右の頬を打たれたなら、左の頬も差しだしなさい(matthew 5:39) 2
「まだ、まだ駄目! 雷待ち!」
一眼レフを構えた小太りの男が金切り声で叫ぶ。
「とどめ刺すな! もっと接近して戦って!」
さっきからこの男の指示で苦戦している。
男は契約カメラマンの津久戸。放課後、堺悠介を調べに行く際、編集部から派遣されたと言って現れた。
試験期間中の放課後の高校は部活動もなく、生徒のほとんどは下校して、校舎はしんと静まり返っていた。天気予報では夕方から雨といっていた。遠雷が聞こえた。じきに雨が降りだすだろう。
一年生の教室がある三階に上ると、アイリスの顔つきが険しくなった。一比古にもなんとなく感じ取れた。雷が近くなる。
なにか空気が違う。
「ちょっとお二人、こっち向いて」
無遠慮にフラッシュがたかれ、写真を撮られた。
「魔女狩り現場を押さえに行く赤羽特派員と、アイリス記者。もう一枚」
「ちょっと! 敵に気づかれたらどうするんすか」
津久戸は無視して、何回かシャッターを切った。
「あーあ。いくらデジタル一眼使っても、結局ガタガタの画質に落とされちゃうんだよなあ。早くデジタル入稿に切り替えてって社長に言っといてよ」
「はあ」
「今どき一面カラーじゃないってのも信じられないし」
なおも文句を言っている。独り言が癖らしい。アイリスは構わず先に階段を上っていってしまう。一比古はため息をつき、津久戸は放っておくことにした。
こんな状態で敵と戦えるのだろうか?
気配を殺して一年一組を覗く。雷光で暗い教室が一瞬明るくなった。
「堺悠介!」
教室の正面、黒板の前に例の青い光柱があった。一比古の時は一本だったが、今は縦に三本、横に一本。そこに悠介は吊るされていた。手足はちぐはぐな方を向いて、操り人形のようになり、金具でそれぞれ止められている。
うっすらと悠介が目を開けた。
よかった無事だ。しかし安心するのはまだ早い。一比古はICレコーダーのスイッチを入れた。
光柱の元に立った人物がこちらを向いた。
今度の審問官は女性だった。チェック柄のパーカーにホットパンツ。黒いレギンス。ハンチング帽。茶色い髪の毛。まだ若い。大学生くらいだろう。
「遅いよ赤羽君、アイリスちゃん。二人とも写真よりカワイイじゃん」
喋るとまったく普通の子だ。思わず挨拶を返してしまいそうになる。津久戸が切ったシャッターに、彼女は鋭く抗議の声をあげた。
「ちょっと、なに勝手に撮ってくれてんのよ!」
「仕事ですから」
「なんかテンション下がるわー」彼女はあきれていた。「私は綾瀬。《魔女の鉄槌》審問官補佐。位は下でもキミを襲った下級ほど甘くない――」
綾瀬が喋っている間に、影が動いた。
アイリスがスカートの裾を翻し、たっ、と机を越え、高く跳躍する。空中で一回転させて三叉の槍を繰り出す。綾瀬は驚いてベルトからベレッタF92拳銃を引き抜いた。
「なによ、最後まで話させてくれたっていいじゃない!」
雷鳴が轟いた。同時に綾瀬は横に飛んでトリガーを引いた。
バン、バン!
二発とも槍が弾く。アイリスの瞳は瞳孔が開ききり、白い顔は陶器のように寒々としている。
津久戸は二人の横に回りこみ、シャッターを次々と切っていく。
「くそ、露光足りないぞ……雷来い、雷来い!」
滅茶苦茶だ。これが戦い?
