remedy
居間や、玄関に置いてある姿見は物置の中にしまった。
炊事場にある銀でできたものは、鍋からフォークやスプーン、ナイフに至るまでしまうことにした。しばらくはエイミーのために、この場所を鏡のない空間にする必要があった。
「ジェイクさん、どうして鏡を片付けるの」
「それにスプーンやフォークも、こんなにいっぱいしまっちゃったら、食器が無くなっちゃうよ」
居間で片づけ作業を行っていた私に、ピーターとナンシーが怪訝な表情を向ける。
陶器製やプラスチック製の多い皿は、そこまで枚数は減らなかったが、フォークやスプーンは大部分が使えなくなってしまった。
慣れ親しんだ自分の身の回りの環境がエイミーのために作りかえられていく。それをふたりは不安げな瞳で眺めるのだった。変化に対して恐れを抱いているのは、何も二人に限った話ではない。
とくにアンディの怯えようは酷かった。
彼は短い髪をかきむしるような格好で、食卓の下に屈み込み、肩を震わせて泣いていた。蹲ったまま、一向に動こうとしない。
「どうしたんだ? アンディ?」
「……あたらし……ともだち……エイミー、こわい……」
アンディは、ナンシーとピーターよりも年齢が上だが、精神的には発達が遅れてしまっている。いや、彼が恐れのままに正直に反応できるだけで、本当はナンシーやピーターも内心は恐怖でいっぱいなのだろう。
ナンシーとピーターも、彼をなだめることはなく、こちらを不安げな顔で見上げるのみ。三人ともエイミーに対して、警戒心を抱いているからだろう。あのさかりのついた獣のようにしか聞こえない叫びを耳にしたのだから無理もない。
ただ、私がそうであったように、相手に対する警戒心は、相手と打ち解け合う障壁にしかならない。
「大丈夫だ。今は怖いかも知れないけれど、君たちもきっとエイミーと仲良くなれる」
とりあえず、彼らを安心させる言葉を紡ぎ出した。
もっとも今の時点では、私自身がそれをできるか不安な面もあったが、それを彼らに見せてはいけない気がした。
ナンシーとピーターは不甲斐ない私に頷いてくれたが、アンディはそうはいかない。
「アンディ」
こちらもしゃがみ込んで、アンディと目の高さを合わせる。
私はリチャードと違って、一緒に過ごしていても、時たま彼らとどう接していいのかわからなくなることがある。それでも、リチャードがやっていたことを踏襲することぐらいはできる。
私もテーブルの下に潜り込む。膝を抱えているアンディの腕に、自分の手を置いて、体温の熱を伝える。リチャードがエイミーに対して、そうしていたように。
アンディが俯けていた顔を上げた。
「エイミーのことが怖いのか」
こくりと頷く、アンディ。
「アンディ、君はここに来たとき、一言も喋ることができなかった。言葉どころか、気持ちを私たちに伝えるやり方すら、君は知らなかったんだ。イザベラは男の人が怖くて、私の顔を見るなり、叩いてきた。ナンシーとピーターもよく、暴れたりして落ち着かないこともあった。――アンディ、エイミーはまだ、よくなっていないんだ」
細かい症例は、個人によって違う。
とくにアンディは、精神的ショックが、内向的な形で現れている。外交的な形で表れて攻撃的になっているエイミーとは、真逆だ。大人しい彼が、恐怖心のままに内向的な態度を強くするのは当然だろう。
「……、イザベラ姉ちゃんも……むかし、わるかったの……?」
「ああ、よく噛みつかれて苦労したよ」
「じゃあ……、エイミー、よくなるの?」
アンディ自身は、自己防衛からの意識だろうが、その向かう先がエイミーを排除しない方向となっていることに密かに安心を覚えた。彼とて、エイミーを絶対的に許容しないわけではなかったのだ。
「時間はかかるだろうけど、必ずよくなる」
アンディ、イザベラ、ピーター、ナンシーと皆、検体としてここに連れてこられた子供たちは順調な回復を見せている。正直、彼らを引き取ったときのことを考えると、信じられないくらいだ。しかし、それでもエイミーについては確証は持てない。
『彼らには治療を施さない。だから、彼らを患者と呼ぶ資格は私にはない』
リチャードがそう言う通り、私は彼が医療行為をするというところを見たことがない。怪我をしたときに、止血をして包帯を巻くだとか。ほとんど応急処置か、一般家庭で可能なレベルの看病しか見たことがない。
