私の目尻に浮かんだ涙を掬いながら、そう言って。
「待鳥さん、最近顔色が良いね」
部長はおもむろに私の顔を覗き込んだ。
「……そうですか?」
首を傾げる。確かに心配事は何も無いので、調子は良いけれど。「少し前まで、今にも倒れそうな顔をしていたのに」と言われ、ますます首を捻る。そうだっただろうか。思い当たる節が無い。
「てっきりカリスマ美容師の魅力にかどわかされたのかと」
「薬師さんですか? 無いですよ」
予想外の人物の名前に、目を丸くさせる。薬師さんは、今担当している案件の相手がたの責任者である、カリスマ美容師と謳われる人だ。そう言われるだけあって、物腰の柔らかさに反して、自前の設計能力が高い人物だ。素でセンスがあるのだろう。
サボってきました、と現場に顔を出す姿は、台詞に反して真面目だ。細部のひとつひとつを自身の目で確認し、イメージを更に深め、広げ、固定させる。
“才能ある若きカリスマ美容師”。
その言葉だけが先行して広まり、彼自身がいかに努力家であるのかが語られないことが痛いと感じる程に、ひたむきに物事に向き合う人物だ。
だけど、それとこれとは、話が別。
即座に放った否定の言葉に、不思議そうな顔をしている部長に、むしろ何故疑われているのだろうか、と苦笑。
「来週には完成します」
楽しみです。口元を緩めて言うと、「今回も代休を取りなよ」と口を酸っぱくして注意された。
代休と言われても、正直持て余してしまう。
行きたい場所は無いことも無いけれど。多分今回も寝て過ごすことになるのだろう。
家具、機器類を店内に運び終えたという連絡を受けて、現地に向かう。店先では、ちょうど時期になった椿が咲き誇っていた。
顔見知りの業者とすれ違い様に、「ありがと。お疲れ様」と声を掛けると、「そっちもなー」と気軽な声が返ってくる。
外の空気と相俟って、春の麗かさを強く感じる空間となっている。
カラン、とドアに取り付けられた鈴が鳴る。足音の重さで、入ってきた人物を知る。
「おお」静かな感嘆。「思っていたより、更に素敵だ」
「自画自賛ですか?」
含みを持たせて笑い掛けると、「待鳥さんのお陰です」と殊勝な返しが来る。面食らってから、「私はお手伝いをさせて頂いただけですよ」と一歩下がる。
「とんでもない。私の空想に実体を付けることができたのは、貴方の実力あってこそです。また是非、ご一緒に仕事をしたいものです」
「光栄です。お話、お待ちしておりますね」
部長が喜びそうだな、と考えながら、差し出された手を握る。二度、軽く振ってから手を引く。
「……あの?」
強い力で引き止められたことに、眉を寄せて抗議すれば、「ああ、失礼」と悪びれない顔で謝罪を受ける。謝罪。慌てた様子も見せず、すぐさまその言葉が出るということは、先程のことはワザトか。
ゆっくり離れた手を見つめる。
「よろしければ今夜、打ち上げでもしませんか?」
「今夜ですか。それはまた……人が集まらないのでは」
呼ぶ人間を頭の中で整理しながら、さすがに急過ぎる話に、口を尖らせる。
「いえ」薬師さんは、眉を八の字にしている。「待鳥さんと二人で行きたいなぁ、というお誘いです」
はた、と目を見開く。別段それ自体は珍しいことではない。普段の調子で、いいですよ、と答えようとしたが、上手く声が出ない。
そんなに簡単なものではない。心の中の、どこかが告げる。叫ぶ。それに必死に蓋をする。開き掛けた扉は、開けてはいけないもののように思えた。
「せっかくですが、今夜は私も用事がありますので。また機会がありましたら」
体のいい断り文句を口にして、その場を凌ぐ。
「それでは。私、そろそろ行かないと」
わざとらしく時計を確認して、店から出る。待ってください。背後から絡みつく声を、振り切る。
動揺している自分が、ひどく滑稽だ。
薬師さんだって、誘ったことに他意は無いだろうに。過剰に反応して、これではまるで、彼を意識しているみたいだ。
頭を横に振る。
「――危ない!」
へ、と間の抜けた声を上げた時、私の身体は後方へ引っ張り込まれていた。目の前を、結構なスピードが出ている車が通り過ぎる。え、とまた声が漏れる。しばらくしてから、ようやく事態を把握した。
