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はじめに言葉があった。(John 1:1) 3

 ずううぅぅぅん……


 電気がいっせいに落ち、窓ガラスが震えた。ただひとつ点滅を続けるモニタから、ざざ、ざざと霧のように記号の塊が溢れ出てくる。

「なんだこれはよ!」


 010101111101010001101011001110……。

 螺旋を描いてフロアを埋めつくす0と1の記号。

 欠けた右手で目をかばいながらスターンが呟く。

「サーバーの限界を超えたな……」

「どういうことだ、スターン!」

「貴様も知っていよう。『ヨハネによる福音書』第一章《言葉は人間となった》。預言者エゼキエルのような抽象的思弁を脱したとき、我々凡人は信仰によって肉体が成立しうる。信仰とは、なにもキリスト教徒の祈りのみに限られない。強い『思念』とも言い換えられる。思念こそが人を人たらしめる。ではインターネットでは? 身体なき言葉が溢れる場所において言葉はどうなる」


 御舟が記号の塊を見上げ、言う。

「デジタル言語は、0と1の電気信号でしかない……」

「そう。託された感情は行き場がない。だから無理に形を作ろうとする。それがこいつさ。ククッ、いつかこうなるだろうと睨んでいた」

「貴様の仕業か」

「まさか」笑うスターン。「言うなれば二進法が生んだ自我。ハハ、予想以上に禍々しいな。これは」


 記号がだんだん形を成していく。天井まで届こうかという球形は形を変え無数の枝が伸びる。球形の真ん中、0と1に囲まれて別の文字が見える。


 〝404 File Not Found〟


「土くれから作られた人が、二進法で作った怪物、404。見ろ、樹木のように。生命の木に似てはいないか」

「おおおおおおおおおおおおおお! アカバネ……アカバネ……オ前ノセイダァァァァッ」

 404が吼えた。

「神のテトラグラマトン、貫け!」

 ヴァイヤーが手を振って放った稲妻を、404は飲み物を飲むように吸収した。

「くっ……」

「ハハ、相変わらずの浅知恵だな、カトリン。電気信号で出来たものに稲妻が効くか? 魔術も、銃弾も無駄だ」

「うるさい! 馴れ馴れしく呼ぶな!」

「赤羽に対する憎悪と恐怖の塊らしい。面白い。どうする、魔女の下僕」

 スターンが一比古を見る。


 404は青白く点滅する枝で机をなぎ倒す。その触手がだんだん五本の指を持つ人間の形をとりはじめる。必然的に全員がドア近くに追いやられた。

 一比古はごくりと唾を呑んで一歩踏みだした。悠介が止める。

「赤羽! どうするつもりだ」

 これは自分が生み出したものだ。自分に向けられた悪意の結晶だ。

 ならば、自分がなんとかしなくては。

「アカバネェ! オ前ガシネバヨカッタンダヨォォォォォ!」

 分かる。その気持ちが。

「ああそうだ。俺が死ねばよかった」

 でも死にたくはないから。一比古は糸巻きから糸を引き出した。

「受け止めるよ、全部」


 べおん。耳の奥で弦の音が鳴る。

 夢を見る時、必ずあの白髪の女は和歌を詠んでいた。なぜだろうと不思議だったが、今ならわかる。五・七・五・七・七という器に込められた「言葉」を、あの女は一比古の「身体」に移し替えているのだ。

 それがなんの為かは、まだ分からないけれど。

 ならこの言葉にも「容れ物」があればいい。

 「容れ物」は自分だ。


 糸が意思を持ったように宙を広がっていく。404を取り囲むように。その間にも、大きなドットの手が一比古の首に触れた。きつく握りしめてくる。

「ぐあぁっ!」

 電流が全身を貫く。ウィチハンに書きこまれた大量の言葉が大反響となって、頭が割れそうに痛い。自然と涙が溢れた。

「大丈夫。大丈夫だ……」

 糸は404を幾重にも囲み終えた。膝が震え、がくりと片膝をついた。

 頼む。もう少しだけ持ってくれ。俺の心と体。

『お前は罪人の子。生きていてはいけない』

 明らかにネットの罵声とは違う声。目の前が真っ白になった。

 駄目か……俺では無理なのか。


 別の誰かが囁いた。

『しっかりおし。少しの間だが、あたしがやつから声を奪う。耳を貸すんじゃない。お前はお前の成せることをおやり』

 ふっ、と視界が元に戻った。頭の中に反響していたウィチハンの書きこみの声も聞こえない。

 静寂の世界に、一比古は立った。


「『はじめに言葉があり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった……この言葉ははじめ神とともにあった……万物は《言》によって成った!』」


 ジュウゥゥゥ!


