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EP005『蒐集』

 夕日が沈み、冬の夜空が遠くから迫ってくるーーそんな時間だった。

 何事もなく終わった一日を頭の中で思い返す。モカにご飯をあげて、マスターにご飯をあげて、モカにおやつをあげて、マスターにおやつを……そこまで思い出して、マスターへの食事の回数が猫と同等になっていることに気付いた。甘やかし過ぎかもしれない。運動というものをてんでしない人にこんなに食事をさせたらとんでもないことになる。

 とまあそんなことしか思い返せないくらい、何も無い、落ち着いた日だった。

 店のドアに掛かっている木板の看板をCLOSEDにくるりと変えて、背伸びをひとつ。そうしていると、背後から足音が聞こえて、俺の後ろで止まった。


「よっ、ユータ」

「大知さん!」


 右手を上げて気さくに声を掛けてきたその人は、深い朱色の髪色を持つ男だった。左目には黒い眼帯を着けていて、白いカットソーと黒のベスト、そして黒いダッフルコートを羽織り、編み上げの黒いショートブーツを履いている。彼は今日は寒いわぁ、と言ってすぐにコートのポケットの中に右手を突っ込んだ。


「大知お兄さんがきたでぇ。今日唯人おる?」


 彼は川里大知かわざとたいちと言って、マスターの古くからの友人。そして川里骨董品店の五代目当主でもある。生まれが関西らしくノリが良く、話しやすい。俺、高原祐多たかはらゆうたにとっては兄貴分みたいな存在だ。なんの用事もなく店を冷やかしに来ることもあれば、とある用事のために訪れることもある。そういう用事があるときは決まって閉店後なので、今日もそうなのだろう。


「いますよ。今日も調合室に籠もりっきりです」

「まーたアイツは……調合やのうてモカと遊んでるだけやん、絶対」

「俺もそうだと思います。羨ましい……」

「俺もや。モカちゃんと遊べるなんて羨ましいわぁ」


 大知さんはモカに嫌われている。モカというのはこの店、望月洋墨店で飼っている茶色の毛並みを持つ猫だ。

 彼は動物嫌いどころかむしろ動物大好きな人なのだが、どの猫にも懐かれない。というのも彼は鹿が大好きなのだ。幼少期から奈良県によく遊びに行っていたらしく、そのとき鹿の凶暴性に心を射抜かれたらしい。以来鹿が大好きなせいで飼いたいとまで言っているのだが、そのせいで猫が寄り付かないらしい。特にモカは事あるごとに大知さんを引っ掻こうとする。モカがそこまで暴れるのは滅多にないことなので、俺とマスターはむしろ愛されているのではないかと睨んでいるくらいだ。モカとしてはその睨みは困るだろうけれど。


「立ち話もなんですし、中、どうぞ」

「せやな。ほな、おじゃましまぁす」


 店のドアを開けて大知さんを入れて、そのままドアを施錠した。勝手知ったるといったように大知さんはレジ奥の調合室へ歩いていく。いつものことなので特に止めないで、俺は店の明かりを消した。

 モカの威嚇の声がしたと思えば、調合室からまっしぐらに店に駆けてくる。大知さんには目もくれず一目散に俺をめがけて走ってきたので、俺は身をかがめてモカを抱きとめた。


「ぐぅぁあああ、ニャア!」

「こらモカ、いくら嫌いだからって威嚇し過ぎだよ。落ち着いて、落ち着いてー」

「ミャァア!」

「……大知さん、前世でモカになにかしましたか?」

「してへんって」


 今日もあかんかぁ、としょげた足取りでとぼとぼと調合室へ入っていく大知さんを見つつ、モカを宥めてそっと床に下ろす。店で隠れてていいからね、と伝えれば、先ほどとは打って変わって穏やかな声で静かに鳴いた。

 そうして俺も大知さんの後を追って調合室の中へ入った。


「賑やかですね」

「今日もモカちゃんに振られてしもたわ」

「モカの反応が当然です。貴方は胡散臭いですから」

「唯人にだけは言われたくないわぁ」


 入ってきた大知さんにそう声をかけたのは、この店のマスターである奥村唯人おくむらただひとだ。彼は少し長い、青漆のような色をした髪の毛を緩く結んで横に流して、胡散臭そうな丸い眼鏡を掛けている。今日はベージュのタートルネックセーターに、上からインクでいつ汚れてもいいように紺色のエプロンをしていた。

