市街地への初外出
本日3話目です。
城下町の石畳を、ゆっくりと進む馬車の車輪が乾いた音を立てる。
朝の光はまだやわらかく、石の隙間にたまった夜露をきらきらと照らしていた。
屋敷の門を出た瞬間から、空気は明らかに違っていた。
人の気配、遠くから聞こえる呼び声、焼きたてのパンの香り――それらすべてが混ざり合い、街が“生きている”ことを強く感じさせる。
サラとサンは並んで窓の外を見つめている。
サラの指先は、無意識に膝の上でぎゅっと握られていた。
サンもまた、落ち着かない様子で足を小さく揺らしている。
「こんなに人が多いのですね……」
サラはぽつりと呟き、軽く息をついた。声は小さいが、その中には緊張と、ほんの少しの期待が混ざっている。
屋敷の中で過ごしてきた日々とはまるで違う世界。
視線を向けるたびに新しいものが飛び込んでくる。
「大丈夫だ、慌てることはない」
向かいに座るアルフレッドが、穏やかな声で言う。
その声には不思議と安心感があった。揺れる馬車の中でも、彼の存在だけは変わらず落ち着いている。
サラはその言葉に小さく頷き、背筋を伸ばす。
(大丈夫……私は、ちゃんとやれる)
サンもちらりと姉の様子を見てから、同じように姿勢を正した。
今回の外出は、単なる買い出しではない。
サラとサンにとっては、初めて与えられた「屋敷の外での役目」だった。
⸻
市場に着いた瞬間、空気が一変する。
「いらっしゃい!新鮮な果物だよ!」
「香辛料はいかがだ、遠方の品だ!」
あちこちから飛び交う声、行き交う人々、ぶつかり合う匂い。
焼いた肉の香ばしさ、甘い果実の匂い、少し刺激的な香辛料の香り。
サラは一歩踏み出すたびに胸が高鳴った。
同時に、心の奥がざわざわと落ち着かない。
「伯爵様……あの子たち、あんなに……」
指さした先では、子供たちが走り回り、商人に叱られながらも笑っている。
その自由さに、少し圧倒される。
自分はこの中で、うまくやっていけるのだろうか。
一瞬、足が止まりそうになる。
その時。
「君たちはここで何か困ったことがあれば、私に相談すればいい」
アルフレッドの言葉は短いが、はっきりとした重みがあった。
サラはその声を背中で受け止める。
振り返らなくても、そこにいると分かる安心。
「……はい」
今度の返事は、先ほどよりも少しだけ力がこもっていた。
サンも小さく頷く。
(姉さんがやるなら、俺もちゃんとやらないと)
⸻
その時だった。
「うわっ!なんだこいつ!」
「果物がーっ!!」
市場の一角で突然、悲鳴と怒号が上がる。
小さな魔物が一匹、ぴょんぴょんと跳ねながら果物の屋台に飛びついている。
丸い体に鋭い牙。大きさは子犬ほどだが、その動きは素早い。
籠に積まれた果実が転がり落ち、商人は慌てて後ずさる。
空気が一気に緊張に包まれる。
サラの目が変わった。
恐れよりも先に、別の感情が浮かび上がる。
(ここで、私がやらないと)
「伯爵様……私、やります!」
振り返るその目は、迷いが消えていた。
アルフレッドは一瞬だけ彼女を見つめ、静かに頷く。
「よし、あまり大事にしないよう気をつけろ」
その言葉は許可であり、同時に信頼の証でもあった。
サラは一歩前に出る。
手をかざすと、掌に小さな火が灯る。
最初は揺らめく程度だった光が、彼女の集中とともに安定していく。
周囲のざわめきが遠のく。
呼吸を整える。
視線を魔物に固定する。
「……いける」
小さく呟いた瞬間、火の玉がふわりと前に浮かぶ。
それは攻撃というより、威圧だった。
眩しい光と熱に驚いた魔物が、びくりと体を震わせる。
次の瞬間――逃げた。
ぴょん、と大きく跳ね、そのまま人混みの隙間を縫うように消えていく。
静寂。
そして――
「す、すごい……!」
「今の見たか!?」
どっと歓声が上がる。
サラはしばらくその場に立ち尽くしていた。
自分のしたことが、すぐには実感できない。
サンはすぐ後ろで剣を構えたまま、ほっと息をつく。
「姉さん……かっこいい……」
ぽつりと漏れた本音。
その言葉に、サラの頬が一気に赤くなる。
「そ、そんなこと……」
視線を逸らしながらも、どこか嬉しそうだった。
人々の視線が、自分に向いている。
恐れではなく、驚きと称賛。
それは彼女にとって、初めての感覚だった。
⸻
騒ぎが収まり、商人たちが何度も頭を下げてくる。
アルフレッドはその様子を見守りながら、静かにサラに歩み寄った。
「よくやった、サラ。見事だ」
その一言は、何よりも重かった。
サラは一瞬だけ言葉を失い、それから小さく頷く。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
(認められた……)
それは、これまで感じたことのない確かな喜びだった。
「私は……もっと役に立てるようになる」
誰に聞かせるでもなく、心の中で強く誓う。
サンはそんな姉の横顔を見て、少し誇らしげに笑った。
(やっぱり姉さん、すごいな)
⸻
帰り道の馬車は、来た時よりもどこか穏やかだった。
揺れる車内で、サラはしばらく黙っていたが、やがて小さな声で口を開く。
「伯爵様……私、もっと……いろんなこと、教えて欲しいです」
言葉を選びながらの、精一杯のお願い。
アルフレッドは一瞬驚いたように目を細め、それから柔らかく微笑んだ。
「そうか、なら君にはしっかり教えよう」
その返答は、迷いのないものだった。
サラの肩から、ふっと力が抜ける。
その空気をぶち壊すように――
「姉ちゃん、言い方がイヤラシイ」
間の抜けたサンの一言。
ボコ、ボコっ!!
鈍い音が車内に響く。
「うへっ、うえっ……!2人してお腹蹴らなくても……」
サンはお腹を押さえながら涙目になる。
しかしどこか嬉しそうでもある。
顔を真っ赤にしたサラは窓の方を向き、
アルフレッドもわずかに咳払いをして視線を逸らす。
馬車の外では、朝の光が少しずつ昼の色へと変わっていく。
そんなこんなで――
サラとサンの姉弟は、アルフレッドへの信頼をまた一つ深めたのだった。
たぶん。
そしてその小さな一歩が、これからの大きな変化の始まりになることを、
まだ誰も知らなかった。