 一比古の首を絞めていた手が緩んだ。薄目を開けるとヴァイヤーが404の腕を押しとどめていた。かざした手の中に光の渦が見える。黒髪が風に煽られまき上がる。なにかの一説を唱えている。

「『この言は命であった。この命は人の光であった……光は闇の中で輝き、そして闇はこれに勝たなかった!』一比古、早く!」

「は、はい!」

 そうだ。俺が倒れたら、殺されたあの子に申し訳がたたない。

 両手を伸ばす。白髪の女の声が自分の声と重なるように感じた。


 三つの和歌。

 最初に女と出会った朱鷺舎での和歌。

「長き夜の はじめをはりもしらぬまに 幾世のことを夢にみつらん(この長い夜に、いつはじまり終わるとも知らない間に、私は幾度生まれ変わり、幾度人生を夢に見たのだろう)」

 糸の一辺がぴんと張る。


 次は一比古の子供の頃の夢。

「見る人に 物のあはれをしらすれば 月やこの世の鏡なるらむ(見る人にこの世の無常を教える、月とはこの世の鏡なのだろうか)」

 もう一辺が固定される。


 次。ミノタウロスの最期での和歌。

「夢の世に なれこし契り朽ちずして 醒めむ朝に逢ふこともがな(夢のような世であったが、あなたとの友情は朽ちることはないだろう。迷いの夢から醒める朝、再び逢いたい。逢えるだろうか)」