 大知さんは、マスターのことを名前で呼ぶ唯一の人間だ。旧知の仲だからというのもあるけれど、マスターはそれだけ彼を信頼していた。それは友人としても、仕事仲間としても。

 とりあえず、今日はジャスミン茶でも入れようか。ティーバッグタイプのジャスミン茶を取り出して、三人分より多めに用意する。こういう日は話が長引くし、たくさん淹れても飲んでくれるだろう。

 マグカップを三つ。そしてちょっと大きめのポットを持ってテーブルに置く。おおきに、と言って大知さんはマスターの分、俺の分とマグカップへ注いで、最後に自分の分をポットから注いだ。彼はこういうとき自分で動いてくれる。正直ちょっとありがたい。


「それで? 貴方がこの時間に来たんですから、何かあったんでしょう」

「せや。とりあえずこれを見てほしいんやけど」


 そういって、大知さんは持っていた鞄の中から、一つの黒い箱を取り出した。横が二十センチメートルくらいの、細長い箱だ。開けると真っ赤なベロア生地が貼られていて、その中には一本の万年筆が大事そうに横たわっていた。


「万年筆ですか? 古くて高そう……とは思いますけど、普通の万年筆では?」

「それがなあ、ただの万年筆とちゃうんよ。ーー唯人はわかるやろ」


 俺からすれば至って普通の万年筆としか見えない。一体どういうことなんだろうと正面に座るマスターを見る。

 じぃと万年筆を見つめて、触ってもいいですか、と尋ねたマスターは、許可を得るとすぐに万年筆を分解した。首軸を回して胴と分ける。そうしてその胴の中をこれまたじぃと見つめた。そうして、やっぱり、と答えた。


「ビンゴ、やろ」

「ええ、願墨がんぼくですね」


 話が見えずきょとんとしていると、マスターが、この中に願墨が入っているんです、と教えてくれた。

 願墨とは、マスターがお客さんもとい依頼人の願いを聞いて、それを叶えるために調合したインクのことを言う。願墨は呪物で、調合の時には依頼人の血や涙を必要とする。

 はて、万年筆の中に願墨が入っているのはさしておかしいことではない。昔この店でインクを購入した誰かのものだろう。とはいえ、こんな古い万年筆に願墨を入れて使うということは、持ち主はご老人、なのだろうか。


「唯人。今日はこれと、それを売りに来たお客さんのことで相談があって来たんや」


 わかりました、というマスターの返事を聞いてすぐ、大知さんはその話をはじめた。



 

 

 **【蒐集】



 

 

 それはつい一週間前のことだ。ウチの店ーー川里骨董品店ーーは一般的な骨董品の類から、祖父の趣味で中国の古文具や古い万年筆も買い取っている。そんなもんで、その日来たお客さんも、そういった品を店に売りに来た。歳は七十五くらいの女性で、白髪が目立つが上品そうな人だった。

 古い硯や書鎮、そしてこの万年筆を持っていて、主人の遺留品だという。主人は骨董品の蒐集家で、女性としては興味がないので全部売ってしまいたいということだった。

 家にも大きなものがたくさんあり、それも全部合わせて買い取ってほしいという希望だった。

 持ち込まれた品だけを見てもどれも相当状態が良く、家にあるものも屏風や掛け軸などもあるというのだから、それも同じ状態ならかなりの額になる。

 直感的にそう思ったけれどもちろん口にはせず、まずは持ち込まれた品を主人さんがどういう風に扱っていたか聞くことにした。


「生前、ご主人はこれらの品にどんな思い入れがありましたか?」

「毎日大切に眺めるだけでしたわ。使うことはしないで……硯も書鎮も万年筆も、全部一度も使っていません」

「まあ、鑑賞品みたいなモンですからね。さっと見た限りでもほんまに一度も使うてないんやろうなってくらい綺麗ですねぇ」


 あくまで蒐集は主人の趣味で、私にはその価値が一切わからないと言い、金額も全部お任せしますと言ってきた。こちらとしても文句が出ないなら楽ではあるが、とはいえ主人の遺留品。いくらかその言葉たちに冷たさを感じないではない。亡くなったのがいつかを恐る恐る聞けば、つい二週間前だという。遺言には全て妻に任せると書かれていたそうで、子供も一人きりですでに家庭がある。それも海外にいるものだから、手を借りられず。主人の後始末を全部しなくちゃいけなくて大変だと零した。