腹の底からどろどろとしたものが溢れてきそうだ。
アイリスは槍の柄を短く持ち、刀のように振るって綾瀬を壁際に追いつめていく。斬隙が早すぎて避けるので精一杯だ。ドン、と綾瀬の背中が壁についた。
追いつめた。
アイリスは軽く槍を振るい、正確に右足の脛を斬りつけた。ショートブーツが破れて、血が飛び散る。次に左足。動きを封じようというのだ。圧倒的な力の差。一方的な暴力。綾瀬があおのき、うめき声をあげた。
「うぐっ!」
アイリスは無表情のまま三叉の槍を引く。心臓を狙っている。唇の端が持ち上がっているのに一比古は気づいた。
笑っている。
やめ――ろ。そんなのは、違う。
「まだだッ」
一比古より先に津久戸が叫んだ。
「とどめ刺すなバカ! 雷光に浮かぶ審問官退治。一番の絵が撮れてない!」
その一瞬、アイリスに隙が生じた。綾瀬がベルトからもう一丁、トカレフを抜き、
「死ねッ」
ガオン、ガオン!
両手の拳銃から鉛の玉が同時に発射された。
「危ない!」
べおん。
叫んだ一比古の耳の奥が震えた。全てがスローモーションに見えた。考えるより体が先に動く。椅子を蹴散らし、二つの弾道上に割り込み、アイリスを突き飛ばした。派手な音をたててアイリスの体が机に突っこむ。
銃弾が二つ、斜めにこちらに向かってくる。
べぇぇん。べん。
暗闇の中、一比古には弾の微細な震えが見えた。
手を伸ばせと誰かが言っている。
右腕と左腕を交差させる。指先が「なにか」に引っぱられる感覚があった。指に太い糸が巻きついているような感覚。
体をわずかにひねる。一つの銃弾が胸のすぐ脇を、もう一つが背中をかすめていく。
廊下のガラス窓が割れる音で、一比古は奇妙な時間の遅滞から開放された。どおん、と雷が落ちる音。近い。
津久戸がシャッターを切りながら叫んだ。
「アホ! アイリスは死なないから食らわせときゃいいんだよ!」
津久戸を無視し、一比古は机によりかかるアイリスの襟元を掴んで立たせた。なぜ邪魔をした、とばかりに睨まれる。
なぜ邪魔しただって?
手のひらが、アイリスの頬を打っていた。
「たとえ死ななくたってな、心は死ぬ! 分かんないかよ。自分が今、どんな顔してるか! 闇雲に戦って《魔女の鉄槌》全員倒せるか!」
アイリスは叩かれた頬を押さえるのも忘れ、目を見開いたまま硬直していた。襟から手を離し、教壇の方へ押す。
「血も涙もないんだな、お前。お前は悠介を助けろ。綾瀬は俺がやる」
抗うように槍を構えるアイリスを、一比古は怒鳴りつけた。
「うるさい!」津久戸も睨みつける。「あんたもだ津久戸さん! こっちは命かけてんすよ」
「黙れ厨! 一面トップ、僕だって三万部のメンツ背負ってんだ。眞夜中新聞がショボい写真載せられるか! 段取りも考えず、勢いだけで突っこんでなにが記者だ。仕事忘れてんじゃねえ!」
「仕事、か。いいこと言うじゃん、津久戸さん」
一比古は綾瀬に向き直った。綾瀬が馬鹿にしたように笑う。
「キミが相手してくれるの? さっきは油断したけど、丸腰だろうと手加減しない。模造拳銃だけど、当たりどころが悪かったら死ぬからね」
安全装置をかちりと外す音。二つの銃口が一比古の頭を狙っている。
一比古は佐田に教えてもらった文言を口の中で唱えた。
「ヨッド、ヘー、ヴァヴ、ヘー、神のテトラグラマトン、我は恐れもせず探しにゆかん、さすれば主よ、我らが魂を墓前の怨霊より自由にし給え」
落雷ともに雨が降りだした。
滝のような雨音。轟く雷鳴。
ヴァイオリンの一番高い音を鳴らすようなか細い音が聞こえる。
ぴりぴりぴり。
光柱にヒビが入る音だ。
音。
雨が外の桜の葉を打つ。猫かなにかが茂みを走る。電車のレールが継ぎ目で軋む。そして異常に早い心臓の鼓動。音が一比古の周りを取り巻き、螺旋をなして耳から流れこみ、体を震わせている。
腹の底から熱いものがせり上がってくる。自分の中に長年隠れていたなにかが、外に出させろと訴えかけている。目の奥が破裂しそうだ。
いいだろう。出ろ。
これが、俺の戦い方だ。
「いくよ。綾瀬審問官補佐」
ガオン!
