の体を包み込む。それはまるで水が染み込むように、弦の体の中へと溶けた。弱々しく消えつつあった命の波が、僅かに強まったように見えた。
ゆっくりと、体から力が抜けていく。疲労とは明らかに違う。指先から、凍えるような冷たさが広がる。それが胸に達し、体の奥が引き絞られるように痛んだ。鼓動が不穏に揺れた。腕をあげていることも出来ず、手が地面に落ちた。その拍子に零れ落ちた光の渦が、引き寄せられるように弦の体の中へと消えるのを灰は見た。
灰は目を閉じる。凍えるような寒さは、全身に及んでいた。体の感覚がない。だが一点、額だけが温かかった。そこに確かに脈打つ鼓動を、灰は最後に感じていた。
ゆっくりと倒れ込む灰の姿を見て、須樹は手摺を飛び越えていた。焦りに足元が縺れた。無理に逆らわずそのまま一回転して着地する。傾斜する壁面を駆けおり、中央に倒れる二人のもとへと駆け寄った。
「灰!」
呼びかけても応えはない。弦の胸元に額をつけるようにして、灰は目を閉ざしていた。その顔色が白い。まるで血の気がなかった。
「息をしているか?」
同様に手摺を乗り越えて来たらしい仁識が背後から問う。須樹は灰の口元に手を翳し、ほっと息をついた。須樹の隣りに屈み込んだ仁識が灰の腕に触れて眉を顰めた。
「まずそうだな」
須樹も灰の腕に触れ、息を呑む。体温が異様に低く感じられた。
「弦殿は無事のようだな。一体何があったんだ」
思わず呟いた須樹に、深い声が答えた。
「おそらくは灰が弦の魂から言霊を分離し、闇を封じたのだろう」
思いの外近いその声の響きに、須樹は振り向いた。峰瀬が階段をおり、近付いて来る。峰瀬は須樹と仁識の間に膝をついた。思わず身を引きそうになり、須樹はそれを堪えた。須樹の表情をちらりと見やり、峰瀬が言った。
「二人ともに、すぐにも医術者にみせた方が良い。尤も、医術者では真に癒すことは出来ぬだろうが、何もせぬよりはましだろう」
「どういうことですか」
仁識の声音は鋭い。不敬と言われてもおかしくはないものだったが、峰瀬は気にした風でもなかった。
「弦は魂も体も闇に捕われていた筈だ。闇を封じたとて無事では済まぬところだが、おそらく灰が弦を救ったのだろう。白玄」
いまだ通路に立ち尽くしていた老人は主の声音に掠れた声をあげた。
「呆けている場合ではないぞ。医術者の手配をせよ。ああ、それから部屋の準備もだ。屋敷内に少しくらいは動ける者もおろう」
「承知致しました」
峰瀬は須樹と仁識を見やる。真剣な眼差しに二人は黙り込んだ。
「何か言いたそうな顔をしているが、私とて君達には大いに問いたいことがある。君達はどこまでを知っている」
「君達は若衆か」
そう言うと、峰瀬は振り返った。その姿を光が取り巻く。窓から差し込むそれは、淡く、柔らかく、熱度のない白さだった。須樹は息を吸うと唾を呑み込んだ。口が渇いていた。
「どこまでを知っている」
地下で問われたのと同じその言葉である。だが、須樹にはまるで初めて問われたかのように、響いた。地下から惣領の私室らしい部屋まで連れて来られた。その距離は短くはなかった。考える時間はあった筈だが、意味のある言葉は何も浮かばなかった。
「何故、君達はあの場に来た」
再度問うた峰瀬に答えたのは仁識だった。
「灰様の様子を不審に思い、後を追って来ました」
「白玄の話では、灰は君達が怪魅の力を知っていると言っていたようだが、灰が話したのか」
空気が張り詰めた。仁識が答えかねるように黙した。だが、二人の若者を見やる峰瀬の眼差しは、沈黙を許すものではなかった。
「三年前、火つけの騒ぎの折に、地下道で灰様が闇を滅するのを見ました」
仁識が低く言った。須樹の驚きに気付いただろう仁識は、あくまでも色を感じさせぬ声音で続ける。
「今日見たあの闇と同じものです。ですが、その後私がどれ程に問おうと、灰様は知る必要のないことだと仰られるだけで、真実をお答えになることはありませんでした」
「君はどうなのだ。何故、灰が怪魅師であることを知っている」
