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最果てに天深く  作者: 高原 景
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 風が染まる。

 雑踏を歩きながら、かいは思った。柔らかなざわめき。空気が渦を巻く。人と人の間には風がある。今、そこに忍び込むのはまだ見えぬ春の兆しか、無関心に行き交う人々の表情もどこか柔らかい。新たな季節の香りに足を緩めた灰だったが、その気配は掴みどころもなく周囲の喧騒に溶けた。

 大通りには人が溢れている。その中を、灰は俯きがちに歩く。

 緩衝地帯から多加羅へと戻ったのはつい数日前、あまりに多くのことがありながら、まるでそれが嘘のように穏やかな毎日が続いていた。ただ一つ、げんの存在が灰の日常から消えたことだけが変化と言えた。考えねば気になる程でもない、だが灰の中で、まるで染みついたように消えぬ一つの影となっていた。

 それまで弦の存在を疎ましいと思いこそすれ、主従としての信頼も親密さもなかった相手に、灰はただ己の思いが不可解だった。まるでその存在の欠落が、空気に穴が空いたかのような虚ろさで感じられる。今もまた、気付けば弦の言葉を思い返している。灰は小さく頭を振ると、腕に抱えた荷物へと意識を集中した。分厚い書物が数冊、星見ほしみの塔を出た時には左程重いとも思わなかったが、街を歩くうちに、確かな重量を感じていた。

 人通りの多い市場を通り抜け、目指す建物が見えたところで灰は足を速めた。重厚な博露院はくろいんを背後に、古びた四角い建物が目指す場所、公歴書館こうれきしょかんである。慣れた経路を辿り、薄暗い建物の内に入る。静けさに足音が響く。それはどこか秘密めいて聞こえた。

 灰は書庫の手前にある小さな部屋へと向かった。開け放された扉から中を覗くと、所狭しと書物が積まれた中で小さな机に向かっていた初老の男が顔を上げた。分厚い眼鏡の向こうから細い眼で灰を見詰める。

「持って来たかね」

 灰は頷くと、抱えていた荷物を机の上に置く。包んでいた布を解くと、男は早速書物を検分するように手に取った。隅々まで鋭く見やり、丁寧に紙を捲る。まるで生まれたばかりの鳥の雛を扱うような、繊細な指の動きだった。

 星見役の役目の一つに、古い書物の修繕と保存がある。今灰が持って来た書物もまた、もとは半ば崩れかけ判読も難しい代物だった。その内容を正確に読み取り、写本して新たな書物として作り上げたのは秋連しゅうれんである。男もその出来栄えに満足したようだった。

「ふむ、相変わらず良い仕事だ。秋連に礼を言っておいてくれ」

 頷き踵を返しかけた灰を、男は呼びとめる。

「また書庫に寄って行くんだろう。閉館まであと一刻もない。読みたい物があるなら持って帰れ。お前ならば手続きはせんでいい」

「ありがとうございます」

 男はさっさと行けと言わんばかりに手を振ると、再び書物に向かって屈み込んだ。灰は小さく苦笑すると、書庫へと足を向けた。秋連の使いで公歴書館の男の元に書物を届けるのは灰の役目となっていた。灰が惣領家の者であることを男が知っているかどうかは定かではないが、およそ書物にしか興味を抱かぬような相手である。知っていたとしても、何が変わるわけでもなかろう。

 書庫の中はひんやりと冷たい空気に浸されていた。密集した棚の間を歩くと、まるで出口のない迷路に迷い込んだような錯覚に陥る。あるいは水底か、前も後ろも仄暗く霞んでいる。静寂さえ遠い。

 暫くゆっくりと歩きまわり、灰は漸く一冊を選び出した。以前読んだことがある。だが、不意にまた読みたくなった。出口へ向かいかけた灰に、その時横合いから人影がぶつかって来た。互いに余所を見ていたせいで避けようもなく、よろめいた相手の腕を咄嗟に灰は掴む。軽い音をたてて書物が床に落ちた。

「ごめんなさい」

 細い声に、灰は相手がまだ年若い娘であることに気付いた。おそらく灰と年の頃は変わらぬだろう。

「こちらこそすみません」

 灰は娘の腕を離すと、書物を拾い上げた。それに、娘の目が止まる。あ、と小さく声を上げた。

「その書物……」言いかけて言葉を切る。灰は思わず書物を差し出した。

「読みますか?」

「いえ……お借りになるのでしょう?」

「俺は前に一度読んだことがありますから、どうぞ」

 娘はなおも躊躇うようだったが、おずおずと書物を受け取った。表紙を撫でながら俯く。

「……ある人から良い書物だと聞いていたんです。でも、なかなか見つけられなくて……」

 どこか沈んだ様子で娘は小さく微笑んだ。その淡い憂いに束の間目を奪われた灰に、娘は丁寧に頭を下げた。きっちりと結わえた黒髪が、さらりと揺れた。

「ありがとうございます」

 言って顔を上げた娘が、目を見開いた。細い肩が強張る。その視線の先を追った灰は、背後に立つ人影に気付いた。仁識にしきである。仁識もまた驚いたように目を見張り、娘を、次いで灰を見やった。沈黙が落ちた。仁識と娘は言葉を交わすわけではなかったが、灰には二人が知り合いらしいことがわかった。そして、二人の間に漂う憚るような気まずさに気付く。