 家にあるものの査定もしたいので後日家に伺うことにして、持ち込みされた品は一旦店で保管することにした。古硯こけんは異常もなく本当に美品で、雲を模した彫り物がされている。書鎮も浮き彫りが施された上等な品で、これもまた美品だ。購入したのか譲り受けたのかまでは現状わからないが、ここまでの状態で保管しておくからには本当に大切だったのだろう。そんな大切な品を、亡くなって一週間で売られてしまうのは、どんな気持ちだろうか。

 感傷的になったところで仕方がない。俺のしている商売は、こういう品を次に大切にしてくれる人へ手渡す仕事なのだ。

 最後に万年筆を見る。これは海外製のものだろう。重心が中心からズレていて、キャップを後ろへ着けるーーキャップポストするーーと非常にバランスが悪い。かなり人を選ぶ代物だ。念のため、インクが入っていないか点検するために、紙を取り出してペン先を滑らせる。すると、するするとインクがおりてきた。この万年筆はインク止め式だ。それに、ずっと昔からインクが入ったままだというのだろうか。

 ーーけれど、一度も使っていないのなら、何故?

 浮かんだ疑問を消し去るには、直接話を聞くのが一番だろう。二日後に来訪する予定のその女性の家で、俺はそのことを尋ねることにした。


 二日後。女性の家を尋ねると、そこは小さな屋敷だった。門があり、瓦屋根が組まれた二階建ての日本家屋。庭があり、そこには手入れのされていない盆栽が並んでいた。


「二階の北側に主人の書斎兼蒐集部屋がありますわ。どれでも全部、持っていってください」

「どれでもっちゅうわけには。まずは見させてもらいます」


 玄関すぐの階段を上がり、二階へ向かう。そして女性に案内されるまま目的の部屋に入る。そこにある調度品はどれも美しく、大切にされていたのがわかる状態で、持ち主の帰りを待っているようだった。机の上に並ぶもの、本棚の中、部屋に掛けられた掛け軸に箪笥。どれもこれまで見てきたどの品よりも持ち主の愛情を感じられる状態にある。骨董品店の店主としても身が引き締まるような、そんな思いに駆られるのを感じた。全部、しっかり見よう。

 状態と値段をメモしながら、女性にご主人がどんな風にこれらを扱っていたのかを尋ねる。けれど彼女は全く知らないというばかり。


「主人は基本的にこの部屋に籠もりっきりでした。ずっとここにあるものを眺めていたんでしょうけれど、物として使用しているところは一度も見たことがありませんわね。集めるだけ集めて満足して、それで一体いくら使ったのかわかりませんわ」

「もしかして、浪費家やったんですか?」

「いいえ。浪費家というわけでは。それでも譲れないと思ったものにはお金を惜しまない人でしたわね。そうしてずっと大切にする、そんな人でした」

「ええご主人やないですか」

「そうかしら。そうだったのかもしれないわね」


 大小あるが点数にして四十点近い。最終的な査定金額決定や引取は店で見積もりを作ってからになるので後日になる。

 一階にある応接室にある掛け軸もその点数の中に加えてからそのことを伝えると、女性がほんの少しだけ顔色を変えたのを見逃さなかった。気になることがあればなんでもどうぞ、と伝えると、なるべく急いで査定してちょうだい、と言ってきた。


「そうは言われても、しっかり査定せんといけまへんので」

「……主人のものは早く売りたいのよ、この家に一人でいるのも大きすぎるからどこかへ移ろうかと思って」


 なるほど、家を売りたいからか。と思うと同時に、この女性からご主人への愛情が薄いように感じた。遺留品も興味がなく、亡くなって、葬儀が終わって一週間でもう家を売ろうとしている。よほど仲が悪かったのだろうか。であれば、ご主人がそんな状態の妻にすべてを任せたりするだろうか。疑問ばかりが浮かぶ。

 そうだ、と思い出し、俺は鞄の中に入れていた万年筆を取り出した。


「奥さん、この間持ってきてもらった万年筆なんですけどね。ちぃーっとばかし気になる点がありまして」

「なんでしょう。聞かれましても私にはお答えできるかどうか……」

「いえ、難しいことやないです。これ、『一度も使ってない』んですよね?」

「ええ。そうですわ。主人が万年筆を使っていたことなんて一度も」


 ご主人が使った形跡はやはりないらしい。では何故あんなにするすると、インクが詰まることなく出てきたのだろうか。

 おそらくあの万年筆は持ち主が何度か変わっている。それは骨董品なのだから当然だ。しかし店で買ったのであれば中身のインクは空になっているはずであり、人から譲り受けたとしても、その後一度も使っていない万年筆で、インクが固まらず、詰まらず残っているなんてことがあるのだろうか。


