103
公歴書館で仁識と会った翌日、灰は鍛練の後に冶都から声をかけられた。美味い屋台を見つけたからともに行こうと言う。断る間もなく、引きずられるようにして鍛練所を出た灰は、門に寄りかかって立つ須樹と仁識の姿に気付いた。
「待たせたな」
冶都の言葉に、須樹は笑みを、仁識は訝しげな表情を浮かべる。
「お前を待っていたつもりはないが」
仁識が呟く。冶都は満面の笑みで三人の顔を見回した。
「これで全員が揃った。行くぞ」
一人大きく頷くと、冶都が先に立って歩き出す。向かう先は惣領家の屋敷とは逆、市街地である。流されるように歩き出しながらも、仁識は不満顔で須樹に問うた。
「須樹、わざと私を呼びとめたのか? あいつの気紛れに付き合うのはごめんだぞ」
「不意打ちでもしないとお前はすぐに逃げるからな。須樹に足止めしとくよう頼んだんだよ。今日は俺がいいところに連れて行ってやる」
朗らかな冶都の言葉である。仁識がその背中を、次いで須樹を睨みつけた。
「良いところなどと一体何処だ。くだらぬ場所に行く気はないぞ」
「美味い屋台を見つけたと、さっき聞きました」
「何だ、それは。私は帰る」
今にも来た道を戻りそうな仁識に、須樹が笑みを向けた。
「まあいいじゃないか。灰も仁識も、時間はあるんだろう? こんな風に四人で街に出るのも随分久しぶりだ」
確かにその通りだった。これには仁識も不承不承ながらも口を噤む様子である。その横顔を、灰は見やる。昨日の今日で、互いの気まずさは消えていない。
「しょうがない」
溜息混じりに呟き、仁識が灰を振り返った。淡い笑みが口元にあった。
「行きますか」
「この先の屋台が美味いんだよ」
冶都の声は人混みの中でもよく通った。娘達がすれ違いざまくすくすと軽やかな笑い声をあげるのもいっかな気にせず、三人を手招いた。
「何故往来で食べようなどと思うか、私にはいまいちわからぬ」
仁識がぼやいた。
「往来で食うから美味いんじゃないか。どうせお前のことだ。家来に傅かれてのお上品な食事しか知らんのだろう。何とも不幸な奴だ」
「余計なお世話だ、と何度言ってもわからぬらしいな」
「冶都は舌が肥えているから、確かに美味いんだろうよ」
「さすがに須樹だ。どこぞのわからず屋とは違うな」
「ほお、それはもしかして私のことか」
「お前以外にはおらんが、他に思い当たる奴でもいるのか?」
三人に歩調を合わせ、灰は思わず苦笑した。この取りとめのない会話も久方ぶりである。
「お前も灰も、こうでもせんと街にも出ぬだろう。たまには俺に付き合え」
「まるで私と若様のためと言わんばかりだな」
「ああ、実際その通りだからな。お前ら最近少しおかしいぞ。顔を合わせても仏頂面、言いたいことがありそうな顔をしながら何も言おうとせん」
仁識が目を見張る。須樹と灰もまた、思わず冶都の顔を見やった。冶都はなおも笑みを浮かべたまま続ける。
「何があったか知らんが、仲間が漸く揃ったというのにどうにも息が詰まる。こういう時は美味い物でも食べて、嫌なことなんか忘れちまえ」
「それで食い気に繋がるあたりが、お前だな」
呆れたように仁識が言った。
「おうよ。それから街中では若様ではなく、灰だ。何のための変装かわからんだろ。なあ、灰」
突然に声をかけられて、灰は目を瞬いた。髪を隠していることを指しているらしい。須樹がぼそりと言う。
「あのな、冶都、灰のこれは変装ではないと思うぞ」
「何でもいい。とにかく仲間同士、陰気なのは嫌なんだよ。わかったらとっとと俺について来いよ」
ずんずんと先に進む冶都を見やり、三人は何となしに顔を見合わせた。
「あいつにはかなわんな」
「冶都さんらしい、と言うか」
「悩むのが馬鹿らしくなってくる」
仁識は気の抜けたような声で言うと、灰を振り返った。
「昨日は、言い過ぎました。だが、嘘は言っていませんので」