銃弾がチッと頬をかすめる。鈍く光る弾の横腹が見えた。至近距離じゃなきゃ当たらない。確信があった。
一歩また一歩、近づく。一比古は叫んだ。
「津久戸さん、撮れ!」
「グッジョブ赤羽!」
指の先にくん、と引っぱられる感覚。放たれた銃弾は見当違いの方向へ飛んでいく。弾の回転が見える。大丈夫。これも当たらない。
心拍音が遅くなっていく。視界がクリアになる。
頭が冴えると途端に、いかに無謀をしているかと震えが全身を駆け抜けた。
一比古は全力でそれを打ち消した。
目を背けるな。前へ!
横目でアイリスを見る。最後の光柱を壊すところだった。
よし。もう一歩。手を伸ばせば届く距離まで近づいた。
初めて綾瀬に動揺の色が浮かんだ。
「怖くないの!? 死ぬんだよ!」
怖いよ。すごく怖い。でも逃げない。
綾瀬がトリガーを引く。ガチリ。弾切れだった。
人の弱点は後頭部、鼻、顎……。一比古は頭で復唱し、拳を振り上げた。綾瀬の青ざめた顔があった。視線が揺らいでいる。完全に失われた戦意。
少し前の自分を見ている気がし、頭に血がのぼった。
こんな奴が銃で人を殺そうとした。分かっているのか、その重さを。他に襲われた三人は、まだろくに話せないという。
パーカーの襟を掴み、勢いよく壁に打ちつけた。
「きゃあああぁぁぁぁ」
やめろ、耳障りだ!
「殺さないで!」
「お前は堺を魔女だと決めつけ殺そうとした。アイリスを撃った。俺を撃った。それが殺さないでなんて言うな!」
「助けて、お願い!」
泣き叫ぶ綾瀬の口を一比古は手でふさぎ、顔を近づけた。腹がたってしかたがなかった。
「なんで堺を狙った」
手を離す。
「知らないわよ! 上の人に聞いてよ。私は命令されただけもん!」
綾瀬からは、一比古を襲った下級審問官やスターンのような、執念のようなものが全く感じられない。
むしろ今はゲームのような感覚にちかい。
「あんた、審問官になって何年? ハインリヒ・クラマーの『魔女の鉄槌』知ってる? 《五の災人》は?」
綾瀬は首を振った。
「審問官になったのは今年に入ってからだもん……あんたみたいな悪い奴ら、死んで当然でしょ」
「なぜ!」
「今さらなに言っちゃってんの。サイト見て知ってるんだから」
「なにも知らないくせに! ふざけるな。あんたはただの人殺しだ!」
「……なんですって」
津久戸が叫んだ。
「赤羽、そいつ左手になにか隠してる!」
バチン! 一比古の体がぶれた。綾瀬の左手にスタンガンが見えた。
しまった、油断した。膝の力が抜ける。
綾瀬がポケットから魔方陣が書かれた紙をとり出し、叫んだ。
「任務失敗、帰還します!」
魔方陣からまばゆい光が綾瀬の体を包む。その時。
ダンッ!