轢かれかけたのだ、私は、今。
背筋がゾッと凍る思いがした。
それから――――――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
私が、その後のことを知ったのは、ちょうど一日経ってからのことだった。
『道中で事故に遭い、死亡』
あまりにも現実味の帯びない言葉の羅列だった。とても信じられなかった。いっそそれらは意味を持たない記号のようにも感じられた。
でも、本当のことだ。
そこに一片の嘘も隠されてはいなかった。
婿入り直前だったこともあり、遺体は、こちらの屋敷に戻ってきた。身体は見ない方が良い、とお医者様は仰った。白い布を被せられた彼の顔は、まるで眠っているようで、けれどそっと触れた感触は、とても生きている人のものではなかった。あまりにも、冷たくて、硬くて。あまりにも、私の知っている手の温かさとは、違い過ぎて。その顔は生前と同じものなのに、まるで別人のようだ。漂う無機質さがそう感じさせるのか。
これはよくできた人形ではないかと、思った。
そうであればよかったのにと、願った。
残酷だ、と心の中で罵った。彼が婿入りして、私を忘れていくことも、何もかも。それなら出逢わなければ良かったのに、と。全て無かったことになれば良いのに、と。
確かに、そんな気持ちもあった。
でもこんな結末を、望んでいたわけじゃない。
残酷だ。酷い。私はそうやって泣きながら、幸せそうに笑う貴方を呪いたかった。その幸せに対して、潰えてしまえ、なんて言葉を掛けたりはしないから。
ただ、想わせて欲しかった。
――生きていて欲しかった。
愛おしい人の頬をそっと撫でながら、私は記憶を縛った。決して忘れぬように。身体に刻み込む。
たとえ、時を超えたとしても。
どれ程辛くとも、忘れることは許さない。
貴方にまだ伝えられていないことがある。怖くて、辛くて、伝えられなかったことがある。それを捨てたくない。消えてしまうのなんて嫌だ。
からんころんと、鈴が鳴る。
――“幸せになって”。
鈴の音に、言葉が重なる。無理よ、と私は返す。貴方のいないところで、幸せになんて、なってあげない。願いなんて、聞いてあげない。
軽やかな音が、太い鎖のように私に絡まっていく。それは、まるでよくできた呪いのようだ。私は一人で、たったの独りきりで、笑った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
目の前に広がった映像に、足の力が抜けた。
今のは、夢? それとも……。
私の肩を持ち支える彼を、見上げる。
その顔に、既視感を覚えた。
「柊、様……?」
呆然と呟けば、彼は目を見開いた。
それからすぐに「少し違うと思う」と否定の言葉を口にする。「それに、様付けなんて、恥ずかしいですよ」戯けながら、私を店へ誘導する。
どちらにせよ少し休んだ方が良い、と。
その見解は正しい。
顔が真っ青だよ、と指摘される。さもありなん。鏡を見なくとも、そうだろう、と頷く。
彼が手を離したら、自力で立っていられず、その場にへたり込んでしまいそうだ。ふらふらの私を、彼は入り口近くに備え付けられたソファに座らせる。頭の先から、足の先に視線を動かした彼は「怪我は無さそうだ」と安堵の表情を見せた。
確かに怪我は無い。どこも痛くない。
顔色が悪いのは、轢かれそうになったショックでもなく、“思い出した”過去の所為だ。
否、あれは自分ではない。“椿”は確かにずっと前に存在したけれど。今の私は、“椿”でない。そう、……そうではないけれど。
“椿”の先に、私がいる。
本来であれば無関係となるはずなのに、歪な鎖を纏った所為で、あたかも繋がっているような錯覚を覚える。その執念たるや。
忘れたかった、その夢を。私は強制的に思い出すことになった。どれだけ必死に忘れようとしても、無理だ。到底、無駄だ。
それほどに、“椿”はこの人を――否、それも違う。この人は“あの人”ではない。つまり――“柊様”を、愛していた。
私は、“私”に呪われている。
全ては、“柊様”にもう一度会う、そのためだけに。
…………では、この人は?
