第4話:反撃の焦土
第4話:反撃の焦土(決定稿)
1. 社会的な死
二〇〇五年、九月中旬。
新宿二丁目のバーを焼き尽くした炎は、翌朝には「風俗店同士の抗争」という無難な見出しで社会面に追いやられた。警察広報が周到に回したシナリオ通り、世間は事件を消費し、忘却の淵へと押し流していく。
しかし、太田一成という男の人生において、それは決定的な「断絶」を意味していた。
「――都内連続殺人事件の重要参考人として、元警視庁巡査部長、太田一成(42)を全国に公開手配しました」
新宿の場末にある、一泊二千円の安宿。換気扇の回らない黴臭い部屋で、太田はブラウン管テレビを凝視していた。画面に映るのは、かつての凛々しい刑事の顔ではない。数年前、風俗経営者として事務的に撮影された、どこか薄汚れた中年男のマグショットだ。
佐伯にハメられたのだ。爆発現場には、太田の指紋が付着した遺留品が撒かれていた。警察は「闇に落ちた元刑事が、支配下の女性を次々と惨殺している」という、大衆が好む最悪のストーリーを完成させていた。
「……上等だよ」
太田は洗面台の鏡を見つめた。手には盗んできたバリカンがある。
ジョリ、ジョリと乾いた音が響く。刑事であった過去の断片を、経営者であった偽りの安寧を、すべて剃り落としていく。
数分後、鏡の中にいたのは、社会から脱落した、ただの復讐鬼の目をした男だった。
「佐伯。お前がその薄汚れた看板を背負って戦うなら、俺は泥の中で戦ってやる」
懐には、あの「死の予約リスト」が記録されたSDカードが重く沈んでいた。
2. 交戦規定の破棄
太田が社会的な死と格闘している頃、田辺はすでに別の「戦場」にいた。
彼にとって、法律や倫理は戦地における「交戦規定」に過ぎない。そして今の彼にとって、その規定はすでに破棄されていた。
夜の港区。高級タワーマンションの地下駐車場。
佐伯の「客」の一人であり、リストの女たちを「清掃」前の玩具として消費していたIT企業社長・藤崎が、フェラーリのキーを回そうとした瞬間だった。
「……誰だ?」
振り返るより早く、田辺のナイフが空を裂いた。
「ぎあああああああっ!」
両足のアキレス腱を正確に断ち切られ、藤崎がのたうち回る。
「静かにしろ。騒げば次は舌を断つ」
田辺の声は、真冬の湖底のように冷たかった。彼は藤崎の髪を掴み、車の陰へと引きずり込んだ。
「助けてくれ、金ならいくらでも……!」
「お前たちが石灰で埋めてきた女たちの悲鳴に比べれば、その程度は無音に等しい」
田辺は藤崎の指を一本、逆方向に折り曲げた。乾いた音が響く。
「佐伯はどこにいる。奴が『仕事』を命じ、お前たちが獲物を集める場所はどこだ」
藤崎は泡を吹きながら吐き出した。
「白金だ……白金の洋館……佐伯はそこを『アトリエ』と呼んでいる。頼む、助けてくれ!」
「助ける?」
田辺は無感情に藤崎を見つめた。
「お前はもう、俺の目には人間には見えない。ただの、処理すべき『ゴミ』だ」
暗闇に肉を叩く音が数回響き、その後、地下駐車場には静寂だけが戻った。
3. 白い粉の正体
九月、深夜。
太田は環七沿いのコインランドリーにいた。乾燥機の単調な音の中、盗品と思われる古いノートパソコンを公衆無線LANに繋ぎ、SDカードを解析し続けていた。
二十人のリスト。その経歴を警察のデータベースから盗んだパスワードで照合していく。
「……共通点がある」
太田の手が止まった。女性たちは皆、数年前、警察庁の天下り先が運営する「医療系ボランティア」の検診を受けていた。さらに、現場で見つかった遺体の検案メモには共通の記述があった。
『腹部および胸部に不自然な開創痕あり。内容物の確認不能』
「……臓器か」
暴力的な寒気が太田を襲った。石灰。あの白い粉は、腐敗を防ぐためでも、嫌がらせでもなかった。
それは、生きたまま組織的に行われた「臓器摘出」の跡を焼き、身元確認に必要なDNAや血液型、そして「中身の欠落」を隠蔽するための化学的な処置だったのだ。
佐伯が隠蔽していたのは、個人の犯罪ではない。警察上層部や政界が結託した、国家規模の「臓器売買ルート」。その苗床として廃棄されたのが、身寄りのない少女たちだった。
二〇〇五年、情報の拡散力はまだ脆い。公式報道を通さなければ、ネット上の妄言として処理され、太田は射殺されるのが関の山だ。
太田は一か八かの賭けに出た。かつて逮捕した男であり、今は三流ゴシップ紙の記者に身を落としている真壁に連絡を取った。
「……特ダネがある。一時間後に指定するサーバーを確認しろ。そこに、地獄の入り口の鍵を置いておく」
4. アトリエの崩壊
港区、白金。
かつては華族の邸宅だったというその洋館は、今や「臓器摘出」と「死体処理」が行われる不潔なアトリエと化していた。
そこへ、闇を切り裂く轟音が響いた。十トンの大型トラックがアクセル全開で正門を突き破ったのだ。警備の覆面パトカーから警官たちが飛び出すが、運転席は無人。ただの質量兵器だ。
警官たちが正面に気を取られている隙に、裏手から二人の男が侵入した。
廊下の角で、二人は鉢合わせた。互いに銃口を突き出すが、瞬時に武器を下ろす。
太田と、田辺だ。
「太田さん、その頭。刑事というより脱走兵だな」
剃髪した太田を見て、田辺が微かに口角を上げた。
「お前こそ相変わらず派手だ。……佐伯は中にいるのか」
「ああ。二階だ。リストの元締め、大河内参事官も来ている」
二人は背中合わせになり、洋館の奥へと踏み込んだ。廊下の壁には、石灰で固められた被害者たちの靴がトロフィーのように飾られている。
「太田さん、ここからは俺の流儀でやる。証拠なんていらない。あいつらを殺して更地にする」
「いや、田辺。死なせるだけじゃ足りない」
太田の声は、かつてのどの取調室よりも冷酷だった。
「あいつらが守ってきた『秩序』が、最も下劣な形で崩壊する音を聞かせてやる」
太田は携帯電話の送信ボタンを押し込んだ。真壁を通じ、臓器売買の裏帳簿、そして佐伯たちの位置情報が、国内外のメディアと「2ちゃんねる」の主要スレッドに一斉にアップロードされる仕掛けを起動したのだ。
洋館の二階、重厚な扉の向こうから佐伯の高笑いが聞こえる。
「太田! 田辺! 掃除屋のご到着か! お前たちの分の『石灰』も用意してある! 来い、地獄の終幕だ!」
ドォン、と一発の銃声が白金の夜を切り裂いた。
それは救済の合図ではない。鮮血と舞い上がる白い粉塵とともに始まる、凄惨な復讐劇の号砲だった。




