性格の悪い魔女の、弟子の話
《魔女め! 明日にでも秘術の正体を突き止めて手に入れてやるからな!》
「先生、こんなところにいらしたんですか。姿が見えないので心配しました」
相反する二つの声に、魔女は相好を崩す。振り返った先には見目麗しい青年が、柔らかい微笑みとともにこちらを見ていた。
「あら、そうなの? 心配かけてごめんなさい」
柔らかい光の差し込む林の中、崖の下で水を湛える泉の畔で、魔女は青年が歩いてくるのを待つ。彼はしなやかな動きで歩み寄ると、魔女の手をそっと取った。
《まったく、こんな奥の泉まで行くなんて……僕でなければ見つけられなかったな!》
「いえ、先生がご無事なら構わないのです」
言いつつ、身を屈めて手の甲へ軽く唇を落とす。
「ですが、どうかあまり遠くへ行かないでください。弟子は師匠の心配をしてはいけませんか?」
乞うように眉根を寄せて囁いた青年に、魔女は「気をつけるわ」と頷く。
「……どうしてそんなに、私のことを気遣ってくれるの?」
試しに訊いてみると、青年は姿勢を直し、じっとその顔を覗きながら愛おしげに魔女の頬を撫でた。まるで恋人にするかのようなそれに、魔女はゆったりと目を細める。
「――それはもちろん、先生のことが大切だからです」
《お前をメロメロのドゥルンドゥルンの骨抜きにして秘術を盗むために決まっているだろう、魔女め!》
十二年前からひたすらブレない弟子に、魔女は思わず破顔した。
(馬鹿な子ほど可愛いって真理よね……!)
内心で腹を抱えて笑いながら、魔女は「ありがとう、イェルマ」と囁いた。
***
秘術。それは、魔女が魔女たる所以。生まれながらに与えられた、秘められた力。
その魔女は生まれ落ちたその日から、聞きたくもない他人の声に囲まれて育ってきた。他者に見せるつもりのない深淵、その底までを見透かしてしまう自分の力を心底厭うた。
成長し、自らの秘術を制御できるようになる頃には、魔女はすっかり人間というものに飽き飽きしていた。つまるところ、生き物というのは皆、似たり寄ったりの性質をしているのである。
人の生き様に、面白いものなど何もありはしない。
……それは、自分の生涯も含めて。
***
魔女は大喜びで昔馴染みに絡んでいた。
「もう本当に可愛いのよー? あの子が来てから私、ちっとも暇しないわ」
「ふーん」
「お料理も上手で勉強熱心で、ときどきちょっと軽率だけど自己肯定感バリ高なの! かわいい!」
「ほえー」
「でね、さっき言ってた悪霊云々のときのイェルマがすっごく面白くて……」
「はぁ……ほんと、あんたの弟子って可哀想。こんな性格最悪の魔女につくとか、運がないわね」
「ええー? そんなことないわよ」
暗い森のサバトでは、僅かな灯りに魔女たちが集い、様々な情報交換という名の雑談を交わしていた。
灯された蝋燭のひとつ。背の高い小さな円卓に肘をついて、深き淵の魔女とその昔馴染みは顔を突き合わせていた。腐れ縁の魔女は、深き淵の魔女の額にびしりと人差し指を突きつける。
「あたしだったら心の中覗いてくるような魔女との共同生活なんて、まっぴらごめんだわ」
「そりゃ私も嫌よ」
「あんたの弟子だって絶対そうでしょ」
魔女はしれっと「知らなきゃ気にならないでしょ?」と首を傾げる。
「……それがッ! 問題ッ!」
頭を抱えた昔馴染みに、魔女は「あはは」と声を上げて笑った。
「もう十二年でしょ? そんなに欲しがってるなら秘術の内容くらい教えてあげなさいよ」
「うふふ、やだ」
「はぁ……」
額を押さえた昔馴染みを一瞥して、魔女は体を起こした。蝋燭を立てた燭台を手に、机から離れる。長い黒髪をたなびかせ、魔女は昔馴染みに向かってひらりと手を振った。
「そろそろ帰ろうかしら。イェルマを回収しに行くから、あなたも一緒にどう?」