 最後の一辺が完成した。朱糸の三角形が成る。

 糸の束は上下二つに別れ、片方が回転して三角形を上下に重ねた形――六芒星が形作られる。

「オアオアオアアアアアアアアア! アカバネ! アカバネ!」

 星の檻の中で404で苦しげな声を上げる。

「ハハハ! いいぞ、ヨハネの福音書の横で、東洋の秘儀が力を振るう! 世界とは! このように混沌としている!」

 スターンが大声で笑う。悠介がパソコンに取りついて、黒い画面になにかを打ちこみはじめる。

「ステータスコード〝200、ОK〟。404、お前はもうエラーじゃない。行け、赤羽!」

 一比古は糸巻きを引いた。

「さあ、降りてこい。暁星月(あかつきのほづく)!」


 天井からまばゆい光が404の体を貫く。

「オアああアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 絶叫は、長く尾を引いた。



 夢の中、赤い和室に立っていた。

 黒い霧がわっと一比古の全身を包んだ。「あかばねぇ、あかばねぇ」と恨めしい声で囁く。

 べおん、べえええおん……

 弦の音に黒い霧は怯み、ぎゃぁと四散した。

 格子戸を開け、板張りの廊下を、黒い霧をかき分けながら一比古は走った。薄雲に覆われた月はわずかに欠けた満月。

 北東の端にある、ひときわ小さくて質素な造りの棟。

 御簾の内に人影があり、弦の音はそこから漏れてきていた。御簾には図形と漢字を織り交ぜた符が幾重にも貼られており、厳重に封印が施されていた。

 御簾の向こうから女の声がした。

「内裏にこんなに呪詛(すそ)を持ちこんで、いくら妾といえど亡き帝たちにお叱りを受けてしまいそうじゃ」

そう言って、ぺん、と女は弦を弾いた。

「さっき『声を奪う』って言ってくれたの、あんたか?」

「いや」声が逡巡していた。「別の者じゃ」

「そっか。もっと若い声だったもんな」

「無礼な」

「まあまあ」


 一比古は御簾に手をかけた。普通の御簾と違い、鉄扉のように重い。

 女がいいのか、と問う。

「妾を禁錮から解いたが最後、逃げ道はのうなるぞ」

「逃げ道なんて、元からないよ」

「ふ、かもしれぬ」

 べりべりべり……符を千切りながら、一比古は御簾をこじ開けた。

 小さい琴のような楽器を爪弾く女性が座っていた。白鷺の織りが入った薄紫の打掛。白く長い髪には黒髪が一筋。

 一比古を見ると、裾で口を押さえ、くすくすと笑った。

「なんじゃまあ、異人のような頭をして。ほんに大きくなって」

「へへ。久しぶり。『東の御方』」



 まばゆい光の洪水が部屋を埋め、視力が戻るまでいくらかかったろう。

 硬い床の感触に一比古は目を瞬いた。痛む頭をゆっくりと上げる。後ろでは新聞社の面々が倒れており、無傷なのはヴァイヤーとスターンだけだった。

 404の姿は消えていた。

「がっ……は」

 耐えきれず、膝をついて座りこむ。

 額に小さな手が乗せられた。見覚えの姿が一比古の頭を撫でた。

「一緒に行こ。みんなお兄の命を狙ってる」

「め、茗」

「馬鹿な! どこから現れた!」

 ヴァイヤーの動揺に、ほらみろとスターンが嘲笑する。

「赤羽は魔女だ。間違いない。お前にも見えるだろう。404は消滅したのではなく、赤羽の体内に納まり練成されている。まるで賢者の石のような人間だな。悪い意味で。人でありながら人に害成す者は生かしておけぬ」


「消えろ屑審問官! 魔女について、ヨハン・ヴァイヤー『悪魔による幻惑』第六之書を百遍読み直してから来い! 今なら、貴様の心臓をひねり潰すのは容易いぞ。二度は言わん。消えろ!」

「フン、よかろう。これ以上は俺も力がもたん。今夜は退こう。赤羽、貴様はほぼ『例の書』を摑みつつある。次に遭う時は貴様の最期。心しておけ」

「……絶対に渡さ……ない」

「いい返事だ」

 ズズ、ズズと、スターンは津久戸の死体とともに再び床に沈んでいった。光る円陣も消えた。残されたは一比古と、一比古をかばうように立ちふさがる茗、そしてヴァイヤー。


「それ以上、近寄らないで」

と茗は両手を広げた。

 ヴァイヤーは髪をかき上げ、片眼鏡を外した。白い右目があらわになる。

「お嬢さん、私の右目は邪視と言って、魔を看破する力があった。今でも少し残っている。だから判るのだよ。君は悪い人に操られている。その人の名を言いなさい」

「お兄ちゃんは魔女よ。だから助けるの」

「君を操る者は、一比古を利用しようとしている。渡すわけにはいかん」

「イ、ヤ」

 ヴァイヤーの周りを無数の蝙蝠が舞う。ヴァイヤーは腕の一振りでそれらを叩き落した。

「悪ふざけが過ぎるぞ。君に理解可能か分からんが、ヨーロッパの悪魔学において魔女(Hexe)と魔術師(Magi, Zauber)は全くの別物だ。違いは、契約によって『悪魔に使役されている』か、『悪魔を使役するか』。己のためだけに力を使うか、あるいは『世界調和(スピリトゥス・ムンディ)』のためにその力を使うか。そう、このように!」

 おおおお、と部屋の四隅が光った。それぞれが光を発し、天井で頂点を結びピラミッドの形を作る。


「『四つ(テトラクテユス)、形態と時間の尽きせぬ源泉に誓って。汝祈りを知るものよ、神々が汝とともにあるとき、その御業を成就し、信心深く勤めよ。さすれば苦もなく知るであろう。汝の存在がどこから来たりてどこへ留まりどこへ帰っていくのか』」

