彼らには真っ暗な闇が永久に続く(Jude 00:13)
寝不足でガンガンする頭を抱えてクラスのドアを開けると、クラスが静まり返った。全員が無言で一比古とアイリスを見る。恐ろしいほどの沈黙。普段なら反発するが、今朝はどうでもよくて、一番後ろの席に崩れ落ちるように座る。するとクラスメートたちも何事もなかったように会話を再開した。
楽でいいや。
きっとほとんど全員がウィチハンを見ているのだろう。書きこみをした奴もいるだろう。そんな奴らと今さらうち解けたいとは思わない。
昼休み、一比古は携帯でウィチハンをチェックしてみた。予想通りの展開に、吐き気がした。
授業中にもかかわらず、一比古の動向に加え、昨日新たに『灰色』とされた者たちの動向や悪口が混じり、悪意の掃きだめだった。
『黒』の判定が下りるには、アドミニスターの裁定が必要で、昨晩の書きこみ以後、アドミニスターは現れていない。ユーザーは必死にアピールしているのだ。自分を認めてくれ、と。
ひとつ、気になる書きこみがあった。
「真夜中新聞社を外からだけでも見てやろうと思ったけど、見つからなかった。新聞に載ってる電話番号にかけたら、『わたし、メリーさん』って出た。こえええぇぇぇ」
真夜中新聞社が見つからない? そういえば、最初、自分もそういうことがあった。気になったので、佐田に電話をかけてみた。
「おっすー。元気?」
どうやら佐田はウィチハンの騒ぎを知らないらしい。それとなく聞いてみると、佐田はからからと笑った。
「それ一般人でしょ? 関係者以外は、よっぽど霊感強いか、逆に超鈍感じゃないと辿り着けないって」
「どういうこと?」
「ヒント、新聞社の住所。四ツ谷左門町……」
「それが?」
「赤羽君、ほんとに分かんないの?」佐田はおどろおどろしく言う。「水……水……伊右衛門、この恨み晴らでおくべきかぁぁ」
「あ、聞いたことある。お菊さん?」
「近いけど違う! それは番町皿屋敷。正解は四谷怪談。近くにあるでしょ? 田宮神社って」
四谷怪談。確か江戸時代の怪談だ。
あらすじを佐田が簡単に話してくれた。
武士の娘のお岩さんが、伊右衛門というろくでもない男を婿にとったため、毒を飲まされ殺されかける。毒のせいで顔が醜く変形し、失踪したお岩さんは亡霊となり、やがて伊右衛門を呪い殺す……そんな内容だった。
「お菊さんの『番町皿屋敷』は播州説もあるから、場所は特定できないけど、お岩さんはマジもんだからねー。歌舞伎でも初演前に必ず田宮神社の於岩稲荷さんにお参りに行くでしょ。田宮の家があったのが今の四ツ谷左門町。ある意味、真夜中新聞社のもう一人の社員よ、お岩さんは。強力な結界があって、害意のある者は近づけないようになってんの」
それで《魔女の鉄槌》も新聞社を襲ってこないわけか、と一比古は納得した。
佐田は思い出したように言った。
「高校生の件はどうなったの? やっぱハグレだった?」
「いや違う。魔女狩りだった。詳しくは今日付の眞夜中新聞に出るから」
「五件目だよね。多すぎない? 異端《魔女の鉄槌》が復活したって書いてあったけど、なにが目的なのかな……なんだか怖いよ」
佐田は周りの声を気にするように、ぽつりとそう言った。
《魔女の鉄槌》の目的。昨日拝島が言った言葉が蘇る。
現代の「魔女狩り」の再現。
そこまで魔女が憎まれる理由が、一比古には分からない。過去に魔女として処刑された犠牲者四万人のうち、1パーセントの「真の魔女」。
それはどんな存在なのか。
「あのさ、最近新しい賞金稼ぎの人って入った?」
と佐田が聞いてきた。一比古は首をひねる。
「たぶんいないと思うけど。なんで?」
一瞬口ごもったが、佐田はなにかをふっ切るように言った。
「や、なんでもない! 詳しくは今度会って話そ」
「おう。ありがとうな」
「どういたしまして。じゃあ、気をつけて」
気をつけて、か。
一比古が事件に巻きこまれてから、たて続けに事が起きている。ヴァイヤーたちの出現、真夜中新聞社、スターンの襲撃、ウィチハンの存在。一比古は普段使わない脳みそを必死に動かして考えた。
ウィチハンが立ち上がったのは、一比古が真夜中新聞社に加わったその日の夜。そして翌日にはスターンの襲撃。
タイミングが良すぎる。
降りかかる火の粉を払うので精一杯だったが、今にしてみると、なにもかもができすぎているのだ。まるで誰かが敷いたレールの上を走らされているように。考える暇も与えられず、全力疾走で。
一体誰が。
ここは初心に帰るときだ。
一比古はパソコンルームに向かった。昼休みは教室は開放されている。一比古が教室に入ると、数人の生徒がチラリとこちらに好奇の目線をよこしたが、無視して空いている席に着いた。
パソコンを立ち上げる。
