梓の炎・story62
梓のオムツに関係なく、家は貧乏だった。
父はニンニクとなにかのエキスを染みこませたゼリーの通信販売をしていたが業績は思うように伸びず、母は1日8時間のパートで疲れ果てていた。
10歳上の長姉は中学三年の正月からススキノでホステスをしながら家計を助けていたが、すぐに家を出ると男のところで住み始めた。長兄は奨学金をもらい地方の大学へ通っており、次兄も大学生だがアルバイトばかりしている。次姉は高卒から就職したが、1ケ月も経たないうちに長姉と同じくホステスを始め、1年も経たないうちに男のアパートへ行った。
しかし梓の行く道は閉ざされかかっていた。家に引きこもっているわけにもいかないのに、仕事は見つからず、高校へ通う金はないという中で、両親は梓の行く末に悩んだ。当の本人は1人きりの自宅で毎日目玉焼きをかじりながら暮らしていた。空き地へ散歩に行ったり、割り算の練習をしたり、虫の図鑑を眺めたりしながら、1日300円の小遣いをすべて煙草に変えて吸う。
長姉が梓の就職先を見つけてきたのは中学を卒業してから3ヶ月ほど経った夏だった。
「ススキノに有名な占い師さんがいる。後継者を育てたいから募集するらしい。占い師さんは心が綺麗じゃないとダメだけど最近は邪心者ばかりで資質のある者がいない、って悩んでいた。梓は少なくとも邪心がないから、資質あるでしょう」
父親はすぐに納得しなかった。
「有名な占い師、って誰だ?」
「名前なんか知らないと思うよ。当たらないことで有名なんだから。占い師なんだか民族衣裳屋なんだか、わからないんだ」
翌日、梓は姉に連れられて、占い師のところへ行った。占い師は初老の太った女で、大きなイヤリングを吊り革のようにぶら下げ、くちびるからはみ出るまで塗った真紅のルージュを臭わせていた。姉は占い師か民族衣裳屋かわからないと言ったが、どちらの商売も低調なようだった。古い木でできた小さな住居兼店舗の中には、シルクロード的な民族衣裳が薄暗くならべられており、占いの席は奥でほこりに汚れている。
姉は梓を預けると、腕時計を見ながらさっさといなくなった。
梓はすぐに住みこみで働くことに決まったが、仕事は占いの後継修行でもなんでもなかった。客は1人も来ないのにどうして金を持っているのか、占い師は遊び好きであり、夜となく昼となく出かけようとするが、家には寝たきりの息子がいた。梓の仕事は息子の介護と家の掃除や洗濯などの家事一式であり、呆然と立っている初対面の梓へ細かい指示を出した占い師は口紅をもう1度塗ってから出かけてしまった。確かに邪心のない者にしか務まらない仕事だが、梓には邪心だけでなく、なにもない。掃除も洗濯も布団干しもできないし、早口で言われた指示を1つもおぼえられないから、仕事をしなきゃならないという気持ちもない。
汚れている家の中をあちこち歩いていると、開いているふすまのところで息子と目が合った。布団から声をかけられた。
「君、ここへすわりなよ」
息子と言っても梓の長姉より年上に見える。読みかけていたブ厚い本を枕元へ置き、梓を手招きした。
梓は1歩だけ部屋に入ると、ふすまへ寄りかかりヒザを抱えてすわった。
「はい。仕事する。住みこむ仕事」
「僕は君みたいな綺麗な女性にオムツを替えてもらいたくないよ」
息子は布団の中で少しだけ身をずらした。
「はい。オムツ。まだオムツ?」
「うん。恥ずかしいから話をそらすよ。君は脳の反応に疾患を抱えているようだから、あの女の言ったことを理解できなかっただろ」
「はい。梓、仕事する。住みこむ」
「住みこむだけじゃ仕事にならないよ。あの女は君の疾患へ気づいたのに、あえて雇った。お姉さんに電話して迎えに来てもらった方がいい。イヤなことへ巻きこまれるかもしれない。若くて綺麗だから心配だよ。君の家族に言いたい。君を他人の手へ投げ出すべきではない」
梓は煙草を取り出して火をつけた。息子に寄り添う扇風機からやって来る安い風が煙を廊下へ追いはらった。
「はい。風が強い日」
息子がコップに水差しの水を入れ、梓へ手を伸ばした。
「これを灰皿にしなさい」
「はい。水に火を入れる。はい。お湯ができる」
「お姉さんの電話番号を知っている?」
風に乗って流れてくる病床の臭いが煙草臭に混ざり、梓の脳に新しい嗅覚情報を記憶させる。電話番号など1ケタも記憶していない。
「はい。お姉さんは2人もいる」
コップの底へ吸殻を押しつけると、理科実験のように水の色がにごった。
「はい。ジュース。はい」
枕元へコップを戻した梓は息子の部屋を出ると店舗へ降り、涼しそうな暗がりを見つけて居眠りした。
翌日から無届けの風俗店で働かされるようになった。1日6時間働き、占い師の家に寝るところをあたえられ、食事もあたえられ、毎日小遣いを千円もらった。毎日千円という額は夢のような財宝に感じられた。夢中で煙草を吸ってもあまる額だった。
「はい。誕生日ケーキ食べたい。はい」
ある日、梓は占い師に500円玉を突き出しケーキをねだった。
