Seven years in 日高 ・story63
冷たい秋の留置場からは1晩で出られた。身元引受人として、占い師が警察署に来た。
歩道へ出て、煙草に点火すると、幸せが染み入ってきた。
帰宅した梓は家じゅうを歩いたが、息子の姿はどこにもない。布団のあとが色残る畳の部屋で、扇風機が倒れていた。
息子はどうなったのか、自分はどうして留置場に連れていかれたのか、よくわからないまま、また煙草を吸った。
お腹がすいたので台所へ行くと、流し台で占い師が化粧をじゃぶじゃぶ洗っていた。
「梓。おまえ明日から牧場で働きな」
梓は冷蔵庫から卵を1つ出した。卵トレイの下に入れられていた息子の薬袋がなくなっている。
「おまえみたいなバカでも仕事をもらえたんだ。感謝するんだぞ」
ガスを使おうとしたが点火しなかった。
「はい。ライターなくなった」
「なにがライターだ。ガスは契約を解除したよ。俺は一時的に引っ越さなきゃならない。おまえの迎えはもうすぐ来るから、出発の支度をしな」
梓は自分の布団へ戻り、卵の殻をライターであぶった。
「はい。ゆで卵。はい」
指先が熱くなったので卵を放すと、掛け布団の上を転がり、枕へうずまった。
牧場から迎えに来たのは長身の若い男だった。店舗の中で占い師と会話してから梓の寝床へやってきた。
「こんにちは、梓ちゃん。今日からよろしく」
「はい。こんばんは。はい」
布団を直し始めた梓の手を占い師が引っぱった。
「なにを勘ちがいしているんだ。さっさと行きな」
ススキノを出発した軽トラックは高速道路の入口を目指した。梓の人生で最も安らかな日々への出発だった。
ハンドルを片手で揺らす男は快活な声をしている。
「牧場のある日高は空気がおいしいところだよ。梓ちゃんもきっと気に入るよ」
「はい。おいしい?」
到着するまで空腹をガマンすることにした梓は煙草を胃へ吸いこんだ。
「梓ちゃん、動物は好きかな?」
「はい。スズメバチ。はい」
「スズメバチ? 虫が好きかな? スズメバチを好きな女の子なんているのかな」
好感度の高そうな笑顔がフロントガラスへうっすらと反射した。
梓との会話でなにが起ころうとも絶対に笑顔を忘れない。男はそう決めているように見えた。
高速道路に入ってからも、男は梓へ話しかけた。
「小さい牧場だけど数頭の競走馬がいる。赤ちゃん馬には乗れないが、乗馬用の馬もいるから、乗せてあげる。梓ちゃん、馬に乗ったことはあるかい?」
梓は馬も高速道路も今まで乗ったことがなかった。窓の景色の速さに目を奪われ、太ももに煙草の灰を散らかしていた。
「はい。早送り」
「そうだね。馬はこんなに速くないが、体感速度は同じだ」
「はい。スズメバチは?」
「スズメバチの速度は知らないな。今度調べるよ」
高速道路から国道へ乗り継いだ車は細い路へハンドルを切り、砂利の路でハンドルをとられながら、笑顔で手をふって迎えてくれる小さな家族牧場へ着いた。日高山脈のふもとだった。
すべての方角に野鳥や秋虫の声があふれており、東に連山、西には海が見え、家屋の南には放牧地があり、夕陽を金色に反射する馬たちの毛なみが梓の目を細くさせた。
「はい。馬が電気みたい」
牧場主と妻、梓を迎えに来てくれた跡継ぎの息子とその嫁の4人で営まれている牧場で、梓はこの夜から7年間を過ごす。
家族は大きな温かさで梓を生活の一員に加えてくれた。
一家は朝3時に起床する。馬たちに食事をあたえると、牧場主夫婦が放牧地へ連れていき、留守になった馬屋を、梓は跡継ぎと一緒に掃除した。牧場独特の畜臭は苦にならなかった。ススキノの男たちの方がよほど臭かった。
午後8時の就寝まで、たくさんの仕事があった。毎日くりかえす作業を丁寧に説明された梓は少しずつ仕事を手につけていった。汚れた寝ワラを運んだ。ホースの水で馬屋を洗った。新鮮な寝ワラを運びこんだ。運動から帰ってきた馬たちを洗い、ブラシをかけてやると、馬たちは鼻面で梓の顔を押したりして甘えてくる。
「はい。キスはダメ。舌を入れたらダメ」
馬の背に初めてまたがった。鞍の上へ乗った梓は背後で支えながら心配する跡継ぎを無視するように、味わったことのない視野へ見とれた。馬上は想像以上に高く、地球が大きく見える。
「はい。空を飛んでいる。スズメバチみたい」
大自然での生活は通りがかる人の目へ単調に映るが、都市の日々よりよほど変化に富んでおり、梓の体と脳は生き生きと暮らした。