机に頬杖をついて、昔馴染みは目を細める。呆れを示した表情に、しかし魔女は一切動じない。
「……あんた一人でどうぞ」
「あら、勿体ない」
魔女は口元に手を当ててくすりと笑った。昔馴染みは鼻を鳴らす。これが十年ちょっと前から続く、二人のやり取りの締めくくりだった。
「じゃあね、また来年」
赤い目をゆるりと細めて、魔女はその場から掻き消えた。
暗い森のほど近くの街は、年に一度だけ、端から端までが騒々しい酒場となる。そこでは魔女の従者や弟子たちが集って、どんちゃん騒ぎを繰り広げていた。
森の入口へ転移した魔女は、煌々と照らされた街の眩しさに目を細めた。魔女とは異なり、従者や弟子たちは本来昼に生きる民である。暗い夜にこうして外へ連れ出すのは魔女の我儘というもの、多少夜を照らすことくらいは許容すべきだろう。
魔女が街の入口に差し掛かると、門番として立てられていた空の鎧が動き出す。
「ようこそ、トルアールの街へ。今宵は特別な夜、大陸各地から多くの魔女とその弟子――」
「『深き淵』よ」
鎧が決められた口上を述べるのを遮って、魔女は片手を鎧の目元へかざした。鎧の目元が青く光る。
「照会中です……。認証。イェルマを呼び出しますか」
「いえ、結構。自分で呼びに行くわ」
「承知しました。五番街突き当たり『ゾゾル峠の夜露』です」
「ありがとう」
魔女は肩にかかった髪を払い除け、門をくぐって街へと足を踏み入れた。
左右には露店が並び、明るい電飾が店先を照らしている。居並ぶ客はほとんどが人間の形をしているが、中には獣人や竜も混じっていた。それらを横目に見ながら、魔女は弟子の姿を探す。浮かれた街は忙しなく人が行き交い、どこからともなく音楽の響きや笑いさざめく声が届く。時折大きな歓声が上がるのはどこかで出し物でもあるのだろう。
夜の森を満たす静寂と漆黒に慣れた耳目は、眩しく賑々しい夜の街に不快を示す。魔女は僅かに顔を顰め、五番街へと足を進めた。
門番の鎧に告げられた店の前で立ち止まり、魔女は窓から中をそっと覗く。絶え間ない騒音に霞む大通りとは裏腹に、店の中は静かな暗さに包まれているようだった。
魔女は窓から覗き込んだ店内に弟子の姿を見つけると、息を止めて壁をすり抜け、店の中へと入り込む。気配を消し、魔女はイェルマのいる方へゆっくりと歩み寄った。
見慣れた背中はバーカウンターに並ぶ人影の中に混ざっていた。狭いカウンターの中では、ケンタウロスのマスターがカクテルをグラスに注いでいる。今に馬の体で壁に並ぶ瓶をなぎ倒すかと思ったが、案外と器用な身のこなしである。
魔女は視線だけを動かしてイェルマの横顔を眺める。甘口の果実酒が注がれたグラスを口元に寄せ、隣で赤ら顔を歪める青年に笑顔を向けていた。
酔っているのか、随分と真っ赤な顔をして、イェルマの隣の青年がカウンターの天板に拳を強く置く。
「それでさぁ、俺の師匠マジでウザいわけ! 術式展開がなってないとか薬の調合が下手とか、果てには鍋に水を注ぐときにまで文句言ってくるんだぜ!?」
「それはお前が下手なだけなんじゃないのか?」
「あはは、言えてる!」
イェルマの一言に、会話に参加していた少女が手を叩いて笑う。イェルマの隣の青年は憮然としてグラスの中身を呷った。
「ふん、……ぜってーいつか独り立ちしてやる。あんな鬼婆のところなんてとっとと脱出して、俺は広い世界に出るんだ」
「そう? わたしはお師匠さまのこと結構好きだよ」
イェルマの左右で青年と少女が言い交わすのを、魔女は耳をそばだてて聞く。イェルマの答えを待ってわくわくと待機しているのに、イェルマは口を開こうとしない。
ので、魔女は己の目に力を込めてイェルマを『覗いた』。