「この万年筆、インクが入ってるんですよ。それも最近入れたような状態なんです。心当たり、ないですか?」

「ないですわ」

「そうですか。そうなりますと、この万年筆の査定額は下がるんですよ。インクが入りっぱなしだと、あかんのです」

「でも買い取ってはもらえるんですよね? であれば金額はいくらでもいいです」


 きっぱりと、そう言われた。相当にドライだと感じながら、そんなものなのかと一応、納得した。そもそもここで売り主にじゃあ全部売りませんとかなんとか言われても、商売をしている身としては困るところでもある。

 見積前に査定申込書を書いてもらおうとしたとき、ふと思い立って、自分の万年筆を取り出した。いつもはボールペンだが、なぜかそうしたくなったのだ。顔料インクを入れてあるそれを女性に手渡した。たまに、常連のお客さんをからかって万年筆で書いてもらおうとすると戸惑われることが多い。年配の人ですらボールペンに慣れきっている時代なのだし、そもそも書類を書くのに万年筆を渡されることなんて普通はない。なにより、俺の持っている万年筆は若干特殊で、重心が偏っているのだ。キャップポストをすると余計に書きにくい。そう、まさに先ほど話題に上がった万年筆のように。

 全く同じものではないし、メーカーも異なる。ただバランスが悪いという点が同じで、俺がそれを好んでいる、それだけだ。

 だから余計に普通のお客さんは、これじゃ書きにくいよと苦情を言ってくる。だというのに、この女性は全くそれを意に介さずに、すらすらと万年筆を使いこなしてみせた。


「奥さん、万年筆つこたことありますん?」

「いえ? 一度も」

「一度も、ですか」


 女性はそのまま詰まることなく申込書を書き終え、俺もその申込書を持って、その家を後にした。

 その後無事に見積を作り終わり、査定額に同意を得た。荷物の運び出しは業者に任せ、俺としてはあとはもう運び出しが無事に終わるのを待つのみだ。



 *


 

「ーーとはいえ、まあやっぱり気になってしもてな。この万年筆が。なんや良くない雰囲気がしとったから、唯人に見てもらおう思ってな」


 ジャスミン茶を二杯お代わりした大知さんは、話し終えてからそう言った。

 大知さんは、願墨のことを知っている。おそらく俺よりもわかっている。本人曰く骨董品店という仕事柄、良くない怨念が籠もったようなものを見るのでなんとなくそれが願墨だと察することができる、らしかった。万年筆が持ち込まれた場合は定期的にこういうことが起こるようで、そういうこともあって、二人は友人であり仕事仲間でいるのだ。


「貴方の勘は外れませんね。さっきも言った通り、これは願墨です」

「やっぱりな。使用者はーー」

「その女性でしょう」


 大知さんは、はぁー、と深い溜め息を吐いた。買い取ってしまった以上売りに出したいが、願墨が入っていた以上売るわけにはいかない……というところだろう。


「唯人、今回も洗浄頼むわ。傷つけんといてな」

「わかっていますよ。あとで見積を出します」


 餅は餅屋、願墨は願墨屋へ、ということで、こういったときに川里骨董品店から万年筆洗浄の依頼を受ける。願墨の効果が本当に切れているのかを判断し、それを綺麗に掃除する。そうして売り出しても大丈夫な状態にして、大知さんへ返す。そうしないと、万が一願墨の効果が切れていなかった場合、使用者と依頼者が異なってしまう。それだけでなく、願いの内容によっては危険が生じてしまう。

 大知さんはお祖父さんの時代もそうしていたと言っていたことがある。マスターの師匠に当たる人が、当時はそれを請け負っていたのだそうだ。


「ところで、マスター」

「なんですか? ユータくん」

「願墨の願いって、何だったんですか」

「俺も気になるわ。妙に主人に対して冷たかったの、引っかかっとるんよね」


 マスターはお茶を一口飲んで、一呼吸置いた。外は風が強くなってきたのか、ひゅうと音を立てながら鳴いている。あまり気乗りがしない、という雰囲気だが、それでもマスターはまた短い呼吸をしてから話しはじめた。