最初からこうやってネットで調べればよかったのだ。
「グリモア」をウィキペディアで調べてみた。仏語の「グリモワール」という項目が見つかった。グレーのマークとともに本文が表示される。
グリモワール(またはグリモア)
フランス語で呪文集を意味し、特にヨーロッパの魔術書を指す。狭義では悪魔や精霊、天使などを呼び出す手順、そのために必要な魔法円や護符などが記された書物を指す。秘匿された知識や禁忌にまつわる奥義を記した文書、書物を指す場合もある。
主に『ソロモンの大いなる鍵』『ゴエティア』『レメトゲン』など。余談だが日本にもグリモワールは存在し、『日野禍津抄』『淑景北記』などがその代表例とされる。
聞いたことがない書名ばかりだ。
この中のどれかに関する秘密を、俺が握っているのだろうか? まるで暗闇を綱渡りする感覚で、頭が混乱している。とりあえず書名をメモして一比古はパソコンをシャットダウンさせた。
教室に戻ると、ドアのところで、何人かの男子生徒が立ちふさがった。
後ろでは女子たちが興味津々で視線を注いでいる。自然と口調がぶっきらぼうになった。
「どいてくれよ」
「昨日の動画ってあれマジもん?」
「気持ちワリんですけど」
「うっさい、どけよ!」
思わず怒鳴ると、襟首を掴まれた。吊り上げるように、シャツを引っぱられる。
酷薄な笑みを浮かべ、男子はこう言った。
「早く狩られちまえよ?」
ガシャァン!
一比古を含めた全員がびくっと身を固くした。
横を見ると、ロッカーに向けて椅子を投げたアイリスが、今度は机を持ち上げるところだった。声の出ない唇が、動く。
「テヲ ハナセ」
「うぉっ、危ねえよアイリスちゃん」
激怒の色に燃えた目が、男子たちを睨みつける。ひときわ高く机を持ち上げると、ドアからわずかに離れたゴミ箱に向けて机を投げつけた。
ドシャアン!
激しい音に、他のクラスの生徒たちが何事かと教室を覗きこむ。
申し合わせたように数人の女子生徒たちがアイリスを取り囲んだ。
「アイリス、あんたもさ、調子乗っちゃだめよ」
「よせ、アイリスは関係ないだろ!」
「バカにしないでよ赤羽君。魔女なんて今どき信じるわけないでしょ。でもさ。隣の高校には銃弾の跡がしっかり残ってたって。パトカーが何台も来てるの、朝見たもん。あれ、動画のやつだよね」
女子たちが次々と乾いた言葉を投げつけてくる。
「冗談やめてよって感じ。現実とネットの区別くらいつけたら?」
「ほんと、マジ槍とかキツいわ。ゲームのやりすぎじゃないの」
アイリスが唇を血が出そうなほど噛みしめる。その姿が一比古には一番辛かった。自分がなにを言われようと構わないが、彼女が辛い目に遭うのは嫌だ。
右の拳に力をこめた時だった。
「バカだねー君ら。だから中学生って嫌なんだよ」
廊下側の窓からひょろりとした人影が現れた。中学と違うブレザーの制服。その手には携帯が握られている。もう片方の手にはジャムパン。
「堺!」
悠介はジャムパンを頬ばり、あからさまに軽蔑の色をあらわにした。
「堺先輩って言って欲しいね。ちなみに今の様子、ぜーんぶ撮らせてもらったから」悠介は自分の携帯を指差した。「ウィチハンに上げたら楽しいだろうね。とりあえず今発言した人、本名と顔晒される覚悟しときな。特に女子。ヒッキーなお兄さんたちに、アイリスは妙に人気あるからさ。『メス豚一覧』とかって、プロフ全部晒されるよ。ご愁傷さま」
一比古とアイリスたちをとり囲んでいた生徒たちが、じりじりと後ずさる。
「アイリス、行こう」
一比古とアイリスは生徒たちをひと睨みすると鞄を持って教室を出た。もぐもぐとパンを噛みながら悠介は、楽しそうに後ろをついてくる。
「あかばべ、じゅぎょおはったらぼくんちこひ」
「なに言ってるのか分かんない!」
「あとで僕んち来いよ」パンを飲みこんだ悠介が言った。「試験はあと二科目だから早めに帰れると思う」
なんで、と言う一比古に、悠介は下高井戸の住所を書いたメモを押しつけてきた。
「課外授業さ。じゃ、教師に見つかるとヤバいからこれで」
悠介はひらひらと手を振って消えた。その背中に一比古は声をかけた。
「ありがとう」
頭が痛いと言って半ば強引に早退した。駅の改札には笹と短冊が飾りつけてあり、今日が七夕なのだとようやく思い出した。日付の感覚など、とうになくしていた。
短冊のひとつに、幼い字でこう書かれているのが目に入った。
『みんな えがお』
それは無理だ、と一比古は心の中で呟いた。世の中には悪意が多すぎる。
電車に乗る気になれず、二人は駅のホームのベンチに並んで座った。
ホームを通過する電車の轟音に体を浸す。頭も体も心も。疲れきっている。
自分は誰なのか、ということ。
魔女なのだろうか。
本当に?