目を丸めた灰に、仁識は人の悪い笑みを浮かべた。謝られたのだと気付くまで暫くかかった。どうにもそうとは思えぬ口調であり表情である。
「わかっています」
灰の答えは笑みを含んでいた。須樹が戸惑ったように二人を見比べた。
「何だ、何かあったのか?」
「とにかく緩衝地帯で何があったか、真実を話していただきますよ。わかっていながら黙しているのはどうも性に合わない」
「おい、仁識……」
「案ずるな。真実を聞いたとて透軌様には伝えぬ。若衆としての報告は既に済ませた。これ以上は私事だ。お知らせする必要もない」
須樹の思考を読んだのか、仁識はその言葉を封じる。だが、そのようなことをすれば、仁識の立場は更に難しいものとなるのではないか、と灰は戸惑う。昨日の仁識の話では、透軌は灰の存在を警戒しているが故に仁識を取り立てた。もしかすると、第四公家という大家の後継ぎである仁識が灰と親しくしている、そのことへの牽制、という側面もあるかもしれぬのだ。
「言いたくないと言うならば、力尽くでも聞かせていただく」
思考の膜を、仁識の声が破った。沈黙を拒絶と取ったのか、表情は硬い。灰は我知らず小さく苦笑していた。
「……お手柔らかに、お願いします」
仁識がまたも拍子抜けしたような顔になる。
「灰……何も本当に手合わせするわけじゃないんだからな」
笑いを堪えた須樹の声音だった。三者三様に顔を見合わせる。陽の眩しさの向こうで、冶都が手を振った。目指す屋台に着いたのか、小さな店の主にしきりに話しかけている。
「須樹も、私には聞きたいことがありそうだな」
須樹は小さく息をついた。
「まあ、な。だが言わぬと決めたお前に問うても無駄だと思っていた」
「ふん、それもそうだ。だが、こちらが問うからには、私も問われたことには答える。このように互いの信を失うのは惜しい」
須樹が頷く。仁識の視線が灰に向く。沈思するような深い眼差しだった。
「若様も、それでいいでしょう」
灰は小さく頷いた。
「俺達がぎくしゃくしていては、冶都が黙ってはおらん。あいつは諦めることを知らぬからなあ」
「冶都に気遣われるようでは私もまだまだだな」
「そうでもないさ。冶都は人を見る目がある。あいつが気遣うのは、こうと見込んだ相手だけだ。気遣われるのは、むしろ誇っても良いことかもしれん」
「その考え方は……何やら腹立たしい」
憮然と言いながらも、仁識の表情は柔らかい。
「おい、何の話だ」
冶都が両手に湯気を上げる串焼きを持って三人の元に来る。鶏肉を香草と一緒に焼いたものなのだろう、美味そうな匂いが広がる。
「俺の奢りだ。食え」
何やら得意そうな顔で冶都が言った。
「だから、何故往来で食べねばならぬ」
言いながらも仁識は諦め顔、須樹は二人の遣り取りに淡い笑みを浮かべている。
三人に近付こうとして、ふと灰は足を止めた。何故、止めたのかわからぬまま、背後を振り返る。何かに呼ばれたような気がした。
(似ている……)
ぼんやりと思う。多加羅へと戻った時に感じたもの、それに、似ている。ぞわぞわと、まるで足元から絡み取られるように――誘われるのは不安。灰の顔が強張った。これは、この感覚には覚えがある。あの時は静星だった。そしてこれは――
瞬間、総毛立つような感覚に、灰は身を強張らせた。劈く悲鳴のように、全身を貫いたものがあった。貪欲に、歪に、生あるものを求めて揺らめいている。その、気配。
(これは……闇)
信じられぬ思いで意識を凝らす。封印に抑え込まれている筈の闇の気配が、何故このような街中で感じられるのか。瞬時に広げた意識の波が、人々の間を縫い街の中心へと奔っていく。
「おい、どうした。灰」
背後に冶都の声が響く。
不意に視界がぶれたように思った。蠢く、禍々しい気配を、意識の網が捉えた。膨大なその存在、位置は惣領家の屋敷のあたりか。
「どうしたんだ?」
誰かの手が肩にかかる。咄嗟に振り返ると、須樹の顔があった。それを束の間見詰める。須樹が眉を顰める。己がどのような顔をしているか、灰にはわからない。