唐突に向けられた問いに、須樹は息を詰めた。灰に全て聞いたのだと、答えるべきなのだろうか。灰が何を思い須樹に話したのか――それはわからぬ。だが、峰瀬に真実を言うのは、灰への裏切りのように須樹には思えた。と、仁識の声が響いた。
「三年前に地下道で見たことを、私が須樹に伝えました」
仁識は一瞬、須樹に眼差しを投げると、挑むように惣領を見据えた。須樹は感情を抑えて顔を正面に向けた。
「あの時は私も相当に混乱していましたので……須樹ならば誰にも口外することはないだろうと考え、彼にだけは打ち明けました」
小さく峰瀬が俯いた。ゆっくりと下ろした指先が、机の淵に触れる。その、何気ない小さな動きに、須樹の胸の内で不安が沸き起こった。ふと、峰瀬は全てを知っているのではないか、という思いに捕われる。須樹や仁識の思い、そして灰の思いも全て知ったうえで問うているのではないか。馬鹿げた考えだと打ち消すには、目の前の男の姿はあまりに静かに、大きく感じられた。
「君達の言葉が真実か否か、私には左程重要なことではない。仮にここで君達が偽りを述べているのだとしても、私が君達を罰することはないし、例え君達が真実を述べているとしても、灰への咎がなくなるわけではない」
「何故、灰様をお咎めになるのですか。無理矢理にあの場について行ったのは私達です。灰様に非はありません」
黙した須樹とは対照的に、仁識が喰い下がった。
「灰は私の命に背いた。君達のことは関わりない」
峰瀬は仁識をちらりと見やり、素気なく言った。
「私が君達に望むのは、口を閉ざし、ここで見聞きした全てを忘れることだ」
それは命令だった。穏やかな口調でありながら、問うことすら許さぬ響きがあった。凍るように冷たく、どこまでも静かである。佇む峰瀬の姿が、一振りの剣を思わせた。
「灰に……灰様に何をさせておられるのですか」
須樹は言った。衝動を自覚するよりも前に言葉が零れ落ちていた。
「灰様が命に背いたというのは、弦殿を助けたことを言っておられるのですか? 目の前で人が死ぬのをただ見ていろと、それに従わぬから咎めると言うのですか」
須樹、と横から呼びかける仁識の声が聞こえた。だが、須樹は己を止めることが出来なかった。峰瀬の表情は動かない。言葉は岩肌を撫でる微風のようなものだ。いや、風ならば膨大な時間の果てに岩を削ることもあろう。言葉はただ無為に、空気に消えるだけだ。だが、言葉にしなければ、それもまたただの無であり、盲従なのだと須樹は思う。
「どうか、灰様をお咎めにならないでください」
「私に何度も同じことを言わせるな。君達は何も問わず、ただ目を閉ざせばよい。そうすれば何事もなく、これまでと同じような生活を続けることがかなおう。君は私の言葉が理解出来ぬ程に愚かではない筈だ」
いまだ体の芯に残る地下の冷たさと、周囲に澱む薄暗さに、須樹は息苦しさを覚える。それだけではない。惣領家の深奥に巣食う闇の、それを峰瀬の背後に見たように思った。何もかもを呑み込み破壊する、その前で人はあまりに小さい。否、それは闇ですらない。そして、それこそがおそらくは灰が対してきたものなのだと、須樹は気付く。
「ここで見たことは決して誰にも言いません。ですが、見たことから目を逸らし、忘れることなど出来ません」
「ではどうすると言うのだ」
須樹は言葉に詰まった。喉元まで出かかった答えが、あまりに空しいものだとわかっていた。彼の思考を読んだように、峰瀬が熱の籠らぬ口調で続けた。
「よもや灰の力になるつもりだなどと考えているのではあるまいな。何人も灰の助けとなることは出来ぬ。灰が負うているものは、多加羅惣領家に生きる者の運めだ。我が血族は、この運命からは逃れることは出来ぬ」
須樹は惣領を見やった。はじめて、言葉に感情の響きが籠っているように感じたのだ。だが、そこにあるのが悲哀なのか、確固たる信念なのか、それはわからなかった。
「君達に出来ることは何もない。己の無力を知ることだ」