罪人だという母さん。白髪の女。謎の魔術書。
きっとひとつの糸で繋がっている。それなのに、どうしようもなくこんがらがっていて、解きほぐせない。もどかしい糸。糸口さえ見つけられれば。
糸を。解きほぐす。
「ああっ!」
一比古は声をあげて立ち上がっていた。
小さい頃。茗の母が死んだ日。自分の母は別人だと告げられた日。
空き地で白髪の女が「いつか援けになる」と言って、木の糸巻きを埋めた。それを思い出したのだ。
あれだ。あれを使うんだ。使い方は……分からないけど。
「アイリス。一旦別行動しよう。行かなきゃいけない所を思い出した。後で下高井戸の駅で待ち合わせよう」
ドコヘ? とアイリスは怪訝な顔をする。
「今は言えない」
アイリスは目を伏せ、一比古の手をぎゅうと握ってきた。冷たい指が触れた瞬間、背中がぞくりとした。青い目が金髪の間から覗く。
凍った海だ、と一比古は思った。
「シャチョウハ アナタガ アドミニスターノ シモベ カモ ッテ」
なんだって――
突然告げられた言葉に、ぐらりと足元が揺らいだ。
ヴァイヤーからすれば、一比古は白とも黒ともつかない、不気味な存在。屋敷に泊めているのは好意からではなく、監視するためだったのか。
そしてアドミニスターの手下だと考えた。
俺が甘いのか。こみ上げる涙を抑え、叫んだ。
「ち、違う。絶対違うッ」
アイリスの顔が悲痛に歪んだ。彼女はノートに書きつけて見せた。
「ワタシハ ウタガイタク ナイ ドウシタライイ?」
「……逆に聞きたいよ! アイリスは俺をアドミニスターだと思うのか」
「ワカラナイ」続けてノートに少し長く、文字が書かれた。「ムカシ ワタシハ タスケラレナカッタ コンド ハナレタラ キットコウカイスル」
深い青い目が一比古を射すくめる。
決して離れない、という決意が伝わってくる。
命綱もなしに、暗闇の中を綱渡りする者の目。俺と同じだと一比古は思った。光も見えずに前へ進む者のあがき。
誰を助けられなかった? と問う。マイン プリンツ。小さな呟きが漏れた。
「『人魚姫』の王子?」
否。アイリスはそれ以上答えない。なにを言ってもついてくる気だろう。
落ちるか。渡りきるか。ふたつにひとつ。
一比古は言った。
「分かった……行こう、一緒に」
一比古は電車を乗り継ぎ、あの空き地へ向かった。晴れていた空に暗雲がたちこめ、セミの声も止んだ。
なにひとつ変わらない。青々とした濃い匂いが鼻の奥を満たす。
一体なにがあるの、とアイリスは辺りを見回している。
一比古は柔らかな草地へ踏みこんだ。途端、ぐらりと地面が揺れた。錯覚ではない。アイリスも表情を険しくして周囲へ目を走らせる。
「大丈夫。敵じゃない。たぶん」
一比古の目には、草の海の中で一か所だけ、地面が光って見える。固い青草をかき分け進んでいく。
再びあの音が戻ってきた。
べおん。べんん……。
地面に手を伸ばし、湿った土を手で掘り起こす。深くない場所に、それはあった。糸巻き。当時は木だったはずのそれは、白くつややかな象牙に変わり、瑠璃色の糸が巻かれていた。
手に取った瞬間、しゅるしゅるしゅる、と音がし、目の前が真っ白になった。
糸が解ける。積年の想いが。
「ぐっ……」
糸巻きを持つ右手ががくがくと震える。
抑えろ! 俺の言うことを聞け。左手で目に細い糸を一本掴み、引き出す。
からからから……車が回り、糸が解かれる。背丈ほどの長さまで引き出すと、糸は突然ぷつりと切れた。同時に一比古の意識も途絶えた。
遠くで詠う女の声が聞こえる。
「夢の世に なれこし契り朽ちずして 醒めむ朝に逢ふこともがな」
今度の夢は白昼夢のようだった。
