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揺り篭  作者: 紅茶
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未練


彼は走っていた。

荒波にもまれ、何度も横転しそうになった船がようやく港に着いて、彼は出口ではない船の縁から勢いよく地面へ飛び降りる。人間に何度罵られ悲鳴を上げられ叩かれようが、そのようなことはどうでもいいといわんばかりに一直線に駆け抜けた。

ただその場から、あの美しい人から離れるために、その一心で走り続けた。



海を渡り、自分の生まれ育った場所から遠く離れたその南の土地で。

どうしてこんなことになったのだろう。

港から見えた坂を一直線に上り、森の方へ駆けた。そうして道無き道を進み、森を抜けたその先が崖だった時その彼はへたりと座り、何もできない自分を呪った。


彼は長生きだった。

彼は理解していた。

彼は禁忌を破った。


あれだけ言われていたというのに彼はとある女人にあこがれて、禁忌の術を使ったのだ。

300年生きた彼はその女に仕え、重宝され、そして化けていたことが明るみになった末にその宮を追い出され、生きる糧を失った。


彼は一途だった。

彼はその人に仕えているだけで良いと思っていた。

彼はそれだけで幸せだった。


封印された妖の女王の祠に頼み込み、彼は人に化ける力を授かった。ただし人に気づかれてしまった時にはその身体を自分が貰い受ける。それが妖の女王からの対価だった。


彼が失敗したことは極悪非道な妖の女王に頼んだこと。そしてばれてしまう前にあの人の前から去らなかったこと。もう少し一緒にいたいという欲望を抑えられなかったことだった。



人間嫌いの妖の女王はこれを好機とみて、彼を操り、人の世を終わらせにかかるだろう。

彼はこれから彼はその女王のような極悪非道の妖に成り果て、人を惑わし、腹を切り裂いて喰らい、国を堕とす化け物に変わっていく。

その枷は600年間をもって取り払われ、他人から忌み嫌われ何も無い牢で600年を過ごして再び善良な魂に戻った時には彼の愛した人はもう居ない。そして彼は稀代の傾国者として人々に怖がられるだろう。



そう、だから彼は自らがこれから起こしてしまう大罪を未遂にするために、神の降りた遠い南の地へやってきた。




来世は、来世はきっと。

あこがれのあのひとと。

あれだけ一緒にいてはならないと思ったのに一緒にいたいと思ってしまう。

抑えられない自分の欲求が恐ろしくなる。

自分の中の欲求という欲求はどんどん大きくなる一方だ。

女王に身体が全て奪われ、人を害する欲求が抑えられなくなる前にこの身を隠してしまう必要がある。





来世はきっと。人の身に生まれたい。

しかし妖という今世のこの身が空へ逝くことを許してもらえない。


そうして彼はどうにかして死ぬ方法を模索したのだ。

あやかしは死ねない。そう簡単に死ぬことができない。

はやくこの身を縛り付けるおもりを解く者を探さねばこの身は罪深い行いをしてしまう。そうぼんやりと思い返し、再び身をおこした。この南の地にはそれは高貴な身分の祓い屋がいる。そう聞いて、この場所までやってきた。崖から下を見ると、美しい瑠璃の川が広がっていて少し行った先には滝が落ちる音がする。その滝まで歩いていき、その滝壺を覗いているとつるりと足を滑らせて、滝壺の方へ落ちてしまった。


あぁ、上に登るのは大変そうだと思いながら、滝壺の中に入っていく。怖くもない。苦しくもない。妖とは自分の欲求に従い、倫理の欠片もない存在である。そうやって言っている人間をよく見ていた。


水をかいて何度もかいて、何とか陸地に行き着いてふと周りを見てみると、そこは滝の裏側だった。そこには鳥居と二体の狛犬が置かれていて、今にも動き出しそうだ。


あぁ、嫌だ。あの犬さえいなければ。今頃私はあの人と一緒にいたはずなのだ。あぁ、嫌いだ。犬は嫌い。

嫌い、嫌い…


っ、あぁ、危ない。

きっかけがあると意識が悪い方へ引っ張られてしまう。


僕は善良で可愛くて、人が好きで、彼女が好き。そして僕はここに死ぬために来た。そう、自分に言い聞かせて、鳥居の中に入る。きっとここがそうなのだろう。ここには今まで見たことのないほどの神聖な力が溢れている。自分の中の悪い部分がぞわり、ざわり、近づいてはいけないとざわめいている。



彼は鳥居をくぐり、奥にあった社の戸を開いた。

社の中には黒髪の美しい男がいて、ここの主だと言っていた。そこの主は優しかった。本当に優しかった。妖にも耳を傾けるような主だった。


彼は言った。

死にたいのだと。


身の上話を静かに聞いていた主は急に大きい声を出した。

だめだと。

この世に未練があるままなのに強制的に切り離すと妖はとてつもない痛みを感じる。

主は多くの悪い妖を祓ってきた。その時の妖の悲鳴はとても辛そうで耳を塞ぎたくなるような声なのだと。

君は確かに人に化けたがまだ悪いことをしていないじゃないかと。


いまからしてしまうからそう言ってるんだと、彼は主に説明したが、彼はこの中にいれば大丈夫だからといって、祓おうとしてくれなかった。

こんなにも苦しいのにとも思った。

自分は早く死んで来世ではにんげんになりたい。なのにこれでは来世が遠のいてしまう。



主は言った。

自殺同然のことをすれば来世は希望通りの生にはいかないよ。君にとっては残酷かもしれないけど、君が生きたいように生きるには、未練を絶つことで天寿を全うするしかない。

だから私ともう少し生きてみないかと。

この世に未練がなくなるくらい一緒に楽しい思い出を作ってやると言った。

自信を持ってそう言っているのを見て、それで死ねるのならそれもいいのかもしれないと彼は思った。




(あやかし)は生きた。

(かみ)のために生きた。

第二の生活を送り、(かみ)が死んでも(きつね)も死んだ。


よい一生だったと死ぬときそう思ったのだった。


彼は懸命に主のために働き、何千年も生きる者や物の進化を見て、管理して、人の世で主を信仰する者がいなくなることで主がいなくなり、いつの間にか眷属になっていた妖は主との繋がりの消失で。



それなのに彼は目覚めると知らない部屋に佇んでいた。だけど、懐かしいような。懐かしくないような。そんな部屋に彼はいた。

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