第95話 09月15日【1】
お嬢ちゃんに依頼されたモデルのイベントも無事に終わり、私達はそれぞれの日々を過ごしていた。
だけど、それまでと同じ日常ではなかった。
イベントの日以降、光希さんと会っていない。
ここ最近は2〜3日に1回くらいのペースで近況報告のような、世間話のようなメッセージを遣り取りする程度だ。
たまに電話も掛かってくるけれど、タイミングが合わず擦れ違うことも多い。
流石は大学病院に勤務する医師。とても多忙なようで、休みの日なども悉く合わない。メッセージにはいつも『(´;ω;`)』のような泣き顔を表す顔文字が打たれている。
忙しいと言えば、薬局王もだ。
今まで薬局からの問い合わせは半分以上が薬局王からだった。にも関わらず、ここ最近は従業員さんばかり問い合わせの電話を掛けてくる。
薬剤師の石動君に至っては、電話口が私だと分かるや明らかに声色を低く変えてドスを利かせる。私は何故か、昔から薬局の方に嫌われてしまう。理由は分からないけれど。
なんにせよ、薬局王は店舗を不在にすることが多くなった。管理薬剤師である以上に経営者でもある彼女は、きっと何かと駆り出されるのだろう。
そして〈つがみ小児科〉の事務員。
まず綾部さんだが、イベントを終えた日から、目に見えて上機嫌だ。
以前は冷静が制服を着ていたようだったのに、最近は常に口角を上げて楽しそうだ。受付事務員としては、それが理想の姿なのだが。
そんな今にも鼻歌を口ずさみそうな横顔が珍しくて、私はつい《《まじまじ》》と彼女を見てしまった。
すると視線に気付いた綾部さんと目が合った。
数か月前の彼女なら興味なさげにPCモニタへ視線を戻すか、「セクハラです」と冷たい台詞を投げるかの2択だった。もちろん患者様の居ない時に限られるが。
しかし今の彼女はどうだ。
ほんのり頬を染めながら、ニコリと微笑み返してくれたではないか。
それも、赤ん坊や小さな子供に向ける、包み込むかのような微笑。
照れ臭くなって、今では私の方が視線を逸らしてしまう。笑顔が多くなったのは良いことだけれど調子が狂う。
そんな彼女とは反して、お嬢ちゃんである。
まるで綾部さんに増えた笑顔の分だけ、彼女から失われたかのよう。もしかすると、この院内では微笑みの総量が決まっているのかもしれない。
などと馬鹿なことを考えている間にも、お嬢ちゃんは小さく溜め息を吐いた。業務中でも心此処に在らずといった様子だし、声を掛けても空返事なことが多い。
このままでは仕事に支障を来たすかもしれない。
考えた私は、お嬢ちゃんに業務後に少しだけ残ってもらうよう伝えた。お嬢ちゃんはコクリと頷いて応えた。
幸いにも今日は木曜日。午後の診察はお休みだ。
9月とはいえ、まだ暑い日が続く。おかげで患者様も少なく診療はほぼ定時に終わった。
常勤の綾部さんが昼休憩から戻ってきた頃には、看護師さんらは全員退勤して父も事務所に上がっていた。
誰も居ない診察室に、私はお嬢ちゃんと入った。
「ごめんね、急に呼びつけて」
「いえ…」
普段父が座っている椅子に私は腰かけ、お嬢ちゃんは患者様用の丸椅子に座らせた。なんだか問診でも始まりそうな雰囲気だ。
私は自販機で買ってきた冷たいミルクティーを、お嬢ちゃんに差し出した。
「最近どう、調子は?」
「あ、はい…」
「もう9月だって言うのに、暑い日が続くね。嫌になるよ」
「そうですね…」
受け取った紅茶を握ったまま、お嬢ちゃんは顔を伏せるばかりで口を付けようともしない。
私はいよいよ肚を括った。
「なんだか、最近元気無さそうだよ? 心配事でもあるの?」
「………」
「僕で良ければ相談に乗るからさ。もしかして、仕事の悩み?」
力無く項垂れるお嬢ちゃんの顔を覗き込むように、私は前のめりで問いかけた。
すると彼女は、ゆっくりと顔を持ち上げた。
だがその様相は重たげで悲壮感に満ちている。私も緊張の汗を浮かべ固唾を飲んだ。そして――
「……わたし、〈つがみ小児科〉を辞めるかもしれないです」
――絞り出したようなその言葉に、私の汗と血の気が引いた。