「大丈夫か?」
問う声が歪む。飢えた獣のような、闇のどよめきが大地を揺るがして響いた。灰は答えぬまま走り出していた。背後で呼びかける声は一つではない。だが、振り返る間でさえ惜しかった。
これ程の闇――今なお意識を切り裂くように在るそれは、いまだかつて感じたことが無い程大きなものだった。否、一度対したことがある。多加羅に来て間もない時期、夜の山から噴き出した闇――まるで山そのものが突然異形に変じたかのような、それに似ている。
(まさか惣領の身に何か……)
全力で走りながら灰は思う。これ程の闇が一気に噴出するのは尋常ではない。封印の言霊を魂に抱く峰瀬に、何かが起こったとしか思えなかった。街並みが流れる。灰の耳には、己の呼吸と鼓動の音だけが響いていた。
「おい、何だ。どうしたんだ。灰の奴一体……」
串焼きを手にしたまま呆気に取られたように冶都が言う。既に灰の姿はない。須樹もまた茫然としたまま人混みを見詰めていた。振り向いた時の灰の表情、血の気が失せたそこにあるのは紛うことなき恐怖だった。
「追うぞ」
一声発し、横を走り抜けたのは仁識だった。問い返す間もなく、須樹はその背を追う。
「おい! 何処行くんだよ! 串焼きどうするんだよ!」
「お前が全部食べろ!」
にべもなく仁識が返した。足を緩める気配もない。須樹もまた遅れを取らぬよう足を速めた。冶都が何やら叫ぶも、それは流れる喧噪の中に紛れて遠ざかる。若衆でも俊足を誇る灰である。その姿は既に見えない。
漸く灰の姿を捉えたのは人通りの多い界隈を抜けた時だった。遠く、走る背は真直ぐに街の中心を目指していた。そのさらに先には貴族の屋敷が、そして惣領家の黒々とした甍が見えた。
灰は惣領家の屋敷の前で足を止め、膝に手をついた。息が荒い。門の傍らに立つ兵士が驚いた顔で見詰めている。だが灰が門内に踏み入っても声をかけようとはしなかった。
扉へと向かいながら灰は目を細めた。闇の波動は屋敷よりも更に下に感じる。
(地下――?)
惣領家の屋敷に地階があったのだろうか。突然流出した闇は、戸惑っているかのような緩慢な動きである。だが、確かに在る。濃密な気配に気を取られていた灰を、不意に慣れ親しんだ存在が包み込んだ。叉駆だ。叉駆もまた闇に反応している。揺れる粒子の中に、爆ぜるような緊張があった。
扉に手をかけようとしたその時、扉が内側へと開いた。手を上げかけた姿勢のまま、灰は屋敷の内に立つ男を見る。白玄だった。老いた顔は青ざめていた。
「屋敷内からお姿が見えました故……ここに来られたということは、やはりお気づきになられたのですな」
「白玄様、惣領の身に何かあったのですか」
急いて問うた灰に、白玄はゆるゆると頭を振った。声を潜めて言う。
「まずは中にお入りを。このような場所では……」
「灰!」
背後に響いた声に、灰は振り向いた。道の向こうから走り来る須樹と仁識の姿を認める。
「お前達、止まらぬか!」
兵士の鋭い声音に、二人が門の向こうで立ち止った。
「一体どうしたんだ!」
「何があったんですか」
ああ、まただ、と灰は思う。また案じさせている。その惑いもすぐに消えた。ずん、と微かに地面が揺れた。怪魅師でなくとも感じただろう。白玄の色の無い顔がさらに強張った。迷っている時間はなかった。
「彼らを通してください」
有無を言わせぬ口調に、兵士が黙って従った。須樹と仁識が戸惑いながらも近付いて来る。灰は改めて白玄に向き直った。
「何があったのか話してください」
「ですが彼らは」
「今は時間が惜しい」
白玄の顔に驚きと迷いが過る。やがて一つ頷くと、三人の若者を屋敷の内に招じ入れた。屋敷の内には人気がなかった。普段から左程人が多いとも言えぬが、気配さえないのは不自然だった。訝しく周囲を見やった灰の思いを察したのか白玄が言った。
