表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最果てに天深く  作者: 高原 景
102/117

102

 屋敷内は静まりかえっていた。仁識にしきは顔も上げず、階段へと向かう。意匠を凝らした華やかな内装も、息を潜めるかのような仄暗さの中では陰気に見えた。それとも常にこの屋敷を覆う陰鬱が、そう見せているのかもしれない。

 屋敷に戻る度に感じる憂鬱は、しかし今の仁識には遠かった。それよりも更に重くのしかかるものがある。かいに投げつけた言葉への後悔は、今や自身への嫌悪になりつつあった。何故、あのようなことを言ってしまったのか。何も明かそうとしない灰に対して苛立ちを感じてはいても、無理からぬことと割り切ってもいたのだ。それが、まるで歯止めが効かなかった。

 発端は、やはりあの時だろうか。灰と娘が交錯した光景が浮かんだ。よろめく娘を素早く支えた灰の姿、柔らかく、しかししっかりと娘の腕を掴んだその動きを、立ち竦んで仁識は見詰めていた。否、目を奪われていた。

(馬鹿馬鹿しい)

 苦く思う。あの瞬間に、頭に血が上った。互いに見知らぬ者同士ぶつかり合っただけ、それがわかっていながら胸を焦がしたのは妬みというものなのだろうか。

 宵へと向かう光の中で立ち尽くしていた灰の姿を思い出す。常に穏やかな静けさを感じさせながらも、灰は決して繊弱には見えない。引き締まり、無駄のない動きはしなやかに、どこか野生の獣を思わせた。

 おそらくは纏う形が違うのだと、何時だったかそう言ったのは須樹である。体だけではない。心も含め、まるで骨格そのものが違うかのように。もしかするとそれは遠い東の地に生きる風の民特有のものなのかもしれなかった。戦いに秀で、権力に阿ることをせずに生きる自由の民。灰自身が、静けさの底に強靭さを秘めて、既存の枠になど捕われぬ存在だ。例え何年多加羅で過ごそうと、あるいは若衆という集団に属そうと、灰はその中に溶け込むことをしない。それを設啓せっけい疾剣はやつるぎと評したが、そもそも生まれ持っての形が違うのならば的外れも甚だしい。相容れぬ存在を「異」と言うならば、灰にとっては己を取り巻くもの全てが「異」そのものだろう。

 彼ならば、軽々と壁を越えて行くのだろうか、と仁識はふと思った。あらゆる壁――己の偏狭な観念、家柄や身分でしか人を測ることの出来ぬ頑なな自我。そこから一歩たりとも動くことが出来ずに立ち竦む己とは、あまりに違う。

 思考に捕われながら歩いていた仁識は、階段の前に立つ人物に気付かなかった。

「仁識」

 呼ばれてはじめて顔を上げると、父親の姿があった。後ろ手に手を組み、仁識を睥睨している。仁識は半ば警戒し、半ばうんざりとしながら立ち止った。その思いが顔に出たのだろう、父親が険しく眼を細めた。ここ数日は顔を合わせることさえしていなかった父親は、明らかに仁識を待ち構えていたようだった。平静とは程遠い心持の仁識にとっては、対したい相手ではない。

「お久し振りです。父上」

 わざとらしい皮肉に、父親の形相は益々険悪になる。顔を合わせるだけで不愉快になる相手ならば、わざわざ待ち構えておらずともよいものを、と内心で仁識は毒づいた。

「お前に確かめたいことがある。公歴書館で平民の娘と落ちあっているというのは本当か」

 仁識の動きが止まる。瞬間、呼吸さえも忘れていた。その様子に、父親の形相が変わる。

「どうやら思い当たることがあるようだな。お前は我が家名に泥を塗るつもりか! この恥晒しが!!」

 怒気の籠る声は次第に大きく、高い天井へと罅割れて響いた。仁識はそれを遠く聞いていた。眩暈のような感覚に、足元が揺れたように思った。不意に笑い出したいような自棄に捕われる。もう二度と会うまいと思っていた相手とあいまみえた偶然も、灰にぶつけた己の感情も、そしてよりにもよってこのような時に己を待ちうけ、はかったかのような言葉を投げつけて来る父親の存在も、何もかもが腹立たしく疎ましかった。狂った歯車に噛み砕かれるかのように、自制が崩れていく。

