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EP001『死を臨むのならば』

※ハラスメントや死についての表現が登場します。苦手な方はご注意ください。

 それは、不思議な店だ。

 とはいえ別に、派手な外観をしているとか、奇抜で特異な店主がいるだとか、そういった様子は見られない。

 けれど、そこは確かに不思議で異質な……普通の文房具店だった。


 

「いらっしゃいませ。ぜひ、ごゆっくりご覧ください」


 落ち着いた声でお客様を迎える。ここに勤め始めて半年。だいぶ慣れたものだ。

 これまでは居酒屋だったりイベントスタッフだったり、大きな声でハキハキと接客するようなアルバイトをしてきたこともあって、この店の接客に慣れるまで結構かかってしまった。

 店主は物腰柔らかで穏やかな青年。だからこそ、俺も穏やかに接客しなければ。


「すみません、このインクって試せますか?」

「はい、喜んで! ……あっ」


 前言撤回、やっぱりまだ慣れていなかったようだ。

 気恥ずかしさのあまり顔から火を噴きつつ「失礼しました」とだけ言って、そのあとは普通に、努めて冷静に接客をした。

 お客さんはどこか笑いを堪えた様子でいたが、会計を終えて帰る頃には欲しかった品物を購入出来た喜びが勝ったのか、嬉しそうな顔でドアを出ていった。


「んっ、ふふっ!」

「……マスター、奥にいたんじゃないんですか」

「いましたよ? でも、なんだか明るい声が聞こえてきたので、一杯引っ掛けようかなと」

「お客様、ご注文はビールでよろしいでしょうか?」

「私は日本酒の方が好きですよ」

「知りませんよそんなこと」


 レジカウンターの後ろ、店の奥に当たる部屋から出てきたのは、この店の店主だ。

 自分のことを「マスターとでも呼んでください」と言っていて、お客さんに対して名前を頑なに明かそうとはしない。

 とはいえ、さすがに従業員には名乗っている。『奥村唯人おくむらただひと』が彼の名前だ。

 しかし基本的には絶対に名前は名乗らないし、名札もつけていない。過去になにかやらかしでもしたんだろうかとすら思ってしまう。

 少し長い、青漆のような色をした髪の毛を緩く結んで横に流し、胡散臭そうな丸い眼鏡を掛けた向こうには、濃紫の瞳が待ち構えている。だるそうに袖の長いワイシャツ、その上には紺色のエプロンを着けて、調合するインクで汚れないようにしていた。


「私が奥にいる間、どうでしたか?」

「特に変わらずです。モカが散歩から帰ってきてないくらいですかね」

「あの子、また遠出してますねぇ。今日は特別に取り寄せた美味しいオヤツがあるというのに」


 『モカ』と言うのは、この店で飼っているネコの名前だ。

 看板猫であるモカは、名前の通り茶と白の毛が混じった茶トラのオスで、かなり大人しい。この店は細かいものや倒したら危ないものがたくさん置いてあるが、それらに触れるようなことはこれまでも一度もしたことがないらしい。

 いつもはレジ台の上で丸まって寝ているが、たまに散歩に出かけては、長時間帰ってこないことがある。

 ネコにはネコの世界があるのだろう。結局はちゃんと閉店時間前に戻ってくるので、マスターも俺も特に心配はしていない。


「もうすぐ閉店ですね」

「ええ、モカももうすぐ帰ってくるでしょう。それと、ユータくん」

「なんでしょう?」

「申し訳ありませんが、今日は残業でお願いします」

「えっ、なんで――」


 今日は特に忙しい日でもなければ、何か作業があるわけでもない。こんな前触れもない残業願いが示すもの、その理由はひとつ。


「あ、あの……まだやっていますか……?」


 ドアを開けて、ひどくやつれた女性が入店してきた。


 


**【死を臨むのならば】


 

 

「いらっしゃいませ。まだ営業時間ですので、大丈夫ですよ」

「よかった……」


 心底安心した表情で、女性はため息を吐いた。そして、走ってきたらしい呼吸をはあ……と整える。

 ショートカットの髪は乱れていて、着込んだスーツもよれている。満身創痍、あるいはボロボロ。そんな言葉がぴったりの様子だ。

 この店は『望月洋墨店』と言う。洋墨と冠しているからには、インクを扱う店である。他にもインクを使用するような筆記具、例えば万年筆だとかガラスペンを売っていたり、ボールペンやノートなども置いている。まあつまりは何の変哲もない文房具屋である。