「やあああああああ! それをやめて!」

 茗が耳を押さえて悲鳴をあげる。一比古はなんとか起き上がって茗を後ろから抱きしめた。

「社長、こいつは俺の妹です。やめて下さい!」

「中身は別だ。茗を操る黒幕がいる!」

「お兄、助けて……」

 抱きしめた茗の肩が震えている。

 だめだ。耐えられない。操られていようと、茗を苦しい目に遭わせたくない。


「社長、すみません!」

 ぎゅるるるるる! 糸を引き出す。さらに朱色が濃くなっていた。四角錘の頂点に魔法陣の糸を這わせる。


 べおん。おん。

 和琴の弦が魔方陣を揺らし、四角錘の結界をかき乱す。

 突然、茗が一比古の腕を振り払って、窓から外へ身を投げだした。

「茗!」

「あっはははははは! ありがとうねぇ」口調が変わった。「次は必ずお前を手に入れるからな!」

 茗の姿は闇へ忽然と消えた。


「阿呆! なんてことを!」

 怒鳴るヴァイヤーに、一比古は糸を途中で噛み切って端を渡した。

「茗に糸をつけました。御舟さんの千里眼で追って下さい」

 よろよろとドアへ向かう。今にも意識を失いそうだ。手放したら最後、もう自分には戻れない気がする。

「待て一比古。お前、404の他になにを抱えこんでいる? 見えるぞ。二重の影が。長い歳月を生きた老獪な女だ……白い髪……和琴……丑寅の方角……元は人間だったが、鬼道に身を堕とした魔女」

 ははっ、と一比古の口から笑いが漏れた。

 老獪な女だってさ。


「さっきの話の続き、します? 答えは『東の御方』ですよ」

「……消息不明だったはずだ」

「軟禁されてたんだ。俺はスターンの言う通り《五の災人》の下僕だったみたい。さあ、社長どうします? 魔女それ自体は悪じゃないって、社長は言ったよな。真の魔女の、それも最悪の五人の一人だったら! 同じことが言えるか! それでも俺が許せるか! 救えるか!」

 自分でも、なにを言っているのか分からなかった。激流となった感情は溢れ、抑えられない。フロアに一比古の声が虚ろに反響した。


 ヴァイヤーは言いかけた。

「許――」

「赤羽君、今なんて」

 振り返ると、意識を取り戻したたまや御舟、拝島が愕然とした顔でこちらを見ていた。悠介は震える唇で、

「お前、本当に魔女だったのか?」

とかろうじて言った。

 魔女。その定義が誤解だらけだ。

 ミノタウロスも《五の災人》の一人だったが、彼は国のために戦い、最期は民衆に語りかけて死んでいった。あれが魔女だろうか? 「人に害を為す(マレフィキウム)」のが魔女の定義だとしたら、一比古の知るミノタウロスは魔女ではない。

 ひたすら人間を愛し、人間のために生きた。

 彼を裏切ることはできない。アイリスのためにも。

「そうだ。俺は東の御方とともに在る。でも憑かれているのとは違う。東の御方は悪くない!」


 今この世は、ミノタウロスの願いに値する世界なのか。平気で人を貶める人。死ねばいいと簡単に言う人。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、どろどろで。吐き出さないと。

「一比古、それ以上言うな。自分の首を絞める」

 ヴァイヤーの制止も耳を通り抜ける。

「人間の方が! よっぽど最悪だ!」

 たまは目を見開いてこちらを凝視している。

 御舟は諦めたように目を伏せ、首を振った。

 拝島は乾いた声で、うそだろ、と言った。

 悠介は。唇を噛みしめ、悲しみの目で一比古を見た。掠れた声が漏れた。

「消えてくれ……早く」


 ウィチハンのどんな書きこみより、この一言が一番こたえた。大事な人を魔女狩りによって失った彼が、魔女を憎む気持ちはよく分かる。

 だけど。

「ごめん」

「待て! 一比古」

 ヴァイヤーの声を振りきるように足を必死に動かし、ドアから走り出る。なにも見えない。暗い階段を降り、暗い街路へ一比古は走った。

 誰も追いかけてこない。

 自分の足音と背中の気配だけが、一比古にぴたりと寄り添っていた。



  第七章 Schreiten oder schlafen, wie Nachtwächer. につづく

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