思い出したら教えてあげます、と口にした彼は、“柊様”とは少し違う、と表現した彼は、いったい何を持っているのか。
表情を歪めて彼を窺えば、目が合ったその人は、まるで何事も無かったかのように、にこりと笑った。
「少し落ち着いた?」
「……はい。本当に少しだけ」
未だに戸惑う私の前で、彼は片膝をついた。優しさの灯る眼差し。周りには、まだ作業をしている人が数名。スタッフスペースと業務スペース、それから外を忙しなく動く彼らは、こちらを気にする暇も無さそうだ。
それでも周囲を気にして、声を潜めながら訊ねる。
「貴方は……憶えているんですか?」
唐突な質問に、彼は目を細める。
「ずっと昔の僕らのことなら、知っているよ。意識が混濁して、悩むくらいには」
その表現に、ハッと息を飲む。同じだ。
彼は私から視線を外し、窓の外を見た。赤い椿が咲き誇っている。愛おしそうにそれを見つめる彼は、私よりも余程、過去の自分と親密になっているように思えた。それが、良いことなのか悪いことなのか、私には判断がつけられない。
「貴方には迷惑を掛けました」
薬師さんはおもむろに立ち上がり、私に背を向けた。表情を確認することができないまま、淡々とした声だけが響く。
「“僕”の勝手で、こんなところまで連れ出してしまった」
「それは、」いったいどういう意味ですか。最後まで口にすることを遮るように、彼が振り向いた。
「“柊”は死の直前に、貴方ともう一度話したいと望んだ。貴方はそれに巻き込まれた被害者だ」彼は言い切ってから、違うな、と呟く。この言い方は違う、と。「これだとあまりにも他人事だね。言い直します。貴方をこの“問題”に巻き込んだのは、僕です。申し訳ない」
つむじが見えた。彼が深く頭を下げている。
――やめて。違うの。
「頭を上げてください……っ」
ソファから手を伸ばす。届かない。立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。逡巡の時間は無かった。ずり落ちるように床にへたり込み、そのまま距離を縮めると、ようやく指先が触れた。彼の肩に手を置き、押し上げる。
「私なんです。貴方じゃないんです。私が、私を縛り付けたんです。貴方のことも」
私が。
罪の告白。ハッキリと口にする他無いのに、声は自然と小さくなる。掠れ、消え入りそうなほどに。
きょとりとしていた薬師さんは、しばらく時間を置いてから、私の発言の意味を理解したらしい。
「――なぁんだ」
全身を弛緩させ、屈託無く笑った。
「貴方も同じか」
同じ、という言葉に、顔を上げる。ゆるゆると微笑む彼。
「二人揃って、相手に会いたかっただけだってことか」
そういうことにしておこう、と彼は言った。
会いたくて、会いたくて、仕方がなくて。
互いの想いが強かったから、奇跡が起きただけだということにしておこう。
あの時、伝えられなかったことを、今、伝えられる。その幸運をただ噛み締めればいい。
「僕は」不意に言葉を切る。周囲を見回し、ここはさすがに人目につくな、と苦笑。場所を移しませんか、と提案され、頷く。
案内されたのは、彼の事務所にもなる部屋だった。自分で整理したいから、と必要最低限の手入れ以外をさせていないそこは、まだ半端な状態であったが、家具は一通り揃っている。揃っているとはいっても、テレビと椅子が同じ方向を向いている時点で、推して測れ、の次元だが。
まさかここを今日使うとは思わなかったから、と彼は言い訳している。
椅子と机を動かし、向き合わせる。
座ってみれば、まるで初めて打合せをした時のような感覚に陥る。見知らぬ空間。少し落ち着かない心。
――続きを話そう。
彼はにこりと笑った。
「僕は、貴方に幸せにならないで欲しかった」
酷いことを口にする薬師さんの表情は、甘い。幸せになって、と言ったアレは嘘か。顔を顰める。その言葉が、私をどれだけ縛ったのかも知らないで。
「……私は、貴方に幸せになって欲しかったです。幸せな貴方を心から憎みたかった」
「ひどい」
「お互い様では? 私の幸せを祈ってくれないクセに」
「確かに僕もひどい」
穏やかに会話をできるのは、ある意味、私たちが“柊様”と“椿”ではないお陰かもしれなかった。