「おまえの誕生日は今日なのかい?」
「はい。ケーキ食べたい。フルーツゼリー食べたい。はい。ビスケットはいらない」
占い師は口紅を塗る手を止めた。
「ケーキなんか自分で買わないで、客にねだりな。毎週通ってくるバカが2ケタいるんだ。ケーキなら毎日食べられるだろ」
若すぎるうえに素肌の汚れていない梓は大人気だった。
占い師はまっ赤なくちびるをパクパクさせながら言った。なにも考えなくていい。黙って客の要望にだけこたえてやればいい。言われた意味がわからなきゃ力づくでやってもらえ。
客は梓の症状を説明されてから入室してくるらしく、ほとんど会話はないまま時間がすぎる。心地良い日が多く、痛い日がたまにあった。セックスの後で煙草を吸うと最高においしかった。ケーキを買ってくれる人がいた。ケーキはおいしかったが、直後に煙草を吸うとおいしくなかった。
休みは生理休暇だけだった。家の中で過ごした。廊下をうろついているうちに、息子の部屋へたどりつくことがある。
「あの女の手帳を盗んでおいで。僕がお姉さんに電話してあげる」
息子はいつも同じ言葉を扇風機の風にのせた。梓は煙草を吸い、水の中で消した。
「はい。お姉ちゃんはいつもビスケット。ビスケットが好き。はい。砂団子も好き」
梓の布団は店舗の奥に敷かれていた。朝になると鳩の鳴き声が聞こえるので好きな場所だった。
「はい。鳩さん、引っ越してきた」
占い師と息子のケンカする声が聞こえてくる日もあった。ほとんどは占い師の怒鳴り声だった。
「おまえの金で俺が遊んでなにが悪い。おまえは金なんか使えない体だろうが。俺がいなきゃ生きていけない体だろうが。クソもできないだろうが。インポだろうが」
息子が“梓”と言いかえしたようにも聞こえたが、梓にはどうでもよかった。100円ライターの火が小さくなり、やがてつかなくなってから、新しい物へ交換すると最初の炎がすごく大きく感じられる楽しさの方が大切だった。
毎日煙草を吸い、台所の蛇口へ口をつけてぬるい水を飲み、1日1回パンに目玉焼きをのせて食べ、煙草を吸い、2週間かかって道順をおぼえた店へ5分歩き、薄明るい6畳部屋の1畳ベッドで客と煙草を吸った。
都心にはスズメバチがまったくいないという不満はあったが、他に気がかりはないまま秋になった。息子の部屋へ寄ると、扇風機が部屋の隅に移動していた。
「逃げなさい。君を巻きこみたくはない」
扇風機の音が途絶えたため、息子の声がはっきり聞こえたが、梓には意味がわからなかった。まっすぐ上へ昇る煙が天井のあたりで消えていくのが不思議だった。消えた煙はどうなったのか不思議だった。
「はい。煙は死んだら、どこへ行くの?」
息子が梓へ指を伸ばしてきた。
「僕にも1本下さい」
梓は店の客から“梓ちゃんのくちびるで火をつけた煙草をちょうだい”と下らない注文をされることがある。こたえてやると礼を言われる。
息子も同じだった。
「ありがとう」
息子から吐かれた煙はせきこんだせいでバラバラに壊れた。
梓は自分の煙草を消し、息子の煙草も奪いとって消し、布団の中へ入ろうとした。息子の体へふれようとした。客たちと似た行動をとった息子へ反射神経が作用したせいだろうが、正確な理由は梓本人にもわからない。元々梓の行動には理由がない。顕在意識が壊れているので自分がなにを考えているのかいつも不明だ。
しかし潜在意識が空気を察知することはできる。
布団をめくろうとすると、息子から立ちのぼる気配が変わった。
病人の手が刃物のように殺気立ち、梓へ向かってふり回された。
「来るな。消えろ。死ぬ。みんな死ぬぞ。早く消えろ」
梓はすぐに部屋を出ると台所へ行き、水を飲んだ。
自分の寝床を目指して店舗まで戻るとめずらしく客が来ていた。客の男は細い目で梓を見ると、なにも買わずに出ていった。
夕焼けを見ながら店へ出かけた。夕陽の揺らぎが巨大な炎の先端に見えた。
「はい。大きなライターがある」
午前2時に帰ってくると、玄関の前が出勤する時よりも明るくなっていた。救急車の赤灯に照らされた息子の顔には、赤灯よりも口紅よりも夕陽よりも色濃く、血が流れている。パトカーもいた。人が大勢いた。夏物の背広を着た男がくしゃみをしながら梓へ近づいてきた。「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律違反」という言葉が梓の脳で情報化され記憶された。
梓も店との往復しかしないつもりだったので、薄着だった。留置所の床や空気は冷たく、便器はもっと冷たく、布団はさらに冷たいので寝つけなかった。
息子がどうして血を流していたのか、自分はどうしてここで寝るのかわからなかった。息子は生きているのか、自分がこの先どうなるのかも知らなかった。そんなことより煙草を吸えないのが苦しかった。
「はい。どうぞ。はい。どうぞ」
自分のくちびるで煙草をつけてあげる仕草をたった1人でくりかえした。ライターをこするマネをするたびに、ほんの少しだけ温かい気がした。