「今日はこの屋敷内に僅かの者しかおりません。透軌様も博露院の視察へ行っておられます。万が一にも被害が出てはならぬと、惣領が配慮なさいました」
「惣領はどちらです。何が起こっているのですか」
背後に立つ須樹と仁識の視線を感じる。白玄の躊躇いを、灰はもどかしく感じた。闇はなおも足下に在る。その蠢きが次第に荒々しいものになっている。闇が目覚めつつある。封印はどうなっているのだろうか。
「白玄様、彼らは俺の怪魅の力を知っています」
白玄の驚きに先んじて、灰は言葉を続けた。
「封印が破れ、闇が溢れれば、多くの人が喰われます。惣領が御無事ならば、一体何が起こっているのですか」
老いた眼差しを灰に据えて、白玄は重く言った。
「惣領のもとに御案内いたしましょう。闇のもとに、惣領はおられます」
頷き、灰は須樹と仁識を振り返った。
「今更来るなとは言わせませんよ」
緊張の中にも決意を滲ませて、仁識が言った。
白玄に導かれて向かったのは小さな部屋である。物置として使われているのだろう、整然と並べられた棚の間を抜けると、奥にまるで隠されているかのように小さな扉があった。白玄は懐から古びた鍵を取り出すと、扉の鍵穴に差し込んだ。がちりと錆びた音が響く。細い階段が扉の向こうにあった。
「この先は多加羅の街下に築かれた地下道へと続いています。足元にお気をつけください」
扉の横にかけられた硝子筒に火を灯し、白玄は先に階段をおりていった。湿った空気に足音が重なる。両壁の凹凸が、影から影へと流れた。階段はゆるゆると螺旋を描く。
「白玄様、本当のことを仰ってください。このような気配は尋常ではない」
「灰様、惣領のお体は周囲が思う以上に状態が悪くなっております。おそらくは言霊の負担に体が耐えられなくなってきているのでしょう。先代惣領がお亡くなりになられる前も、同じように次第に力を奪われておられました。体が弱まる程に封印も弱まります」
「だから闇が溢れ出したのですか」
「いえ、闇は溢れてはおりません。古くより築かれた強力な結界の内に、敢えて解き放たれているのです」
灰は驚きに息を呑んだ。そのような結界が存在するなど初耳である。
「ですが、そのためには一度封印を解かねばならぬ筈。今の惣領のお体では再び封じ込めることは出来ないのではないのですか」
「再び封じる必要はございません。この儀式が終われば自然と闇は封じられ、封印そのものもさらに強いものとなります」
「……儀式?」
「生きた人の魂に言霊を刻み込み、結界の内に解き放った闇に喰わせるのです。そうすれば、闇そのものの中に、強力な言霊の封じを打ち込むことがかないます。人柱、と呼ばれております」
人柱――反芻し、灰は愕然とする。
「……そんな……」
声が震える。
「何故、そのようなことを! そのようなことをせずとも、俺が闇を滅していれば……!」
「最早惣領のお力では再び封印を施すことは無理なのです。しかし闇は益々力を強めるばかり……惣領にとっても苦渋の選択だったのです」
「命を犠牲にするような方法など……もっと別の道がある筈です!」
「灰様、惣領とて別の方法があればそれを選んでおられます。多くの命を救うためには、時に辛い選択も必要となるものなのです」
「一体誰を……」
囁くような問いかけに、白玄は黙した。硝子筒が、かちゃりと音をたてた。老いた背に影が揺れる。
「人柱は、弦にございます」
灰は立ち竦んだ。
「……弦殿が……」
囁くように言ったのは須樹だった。灰はそれを遠く聞いた。白玄が立ち止る。振り返った顔に浮かんだものが何であるか灰にはわからなかった。疲れのようでもあり、諦めのようでもあり、己の無力を知る者の痛みであったかもしれない。それがどのようなものであれ、灰は何の感慨も呼び起こされなかった。
――――弦。
次の瞬間、灰は走り出していた。暗闇の底へと落ち込むかのような階段、その先に弦がいる。闇に捧げられる人柱として――
(そのようなことはさせぬ!!)