 沈黙を破ったのは仁識だった。

「何故、ここに?」

 娘に問うたのかと思った灰だったが、どうやら彼に言ったらしい。

「秋連師匠の使いで書物を届けに……」

 言葉が途切れる。小さく頭を下げた娘が、小走りに二人の横を駆け抜けて行った。一度も振り返らずに去った娘を視線で追い、灰は問うていた。

「いいんですか?」

「何がですか」

「知り合いなんでしょう?」

「たまにここで顔を合わせたことがあった程度です」

 仁識の声音は頑なに、不機嫌さを滲ませていた。珍しい、と思う。仁識は感情の振幅は激しいが、それを露わにすることは滅多にない。例え気分を害した時でも、冷静な態度を崩さぬのが常だった。

「それにしても惣領家の若君がお使いとは、星見役殿も思い切ったことをなさる」

 気を取り直すように言った仁識の言葉は、しかし僅かに擦れるような歪さを孕んでいた。何時もならならば皮肉な笑みすら滲ませて言葉を紡ぐ彼らしくない、どこか逼迫したような苛立ちが感じられた。当の本人がそれに気付いたのか、口を噤む。ぎこちない沈黙に、遠く澄んだ鐘の音が響いた。公歴書館の閉館を告げるそれである。

 何となしに顔を見合わせると、二人は無言のまま書庫の外へと向かった。



 仁識は苛立ちを抑えかねていた。それは体の奥底からふつふつと湧き出し、吐く息にさえ滲むのではないかと思える程、濃密に胸中を満たしていた。

 何に対しての苛立ちか――情動の激しさの自覚はあるが、それを抑える術は知っていた。だが、今は普段のような自制がきかなかった。原因はわかっている。

 羽那はな――娘の名を内心に呟く。思いがけず冶都やとに引き合わされてから、一度も顔を合わせてはいなかった。仁識の許婚である第六公家の娘に仕える侍女なのだと知ったあの日、仁識は羽那と何を話したのか殆ど覚えていない。おそらく左程話はしなかったのだろう。終始冶都が賑やかに喋っていたように思う。以来、公歴書館には足を向けていなかった。緩衝地帯の騒動に気を取られ、若衆にかかりきりになっていたせいもあったが、やはり心の何処かでは万が一にも娘と会うことを避けたい思いがあったのだろう。

 娘の顔に浮かんだ驚きと戸惑いが、克明に蘇った。己も同じような顔をしていたのだろうか。何を惑っていたにせよ、今後は関わることもあるまい――そう思っていた筈なのに、この気持の揺れようは何なのだと、仁識は腹立たしく息を吐いた。

 苛立ちの原因はそれだけではない。再び仁識は傍らの灰を見た。緩衝地帯から戻った灰と、仁識はいまだまともに言葉を交わしていなかった。緩衝地帯で何があったのか、灰の言葉が全てではないだろうと仁識は踏んでいる。以前の仁識ならば何としても真実を聞き出そうとしただろう。だが、今はただ鬱屈した沈黙ばかりが二人の間にはある。常と変わらぬ穏やかな灰の表情には何の感情を窺えない。その静かな面を見るうちに、更に苛立ちが募っていた。それは、怒りの色をも帯びる。

 仁識は言葉を何とか押し出す。灰が沈黙を気にしているとも思えなかったが、今は彼がそれに耐えられなかった。

「今まで一度も顔を合わせませんでしたが、公歴書館にはよく来るんですか?」

「二月に一度程です。大概が秋連師匠の使いですが。若衆が休みの日に来るので会わなかったんですね」

 確かに、今日は灰が若衆の休息日に当たっている。仁識自身は鍛練の後にふらりと寄ったのだが、普段はやはり休みの日に訪れる。交替で休みを取る副頭が、顔を合わせることがなかったのも道理である。だが、今の仁識にとっては、灰の冷静な言葉もただ胸中に凝るものを焦がすだけだった。

「先程の娘、書物を渡していたようだが、今まで会ったことが?」

「いえ、さっきがはじめてです。太星白記は人にすすめられて以前から読みたいと思っていたそうです」

 書物の名に、仁識の鼓動が跳ねた。一年程前だろうか、彼自身が娘にすすめたものだった。意図せずして歩調が僅かに乱れた。敏感にそれを察したらしい灰の視線を感じる。しかし何も問おうとはしない。

