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梓の敵と味方・story61

 あずさによると、梓の潜在意識は傷一つなく、経験による成長も十分だという。梓の兄姉たちは学校の成績が優秀だったが、梓にも秀才の資質はある。

 しかしわずか1分の酸素欠乏が顕在意識のクオリア認識機能を鈍らせてしまった。潜在意識は幼稚園のころから1+1を素早く計算しているのに、顕在意識が2を認識できるようになったのは6歳の終わりだった。2がわからなかったのではなく、潜在意識が出した2という答えを顕在意識が認識するのに時間を要してしまう。計算式だけでなく万事において認識が遅く弱いため、運動や絵を描くといった動作、食事や着替えのような行為も、のんびり行ったあげく的外れになった。6歳からトイレへは行けるようになったが、1人でおつかいには行けなかった。

 次姉は毎日のように怒鳴り、時には蹴りつけてもきた。

「梓がバカなせいで、わたしまでバカにされるんだから。バカボンの姉とか言われるんだから」

 両親は梓を特殊学級へ入れるかどうか悩んだ。札幌市内にいくつもある脳神経外科へ連れて行ったが、病理的欠点はなかった。顕在意識に弱点があるという細かすぎる診断は、病院では出ない。

 医学上の欠点がないため、視点を変えれば単に“勉強ができず行動が遅い女の子”とも受けとられる。

 我が子を信じる両親は特殊学級へのクラス替えをやめ、普通学級に通わせ続けた。

 梓は自分なりに勉強へとりくんだし、マット運動にも挑戦したし、歌も大きな声で歌った。しかし音楽の授業が終わると、クラスメイトに取り囲まれる。

「梓は口パクにしなよ。声が邪魔だから。いると邪魔だから」

 認識力の弱い梓でも、自分が周囲とちがうことに気づいていた。みんなが自分をイヤがっていると気づいていた。自分がいなくなった時、よろこぶ人間はいても、生活に支障をきたす人間はいないと認識していた。

 小学3年生になった梓は学校から帰ると1人で小さな空き地へ行くようになる。近くの大きな公園には同級生たちがいるのでイヤだし、次姉は中学へ進学していたから家は無人だった。ビスケットを持った梓は家の鍵を閉め、言いつけどおり、まちがいなく閉めたことを3回確認してから、空き地へ走る。

 空き地には1匹の鳩が暮らしていた。梓が行くと鳩は首を前後にふりながら近づいてくる。誰かにうなずかれたことのない梓はうれしくなる。視野を広く取るために首をふる鳩の習性など知らないから、単純にうれしくて、ビスケットをにぎりしめる。

「はい。ビスケット。はい。手で食べた方がいいよ」

 梓が粉々に砕いたビスケットを鳩はつつくように食べてしまう。

「はい。梓は誕生日のケーキがないから、いつもビスケットだけ。はい。ごめんね」

 小学5年生になってから梓の環境が少し変わった。足し算と引き算と掛け算ができるようになり、ひらがなとカタカナを完全にマスターし、漢字も少しずつ読めるようになってきた。

 そして友だちができそうになった。

「梓、字が読めるようになったの?」

 クラスメイト数人に囲まれ、話しかけられた梓は鳩からうなずかれる時より何倍もうれしい気持ちになった。

「はい。読める」

「ウソついていたら許さないよ」

「はい。梓は読める。ウソじゃない」

「本当に読めるならさ。この手紙のとおりに行動してみな」

 仲間たちからわたされた手紙の内容を忠実に実行した梓は万引き補導員につかまった。

 身柄を引きわたされた先生と両親は梓が自分の意志でやっていないとわかっていた。

「誰に命令されたのか、言いなさい」

「はい。手紙に書いてあった」

「手紙をわたされたの? 手紙はどこにあるの?」

「はい。ポスト。はい。公園のポスト」

「どうして、ポストに入れたの?」

 梓はにっこり胸を張った。

「はい。梓、手紙読めるから」

「なんて書いてあったの?」

「はい。ポストさんから手紙をもらいました。読んだらポストさんへお返しします。はい。お礼にヒルズシュからマンガを5コ持ってきてあげます」

 梓は手紙を暗記するほど何十度も読みかえしていた。友だちからもらった初めての手紙を一生忘れないと誓っていた。

 手紙だけではない。

 真剣な顔をしている先生や両親と、長時間の会話をするのは初めてだった。字が読めるようになったので、これからはみんなと同じ扱いをしてもらえるのだと未来に明るい色を塗っていた。

 両親は暗く目を伏せた。

「手紙は誰からもらったの?」

「はい。ポスト」

「ポストじゃなく、誰からもらったの?」

 梓は引き下がらなかった。字を読めるようになった事実を曲げたくなかった。

「はい。ポスト。ポストって書いてあった。字が読める。はい」

 両親と先生が顔を合わせ、梓の未来を話し始めた。梓にはわからない単語がならぶ話し合いだった。

 せっかく手紙を読んだのに、友だちはまた梓を無視するようになった。

 字が読めるようになったのに、ビスケットを1週間禁止されたので、梓は手ぶらで空き地へ行った。梓と鳩は夕暮れまで見つめ合って過ごしたが、3日目から鳩は梓を無視するようになった。