 だから、普通ならこんな風に慌てて入店するお客さんなんていない。そう、本当に普通の文房具屋であるのならば。


「にゃあー」


 女性が開けた扉。その隙間から、茶トラの猫がのそのそと入ってくる。

 ゆっくりレジ前まで歩いてきては、ひょいっと自分の数倍もある高さのレジ台まで飛んで、そこで丸まった。


「モカ、お帰りなさい」

「みゃ」

「今日は随分遠くまで出掛けていたんですね。とっくにオヤツの時間、過ぎていますよ」

「んみぃー」


 マスターは戻ってきたモカの丸まった背中を撫でながら、ちょっと拗ねたように言う。

 彼はモカに甘い。オヤツをいつもあげすぎるし、好き勝手させまくっている。とはいえモカは特にやんちゃをするわけではない。一度だって店の中を荒らしたことはないし、誰かを引っ掻いたり、例外を除いて嫌ったりすることもない。

 だからまあ、アルバイトの俺としても気を揉まなくて良いのだけれど。


「え、えと。とりあえず中へどうぞ。ごゆっくり店内を――」

「あ、の……っ!」

「は、はい!」

「『合言葉』を、知っているんです。それで、その、どうしたら……いいですか……?」


 その瞬間、マスターとモカが女性へと視線を向ける。

 ふたつの視線に射抜かれた彼女は、怯んだように後ずさった。けれど、すぐに覚悟を決めたような表情でレジの前まで歩いてくる。

 コツ、コツ。随分と土埃で汚れ、踵も踏み潰された黒いヒールが鳴る。5cmだけ背伸びしたそれはだいぶすり減っていて、相当な道のりを彼女と共にした証に見えた。

 女性はレジの前、ちょうどモカとマスターの前で立ち止まる。緊張した面持ちで深呼吸をひとつ。そうして、言葉を吐いた。

 

「――叶望きょうぼう

「んみゃあー……にゃあ……」


 彼女の言葉を聞いたモカが起き上がる。そのまま足元へ寄っていったかと思えば、彼女の靴を前足で叩いて、小さく鳴く。

 その鳴き声と同時に、マスターが口を開いた。


「いらっしゃいませ、お客様。お話は……ぜひとも奥でいたしましょう。どうぞこちらへ」

「にゃにゃあ」


 彼に手招きされ、女性はまた少し怯えた様子で奥の部屋へと歩みを進める。とはいえ迷いはないようで、その足取りはしっかりとしていた。

 モカもそのあとを追うように奥へと消えていく。俺も後を追おうとしたとき、マスターは振り返って言った。


「ユータくん、戸締りをお願いします」


 丸眼鏡の奥の目を薄く細めて妖艶に微笑んでから、彼は女性とモカと共に奥へと消えていく。

 俺は一度店の外へ出て、ドアに吊り下げられた板をひっくり返した。CLOSED。通常営業は、ここで終了だ。

 そして出入り口の鍵をひとつ、ふたつ、締める。それまで眠っていた月も顔を出し、すっかり太陽と入れ替わっている。

 店の灯りを消して、月明かりだけが店内へと入り込んでくる。どこか不安を煽るような雰囲気へと変わったその場所を後にして、俺は彼らが向かった奥の部屋へと進んでいった。



 ――パチ、パチ。剥き出しの電球が音を立てる。あたたかみのあるオレンジ色のそれは、天井のあちこちから吊り下げられている。

 後を追って入った部屋では、ちょうど女性がソファーに腰掛けたところだった。

 赤のベルベットで覆われ、その周囲と脚が黒い金属で囲われたソファーは、この部屋の中で一番派手だ。そして、不気味でもある。

 それがダークウッドのセンターテーブルを挟んで向かい合わせになっている。

 部屋自体はあまり広くないが、決して狭いわけでもない。現にこうして大人三人と一匹が入ってもまだ余裕がある。

 その分、所狭しと物が置いてある。おおよそが瓶で、中にはマスターにしかわからない液体が入っている。

 中身がインクであることは確かだ。ただそれは、普通の筆記目的のインクではない。だから、マスターにしかわからない。


「さて。まずは、そうですね。お茶でもいかがですか? 急いで走ってこられたのでしょう。何か冷たいものを……」

「い、いえ! 構わないでください! それより、早く……」

「早く、お話されたいんですね」


 マスターが座っている真横に座ろうとしたら、そこにはモカが丸まっていた。

 俺は思案した結果、部屋の片隅に放置されていた木の椅子を持って、テーブルの端に置いた。まるで図工室にでも置いてありそうなその椅子はだいぶ木のささくれが目立っている。足に刺さらないといいけど。