「そのような出鱈目、どこから吹きこまれたのですか」

「出鱈目だと? 出鱈目だと抜かすか! 今日、第八公家の当主が直に伝えてきおったわ! 確かに平民の娘と二人でいるところを奴の息子が見たとな!」

「成程、人を貶めようとする者の目には何もかもが歪んで映るらしい。ただ言葉を交わしている姿を見ただけでそのような邪推、むしろ恥じるべきはくだらぬ戯言を考えつく輩の方だ。虚言に惑わされるとは、父上こそどうかしている」

「何だと!!」

 父親の顔が次第に赤く染まる。あくまでも無表情を保ちながら、仁識は父親の姿を冷たく見やった。

 ことの裏側は至極単純だ。おそらくは博露院に通う第八公家の嫡男が、たまたま仁識と羽那が二人でいるのを見たのだろう。冬のはじめの頃だ。既に名すら覚えていないが、仁識が博露院に通っていた時分には、対抗心も露わに何かと難癖をつけてきた相手である。仁識が博露院をやめて何年も経っているというのに、いまだに彼に対する悪意を抱いているのに違いない。

 ――馬鹿馬鹿しい。何もかもが、くだらない。

 疚しいことなど何もない。浅薄な中傷だ。それに容易く踊らされる父親に、仁識が抱いたのは嫌悪に近い怒りだった。羽那への惑いも、公歴書館でのささやかな静寂の時も、それは仁識だけの領域だった。誰にも、踏み込ませるつもりはなかった。

「だが平民の娘と言葉を交わしたのは事実なのだろう。お前にはつくづく失望した。第六公家との婚約の披露目を目前に、例え真実でなくともこのような噂一つがどれ程に命取りとなるか、それすらもわからぬか。己で己の未来を閉ざすようなものだぞ!」

「失望も何も、貴方にとっては私が博露院をやめた時点で、役に立たぬ存在だったのでしょう。したり顔でそのようなことを言っていただきたくはない」

「それが父親に対する物言いか!!」

 大音声に響いたそれに、仁識は冷笑を浮かべた。

「今更父親面をなさるか。私が博露院をやめた折、もう父子の間柄ではないと仰られたのは私の記憶違いか」

 怒りのためか、父親が大きく息を吸った。二度、それが響く。

「お前という奴は……そうまで私に楯つくか。若衆などという遊びに現を抜かすのを大目に見てやっていたが、それも誤りだったようだな! くだらん連中の中にいれば、自然と人間も腐るというものだ!」

 仁識の顔からゆっくりと笑みが抜け落ちた。

「貴方に若衆の何がわかる。腐っているのは貴方の方だ!」

 鋭い声音に、父親の顔が強張った。

「もう一度言ってみろ」

「何度でも申し上げる。腐っているのは貴方の方だ。私のことは如何様に言っていただいても結構。だが、思いのままにならぬからと言って、全てを周りに転嫁し誹謗するのは単なる愚か者だ!」

 仁識は拳を握り締める。言葉はそのまま己にかえってくる。

「愚かだと!? お前のために言っているのがわからぬのか!」

「いいや、違う。父上は、己が父親にも多加羅中枢にも認められなかった、その負い目と鬱憤を私にぶつけているに過ぎない!」

 赤味を帯びていた父親の顔から、さっと血の気が引いた。強張った肩が震えている。どくどくと鳴る鼓動を聞きながら、仁識もまた微動だにしなかった。動けば、端から地面が崩れるような心地がしていた。

 重い沈黙を破ったのは父親の方だった。

「そこまで父親を愚弄するか。お前のような息子など、おらぬ方がましだ」

「祖父殿が、貴方ではなく私を認められたその時から、貴方が私に向ける眼差しは、息子に対するものではなかった」

 愕然と目を見開いて父親が仁識を見る。

「……知っていたのか」

 ぽつりと呟く声が虚ろに響いた。何を、だろうか。玄士であった祖父が、息子ではなく孫を自身の後継と認めていたことか、それとも、それを知ってから父親が仁識に向けるようになったものか。

 仁識は答えなかった。

 父親が踵を返す。最早一言もなく、仁識を振り返ることもなく、廊下を遠ざかって行った。



 仁識は自室に入ると背後に扉を閉めて寄りかかった。そのまま床に座り込む。俯けば、母親譲りの僅かに赤味を帯びた髪が視界を覆い隠した。

 もとより修復の仕様もない親子の関係だったが、己の言葉が決定的に壊したのだとわかっていた。抉られるような痛みを感じる。おそらくは父親も感じているだろう。それが、己が矜持を傷つけられたことによるものであれば尚更に、父親は決して仁識を許しはしないだろう。

(また母上が悲しむな……)