 先生と両親が話し合った結果、中学生になった梓は特殊学級へ編入される。

 同じ階には小学校の同級生たちがおり、夏休みに入る前日、梓を遊びに誘ってくれた。

「梓。割り算できるようになったのは本当か?」

「はい。十の位はわかる」

「ウソかもしれないからさ。本当なら証明しろよ」

「はい。梓はウソじゃない」

「ウソだったら、髪を切るからな。丸坊主にするからな」

 女ばかり5人は梓を中学校の近くにある林へ連れていった。暑さがやわらいでいる白樺林の中は雑草が生い茂り、背丈ほどの笹が伸びていて歩きにくい。緑をかき分けながら進んでいく最後尾から梓は一生懸命ついていった。

 やがて笹がはげている風呂場ほどのスペースに着いた。彼女たちのたまり場らしく、空き缶やパイプ椅子が置いてある。

「梓。ここに20本あるけど、6人で割ったら、1人何本だ?」

 父が喫煙者なので、梓は煙草の意味を知っていたが、どうでもよかった。とにかく割り算に集中する。余りの出る計算は少しだけ時間がかかるが、上手に解くとほめられる。

 5人はパイプ椅子にすわり、黙って梓を見ているようだった。地べたにすわった梓はカバンからノートを出し、鉛筆を慎重に動かした。

「はい。3本と、余りが2。はい」

「まちがいだ」

 1人が梓のノートを取りあげると、丸めてメガホンにした。

「相変わらずバカだな。同じ制服着ているのが恥ずかしい」

「はい。3本と、余りが2つ。はい」

「言いはるなら分けてみろよ」

 梓が煙草を6つに分けてみると、3本ずつになったのは正解だったが、余りが1本しかない。

「はい」

 困った梓がもう1度数え直そうとすると、横にいる1人が顔へ煙をかけてきた。

「ウソだって。割り算できてないって。1本足りないって」

 煙に痛む目を細めながら、梓は横の女を見た。指先にある煙草は目の前の19本と同じ色をしている。

「丸坊主にする約束だな。梓、ウソつかないな」

 後ろへ回りこんできた背の低い女に髪を引っぱられた梓は悲鳴を上げた。

「やめてやれ。かわいそうだって」

 煙草を吸っている女が梓をかばってくれる。

「梓は友だちだから、かわいそうだって」

 女は梓の手を強引に引き寄せ、自分が吸っていた煙草を持たせた。

「梓は友だちだから、これやるよ。吸えばいいって」

 じっとしている梓の手が強引に持ち上げられ、くちびるを煙草が割ってきた。後ろから伸びてきたマニキュア臭い指に鼻をつままれた。

 鼻をふさがれたことで、酸素が欠乏するのを予感した呼吸器が過去の情報へおびえるように作動し、煙を吸いこんだ。

 車の排気ガスを吸ったように苦しかった。毒を吐く仕草でせきこむ梓を笑い声が包んだ。

「梓、おもしろいって。いい友だちだ。スズメバチ、知っているか?」

 梓はせきの間から返事をした。

「はい。スズメ。はい」

「スズメじゃないって、バカ。煙草吸いながら、あっちへ歩けって」

 女は林の奥を指さした。

 立ち上がった梓は煙草をくわえながら、言われた方へ歩いた。割り算へ自信をなくし、自分へ自信をなくしていた。

 後ろから距離を置きながらついてくる5人の声が聞こえる。

「本気で頭おかしいって」

 頭がおかしい。わたしはおかしい。

「巣を踏ませるなんて、やばくないか。梓、死ぬかもな」

 死ぬ。死ぬ。死ね。死ね。死ね。

「死んでもいいって。死んでも自分じゃ気づかないって」

 大きな笑い声を背にしながら、梓は煙草を吸ってみた。大きなせきと、もっと大きな立ちくらみがした。梓は煙草を持ったまま、その場へしゃがみこんだ。

「やばいから。もう飛んできているから」

 梓の頭上を羽音が飛んだ。梓の進行方向から梓が来た方向へ、梓とすれちがうように鋭い羽音が飛び、後ろにいた女たちの悲鳴が上がった。

 スズメバチは巣に近づいてきた者へ一直線に飛んでくる習性がある。動くものを襲い、背の高いものを狙う。

 走りながら逃げる女たちは死ぬ、死ぬ、と叫びながら、転倒する音や刃物で刺されたような悲鳴を発していた。

 じっとしゃがみながら異臭のする煙を立ちのぼらせる梓をスズメバチは無視した。

「はい。スズメ。はい。みんな死ぬ。みんな死ね」

 状況を認識せず、呆然としている顕在意識と対照的に、潜在意識は情報のメモリーに忙しかった。

 煙草は梓を守ってくれる。

 スズメバチは梓を守ってくれる。

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