 そんなどうでもいいことを気にしている中で、女性はぷるぷると震えていた。喋りたいのに、喋れないようなそんな状態で、口を開いてはハッ、ハッと短い呼吸をして、息を呑んで口を閉じる。

 罪を告白する直前の罪人のような面持ちで、焦点が合わないのか、視線を泳がせて、そうしてキュッと瞼を強く閉じた。


「どうか、安心してください。この空間では、貴女の言葉を否定する人間はいません。どんな内容であっても、他者へ言いふらすようなこともいたしません。その点は、誓約書をもって誓わせていただきます。……それに、貴女は願いを叶えにきた。その勇気を持って此処へ来た。それだけでもう、貴女は一歩踏み出しているのです。だから、どうか安心して。ゆっくりで構いませんから、貴女のお名前と、お話を聞かせてください」


 マスターは穏やかな声で語りかける。モカもそれを後押しするように、にゃっ、と鳴いた。

 膝の上で強く握りしめられた手が解かれる。あまりにも強く握っていたからか、その手は血の気を失い白くなっていた。その指先にあるはずの爪はなくて、かろうじてガタガタになった爪は残っている。それ以外の指は、本来爪の下に隠れているはずの肉が剥き出しになっていた。

 剥いだのか、噛んだのか。いずれにしても、彼女の服装などからして、悲惨な状態であることは確かだった。

 目の下にはひどいクマが出来ていて、瞳も正気を失っている。


「ありがとう、ございます……。ありがとう、ござい、ま……うっ、ああっ……!」


 マスターの言葉で緊張が解けたのか、解かれた手を、今度は顔を覆うために使った。

 お礼を述べながらも、彼女の目からは止めどなく涙が溢れてきている。ずいぶんとひどく抱え込んだものがあるのだろう。


「すみ、ませ……こん、な、泣くつもり、うっ、ううっ……!」


 謝罪しながらも、彼女の涙は止まらない。でも、きっと謝罪する理由なんてないはずだ。

 俺はポケットからハンカチを取り出して彼女へ差し出す。どうぞ使ってください。そう言えば、彼女はより一層涙を流しながら、嗚咽とお礼の混ざった声でハンカチを受け取った。

 十分くらいだろうか。俺たちは彼女が泣き止むのをひたすらに待っていた。

 それを責めることはない。彼女はこの場所へ、何らかの願いを叶えにきた。その願いが、きっと彼女が泣き出した理由だ。

 それに、こんなにも思い詰めたように泣く人を責めることなんてできない。

 見守っていると、彼女はやっと涙が収まったのか、すみません、と小さく呟いた。声はすっかり枯れている。


「いいんですよ。泣くことは大事です。自分の気持ちを吐き出すためにも、泣くことは悪いことではありませんから。それに……先ほどよりも顔色が良く見えます。少しでも気持ちが晴れたのなら、それで良いんです」

「本当に、ありがとうございます……。確かに、ちょっとだけスッキリしました。お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません……」

「謝らないでください! 俺たちはあなたのことを見苦しいなんて、これっぽっちも思ってないんですから!」


 必死にそう言うと、伝わったのだろう。ちょっとだけ笑顔を浮かべて、彼女はお礼を述べる。

 そうして、深呼吸。小さく頷いて、赤く腫れた目を隠さず、真剣な表情でマスターを向いて、言った。


「……私は、大崎未優と言います。人を殺すインクを、作っていただきたいんです」


 部屋の中の空気が一気に冷え込む。マスターは動じず、なるほど、とだけ返した。


「具体的に教えていただけますか? なぜ貴女がそれを望むのか」

「はい。……私は、部長からハラスメントを受けていて、それで、部長を殺したいって」


 女性――大崎さん――は合間で息が詰まりそうになるのを堪えながら話している。受けたことを思い出したのか、定期的に首を小さく横に振って何かをかき消そうとしていた。


「業務を押し付けられるだけならまだいいんです。でも、人事に一度相談したらそれが部長にバレて、カメラやマイクを仕込んでいるんじゃないかって言われて、身体を、触られて」

 