 無言のまま、公歴書館を出て道へと踏み出す。学徒が集う界隈に、今は人影もまばらだった。夕刻の淡い光が空の端に射している。仁識は足を止める。灰の眼差しを感じる。静かに注がれるそれに、仁識の中の何かが揺れた。ごく小さく、しかし出口を求めて蠢く感情が溢れ出すには、それで十分だった。

「何故、何も聞かぬのですか」

 低く問う。それに、僅かに灰が目を瞬いた。かまわず、仁識は続ける。

「多加羅に戻り、気付いたでしょう。若衆は以前とは違う」

 言いながら仁識は知る。この苛立ちは、何も今に始まったことではないのだ。おそらくは灰が緩衝地帯に赴いた時から――或いはずっと以前から、己でも気付かぬうちに巣食っていたに違いない。灰に真に問いたいのはこのようなことではない。だが、仁識は言葉を止めることが出来なかった。

「私が若衆頭への連絡の任を負ったことといい、何故何も聞こうとなさらない」

「聞く必要がないからです」

 淡々と灰が答えた。

「聞く必要がない……?」

透軌とうき様が仁識さんを今後の若衆との仲立ちに指名したということは、次代の若衆頭の座を仁識さんに譲ろうとお考えになったからでしょう」

 仁識は息を呑んだ。

「……気付いておられたんですか」

「考えればわかることです」

「成程、若様には全てお見通しと言うわけだ。だが、これは御存じか? 透軌様が私を次の若衆頭にと考えておられるのは何も私の力量を認めておられるからではない。若様の力と、若衆への影響力を懸念するが故……若様を敢えて自分から遠ざけ、惣領家の者としての立場の違いを周囲に知らしめようとしているからです」

「透軌様にどのような思惑があろうとも、次の若衆頭には仁識さんが最も相応しいと、俺は思っています」

「光栄な言葉ですね。尤も、若様にとっては透軌様から遠ざけられる方がむしろ気が楽なのでしょうが」

 己でもわかる程に冷たい声音だった。はじめて灰の表情が変わった。僅かに強張った面差の中で、瞳の色が暗く染まったように見えた。

「……何が言いたいんですか?」

「此度の緩衝地帯の一件にしても、何も語らずにおられるのは周囲を巻き込まぬためだとでもお考えか? だが、若様がされていることは、周りを守ることなどではなく、ただ単に己を守るための独りよがりでしかない」

「独りよがり……?」

 ぽつりと灰が呟いた。

「若様は常にあらゆるものと正面から対峙することを避けておられる。何も語らずただ黙していれば、己に煩わしい関心が向くこともない。透軌様の思惑にしても、見えぬ振りをし、目を逸らしていれば楽でしょう」

 もうやめろ、と内心に囁く声がある。言葉は苦い余韻を口中に残す。自分がひどく歪んだ笑みを浮かべていることに仁識は気付いていた。

「だが、今後はこれまでのようにはいかぬ。今の惣領家の状況を若様とてよく御存じの筈です。どれ程に若様が目を逸らそうと、何も気付かぬ振りをしようと、迫る現実から逃げることなど出来はしない」

 斜めに伸びた二人の影が長い。立ち尽くす灰の姿は揺らがない。だが、それはあまりに無防備に見えた。守りも何もない。鍛練ならば一撃で倒せるだろうと仁識は思った。途端に、痛烈な後悔に襲われた。

(一体何を言っているのだ、私は……)

 透軌の思惑も、緩衝地帯の一件も、このように腹立ち紛れに言葉にすべきことではない。仁識はただ単に己の鬱憤を灰に投げつけただけだ。だが、一度零れ落ちた言葉は消えない。その残滓が空中に漂い、仁識は自身の言葉に溺れているような心地に陥る。

「逃げている、か」

 ぽつりと灰が呟いた。低く、抑えつけた響きだった。

「……否定なさるか?」

「いえ」

 仁識の内に、その短い応えが落ちた。束の間視線が交錯し、後悔の渦の中にまた一つ、拍動にも似た震えが走った。言葉にせずとも、眼差しに読み取る。

 ――気付いていたのか。

 気付かぬ筈がない。惣領家の周囲で起こりつつあるもの。個々の思惑など関係なく、それは否応もなく人を巻き込む。暴力的なうねりとなる予兆を孕んでいる。仁識自身がそこに足を捕われ、身動き出来ずにいることもまた――灰が俯いた。

 何も言わず、灰が仁識の横を通り過ぎる。背後に足音が遠ざかっても、仁識は振り返ることも出来ずただ立ち尽くしていた。遠く、淡い金に沈んでいく空が、眩しかった。

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