一比古の頭上をアイリスが跳んで、魔方陣と綾瀬の右手を三叉の槍で刺した。半透明になった綾瀬の顔が苦痛に歪み、恨めしい声が漏れた。
「覚えて……なさいよ」
綾瀬の姿は忽然と消えた。
アイリスは槍を引き抜き、ずるりと背中に収めた。戸惑う視線で一比古を見てくる。恐らく、平手打ちされた一比古に対する腹立たしさと、頭に血が上った自分を恥じる気持ちが、ぐちゃぐちゃに入り乱れているのだろう。
「堺悠介は」
そう訊くと、教壇の下を指した。ふらふらと歩み寄って倒れ伏した体を抱き起こす。吊り下げられていた手首が火傷のように赤くはれ上がっていた。
「うぁ……痛っ」
「ごめん。少しの辛抱だから」
早く会社に戻って手当てしないと。肩を貸して立たせる。
早々にカメラをボックスに片づけはじめている津久戸に顔を向け、
「津久戸さん、いい絵撮れた?」
と一比古は言ってやった。津久戸は丸っこい鼻を鳴らした。
「ふん、僕は謝らないぞ。最高の構図ゲットしてやったから光栄に思え」
土砂降りのなか、津久戸のバンに悠介も乗せ、一比古たちが新聞社に戻ったのは夜の七時ちかかった。
悠介は手首に若干の火傷を負ったのと、若干の打撲だけで、意識ははっきりしていた。バンから降りる悠介を支えようとして身長が足りず、バツが悪い思いをした。アイリスはぶすりとした顔のまま、手伝う素振りも見せない。仕方なく嫌がる悠介を背負った。
「重!」
悠介はぼそりと言った。
「君、無茶苦茶だね。サイトの話も案外嘘じゃないのかも」
「サイトって、綾瀬も言ってたけどなんの話?」
「それマジで言ってる? マジで知らない? バカ? 君もしかしてバカ? インターネット使えないバカ?」
「三回もバカって言うな!」
連絡を受け、新聞社には全員が揃っていた。悠介は例の「ありがたい河童の膏薬」を塗られ、治療を受けた。
津久戸はデータを白峯に渡し、謝礼を受け取った。
「確かに。じゃあお疲れ様です」
「おう、また頼む」
帰っていく津久戸の背中を見ながら、悠介が不快感をあらわにした。
「僕も帰りたいんですど。第一ここどこです?」
ヴァイヤーが肩を叩き、有無を言わせない笑顔で迫る。
「簡単なインタビューをさせて頂いてもいいかしら? いいわよね?」
ちょっと前の自分を見るようだ……と、一比古は遠い目をした。ICレコーダーの音源をイヤホンで聞いていた拝島が悲鳴をあげた。
「赤羽っちコラ! 記者がブチ切れて戦ってどうすんよ! 記事にする方の身にもなれっつのもう……」
慌ただしい社内を見つめ、悠介はあきれたようにため息をついた。
「マジで誰も知らないみたいですね」
「だからなにを!」
悠介は勝手に歩いていき、一比古が使っているパソコン起動させた。ブラウザを立ち上げ、なにかを打ちこむ。
「OS古すぎ……串通したからたぶん安全。見てみなよ。ぶったまげるから」
「串?」
「いいから見る!」
示された画面を一比古は覗きこんだ。
ページは縦長で、ブログのような掲示板のような感じだった。ポップなイラストや、広告が点滅している。タイトルは「ウィチハンやろうぜ!」。下に「東京に潜伏する魔女を狩ろうぜ! 新参大歓迎」と書かれている。左右には細かくリンクが貼られ、真ん中が本文らしく、投稿が通し番号順に連なっていた。
投稿文を見た一比古は固まった。
【さて】ウィチハン本部 その2【もうひと狩り】
1.@審問官見習い
本部その2に突入! くわしくは1枚目
第一弾 黒判定は4人
女3人は処罰済み。各人、残るアKBの情報うpヨロシク!