 吐き気がこみ上げるのか、胃を押さえてなんとか耐えている。続いた大崎さんの話はこうだった。

 無理矢理身体を触られてから、口止めとして逆に部長にその行為の写真や動画を撮られるようになった。業務過多、その業務が終われば行為を強要される。人や機関に助けを求めようにも部長からの反撃が怖い。人事には口が軽い人がいてすぐ人に言いふらされる。その人を辞めさせようにも社長の娘で難しいらしい。気がつけば腕には血が滲み、仕事に行ってもただ作業をこなすだけで、辛いも悲しいも浮かばなくなってしまった。

 そんな中、ふと夢の中にこの店と喋る猫が出てきて、合言葉を話した。どんな願いでも叶えるインクを調合できる店。怪しいと思うものの、眠るたびにその夢を見て、猫が道案内までしてくれた。いつの間にか本当に願いを叶えてくれるんじゃないかと思うようになった。

 そうして、部長が有給休暇を取っている今日、やっとここに来られた――。


 やっと人に話せた、という大崎さんは、喋り終えたあとただ静かに涙を流している。メイクも涙で落ちてしまっていて、それが余計に彼女の苦しみを伝えてきた。


「話してくださってありがとうございます。察するに、貴女のその爪は」

「剥ぎました。腕を切るのも首を絞めるのも家でしか出来なくて……。爪なら外でも剥がせるからすぐ安心できて、気が付いたらこうなっちゃってました」

「そうですか。……ユータくん」

「え、はい!」


 唐突にマスターに呼ばれて、思わず立ち上がる。飲み物を持ってきてもらえますか、と言われて、俺はすぐに小さなキッチンスペースへ向かった。いわゆる給湯室だ。

 何がいいだろう。飲み物がほしいのはマスターじゃなくて依頼者だ。なにか心が落ち着ける飲み物が良い気がする。

 その場にあったココア缶を手にとって、ミルクを多めにして小鍋に入れる。ココア粉が溶けて混ざりあったくらいで砂糖を足して、マグカップに注ぎ入れた。大崎さんの呼吸が落ち着いた今はあの場所も寒いし、冷たいものよりも温かいもののほうが心は落ち着けるはず。

 マスターと自分用にはお茶を注いで、適当でいい。大崎さんに落ち着いてもらうのが一番だから、早く届けないと。


「お待たせしました。えっと、ココアとか甘いもの、平気でしたか?」


 持ってきてから、ココアが苦手な人もいるよなと思いあたった。一応断りを入れれば、大丈夫です、と返ってきた。よかった。

 契約の話はまだ進んでいない。大崎さんの状態が落ち着くのを待っていたようだ。自傷行為をしているという話をしているときの大崎さんは、なぜか生き生きとしていた。それなのに目は一切笑っていないのだ。興奮状態のようになっていて、確かにマスターがこの場に飲み物を欲しがったのもわかる。まずは、落ち着かせなきゃだめだ。


「……頃合いかと思いますので、そろそろ本題に入りましょう。まず、貴女の願いを叶えるインクを作ることは出来ます」

「それじゃあ部長のことを殺せるんですね!?」

「ただし、条件があります」


 勢いよくソファから立ち上がった大崎さんは、それを聞いた瞬間恥ずかしくなったのか、いそいそと座り直した。下を向いたまま、また握りしめた拳を見つめている。


「まず一つ目。願いを叶えるインク……願墨がんぼくと言いますが、これはいわば呪物です。調合の時には依頼主の血や涙を必要とします。そして二つ目。願墨は一つの願いに対して一つしか認められません。貴女が今回望んだのは部長の殺害です。それ以外をこのインクに望めば、貴女の命はありません。最後に三つ目。人を呪わば穴二つ。ましてや人を殺すというのは、大きな代償が必要です。貴女の願いが叶ったとしても、貴方自身が無事でいられる確証はありません。――これらを知ってもなお、望むのであればお作りします」


 大崎さんを見る。彼女は躊躇う素振りひとつ見せず、マスターの目をじっと見つめている。そうして、お願いします、と頭を下げた。


「わかりました。それでは、契約書にサインを」


 黒に限りなく近い青、そんな色のインクがするするとペン先から流れては、彼女の名前を紙の上に浮かび上がらせる。 

 書き終わり、マスターがそれを確認する。そうして専用の器具で彼女の血を一滴だけ採取すると、調合しますのでお待ち下さい、と言って、俺と大崎さんだけが暇になった。

 

