01話 惨劇
極東の国、大和。
天皇の御座す地、千年王都、京都。
その中心にある大和最高級ホテル【万華鏡雅叙苑】は、この夜、皇立高天原学園高等部の卒業記念パーティーのため、一日まるごと貸し切られていた。
皇立高天原学園。
それは、主に華族の子弟が通う学び舎である。
華族は、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵位に分かれる。
さらにその内実は、天皇に仕える公家華族と、武功によって列せられた勲功華族の二系統に大別されていた。
朝廷を支える血統の名家。
黄泉災害から国を護ってきた武門の名家。
その次代を担う若者たちが、今宵この場に集っていた。
ゆえに列席者の顔ぶれも、尋常ではない。
天皇。
征夷大将軍。
元帥。
陰陽頭。
公家華族。
勲功華族。
大和の権力中枢、そのものだった。
当然ながら警備は厳重である。
黄泉比良坂で妖魔と魔物を斬り続けてきた武士たちが、会場の内外を隙なく固めていた。
華やかな灯りの下にあってなお、この国が常に災厄と隣り合わせであることを忘れさせない布陣だった。
――本来なら、何事も起こるはずのない夜だった。
少なくとも、誰もがそう信じていた。
その静謐は、一人の少女によって破られる。
勲功華族・侯爵家、素戔嗚家当主代行。
神代より妖魔を斬ることを宿命づけられた武門の娘。
素戔嗚神奈。
その少女が、突如として暴れ出したのだった。
side:素戔嗚神奈
「口寄せ――からのぉ、人形分身の術」
私は地面に手を置き、深淵で隷属させた魔物を十体喚び出した。
黄泉比良坂の深淵・穢界に出現する魔物、厄災鬼。
もし一体でも街に現れれば、その街は死滅すると言われる凶暴なオーガ種だ。
2メートルを超える黒い巨躯に、口元には大きな牙。
獣の臭いと底知れない殺気が、周囲の空気をじわりと塗り替えていく。
私は呼び出した厄災鬼の肉体を霊力で包み込む。
黒く筋肉質な魔物は、やがて私と瓜二つの姿へと変わった。
人形分身の術。
対象を霊力で包み込み、その外見を自分と同一に見せる術だ。
通常の分身と違い、一撃で霧散することはない。対象の霊力が尽きるか、術者が解除しない限り維持される。
ただし、発揮される力は素材に依存する。
術者より弱ければそのまま弱く、強ければ術者と同等まで制限される。
厄災鬼なら、私の実力の四割ほどは再現できるはずだ。
足りない分は、数で補うしかない。
それにしても――躰の自由が、まったく利かない。
いつからだろう、と考えようとして、すぐに靄がかかる。
記憶の輪郭が滲んでいた。鮮明なはずの場面が、水に溶けた墨みたいに広がって、掴もうとするたび形を失う。
おかしい、と感じる自分がいる。
おかしくない、と囁く自分もいる。
二つの声が脳の奥で静かに押し合っていて、どちらが本当の自分なのか分からない。
本来なら、この場で私は婚約を発表するはずだった。
相手は公家華族であり、天皇の分家にあたる天ノ宮蒼天。
公家華族と勲功華族は、あまり友好的ではない。
だからこれは、両華族の融和を示すための政略結婚だった。
蒼天さまが私をどう思っているかは分からない。
けれど私は、蒼天さまのことが好きだった。
結婚する以上は好きでありたいし、何より風臥兄さんが死んだ時、一緒にいてくれたことが大きい。
――だけど、ホテル【万華鏡雅叙苑】で蒼天さまの姿を遠目に見た瞬間。
心の底から、強い憎悪が噴き上がった。
それは私の感情じゃなかった。
まるで誰かの怒りを、心ごと上書きされたみたいだった。
胸の奥に植え付けられた黒い種が、水を得た草のように膨れ上がっていく。そんな気持ち悪さがあった。
それ以降、指一本すら自分の意思では動かせない。
叫ぼうとしても声が出ない。足を止めようとしても膝が進み続ける。
私という殻の中に、私でない何かが巣食っている。
私に化けた厄災鬼たちは、パーティー会場へ散開し、人々を蹂躙していく。
突然の出来事に、老若男女を問わず悲鳴が上がった。
水晶のシャンデリアが揺れ、テーブルクロスが風圧で舞い、磨き上げられた大理石の床に血が散る。
ただ、この場には私以上の実力を持つ武士たちがいる。
四割程度の私など、数分で斃されるはずだった。
騒ぎを尻目に、私は着物の裏に隠していたナイフを抜き、蒼天さまへ向けて駆け出す。