《まぁ、僕もさっさと独り立ちしたいけど、まだその域に達してないのは分かるしな》
(あら、)
酒が入っている割には案外と冷静な思考である。魔女は意外な思いで眉を上げた。イェルマはクールな表情を装ったまま、壁にかけられた変な絵を眺めている。
《魔女め……秘術を手に入れれば僕も一人前の魔法使いになれるのに……》
(いや、いつも通りだわ)
この弟子は秘術を何かスゲー魔術と勘違いしているらしい。直接訊いてくれば多少の知識を与えてもいいと思っているが、この弟子、表向きは一切秘術に触れてこないのである。
(馬鹿な子って可愛いけど、ときどき面倒くさいわね……)
魔女はやれやれと肩を竦めた。
「イェルマは? 師匠とはどう?」
話を振られたイェルマは、「ああ、」と声を漏らして、それから頬を吊り上げて笑った。
「うちの師匠は甘いからな。僕の演技にもちっとも気付いていないし、秘術を盗む日も近そうだ」
悪どい笑みでそう言ったイェルマに、彼の友人たちが歓声を上げる。魔女も思わず片手で口を覆った。危うく声を上げて笑うところだった。
《僕にかかれば魔女なんて簡単に手なずけられるだろ》
フッ、とイェルマが目を閉じて笑う。魔女は更に距離を詰め、弟子の方へと近づく。
「俺もお前の師匠見たことあるぜ! 確かにチョロそうだったな」
「そうだね、結構ぽやんとした印象だったかも……。何も考えてなさそうな感じ?」
「お前ならあれくらい簡単に落とせるだろ」
「あはは、行ける行ける」
散々な言い草だが、百年も生きていない赤子に何か言われて怒るほど魔女は短気ではない。可愛いものだ、と鼻で笑いながら、魔女は自らの弟子へ声をかけようとした。
「イェル……」
その声が届くより早く、イェルマは頬を歪め、友人たちに向かって不敵な笑みを向けた。
「黙れ、あの魔女のことを馬鹿にして良いのは僕だけだ」
《ああ、その通りだな》
(…………逆ッ!)
魔女は思わずその場に崩れ落ちる。バターン! と凄まじい音が床を震わせ、三人は一斉に振り返った。
「せ、先生!?」
椅子からするりと降りて、イェルマが魔女を助け起こす。
「せせせせせ先生、一体いつから……」
青ざめる弟子に、魔女は「今来たところよ」と微笑んだ。イェルマはそれでも安心出来なかったのか、「き……聞こえてましたか」と肩を掴んでくる。
「……どうかしたの?」
しらばっくれて首を傾げて見せると、イェルマはあからさまにほっとしたような顔で肩の力を抜いた。
「ごめんなさい、ちょっと足が疲れていたみたい」
イェルマの手を借りながら立ち上がろうとした魔女を、弟子は「先生」と諌める。イェルマは魔女の腰に腕を回しながら、背を丸めて目を合わせた。
「先生、もう帰るんですか?」
「そうしようかと思って、迎えに来たのよ」
魔女が頷くと、イェルマは「分かりました」と微笑む。
「帰りましょうか」
その一言と共に、体がふわりと持ち上げられた。膝の裏と背に回された腕が熱い。
(ついこの間と全く同じ構図だわ。……逆だけど)
魔女は妙な照れくささに思わず俯いた。全身が熱い気がするのは、酔いが回ったのだろうか。
イェルマはカウンターに座っている友人を振り返り、「迎えが来たから帰るよ」と、先程までの不遜な啖呵が嘘みたいに爽やかな笑みを浮かべる。二人はどこか引きつった顔で頷いた。
「家へ帰りましょう、先生」
《魔女め、僕がついていなかったら何を仕出かすか分かったもんじゃない》
(それはあなたの方でしょう)
《僕が見張っていないと心配だな》
(こっちの台詞よ、この間だって死にかけてた癖に)
イェルマの内心の悪態に心の声で言い返して、魔女はこっそりと小さなため息をついた。
「ええ、帰りましょう、イェルマ」
そしてまた明日からも、性格の悪い魔女と弟子の、変わらない日常が続くのだ。