「ココア、ありがとうございます」

「いえ! 甘すぎませんでしたか?」

「平気です。とてもちょうどよかったです。本当に久しぶりに、胃の中にちゃんと物が入ったので……」


 ぎょっとして理由を尋ねてもいいか聞くと、大崎さんは先程の続きを話してくれた。


「部長に迫られたせいで私はいろんなものをおかしくしてしまって……。そのときいた彼氏に浮気を疑われて振られてしまったりもしたんです。昼も仕事をするようになって、気がついたら食べ物が喉を通らなくなっていったんです。飲み物も水が限界で、ひどく眠れない状態にもなっていたので内科に行ったんですけど異常がなくって。睡眠薬を出されたんですけど、その薬が体に合わずに嘔吐しがちになって、余計に食べ物を拒むようになってしまって」

「そんなことが……。すみません、先に確認しておけば……!」

「謝らないでください! こんな温かくて優しいもの、久しぶりだったんです。ちゃんと飲めた、って思ったら心が軽くなったんです」


 大崎さんと話をしていく中で、彼女の人となりが見えてきた。

 彼女は新卒で入った商社で事務をしていて、昇進はしたくないのに、勤務態度の真面目さから周りに無理矢理昇進を促されているらしい。争いごとが嫌いでイエスマンになってしまい、そのせいで年上の男性に異様に好かれてしまう。食欲不振のせいで他人と食事をすることも怖くなって以降職場でも浮いてしまい、余計に相談できる人を失っていた。しかも一人でいることをいいことに部長に迫られてしまい、逃げ場を失っているようだった。

 すごく、真面目な人。そのせいで苦しんでいる。

 

 願墨で、この人が救われてくれたらいいのに。

 いろんな依頼者の話を聞いてきたけれど、どんな人に対しても思うのはいつもこれだった。


「お待たせいたしました、調合が終わりましたよ」


 いろいろなインクと格闘していたマスターがこちらへ振り返る。手には小瓶に入った10mlほどの液体があった。

 血を思わせるような鮮やかな赤は、まるで宝石のように輝いて見えた。多分それは、大崎さんにとっても同じなのだろう。

 彼女はそれを大事そうに受け取ると、手のひらでぎゅっと包みこんだ。

 

「このインクを万年筆やガラスペンなどにつけて、具体的な願いを紙に書いてください。誰を殺したいのか、それがどうしてなのかをです。書いた紙はそのままでも平気です。願墨で書いた文字は願いが叶ったあと消えますから」

「わかりました」

「そして、貴女がそれを願ったこと、この店のことは口外しないようにお願いします。こんな店があるって夢物語は、誰も信じませんけどね」

「はい。本当に、本当にありがとうございます!」

「とんでもありません」

 

 肩の荷が下りたのか、来たときとは明らかに違う軽やかな足取りで、大崎さんは店をあとにした。店の外で彼女が見えなくなるまで見送ってから店に戻る。

 一仕事を終えてマスターは「はぁ」とため息を吐いてからモカのことを撫でようとして、逆撫でしてしまった。モカは即座にその場から逃げた。


「んみゃぁ!」

「すみませんモカ、怒らせるつもりではなかったんですよ」

「ふしゃぁー!」

「珍しいですね、モカがこんなに怒るなんて」

「逆撫でされるのが何より嫌いですから、彼は」

「完全にマスターが悪いです」


 飲み終わったマグカップを片付けてから、店内のチェックをする。戸締まりもOK、これで完全に今日の営業は終了だ。

 二階にある居室部分に繋がる階段を上がっていると、マスターに呼び止められた。


「ユータくん。あなたは、願墨が本当に願いを叶えると思いますか?」

「突然ですね。でも、叶えてくれるんじゃないですか? これまでもそうだったんですよね?」

「ふふ、そうですね。私もそれを信じています」

「みゃあー!」


 さて、今晩はなんのご飯にしようか。食後は俺も久々にココアを飲もうかな。

 マスターにも振る舞って、ここ最近の残業の多さについて問題提起しても良いかもしれない。

 そんな風に、今日を終えていった。











 *

  

「で、モカ。その後どうなりましたか?」

「んみゃー……みゃう」

「なるほど。例の部長のハラスメントが他の社員にも行われていたことがわかり当人は懲戒解雇、社会的な死を与えられたと。それで依頼主は?「んみ……ふしゃ、んみぃ」

「願墨を使ったあと、人を殺すかもしれない不安に飲み込まれて自殺未遂。今は精神病棟に入院中、心の傷が大きすぎて快復はかなり先になりそう、ですか。……やはり、願墨は使用者本人がハッピーエンドを迎えられるわけでもないんですね。私もいつか、そうなるんでしょうか」

「みゃう」

「――さ、今日も開店しましょうか。望月洋墨店を」

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