蒼天さまは一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに手に黒い杖矛を出現させていた。
あれは――神具・天逆矛。
蒼天さまが天逆矛の柄を強く握った、その瞬間だった。
世界が、凪いだ。
音が消えた。
悲鳴も、刃の響きも、衣擦れすら。
周囲の人間が石像みたいに静止している。舞い上がっていた血飛沫が、空中で固まったまま落ちてこない。
私の躰も止まっている――いや、違う。
私の意識だけが、止まった時間の中に取り残されていた。
動けない。
息もできない。
瞬きすら封じられている。
それでも視界だけは奇妙に澄んでいて、蒼天さまが右手をこちらへ向けるのが見えた。
「やめろ!」
声が、時間の檻を破るように響く。
直後、世界が動き出した。
同時に、私の身体に数多の刃が突き刺さる。
喚び出した厄災鬼はすべて斃され、武士たちが私を背後から刺したのだ。
天逆矛によって私の時間が止められていた間に、すべての決着はついていた。
ああ……これは致命傷だな。
膝が折れ、咳き込む。
血が地面に落ちる。
紅が大理石に広がっていくのを、妙に冷静な頭で見つめていた。
その瞬間、会場の照明が激しく点滅を始めた。
一部の実力者たちは、私から突如として距離を取り始める。
心臓の鼓動が、早くなっていく感覚があった。
禁術:終極・万象滅却。
初代・素戔嗚が編み出した、最悪の禁術。
万象を尽く終わらせ、滅却する。
殲滅力だけなら、私が知る術の中でも最高峰だ。
どうやら致命傷を負った時点で発動するよう、仕組まれていたらしい。
……そしてそれを、今この瞬間、思い出した。
記憶の扉が、わずかに開く感覚がある。
黄泉比良坂の深淵・穢界で、私は誰かを助けるために潜って――そこで、何かをされた。
思い出せそうで、思い出せない。
ただ、私の中にいる「私」が塗り潰されていったことだけは分かる。
素戔嗚家の禁術を心臓に刻まれたのも、蒼天さまへの憎悪を植え付けられたのも、すべてはあの昏い場所で起きたことだ。
なぜ今まで忘れていたのか。
忘れさせられていたのか。
答えは出ない。考えている時間もない。
「もう、やめてください! こんなことをしても無意味です!」
気づけば蒼天さまの隣に、一人の少女が立っていた。
月光輝夜。
――あれ。
月光輝夜って、誰だっけ。
名前だけが浮かぶ。
なのに、顔に結びつく感情も記憶もない。
人物そのものが、そこだけ綺麗に切り取られたみたいに空白だった。
……おかしい。
だけど、考えている時間はない。
このまま【終極・万象滅却】が発動すれば、素戔嗚家は没落を免れない。
別に、私が汚名を被るだけならいい。
でも、源嵐父さまや風臥兄さんが護ってきた家を潰すわけにはいかなかった。
――私にできることは、一つだけ。
風臥兄さんの言葉を思い出す。
『神奈。俺たち素戔嗚家の者の左目には、天照家によって【火之迦具土】が仕込まれている。遺体を悪用されないための処置だ。死ぬときは左目に霊力を込め、自らを燃やせ。……父上もそうした。忘れるな』
あの日、兄さんは笑っていなかった。
いつも飄々としている兄さんが、珍しく真剣な目で私を見てそう言った。
だから私は忘れなかった。
どれだけ記憶を塗り替えられても、その言葉だけは消えずに残っていた。
天逆矛の影響か、わずかにだけ身体の自由が戻っている。
指先が、ほんの少しだけ動く。
――これでいい。
左目に霊力を込め、術式・火之迦具土を発動させた。
左目が灼けるように熱を帯びる。
次の瞬間、全身が炎に包まれた。
発動の要であった心臓も焼き消え、術者が消滅したことで、【終極・万象滅却】は霧散していくだろう。
熱い、とは思わなかった。
ただ、静かだと思った。
ずっと誰かの意思に操られていた躰が、ようやく自分のものに戻った気がした。
燃えていく感覚の中に、奇妙な解放感があった。
最後に見えたのは――月光輝夜の、静かに成就を噛みしめるような微笑みだった。
やはり私は、彼女について何かを忘れている。
あの微笑みは、何かが成就した時の顔だ。私はそれを、どこかで知っている。
でも思考を巡らせる暇もなく、すべての感覚が焼かれ、消えていく。
そして私は、意識を失った。
次に目を覚ましたのは、地獄の一歩手前――賽の河原だった。
読んでいただきありがとうございました。
少しでも「いいな」と思ったら、ブックマーク・評価・感想をいただけると嬉しいです。