そろそろ誰かまとめれー
文章の下には、最初に被害に遭った二人の女性とともに、一比古の顔写真が添付されていた。
「下も見てみな」
画面をスクロールさせると、次々と一比古の画像があらわれた。ほとんどが携帯から撮られたものらしい。ネットスラングまじりの短文が、分単位で書きこまれている。
「図書館でハケーン! 金髪美少女と勉強。うるさい」「今日ウチの学校転校してきた」「kwsk」「この画像古くね? 金髪おったたててたお。青目とマッチしてなかなかド迫力」「ダセ。いまどき金髪とかありえなくね?」「例の美少女もいっしょ」「うっそおおおお」「アKBよりそっち気になる。プロフおしえれ」「アイリスたん。喋れないからそれ以上わからん。明日凸してみるお」「健闘をいのる」「喋れないアイリスたんカワユス」「俺手話できる」「おれも習うべき?」「俺の嫁」
246.@審問官見習い
アKBカレシ気どり。マジうざい。以下その模様をお楽しみください
昼休み、アイリスを質問ぜめにするクラスメートに注意した時の様子が、動画でアップロードされていた。
「うぜ」「キモ」「何様なんすかね」「つかキショ」「ジ●ンプの主人公かよ」「うざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざい」……。
最新投稿はこうだった。
「殺ッチマイナ! 死ネ!」
社員もひとかたまりになってモニタを覗きこんでいたが、遂にたまが口を押さえてその場を離れた。
「……ひどい」
悠介が嘲るように言った。
「あなたたちそれでもマスコミ? 僕みたいな高校生でも知ってること、完全スルーじゃないですか」
ヴァイヤーが押し殺した声で言った。
「このサイトは……いつから? 誰が運営している?」
「初めて僕が見たのは、日曜の夜ですね。立ち上げは金曜夜、十一時三十三分。今日は火曜だから、四日でコメントが1200件超か。なかなかの盛りあがりです。今日中に三枚目に突入するかも」
悠介はマウスをクリックして、一番最初の投稿を表示させた。
1.アドミニスター
おまえら魔女って信じる? 信じないよなフツー。
それはわかってる。だから今から証明する。
魔女のチェーンメール、見たことあるよな?
証拠画像あげるから、見れ。信じる信じないは自由。
もし信じたら、おまえら、いっしょに魔女狩りしようぜ。
「このアドミニスターってのが、サイト運営者です。最初は完全に無視されてたけど、日曜日の夜に、眞夜中新聞と赤羽の写真とプロフが、『まるちゃん』っていう一般ユーザーからアップされて、注目されはじめました。特に眞夜中新聞の記事は効きましたね」
そう言いながら、悠介はスキャンされた日曜付眞夜中新聞一面を表示させた。例のスターン襲撃の事件についての記事だった。拝島が叫ぶ。
「うわ、俺の記事、丸々無断転載じゃん! 写真まで」
コメントを時間にそって追っていくと、半信半疑だったユーザーたちが、興味を抱いていく過程が見てとれた。
月曜日。一比古とアイリスの転校で、サイトは一気に盛りあがった。日中もコメントが次々投下される。ほとんどが一比古に対する誹謗、中傷だった。
「ホームページとは、考えたものですね。運営は《魔女の鉄槌》でしょうか」
御舟の問いにヴァイヤーは頷いた。
「だろうな。他にありえん」
「畜生、引用元書けっつの。つうか購読しろ!」
「論点ずれてるぞ」
「だってムカつくじゃないすかぁぁ」
なんだこれ。なんだこれ。
俺は「アKB」なんて名前じゃない。
一比古は胃液が逆流するのを感じた。図書館のシャッター音は、やっぱり自分を撮っていたのだ。動画をアップロードしたのはクラスメートの誰か。
モニタの自分の顔を、一比古は呆然と見つめた。
呟きは声に出せば消えるのに、文字となった悪意は消えない。増殖しつづける。画像や動画はありのままを記録する。
いつでも誰でも見られる晒し台だ。
綾瀬もこれを見たのだ。死ね、と思われた。死んでもいいと思われた。匿名だから書きこんだのが誰か、一比古は知らない。知るすべもない。
振り返ると、アイリスの顔が真っ青になっていた。いたたまれなくなって、
「大丈夫だよ、これくらい」
と嘘をついた。悠介がフォローしてくれた。
「あまりマジに取らない方がいいね。コメントは一人が何回も投稿するから、見かけほどたくさんの人間が書いている訳じゃない。こういう書きこみするような奴らの『死ね』とか『うざい』なんて、半分冗談なんだから」
「でも見てる人はその何倍もいるんでしょ……気持ち悪ぅ」
「せっかくフォローしたのに傷口えぐらないで下さいよ!」