「そもそも、これは私が調合したものではありません。私の師匠のものです。調合の仕方が全く師匠のそれと同じです。願いの組み込み方も、全部」

「おじさんの、か」

「ええ。そしてそのインクを、その女性は何度もこの万年筆で使っていたと思います。あの人が亡くなる前に作っているこのインクを、今の今まで使っていたのでしょう」


 マスターには師匠がいる。その師匠は、俺がここへ来る一年ほど前に亡くなっていた。大知さんは馴染みがあったからわかるのだろうが、俺にはわからない。なんだか遠い世界に二人がいるみたいな感覚に陥ってしまう。けれどそれは当然のことで、俺はそのときをここで生きていないのだから、そんな事を考えても仕方がないのだ。

 

「だから万年筆の扱いに慣れてたわけやな。なるほどやっぱりそうやったか」

「しかも貴方のあの扱いに困る重心の万年筆をすぐ使いこなせるくらいですからね、相当使っていますよ」

「おい、人も持ちモンにケチつける気か? ってのは冗談で。俺もビックリしたんや。これ使いづらいでー思いながら渡したのに、使いこなすんやもん」


 と、そこまで聞いて、どうして女性は一度も使ったことがないなんて嘘を吐いたんだろうと思った。ご主人も、女性も、一度も使ったことがない。それなのに女性は万年筆の扱いに慣れていた。そしてそこまで愛用していてなお、なぜ手放すことにしたのだろうか。主人のものだから、ということだけではなさそうだ。

 

「その女性は、万年筆を……というよりも、願墨を使用していたことを揉み消さないといけなかったんですよ。誰かに勘付かれたらまずいと。だから使ったことがないと言い張った。ですがこの万年筆は、相当、女性の執着を感じるんです。その願墨を使用して、効果が切れた後の願墨でさえ使って叶えたかったことがあったのでしょう」


 マスターの顔には影が出来ていた。やはり気乗りしないといった感じで、何かを言おうとして、やめてしまう。しかしようやく決心したようで、俺と大知さんにそれぞれ見た。ここまで言い淀むマスターは初めて見た。


「これは私の推測です。が、願墨に込められた願いがそうであることから、おそらく確定的でしょう。この願墨は『病気の進行を早めるインク』です」

「病気? 誰のや」

「ええ、おそらくはご主人の病気を、でしょう。誰の病気とまではこの調合では読み解けませんが……」


 ということは、まさか。全員が同じ事を考えたようで、沈黙がはじまった。ややあって、大知さんが声を出した。


「なるほどな。あそこまで主人の遺留品に興味がなかったのも、査定や引取を急かしたのも、主人が邪魔でーー金が欲しかったから」

「だいたいそういうところでしょうね。落ち着くところとしては。……こういう形で願墨の効果を知るのは、あまりにも」

「気分悪いわ」

「ーーええ、ほんとうに」


 それでも、このご主人は妻である女性に全部を託した。すべてわかっていたのか、それとも知らなかったのか。わかった上で託したのだとしたら、きっとご主人は女性のことも本当に大切に思っていたのだろう。実際にその夫妻のことを知らない俺たちは想像することしかできないけれど。

 女性が主人のものを売って、家を売って、そうして得たもので、一体何をしようと思っているのか。それもわからない。でも、それでも確かに、願墨がこういう形で使われることに対してはーー俺も気分が悪かった。


「……ま、買い取ったもんはしゃーないしな。ご主人がどれもこれも大事にしとったことは俺の目からしたら一発や。あんなん誰が見てもわかるけどな。だからこそ、大事に売ることにするわ」


 大知さんは例の万年筆洗浄分の見積もりを受け取ると、ほなまた、と言って帰っていった。

 残された俺とマスターは、どうにも喋り出せる雰囲気ではなかった。というのも、マスターがずっと俯いたままなのだ。大知さんが帰ったあとすぐに戻ってきたモカが膝に乗っても、撫でることをせず、ぼうっと俯いたまま。ときおり、師匠、とぽつりと零しているのだけははっきりと聞こえた。

 外の風は強くなるばかりで、ごうごうと音を立て始めている。


「ご飯ができたら呼びますね」


 それだけ伝えて、俺は店の二階へと上がる。上から落ちてくる冷たい雫に抗議するモカの声だけが、そこに響いていた。

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