 仁識は思い、自嘲した。父親を責めたところで己も同罪だ。結局、仁識の存在そのものが、家族の絆を壊したのだ。知っていたのかと問うた、父親の打ちのめされた表情を思う。

 座り込んだまま、仁識は記憶を手繰り寄せる。痛みを伴うからこそ、仁識は敢えて過去へと思いを馳せた。

 それは彼が十一の歳、今と同じ冬の季節だった。

 祖父の部屋の前を通りがかったのは偶然だったようにも思うが、もしかすると祖父と話しをするために部屋に行ったのかもしれなかった。扉の内から漏れ聞こえた祖父と父親の声はさして大きくはなかったが、彼が入るのを躊躇わせる響きがあった。隙間から覗くと、窓を背にして立つ祖父の姿は常にも増して大きく感じられた。その前に立つ父親の顔は見えなかった。

 ――何故、私が玄士を継ぐことに反対なさる。第四公家の実績を考えれば、当然次代の玄士は息子である私がなるべきだ。父上が一言仰られれば、周囲も納得する筈です。

 ――如何に訴えようと、お前には玄士の座は譲らぬ。次の玄士は公平に、力ある者の中から選ばれよう。

 仁識はその話題が祖父と父親の間で幾度も繰り返されていたことも、それが原因で二人の仲が険悪なものとなっていたことも知っていた。そっとその場を離れようとした仁識はぎくりと動きを止めた。

 ――仁識ならば見込みもあろうというものだが、お前には玄士となるだけの器も能力もない。

 厳しい祖父の声音だった。突然出た己の名に、仁識は動きを縛られる。沈黙が落ちた。無意識のうちに息を殺し、仁識は耳をすませた。

 ――私よりも、仁識を認めておられるのか?

 ひそりと、父親が問うた。

 ――お前には辛かろうが、偽りを申したところで意味もない。仁識は聡い。将来第四公家を担い、多加羅の権力中枢でも力を得るに十分な素質がある。だが、お前には無理だ。この先多加羅は益々困難な状況となる。そのような時に能力が十分でない者が玄士になれば、自滅し力を奪われるだけだ。お前が玄士となれば、我が一族を敵視する者達に抗することは出来ぬ。そうなれば第四公家の弱体化は必至、仁識の将来をも奪いかねん。

 次に落ちた沈黙は先程のものよりも長く、更に重かった。

 ――私が玄士として果たせなかったことは、仁識に託す。お前は第四公家を保つことに専念し、仁識を、多加羅を支えるに足る男に育てよ。それがお前の最善の道、ひいては第四公家にとって最も望ましい道だ。

 父親に対して、そして仁識に対しての宣告だった。それが父親にとってはどれ程に辛い言葉であるか、仁識にはわかった。仁識は父親の答えを待たず、その場を離れた。聞くことが居た堪れなかったのだ。

 だが、仁識は真に父親の心情をわかっていたわけではなかった。それを次に父親と対した時知ることとなる。仁識に向けた父親の眼差しには、最早温かさは欠片もなかった。そこにあるのは、己が決して得ることの出来ぬものを持つ者への妬みであり、憎しみだった。己から奪う者に向ける冷たい怒りだった。最早、父が子に向けるものではなかった。

 仁識は懸命にそれに気付かぬ振りをした。父親の気持ちを考えれば無理もないと己を納得させ、やがて時が解決するのだと考えていた。だが、親子の間の亀裂は次第に深くなり、誰の目にも明らかとなった。月日が流れ、仁識に対する父親の蟠りが消えるのではないかという淡い期待はゆっくりと潰えていった。博露院に入った翌年、祖父が死に、その一年後、仁識は博露院をやめて若衆に入った。

 今となっては、と仁識は思う。今となっては父親ばかりを責めることも出来ぬ。互いに歩み寄る努力をしていれば、関係を修復する機会はいくらでもあったのかもしれぬ。だが、父親の矜持が、仁識の意地がそれをさせなかった。そして仁識は祖父の期待に応えることも出来ず、父親の心情を解きほぐすことも出来ず、若衆に逃げたのだ。

「若様のことを責めることなど出来はしない」

 呟きは虚ろに床に落ちた。若衆に入ったことを後悔はしていない。博露院では到底得ることがかなわなかっただろう多くのものを、若衆では得ることが出来た。だがその一方で、現実は容赦なく迫っていた。今まで対峙することを避け、目を逸らし続けていたもの――それに仁識は呑み込まれるだろう。