パン、とヴァイヤーが手を叩いた。
「校了まで時間がない。通常業務に戻れ。御舟とたまはそのサイトからめぼしい発言や画像をピックアップしろ。堺君も、手伝って、くれるわよね? 『はい』か『喜んで』のどちらかで答えて?」
ギギ、と小首を傾げたヴァイヤーに、悠介は渋々頷いた。
「一択じゃないですかそれ……十時までだったら」
「とっても助かるわぁ!」途端に声音を変える。「白峯編集長、一面は予定通り審問官補佐・綾瀬戦で行け」
「了解。奴らが知らないところまで書いてやりましょう。拝島、三面さっさと片づけて、二面ヨセ差し替え。軽くこの『ウィチハン』とやらに触れてやれ。連中も喜ぶだろうよ」
「うす。本職の文章てもんを思い知らせてやる」
「赤羽!」ヴァイヤーの強い声がして、がし、と肩を掴まれた。「覚えているな? 魔女狩りは、村の真ん中に投書箱があって『誰それは魔女だ』と書きこんでポン。そうだったな?」
「うん……」
「よし。このホームページも全く同じ。魔女狩り全盛期から四百年、人間はこれっぽちも進化してないのさ。たまったもんじゃないね全く。もっと上から見て御覧。歴史を見る目さ」
ヴァイヤーはブラウザの更新ボタンを押した。「殺ッチマイナ! 死ネ!」の書きこみの後にふたつ、コメントが追加されていた。
「明日も報告よろしく」「死ね」
「こんなゴミみたいなコメント書く間に、こいつら何回更新ボタン押したんだろうねえ。心が痛むか? スターンに殺されそうになった時と、どっちが怖かった? 今日お前が綾瀬というザコにキレたのも同じ理由。そうだろ?」
そうだ。こんなもの、ただのドットの集まりだ。
きっとそうだ。
……そうだろうか? 頭ではヴァイヤーの言う通りだと感じるが、どこかでなにかが引っかかっている。
赤羽、と白峯が手招きした。原稿用紙の升目を小さくしたような紙を示す。
「これな、台割。紙面のレイアウトを決めるためのものだ。一面下半分、三段分カコミでくれてやる。好きなように書け」
「俺……文章なんて自信ないす」
「いいか赤羽。本当の言葉には芯がある。芯さえあれば上手い下手なんか関係ない。揺らがない。お前の気持ちを紙面にぶつけてみろ」
「心配無用だぜ赤羽っち。編集長がみっちり赤入れてくれるから。むしろ最終的に編集長の文章になるから」
「やかましいッ」
どうしよう、と悠介を見ると、彼は肩をすくめた。
「このページが今後どうなるか。僕だって分からないさ。エサが切れれば皆すぐ飽きる。僕はスルーした方がいいと思うけど、どうせ眞夜中新聞は翌日にはアップされちゃうから。好きに書けば」
好きなように。
今、一比古の中にあるのは、ひたすらに怒りと恐れだ。《魔女の鉄槌》は、魔女を狩るだけでは飽き足らず、無関係の人間を巻きこんで、心の底に潜む悪意を吐きださせる。
真っ白な原稿用紙に、一比古はシャープペンを持って向かった。
書きだしは、
「許せないことが起きています。あちらこちらで。
俺は、叫びたい。」
時間ばかりが過ぎていった。原稿用紙に向かって約二時間。十二時過ぎても十二字×二十行を三段、たった七百二十文字。たかだか原稿用紙二枚の文章すら書き終えられない。
すっと白いメモ帳が差しだされた。不ぞろいなカタカナが並んでいた。
「サツキハ ゴメンナサイ チモナミダモナクテ」
顔を上げると唇を噛みしめたアイリスが、目を伏せてもじもじしていた。
「いいよもう……」
疲れた頭で投げやりに答えると、誠意が伝わってないと誤解したのか、アイリスは今度こそ一比古の目をしっかりと見据え、頭を下げた。ここ数日彼女がまとっていたどす黒い殺気は消えていた。
ひどく小さくて臆病な、一人の少女に見えた。
血も涙もない――。
ひどいことを言ってしまった。
もしかしてアイリスは本当に人魚姫なのだろうか。人魚姫は人間でないから涙が出ない。そう『人魚姫』に書いてあった。
じゃあ、なぜ物語のように死なず、生きていられるのだろう。
答えは分からない。本人しか知らない。
それは彼女にとって絶対のタブーにちかい。恐らくは。
「俺こそ叩いたりして、ごめん」
ふるふるとアイリスは首を振る。メモを取ると、なにか書いて渡してきた。
「ココロガ シヌ。ナニ?」
「それは――」
と一比古が言いかけた時、悠介の悲鳴のような声がフロアに響いた。
「こんなのは嘘だッ」
ぎょっとして振り返ると、机を叩いて悠介が立ち上がっていた。
「どうした」
「さっきの……綾瀬と赤羽の戦いが、アップされました。今」
全員が悠介のモニタに殺到する。
十二時二十六分。
666.@審問官見習い
666ゲト。
速報! 一比古タンが女子大生とガチバトル!