「はい。梓見た。ちょうちょうさんと、ちょうちょうさんが、空でぶつかった」
冬になっても雪は札幌ほどに降らないが、早朝の氷点下は厳しく、馬屋を洗う水が氷剣のように跳ねかえってきた。作業ジャンバーとゴム手袋で冬装備していても心が折れそうになるが、梓は自分よりも馬たちを心配した。
「はい。ジャンバーを着ないから、風邪をひく」
子馬たちは雪が解け始めるころに続々と産まれる。4頭いる母馬の出産すべてを見届けた梓は誰もが当然と思っている奇跡を、素直に奇跡と受け止めた。
「はい。馬さんが増えた。1つが2つになった。はい。どうして? 馬さんは不思議」
春になり、わずかな自由時間、跡継ぎ夫婦が山へ連れていってくれた。大山脈のふもとで小さな山菜を探す夫婦の後ろで、梓の目線は宙をうろついた。
「はい。スズメバチがいるはず。はい。会いたい」
真夏が来るころ、梓は1人で馬へ乗られるようになった。馬を加速させることもできるようになった。
「はい。速い。スズメバチみたい。速く飛ぶ」
ならんで馬を走らせながら、梓から目を離さない跡継ぎは1年中笑い続けてくれる。
「梓はスズメバチの話ばかりだな。トップクラスのサラブレッドは時速60キロくらい出せる。梓の今の速度は時速40キロくらいかな。スズメバチとちょうど同じくらいだ」
梓の肉体は素晴らしい速度で変化した。16歳から23歳までの7年間、労働で引き締まった体には健康なくびれができ、胸や尻にはやわらかさが大きかった。
優秀な子孫を残すためには優秀な男を誘う必要がある。優秀な男へたどりつく確率を高めるためには、なるべく多くの男の目を引き寄せるのが有効だ。
花々と同じ進化論で時間を過ごした梓の肉体に対し、顕在意識の進化はほんのゆっくりだった。潜在意識でおぼえこんだ慣れの作業はきちんとこなしたが、新しい作業の習得には時間が遅く流れる。
牧場の家族は梓をゆっくり見守ってくれる。そして梓の顕在意識にわずかでも成長が見られると、よろこんでくれる。
「はい。スズメバチの巣を見つけた。たくさん飛んでいた。はい。たくさんが速く飛ぶのに、ぶつかったりしない」
スズメバチの巣を探しに行くのは危険だが、家族は責めたりせず、梓が1人で山へ入りながらちゃんと帰ってこられるようになったことをほめてくれた。
それにどういうわけか、スズメバチは梓を刺そうとしない。山菜採りの途中でスズメバチの集団に遭遇することもあったが、梓が同行していると威嚇もされない。
跡継ぎはスズメバチの飛行速度を調べるために買った図鑑をあらためて開いてみた。ハチがなにかを刺すという行為には激しいエネルギー損失が伴うので、敵という認識をはっきり持たない限り襲わない。
ハチは梓から出されている脳波を味方と認識するのかもしれなかった。
梓の顕在意識認識がスズメバチより成長していると証明されたのは23歳の8月だった。
北海道はお盆を過ぎると大気が秋へ入れ替わる。セミの声が死んでしまったことに梓が気づいた早朝、牧場に男が1人やってきた。
梓は男の細い目を思い出した。ススキノの民族衣裳店へ現れた男だった。息子が救急車へのせられる数時間前にやってきて、梓と目が合うと去ってしまった男だった。7年前のわずかな記憶が梓の脳でビリビリしびれた。
男は馬のエサ桶を洗っている跡継ぎへ話しかけていた。
短い会話を終えた跡継ぎが、古い寝ワラをまとめている梓のそばへやってきた。
「梓。海岸のホテルへ急いでいるのに迷子になってしまった人がいる。道案内してあげなさい」
梓はめずらしく首を横にふった。
「はい。知っている人。怖い。はい」
跡継ぎは数枚の1万円札をたたみながら笑った。
「知っている人のわけないだろ。日高へ来るのは初めてらしい」
「はい。ススキノにいた。はい。怖い」
「梓は7年前のことをおぼえていないだろ。困っている人は助けてあげなさい」
跡継ぎが早口になったので、梓はもう言いかえさなかった。
車の助手席に乗ると、男が梓のシートベルトを締めてくれた。
煙草の火をつけた梓は窓を開けようとしたが、パワーウインドウは反応しない。
「はい。窓を開けたい」
「窓もドアもロックしてある。バカには開けられない」
車はスズメバチよりも馬よりも速く砂利道を走った。道案内を頼んできたくせに、男はぐいぐいとハンドルを切っていた。