リチャードがやっていることは、ここで彼らとともに暮らすこと、ただそれだけ。それがどれほどの効果を及ぼすものなのか、リチャード自身も分かっていないという。
確かなことは何もない。それでも、アンディは私の瞳を見て、頷いてくれた。
「ジェイクさん。私の昔に着ていた服はどこかしら」
背後からイザベラの声がした。
エイミーに着せる服を取りに来たようだ。
「意外と早かったな」
頭上に気を払いながら、テーブルの下から抜けて立ち上がる。
「結構、大人しくしてくれて、綺麗になったよ」
「そうか、よかった」
イザベラを連れてウォークインクローゼットに入る。リチャードが、ハンガーにかかった服の下に潜り込んで、鏡や銀食器などを整理していた。急にクローゼットに入れるものが入れて、スペースを開けるのに苦心したと。額を手の甲で拭い、イザベラに向かってにっこりと笑いかけた。
「エイミーは大人しかったか」
「ええ、なんとか」
互いに笑顔を返す、イザベラとリチャード。
「エイミーに着せる服を探しているの。多分、私が着れなくなったものが丁度いいと思うの」
「去年に替えたものなら、まだハンガーにかかってるよ」
「ありがとう」
イザベラは、襟元や袖口にレースがあしらわれた水色のシャツを取り出した。彼女が部屋着として、よく好んで着ていた服だ。
「これにするわ。昔私が好きだった服」
イザベラとエイミーは、肌の色が似ている。
イザベラは黒髪で、エイミーは銀髪だから、髪色は対照的だが。イザベラに似合うものならば、エイミーにも似合う気がした。
「いいんじゃないか、エイミーにも似合いそうだ」
「でしょっ」
ワンピースと下着を持って、イザベラはいそいそとバスルームへ戻っていく。彼女は、世話好きというかお姉さん気質な面があって、ナンシーに服を着せるときも、えらく上機嫌になっていた。
「イザベラはすっかり、あの子たちのお姉さんだな」
「そうですね」
「リチャードさん。――さっきアンディを安心させるために、エイミーの症状は克服できると言ってしまいました。無責任なことを言ってしまったでしょうか」
ここで、私はリチャードに先ほどの自分のアンディに向けての言動が正しかったのかどうかを、彼に尋ねた。アンディの前では気張っていたが、正直出まかせに等しい。だから彼の言葉が欲しかった。
「……、私ほどではないさ」
だが、彼から帰って来た言葉は、私に対する否定でも肯定でもない。彼自身に対する否定だった。
リチャードは、自分を肯定こそしないが、否定はよくする。
「リチャードさんが、何をしたのですか?」
「いや、何でもないのさ」
そして、それを詮索しようとすると決まって、濁されるのであった。彼が大学病院の研究室にいたころの話もそうだが、彼の中には他者が詮索してはいけない何かがあった。そこには、イザベラも私も立ち入ることは許されない。
「ジェイクさんっ、リチャードおじさんっ」
気まずい沈黙を断ち切ったのは、イザベラの声だった。
エイミーの着替えが終わったらしい。エイミーの声は聞こえず、イザベラの声だけがぴょんぴょんと飛び撥ねるような調子でクローゼットの中に反響する。
「見て見て、ほらほらっ」
私とリチャードは振り返った。イザベラは、いつの間に覚えたのか。鏡の破片を踏んで傷だらけになってしまったエイミーに、止血帯を施していた。包帯に包まれた四肢はい血が滲んで痛々しいが、しっかりと傷口を抑えることができている。
「……イザベラ、いつの間に覚えたんだ?」
「リチャードおじさんの力になりたくて、練習していたの。それよりも、エイミーの格好を見てよ」
改めてエイミーの姿を見てみる。
ぎしぎしに傷んでいたはずの銀髪は、みずみずしい輝きを取り戻して、光の輪っかができている。たおやかな長い髪はくしゅくしゅと華奢な肩にかかっている。そして、俯けていても分かる。目鼻立ちの整った、端正な顔立ちと、碧玉のように輝く瞳。
「綺麗になったでしょっ」
イザベラがにっこりと笑いかける。
イザベラのおさがりの水色のシャツも、褐色肌と色合いが合っていた。今は、堅苦しくこわばったままのエイミーの表情。そこにいつしか、イザベラの屈託のない笑顔が移っていく。そんな淡い未来を、ひっそりと思い浮かべた。
「ああ、綺麗になったな。エイミー」
リチャードの優しい声が、エイミーに投げかけられた。私が言いかけた言葉だったが、彼に先を越されてしまった。