「貴方に愛していると言いたかった。貴方と一緒にいたかった。だから――あの事故は決して故意では無かったけれど――死ぬ直前、安堵したのも事実だ」
「ひどい」
一人だけ先に逝って。こちらがどれだけ苦しんで、悲しんだと思っているのか。じとりと睨めば、「確かに僕はひどい」と笑いながら眉尻を下げる。
今思えば、死ぬ以外にも、道はあったはずなのにね。みっともなく生きて、貴方に会いに行けば良かったのにね。
私の目尻に浮かんだ涙を掬いながら、そう言って。
交わしたかった言葉が、今、相手に届いている。
私の心の中で、からんころんと鈴が泣いた。それは果たして、嬉し泣きか。それとも別のものか。
「思い出したのは、もう随分と前のことだ。夢を見た。誰かわからないのに、胸が苦しくて。僕は、その子のことが好きなんだと思った」
誰だか分からない相手に、実在するかも分からない相手に、恋い焦がれた。あまりの馬鹿馬鹿しさに、自暴自棄になったこともあったらしい――自暴自棄って? 訊ねると、誤魔化すように微笑みを向けられたので、それ以上深くは突っ込めなかった――。
とても建設的ではない恋愛に嫌気が差し、意識的に仕事に没頭していた折りに、知人――どうやら私の顧客らしい――から「新しく店を出すつもりなら、いい人がいる」と紹介され、偶然にも私の存在を知った。
自分が捜し求めていたのは、この人だ。そう直感した。
「それで、貴方を指名したんだよ」
「そう、だったんですか」
反応に困って視線を泳がせる。無言の時間が、次は貴方の番だと告げていた。
「……昔から、よく同じ夢を見ていました。同じ夢だと思うのに、起きるとすぐに忘れてしまう夢を、ずっと」ちらりと彼を窺う。「貴方と会ってから、夢の内容がどんどん鮮明になっていきました」
でも――。俯き、唇を噛んだ。心の葛藤を曝け出すことができたのは、先に彼が心中を語ってくれたお陰だろう。
「貴方と“柊様”が重なれば重なる程、私は、私が貴方が気になっているのか、“椿”が“柊様”を愛しているのか、わからなくなりました」
縋るように服を掴む。相手を抱き締める勇気は、まだ持てなかった。きつく服を握り締めた手に、薬師さんは自身のソレを上から包むように添えた。
「言う通り、僕も“彼”の感情に引き摺られているだけなのかもしれない。だけど、貴方と、待鳥さんと会って、それならそれで構わないと思ったよ」
柔らかい眼差しの前にいるのは、私だ。
心が震える。その感情を私に与えるのは、薬師さん以外の誰でもない。
「引き摺られたお陰で、待鳥さんと出逢えた。僕には確信があるんだ。たまたまキッカケが“彼”と“彼女”だっただけで、僕は僕の意思で貴方を好きになる。これからもっと、ずっと。彼らとは関係の無いところで、好きになっていく。そのついでに、彼らの願いを叶えてあげるのも、やぶさかではない」
自分の発言にうんうんと首を振りながら、真面目な顔で語った彼は、そこまで言ったところで、にんまりと意地悪く笑った。
「彼らも僕たちを利用したんだから、このくらい許されたって良いと思いませんか?」
つられて、つい笑ってしまった。口に手を当てて、大笑いしたい衝動を堪える。重く伸し掛かっていた鎖が、薬師さんの手に掛かり、気付けば軽くなっている。なんて不思議な。
「そうですね、少しくらい良いのかも」
便乗してそう言って、服を握り締めることを止めた私は、そっと耳を寄せる。
――私にも、確信があるんです。
これから、貴方のことをもっと好きになる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その日、夢は見なかった。
もう私たちには必要が無いものだから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌週、代休を貰った私は、目一杯おめかしをして、貴方の横に並んだ。
空は快晴。これから歩いていく道を真っ直ぐにお日様が照らしている。
からんころんと、どこかから、楽しげな鈴の音が聞こえてきた気がして、私たちは顔を見合わせ、微笑んだ。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございます!
●あとがき
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