須樹は俯いた。惣領の言うことは尤もなことだ、と心の奥底で囁く声がした。これ以上踏み込めば、見たくないことを見るだろう。聞きたくないことを知ってしまうだろう、と。ただ若衆として、仲間としての灰を知っていればいい。それもまた灰自身ではないか。何よりも、灰が知られることを厭うている。
だが、何かが、烈しく己の内で蠢いているのを須樹は感じた。
「出来ることはあります」
須樹は顔を上げた。真正面から峰瀬を見詰めた。
「灰様の傍にいることは出来ます。この三年間、俺達は仲間としてともに力を合わせてきました。例えあの闇に抗する力はなくとも、必ず別の方法で、助けることが出来る筈です」
言いながら須樹は不意に弦の言葉を思い出していた。緩衝地帯で蛇達を追っていた時、何故灰が秘めていることを明かすのかと、そう問うた彼に弦は答えた。己がいつまで灰を守ることが出来るかわからぬからだ、と。弦は知っていたのだ。己が人柱として闇に捧げられることを。己の死の後に、灰の真実を知り、それでもなお傍近くに在って支えてほしいという、それが死を前にした男の思いだったのだ。
須樹は峰瀬の視線を痛いほどに感じていた。まるで心の内までも見通そうとするかのような、峰瀬の眼差しである。果てしなくも思える時が過ぎ、小さく峰瀬が息をついた。まるで溜息のように響いたそれに、須樹は目を瞬いた。
「成程、君達は確かに弦が言う通りの者達のようだ。灰は良い仲間を持ったものだ」
独り言のような呟きは柔らかかった。凍りつくような空気が緩み、峰瀬の口元に苦笑が浮かぶ。それまでの厳しい言葉の数々にはあまりにそぐわぬ。唐突な変化に若者達は呆気に取られた。
「君達を試させてもらった。返事如何によっては、この屋敷から出すわけにはいかぬと思っていたが、どうやら杞憂だったようだ」
「私達を試す……とは、どういうことですか?」
「言葉どおりだ。君達が灰にとってどのような存在となり得るのか。危険な存在となるか、それとも逆か、私はそれが知りたかった」
「つまり、灰様を異端として弾劾する者になるかどうか、ということですか?」
潔癖な怒りを滲ませた仁識の言葉に、須樹もまた峰瀬の言わんとすることを悟る。
「俺達はそのようなことはしません!」
僅かに背をただし、峰瀬が真直ぐに二人に向き直る。ただそれだけの動きで威風が漂った。既に笑みはない。
「君達の言葉を信じよう。そのうえで君達に私から頼みたい。灰を支えてやってほしい」
峰瀬は己の言葉が確かに二人に届いたかを見極めるように暫し沈黙を選び、続けた。
「あの闇は、古くから多加羅に巣食う存在だ。我らの使命はあの闇を封じ、この地に生きる人々を守ることだ。灰をこの地に呼び寄せたのも、闇を抑えるために怪魅師としての力を借りるためだ」
「……ただ、力を借りるためだけに、ですか?」
「そうだ。灰はこの地では異端だ。このようなことがなければ、彼を呼び寄せるようなことは決してしなかった。異端がこの地で生きることは難しい。そして、灰は惣領家にとっても危険な存在だからだ」
断固とした口調である。
「怪魅師としての灰の力は強い。灰自身がおそらくは己の力がどれ程のものかわかってはいないだろう。力は大きければ大きい程に危険を伴う。君達のように異端の力を知ってなお、灰を受け入れる者ばかりではあるまい。忌避し、あるいは咎人として捕えるべきだと考える者もいるだろう。そして、君達が思う以上に、そのような者は多い筈だ」
須樹の脳裏に浮かんだのは一人の青年の姿だった。聡達――沙羅久惣領家の二男にして、異端を狩る者。皮肉な笑みの下に垣間見た獰猛な残酷さを、須樹は忘れてはいない。
「君達には灰の力が周囲に知られぬよう、灰の傍近くで支え守ってやってほしい」
否、という答えは出なかった。
久しぶりの更新です。何か納得できなくて、でも何が納得できないのかわからず、ずるずると更新を引き延ばしてしまいました。加筆・修正をこの先も若干するかもしれません。
ではでは、今後ともよろしくお願いいたします!