荒れ狂う感情の周りに厚い膜がある。今灰を突き動かしているのは、奇妙に冷たく、透徹とした意思だけだった。
暗闇は苦ではない。意識の触手に、目に見えずとも周囲の形状はわかっていた。階段の終わりは唐突だった。大きく蛇行した先に、四角く淡い光があった。そこに走り込み、灰は蹈鞴を踏んだ。木の手摺にぶつかりそうになったのだ。寸でのところで立ち止り、灰は辺りを見回した。
そこは広い円形の空間だった。まるで大地の真中を球状にくり抜いたかのように、滑らかな壁が周囲を取り囲んでいた。四方にかけられた硝子筒が、辺りを柔らかく照らしている。円形の中程にぐるりと通路が築かれ、そこに設えられた手摺に灰は寄りかかっていた。通路から下を見れば、かなり高い位置にいるのだとわかる。空間の底は平らにならされていた。その中央に横たわる人の姿に、灰は息を呑んだ。弛緩し、ゆったりと横たわる様は、まるで眠っているようだ。
「弦!!」
呼びかける。
「意識がないから声は届かぬ。せめて苦痛を感じぬ方がよかろう」
静かな声に灰は顔を上げた。灰と対する位置、真向かいの通路の上に立つ峰瀬の姿があった。灰の視線に、するりと腕を組む。顔は青ざめているが、姿は揺るぎない。
「お前がここに来た、ということは白玄が言ったのか」
「すぐに儀式を中止してください」
「それは出来ぬ。お前ならばわかるだろう。既に闇は目覚めている」
灰は峰瀬を睨みつけた。
「何故、このようなことをなさる! 何故……彼を人柱などに!」
「この儀式では無理矢理に人の魂に言霊を刻み込む。その負荷は生半可な者には耐え難い。心身ともに、耐え得る者を選べば、それが弦だった。弦自身も、了解したうえでの決定だ」
空間がびりびりと震えた。はっと、灰は下を見る。穏やかに目を閉ざした弦の周囲が揺らめいた。と、弦の体を取り囲むように幾筋もの黒い靄が地中から噴出した。
「何だこれは!」
誰かが背後で叫んだ。須樹だ。黒い筋は狂おしく惑い、絡み合う。炎のように、あるいは水のように、無音の舞である。灰は目を細めた。うっすらと、空間に張られたものが見えた。光を帯び、それはまるで籠目のように空間の真中を覆っている。幾分小さな球体が地面に埋め込まれているかのようだ。
(これが結界――)
よくよく目を凝らせば、言霊により編まれたものであることがわかる。光を帯びる細かな粒子の一つ一つに、紡がれた力が籠っている。このように強力な結界を築くのに、どれ程の歳月と能力を要するのか見当もつかなかった。
己の自由を唐突に悟ったかのように、闇が弾けた。しかし漆黒の奔流は、結界に弾かれ撓む。幾度も衝突を繰り返し、荒れ狂う獣さながらに闇がのたうった。その奔流の向こうに、弦の姿が消える。
(どうすればいい。どうすれば……)
灰は焦りのままに通路を見回した。下へおりるための階段は峰瀬が立つ傍近く、距離は遠い。
不意に闇が動きを止めた。獲物の存在に気付いたのだと、灰は悟る。
「灰、わからぬのか! 最早弦を救うことは出来ぬ。せめて最後を見守ってやれ。それが、惣領家の者として出来る唯一のことだ」
峰瀬の言葉が、打ちこまれる杭のごとく響いた。灰は大きく頭を振る。
闇がするすると地中に沈む。
次の瞬間、弦の体が大きくのけぞった。弦の胸を貫き、闇が高く立ち上がった。その先端、まるで蛇のようにくねる闇に捕えられて、淡く光るものがあった。
灰は手摺を乗り越え、弧を描く壁面へと体を投げていた。高所から、不安定な体勢での着地に体が傾ぐ。それを何とか耐え、灰は右手を掲げる。漆黒の剣を象る、そのほんの数瞬の間さえももどかしかった。捕われた仄かな光が闇に覆われる。
「させぬ!!」
灰は叫んだ。今や闇は巨大な一つのうねりとなっていた。それに、意識の波をぶつける。弦の体をも喰らい尽くさんとしていた闇が揺れ、獰猛な波が灰へと向けられた。それは蛇が鎌首を持ち上げる様に似ていた。
灰は結界の淡い光の内、闇へと向かって行った。
「灰、戻れ! 喰われるぞ!」
峰瀬の叫び、それに幾つもの声が重なり、背後で途絶えた。