人が広場に群がっている。波のようにうねる階段状の広場は、西洋系の人で埋め尽くされている。中央の踊り場になったところは丸くスペースが空いていた。絞首刑の台が設置されている。普通の架台と違い、全体に聖書の文句と思われるものが、血でびっしりと書きこまれていた。
その元にマスクを頭から被せられ、跪く男が一人。
景色が動く。誰かの「目」を通じてこの場面を見ているのだ。その人物は人をかき分け、男のもとへ駆け寄ろうとしていた。
曇天の空は今にも雨が落ちてきそうだ。
男の傍らに立った黒い僧服の男は雨を気にしてか、それとも男を怖れてか、手にした書類を早口で読み上げた。
「我がイタリアが連合軍に屈した本日、我々《魔女の鉄槌》は、我らが祖国を売った極悪人を捕らえ、神の御名において神罰を下す。クレタの王族の末裔などと騙り悪行の数々。傲岸不遜も限度を超えた。見よ、異形の姿! その男の名、ミノス・アストリウス。立て!」
跪いた男は、両脇から抱えられて立ち上がった。
マスクが外され、男の顔が明らかになる。
黒髪黒目。精悍な顔だち。まだ二十代のように見えた。ひときわ目立つのが両のこめかみだった。角があった。雄牛のように曲がった角が二本生えている。後ろ手に縛られた腕は傷だらけで、ところどころ焼きごての拷問の痕が見えた。
広場を埋めつくした人々は、はじめ自国解放のために戦ったパルチザンの処刑と聞き、戸惑いを見せていた。が、怪物めいた男の顔を眼のあたりにした次の瞬間、手を挙げ口々に男を罵りはじめた。
「悪魔だ!」
「レジスタンスの皮をかぶった裏切り者に死を!」
僧服の男が言った。
「死の前に言い残すことは」
ミノスは、ゆっくりと顔を上げた。死への恐怖は微塵も感じられなかった。穏やかな目に、人々は罵声の口をつぐんだ。これが罪人の目かと息を詰めた。
彼は怒号が収まるのをじっと待っていた。
人々が彼の言葉を待つ顔になった時、男はよく通る声で語りはじめた。
「諸君、聞け。そして忘れるな。ドイツ軍はまだ国内に留まり、防衛線を張っている。パドリオ内閣が樹立したこれからが、我が国が本当に復興できるか否か正念場なのだ。諸君一人ひとりの力が求められている」
目線の主は、あと数メートルというところまでミノスに近づいていた。
男の黒い瞳がこちらをはっきりと捉え、笑いかけた。
思念が流れこんでくる。
『それ以上こっちに来るな。馬鹿だな、お嬢ちゃん。こんなところまで来たりして。審問官に捕まるぞ』
目の持ち主が答える。
『我が王子、今お助けします』
『アイリス。「東の御方」に会え。彼女こそが世界に平和をもたらす』
『いいえ。貴方こそが世を救う御方』
『もう遅い』
ミノスの頭に再びマスクが被せられる。ドイツ軍の兵士に引きずられ台を昇ると、首に荒縄の輪がかけられた。僧服の男が低く呪文を唱えている。刑台の下から炎が噴きだした。首をくくり、同時に焼き殺そうというのだ。
ミノスはマスクの下からくぐもった声で叫んだ。
「俺は! 生まれてから死ぬまであらゆる瞬間、故郷のために戦ったぞ!」
足元の板が割れ、噴き上げる炎がミノスの体を包む。
ガタン。
風が、吹いた。
一比古はその場に膝をついた。大きく息を吸う。喉を通る空気で、自分は生きているのだとようやく認識した。首が絞められるように息苦しかった。
振り返るとアイリスも同じビジョンを見ていたらしく、胸を押さえて体を折り曲げていた。
我が王子。
王子は王子でも、違う王子だったのだ。
ミノタウロスは、クレタ王国ミノス王の妃、パーシパエが狂乱の末に産んだ異形の王子。英雄テーセウスに倒された後も蘇り、第二次世界大戦、《殲滅戦》をパルチザン(レジスタンス)として戦っていたのだ。その一団にアイリスも加わっていた。
一九四三年九月、スペイン広場でミノタウロスは処刑された。