「どれ程に目を逸らそうと、何も気付かぬ振りをしようと、迫る現実から逃げることなど出来はしない……か」

 灰に言った言葉を、今一度呟いてみる。むしろ己にこそ相応しい言葉だ。若衆でいられる時も最早長くはない。

 次第に部屋は薄墨に染まる。仁識は正面の窓を見上げた。残照は、既になかった。



 灰は膝を抱えて星見の塔の前広場に座っていた。既に街は夜の底に沈んでいる。風は冷たかった。日中に感じた春の気配は欠片もない。

 背後に扉の開く音が聞こえる。振り返ると、りん秋連しゅうれんが近付いて来るところだった。

「兄様、風邪をひいちゃうよ」

 稟は灰の肩に外套を被せると、横にちょこんと腰を下ろした。秋連が少し離れた場所に座る。寒そうに身を縮めているあたり、自分から出て来たのではなさそうだった。稟に引っ張られて出て来たのだろう。

「今、秋連様に星の巡りについて教えてもらっているの。あれが冬告げの雪竜せつりゅうでしょ?」

 稟が遠い空を指差す。そしてつい、と大きく腕を横に動かした。

「もうすぐしたらあっちに春告げの鳳が見えるようになるんだって。鳳が一声鳴けば、草木が一斉に芽吹いて春になるって友達が言ってたけど、それって本当?」

 無邪気に問われて、灰は言葉に詰まる。ちらりと横を見ると、素知らぬ顔で夜空を見上げる師の口元には笑みが浮かんでいた。些か人が悪い。灰がどう答えるか耳をすませている様子である。灰は苦笑しながら稟に向き直った。

「俺には鳳の声が聞こえないからわからないな。でも秋連師匠は物知りだから知っているかもしれない」

「こら、灰」

 横合いからの声に今度は灰が素知らぬ顔をする。早速答えをせがむ稟に、秋連は困り顔である。

「稟さん、だめですよ。そんなところにいたら」

 戸口からの娃菜えなの声に、秋連はほっとした顔で稟の背中を優しく押した。

「ほら、もう中にお入り。そろそろ寝る支度をしないと」

「秋連様と灰様も、そのようなところにいてはいけません。夜風は体に悪いのですからね」

 叱るような口調で言われ、灰と秋連は顔を見合わせる。娃菜にかかると、彼らも途端に手のかかる子供のようになってしまう。

「兄様、明日も晴れるといいね」

 稟は言うと、身軽に屋敷へと駆けて行った。ほわりとした温もりは、稟が着せかけてくれた外套のせいばかりではない。

「本当に、優しい子だ」

 秋連もまた同じことを思うのか、穏やかに呟いた。

「あまりあの子に心配をかけてはいけないね。自分のことのように相手を思いやる子だ」

「はい。昔からそうです」

「君は、何か考え込んでいるようだね」

 さり気ない問いかけだった。しんと冷える心地は変わらず、だが今は稟が残した温もりがある。灰は自然に答えていた。

「今日、ある人に耳に痛いことを言われました」

「耳に痛いこと?」

「はい。否定出来ないことばかりで、返す言葉もなかった」

 仁識の言葉を思い出す。普段は感情を露わにすることのない相手の、焼けつくような言葉だった。

「だが、君はそれだけを気にしているようではないね」

 静かに問われ、灰は腕に顎を埋める。仁識の言葉の鋭さよりも、相手が見せた表情を灰は思い返さずにはいられない。苛立ちを露わにしながらも、仁識の眼差しは真摯だった。ただ闇雲に言葉を投げつけたのではない。おそらく、そこにあったのは灰を案じる思いだろう。

 案じられていたのだ。その単純な事実に気付いていなかった。今回の一件にしても、一人多加羅に残り、仁識がどのような思いでいたか。そしてそれ以前からも、灰の立場や課せられたものを仁識は察していた。幾度か問われもしたが、灰は決して答えなかった。その時は、それが最善だと思っていたのだ。だが、本当にそうだったのだろうか。

 あまりに、気付かぬことが多過ぎる。ふと、灰は思った。何もかも、過ぎてから気付く。言葉にされぬその裏で、人が何を思うのか。須樹にしてもそれは同じだ。そしてあと一人――

 ――――げん

 ちくりと、胸の内のどこかが痛んだ。

 ――どうか闇に捕われることのないよう、くれぐれもお気をつけください――

 遠く、弦の声が響いた。自ら希望して灰の配下についたという、それが何故なのかわからぬ。反発ばかりを感じ、まともに目を合わせようともせず、今更わかる筈もない。とうに、闇に捕われていたのかもしれぬ。ただ己のことばかりに感けて、弦の思いになど気付こうとすらしなかった。