マジこれはゴイス。
その下には綾瀬が銃弾を放ち、一比古が向かっていく動画が添付されていた。時間にして二分弱。雷と雨音のせいで音が割れ、ほとんど聞き取れなかったが、一比古が綾瀬に怒鳴りつける声ははっきりと聞こえた。
『あんたはただの人殺しだ!』
綾瀬は、教室のどこかにカメラを仕掛けていたのだ。
次に起こることは、一比古にも容易に想像がついた。更新を待ち構えていたユーザーの嬌声が聞こえる気がした。秒単位で書きこみが殺到する。
「これマジもん?」「合成だろ」「すごくね」「なんで弾あたんないの?」「学校特定しろ!」「釣られてんなよバーカ」「アKBこそひとごろし」「マトリックス?」「時間止めてる?」「ザ・ワールド!」「アイリスたんなぐった! 許さじ」「デブカメラマンうざ」「スゲー!」
画面いっぱいの文字。
「今夜は祭りだーーーーーーーーーーー!!!! 寝るなよおまえら!!」
だんっ。拝島が机を叩いた。
「紙切れは! 所詮ネットに敵わねえって、嗤ってやがる!」
手にした原稿を引きちぎり、大またでフロアを出て行く拝島を、誰も止められなかった。
工場に原稿を送るリミットは午前一時きっかり。あと三十分しかない。残るは一面、一比古の囲み記事と、今拝島が破り捨てた原稿だ。割りつけた台紙の白さが、目に痛かった。
弾かれたように一比古はドアに走った。白峯が制止する。
「どこに行く!」
「拝島さん呼び戻してきます」
「お前は自分の原稿書け!」
「ほぼ書けてます、へ、下手だけど! チェックお願いします!」
拝島は雨に濡れるのも構わず、非常階段に座りこんでいた。体を折ってくくっと笑う。
「舐めやがって。校正もしねえ餓鬼どもの文章。『キタコレ』とか叫んでりゃいい。楽だよな。これってレイプだぜ、言葉のレイプ。舐めやがって!」
拝島は手すりを思いきり蹴った。一比古は気持ちを落ち着け、戻って下さいと言った。いやだと断られた。
「一部始終動画で流れてんのに、今さら記事なんか書いてなんになるよ? いいじゃん『詳しくはウィチハンをご覧下さい』で」
「負けを認めるってことですか? 言ったじゃないですか。スターンが襲ってきた時。『ネット配信に負けてたまるか』って」
「明らかに負けたんだよ! もう勘弁しろよ……」
拝島が乾いた笑い声をあげた時、たまがプリントアウトした紙を持って走ってきた。
「拝島ヤバいよ! 『灰』の魔女とかいって、魔女の疑いをかけられてる子がめっちゃアップされはじめたの!」
「寄越せ」
プリントアウトを見た拝島の顔がはっきりと硬直した。横から覗き見た一比古も言葉を失った。
卒業アルバムのスキャン画像や写メールに映った中学生や高校生。フルネームや、住所、携帯番号まで書かれている者もいる。彼らはみな「魔女なのではないか」という疑いのもとに、晒されているのだった。
理由は、暗い、気持ち悪い、クラスで浮いている、そんな理由にもならないものばかりだった。
「《魔女の鉄槌》の狙いはこれか……魔女狩りの再現……」
苦々しく拝島が言った。ドアが開いて悠介が険しい顔を出した。
「出やがりましたよ。アドミニスターが」
「マジかッ」