二度と蘇らぬ魔女の火刑で。
瑠璃の糸は、アイリスのその後を断片的に伝えてくれた。
黒い軍服に捕捉され、軍用トラックで戦線へ移送される彼女。市街戦を黒い兵隊とともに戦う彼女。迫撃砲を受け炎に包まれる街。逃げ惑う市民。それでも彼女は死ななかった。死ねなかった。
彼女の青い目は、国会議事堂の残骸に掲げられる赤い旗を捉えていた――第二次大戦の終結の瞬間を。
一九四五年五月二日。ベルリン陥落。
瓦礫の廃墟で、彼女は独りになった。
たなびく瑠璃色の糸の端をアイリスが掴み、声が耳に飛びこんできた。
「魔女狩りに関わるのを止めて! あなたの状況は似ているの。アストリウス様……ミノタウロスに。私はあなたをよく見失う。その末に死んでしまいそうで怖い。お願い、一比古。手を引いて……」
初めて聞く彼女の声は、せっぱ詰まって、ほとんど泣き声にちかかった。それでも、一比古はミノタウロスと同じことを言うしかなかった。
「もう遅いんだ」
「どうして……」
もう引き返せない。引き返さない。
アイリスは気づいていなかったが、ミノタウロスの処刑で、死刑執行人の一人に銀髪の男がいた。ジェイソン・スターン。
そしてミノタウロスの言葉。
東の御方に会え。東の御方は、平和をもたらす術を知っている。
今、点と点が繋がった。
術が書かれているであろう「例の書」。それを有する東の御方。在りかの鍵は、自分が握っている。
糸巻きには、まだ糸が残っている。色は薄紅色。恐らくこの色が真紅に染まる時、糸は紡がれ、残された謎が紡がれる。
自分は何者なのか、答えが掴める。
「アイリス。東の御方に会おう。俺はその人を知っている……と思う」
「本当!?」
一比古は頷いた。
「たぶんこの糸巻きをくれた人だ。魔女狩りなんてぶっつぶそう」
黒い雲間から光が差した。
風が青草を揺らして渡っていく。一比古とアイリスが握る瑠璃色の糸が、風に音をかき鳴らす。
アイリスは雲間から差しこむ光に目を細めた。
「私が……人間でなかった頃ね、いつも海の底からお日様を見上げてた。まんまるできれいな光。あなたが思っているように、私はアンデルセン先生の『人魚姫』のモデルなの」
人間になった人魚姫は微笑んだ。少し悲しそうに。
「知ってた。ていうか予想してた」
「ふふ、だよね」アイリスはぽつりと言った。「あなたは、私に優しくしてくれる。けれど本当の私の姿を知ったら、きっと去っていく。私は醜い」
「んなこと、ねえよ!」
一比古は糸巻きを掲げた。細かい無数の糸が空に向かって伸びる。雲を割り、まだ見えぬ天の川へ糸を伸ばす。
と、空に漂っていた無数の魂が、ひとつ、またひとつと、糸を伝って天に昇っていくのが見えた。ざぁっと風にあおられ、白い魂が雪のように散る。
「すごいね……泡になった人魚姫が天に昇るみたい」
一比古は、はっきりと悟った。自分はこのために生きている。東の御方に会い、魔女狩りを終わらせるために。これ以上無実の人を死なせないために。
始まりがあれば、必ず終わりもある。
「終らせよう。本当の『人魚姫』のお話もこれにておわり、って書けるように」
海の魔女の呪いをはねのけ、海の泡になって消えない人魚姫のお話を。
「嬉しいな。そうなったら、いいよね」
瑠璃の糸を伝わって、温かいものが全身を満たしていく。
一比古は、瑠璃色の糸をアイリスの左の小指に巻きつけた。
ささやかなお守りとして。
「それにさ」一比古はつけ足した。「アイリスは自分が醜いって言ったけど。俺なんか自分の素性すら分かんないんだぜ。それこそ幻滅するかもしれないよ」
その時の一比古は、ふと漏らした言葉が、まさか現実になるとは夢にも思っていなかった。
第6章 はじめに言葉があった。(John 1:1)につづく