「灰、君は抵抗を感じるかもしれないが、若い頃の惣領は君ととてもよく似ていた」

 唐突な言葉に、灰は顔を上げた。秋連の横顔は穏やかだった。

峰瀬みなせ様はもっと開けっ広げだったがね。だが、本質はよく似ているのだと思うよ。彼もまた、人と対する時、嘘というものを差し挟むことが出来なかった。無論、多加羅の惣領ともなればそのようなことも言ってはおれぬ。若い頃を知っている私からすれば、惣領の座を継いだ当初はかなり無理をしているように見えたものだ」

 秋連は懐かしむように目を細め、そして灰を振り返った。

「惣領は生半可な能力で務まるものではない。所領とはいわば巨大なからくりのようなものだ。惣領は全体に目を配り不具合は正さねばならない。動きの妨げとなる部分は迅速に取り除き、あるいは一部に過大な負荷をかけることも辞さず、そうやって全体を動かす。峰瀬様は己の役割をよく理解しておられた。所領を治めるためには、時に人を切り捨て痛みを強いる必要があることもわかっておられた。それに苦しんだこともあったろうと思う」

 だが、と秋連は苦い笑みを浮かべた。

「彼は変わった。変わらざるを得なかった。それまでの己を深く内に沈め、果断であり、時に冷酷な惣領という枠に自らを当て嵌めねば、到底乗り切ることが出来なかったのだろうな。私は傍近くで見ていながら、それに気付くことが出来なかった」

 灰は言葉もない。灰自身は峰瀬を左程知っているとは言えない。そして、灰と対する時の峰瀬はあくまでも多加羅惣領でしかない。峰瀬個人がどのような人物であるのか、それまで灰は考えようともしなかった。

「私と惣領は長く友人とも言える関係だったが、今ではそれも昔のことだ。もう嘗てのような間柄には戻れぬ。私自身、彼がどのような状況にあるか知ろうとせず、知りたいと思った時には彼はあまりに遠い存在となっていた。人と人の関係は、ただ漫然と時を過ごすだけでは築かれぬ。言葉がなくとも心が通じ合う、そのような稀有な出会いもあるかもしれぬが、ごく僅かだろうな。多くの場合、葛藤を経て、言葉を尽くさねば、真にわかりあうことは難しい。そうして得た絆こそが友情であり、信頼なのだと、私自身気付くのが遅過ぎた」

 後悔の念が滲む秋連の言葉だった。

「灰、君にはまだ遅過ぎるということはないのではないか? 君自身、これまで自分の言葉で語ったことがない。伝えようと足掻いたことがないだろう。君の言葉を待っている人は、おそらく君が思う以上に多くいるだろうと私は思っているよ」

 灰は俯く。責めるわけでもない秋連の言葉の一つ一つが、重く響いた。

 言葉にせず黙していれば煩わしい関心を集めることもない、と仁識は言った。その通りだった。誰かと関わることは灰にとって得手ではない。信頼を向けられれば向けられるほどに、逃げ腰になる。そんな己をただ黙って見守る仲間達の優しさに、何時しか甘えていた。

 さて、と一声あげ、秋連は立ち上がった。

「いやに説教臭くなってしまったが、私も偉そうに言えた立場ではないね」

 秋連の視線が惣領家の屋敷の方角へと向けられる。真剣な光を湛えた瞳を伏せ、秋連は軽く灰の肩を叩いた。

「君も早く屋敷の内に入った方がいい。娃菜姶に叱られてしまうよ」

 柔らかに言うと、秋連は屋敷へと向かった。

 灰は眼差しを街へと戻す。星明かりの下、灯火が滲むようだ。鳳の一声を待っているのは草木だけではない。そこに数多集う人もまた、春を待ちわびている。

「何事も遅過ぎることはない……今からでも……」

 今からでも――その先は続かなかった。

 仁識に、須樹に、伝えるべきことがある。彼らから向けられるものに、応えなければならないと思う。否、応えたいのだ。そして今一度弦に対したならば、何を言うだろうか。

 灰はふと、窓辺に佇む峰瀬の姿を思い出していた。彼が切り捨て、あるいは封じ込めてきたものはどれ程に多いだろうか。痛みすら読み取らせぬ深いその眼差しの奥に、何を秘めているのだろうか。

 この時、はじめて灰は峰瀬の心を知りたいと思った。そして、それが遅過ぎる願いなのだと、既に知っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