武将 真田昌幸 第29話武田家の崩れ(甲州征伐)
【第7章‑1】 武田家の崩れ(甲州征伐)
(天正十年二月・甲斐国〜信濃国)
天正十年二月、甲斐の空気は急に沈んだ。
甲府から信濃へ落ちた一報が、家中の声を短くした。
「木曽義昌、織田へ。」
義昌は信玄の娘婿であり、武田家の支配筋の一部を担う家であった。
その離反は、支配筋の最初の断ち切れだった。
甲府の代官所では、命令の筆跡がわずかに乱れた。
文書の端に、家中の揺れが滲んでいた。
信濃小県へ届いた書状も、いつもの力がなかった。
家臣たちは声を低くし、甲斐の空気が変わったことを悟った。
この頃、織田信長は二つの方向へ書状を送っていた。
一つは北条氏政へ。
「武田を攻める。上野は北条に任せる。」
領地線の衝突を避けるための境界確認であり、
北条はこの通知を受けて上野へ進出する準備を整えた。
もう一つは徳川家康へ。
「甲斐へ入る。駿河からの進出を頼む。」
信長と家康は同盟関係にあり、
家康はこの連絡を受けて甲斐北上の準備を進めた。
軍事作戦の共有というほどの緊密さではなかったが、
家康は信長の動きに合わせて動く立場にあった。
こうして、
織田→北条、織田→徳川の二つの通知線が、
甲斐・信濃へ同時に伸びる形となった。
織田信忠はすぐに動いた。
伊那口から北上し、武田領へ入った。
雪の残る谷を越え、伊那郡の城々へ圧力をかけた。
同じ頃、徳川家康は駿河から甲斐へ入り、
北条氏政は上野へ進出した。
三者は目的こそ違ったが、
武田領を三方向から同時に押す形となった。
信濃南部では、国衆の立ち位置が一気に織田へ寄った。
飯田城、大島城、南信濃の小城は、ほとんど戦わずに開いた。
城門の静かな開閉が、武田の支配筋の崩れを示していた。
家臣たちの往来は織田の色を帯び、
武田家の支配筋は雪崩のように崩れた。
ただ一つ、高遠城だけが抗った。
仁科盛信が籠もり、信忠軍と半日の激戦を繰り広げた。
城下の雪は血で黒くなり、矢の音が谷に響いた。
盛信は最後まで城を守り、討死した。
その死は、武田家の最後の抵抗だった。
高遠が落ちると、甲斐の空気はさらに沈んだ。
穴山梅雪が徳川へ離反し、武田家の屋台骨が折れた。
梅雪は甲斐の有力家であり、その離反は家中の中心を揺らした。
甲府では命令が乱れ、家臣の動きがばらついた。
勝頼は新府城に火を放ち、東へ逃れた。
新府城の炎は甲斐の谷を赤く染め、
武田家の終わりを知らせる光となった。
勝頼は家臣を連れ、岩殿城へ向かったが、
小山田信茂は城を開かなかった。
信茂は勝頼を見捨て、岩殿の門は沈黙したままだった。
勝頼は道を失い、山へ逃れた。
三月十一日、天目山で勝頼は自刃した。
家臣の声は短く、甲斐の空気は静まり返った。
武田家の支配筋は完全に消えた。
甲斐から信濃へ落ちる風は、
武田の色を失い、空白の気配を帯びていた。
信濃の国衆は立ち位置を定められず、
家中の声は揺れたままだった。
織田→北条、織田→徳川の通知線が重なり、
三者の目的の異なる圧力線が同時に武田を押したことで、
武田の支配筋は一気に断たれた。
その断線は、信濃の空白を生み、
真田家を外界の崩壊線へ押し出す前段階となった。




