第1話:人生を変える『あ~ん』
「ほら……これが欲しいのでしょう?」
甘くて低いその声は、まるで悪魔の誘惑だ。
私の喉が、ごくりと鳴った。
(だめよエルダ、落ち着きなさい。あなたは修道女なんだから! こんな誘惑、負けるわけには――)
でも。
見てしまった。
彼の掌の小皿を。
甘い香りを放つ、ツヤツヤ輝く黄金色を。
(はちみつプディング……!)
「恥ずかしがらなくて良いんですよ、シスター・エルダ」
す、と距離を詰めてくるこの男――やけに余裕たっぷりだ。
ミステリアスな美貌に紫水晶の瞳。シャンパンブロンドの髪をさらりと揺らして迫りつつ、私の餌付けを試みてくる。
「あなたの大好物、はちみつプディングです。幼い頃、こうして食べさせてくれたでしょう? だから今度は、私が食べさせる番です」
「うぅ……」
私の記憶の中のこの人は、13歳の男の子だった。ほっそりしていて儚げで、声変わり前の幼い子だったのに。
……それが今では、なんてまぶしい貴公子に。
背が高くて顔が良くて、悩ましい色香まで放っちゃって。
なのに距離感が近すぎるのは、おかしくない?
近すぎる。これじゃあ、子どもの頃のまま……というかむしろ遠慮がない。
ベッドの上で後ずさる私にじりじり迫りつつ、彼は甘やかな笑みでスプーンを差し出してくる。
「シスター・エルダ。はい、あ~ん」
「い、いえ。私、もう自分で食べられるから……」
そう。
私は、誰かに食べさせてもらうような年齢ではない。
赤ちゃんでも、スプーンが持てないご高齢でもなく。……10年寝ちゃっていただけで、まだまだ20代なのだ。
「レイのおかげで、すっかり元気になったから。食事くらい自分でできるわ」
「何を言います。あなたが目覚めて、たったの1か月半ですよ」
「それはそうだけど……」
「無理は禁物です」
言いながら、彼は私の唇をちょんちょんとスプーンでつついてきた。ちょっと待ってそれ赤ちゃんに食べさせるときにするやつ。
「でも……! もう本当に『あ~ん』なんて、いらないの!!」
拳をぎゅっと握りしめ、全力で抗議する。
――すると。
「………………そうですか」
彼の声が、しゅんと細くなった。
えっ。
思わず顔を見つめれば、美貌に悲しそうな影。
捨てられた子犬のように寂しげに、長い睫毛を伏せている。
(あ……)
胸の奥が、ずきりとした。
今のレイの顔は……まるで、幼かった彼と初めて出会った頃のようだ。
私はこの子を匿って、修道院で暮らしていた。
「……すみませんでした、シスター。無理強いする気はありません」
そう言って、すっとスプーンを下げようとする。私ったら、この子にこんな顔させるなんて……。
「待って!」
レイの手が、ぴたりと止まった。
「せっかくだから。……レイ、食べさせて」
恥じらいながら、私は彼をおずおずと見上げた。
見上げた瞬間――すごく後悔した。
悲しげな顔はどこへやら。完全に勝ち誇った顔で笑っている。
「は、ハメたわね!?」
「なんのことでしょう。はい、あ~ん」
なんて計算高い子……。
(うぅ……)
頬を熱くしながら唇を開くと、彼のスプーンがそろりと口の中に入ってきた。
(んんっ、おいしい!)
ひんやりなめらかで優しい甘さ。思わず目を輝かせてしまった。
「おいしいですか?」
「すごくおいしいわ! 今まで食べた中で一番よ」
「嬉しいです。10年前にシスター・エルダに教えてもらったレシピを、私なりにアレンジしてみたんです」
「……え、お手製?」
「はい。シスターの好みに合うように、あなたを想って作りました」
「おおお手製!? ……ラファエル・アルシュバーン侯爵閣下のお手製!?」
「身分なんて関係ありませんし、昔のように『レイ』と呼んでくださいね?」
元孤児とは思えない高貴なオーラを纏いながら、ラファエル閣下……もとい、レイは当然のように次の一口を差し出してきた。
「ほら。あ~ん」
「……あ~ん」
情けないやら美味しいやら。でも美味しさが勝って、今日もレイの『あ~ん』には抗えない。
「まるでひな鳥のようですね。やはり、あなたはとてもかわいい」
「かわ!? いえ私かわいいっていう年齢じゃないからね……?」
決して断じて、23歳のうら若き侯爵閣下に言われるような言葉じゃない。
「そんなことはありません」
「……っ」
あわあわしている私を見つめて、レイはなぜか幸せそうだ。
「大丈夫、安心してすべてを委ねてください。あなたのことは、私が責任を持ちますから」
(責任とは!?)
冗談じゃないわ。育てた子に面倒見られるなんて……。
本当は私のほうが、責任を持って世話をする立場だったんだから。
(それにしても、まさか私が目覚めるなんて。……これって、やっぱり夢なんじゃないの?)
ともかく、このままではいけない。心の中で決意を固めた、次の瞬間――。
「もう一口、行きましょう。あ~ん」
「……あ~ん」
完全に流されている!
(ああもう!)
――このとき、私はまだ知らなかったのだ。
この『あ~ん』が私の人生を変えるほど、甘く重たい物だったということを。