拝島の目に生気が宿る。悠介は続けた。
「『灰色』の奴を本当の魔女、つまり赤羽みたいに『黒』に指定する証拠を掴んだ奴には、掲示板の限定管理人の権利を与えるんだそうです。サーバーダウン一歩手前、まさに祭り状態。『灰色』の部屋に盗撮仕込むとか言いだす奴も現れはじめてます」
「そのままダウンさせりゃ御の字じゃねえか」
悠介は首を振る。
「ミラーサイト誂えてきますし。ハッキリ言って、打つ手なんてないです」
「そらみろ! 後追い記事出したって恥の上塗りなだけだ」
晒された人物をグレーからクロにできれば、つまり魔女と認定させることができれば、投稿者はウィチハンにおいて地位が上がる。
もし、『灰色』の誰それを拉致しろとなど発言を投下すれば、《魔女の鉄槌》は労せずして魔女を発見し、尋問・処刑できることになる。その画像は即ウィチハンにアップされるだろう。
スケープゴートの数を競いあい、ユーザーの興奮が高まるのは目に見えている。
一比古は言った。
「そんなんだからネットに負けるんだ」
「あぁ、なんだと?」
「拝島さん。速さで紙はネットに敵わないなんて、誰でも知ってる。紙に印刷してるのは、速さなのか? 逆だ! 遅さだ。無実の子がどんどんアップされて、そのうち俺みたいに狙われる子が出る。慎重に情報源集めて阻止するのは、真夜中新聞社のトップ記者にしかできない。そうでしょう?」
堺も強く頷く。
「僕の被害も書いてもらわないと困りますしね」
「アンタの平易かつ訴求力のある文章、アタシ好きよ。顔は好みじゃないけど」
「クソがッ……てめぇら、揃いも揃っておだてやがって」
紙を握りつぶし、拝島は廊下に足を向ける。
「サカイ君とたまは、現時点で一番過激なユーザーと現時点でクロに近い被害者、三人ずつピックアップ! 可能ならIP抜け。赤羽っちは自分の原稿仕上げろ! あと二十分。急げ、馬車馬のごとくに!」
「もう一字も出ませんから……作文苦手なんです……」
一比古は机に突っ伏した。拝島はしれっとした顔で栄養ドリンクお湯割りをすすっている。原稿をファックスで送り終えた白峯が腕時計を見、
「午前一時ジャスト。なんとか乗り切ったな」
ネクタイのノットを緩めてため息をついた。
「あぁ~総務なのにワタシまでこき使われたぁ」
伸びをするたまに、有名焼酎の名前を挙げ、拝島がなだめる。
「今度おごってやるよ」
「忘れないでよ今の言葉!」
「あいあい」
「誰です、十時までって言ったの。終電とっくに終わってるじゃないですか。タクシー代出してくれるんでしょうね」
悠介はぶつぶつ文句を垂れている。御舟が弱り顔で答えた。
「すみません人使いが荒くて……。もちろんタクシー代は出しますから」
一比古は窓を開けて、蒸した空気を吸った。
雨はだいぶ小降りになっていた。後ろから肩を掴まれ、拝島が小声で言った。
「これで仕舞いじゃねえぞ赤羽っち。十倍返しだ」
彼らには真っ暗な闇が永久に続く(Jude 00:13)1につづく
この章は切る所が難しくてちょっと長めです。
また、書いた時期によりこの世界ではtwitterやLINEは登場しません。あしからず。




