第3話:汚れた白の連鎖
第3話:汚れた白の連鎖
二〇〇五年、九月。
暦の上では秋が始まっているはずだが、東京のアスファルトは依然として白く焼け、湿り気を帯びた排気ガスが低く街を覆っていた。
都内の雑居ビル街では、蝉の死骸が熱風に煽られて転がっている。季節が死を孕んだまま、一歩も前へ進めずにいた。
テレビのニュース番組は、連日のように「都内近郊で相次ぐ若年女性の失踪事件」を特集していた。ワイドショーの司会者は眉を潜め、「治安の悪化」を嘆き、防犯カメラの設置拡大を説く。しかし、公共の電波を介して流れる情報のどれ一つとして、事件の本質を射抜いてはいなかった。
失踪した女性たちは、すべて夜の街の住人だった。身寄りがなく、住民票すら不安定な彼女たちの消滅は、当初「借金による夜逃げ」や「無断欠勤」として処理されていた。それが組織的な連鎖であることを知っているのは、東京広しといえど、ほんの数人に過ぎなかった。
その数少ない内の一人、太田一成は、六本木の事務所でスポーツ新聞を握りつぶしていた。
「……六人目だ。昨日、練馬の廃車置き場で見つかった遺体。死因は窒息だが、現場には形跡がなかった。……綺麗に掃除されすぎていたんだ」
太田のデスクの上には、あの湾岸倉庫で命と引き換えに手に入れたSDカードが置かれている。液晶画面に映し出される二十枚の画像。それは、佐伯という男が太田の首に巻きつけた、鋼鉄の首輪だった。
佐伯は嘘をついていなかった。あの日以来、三日に一人のペースで、リストに載っている女性たちが「ゴミ」として処理され、どこかの影で白い石灰に呑み込まれていた。
「太田さん。あんた、いつまでその『連載予約票』を眺めてるつもりだ」
部屋の隅、影の中から投げかけられた声は、剃刀のように鋭く、冷たかった。
ソファで装備の点検をしていた田辺だ。彼は以前のように、太田に問いかけることはなかった。ただ、事実を突きつける。あの日、湾岸倉庫で少女を見捨てた太田に対し、田辺の心には厚く、修復不能な氷の壁が築かれていた。
「……佐伯を追っているんだ、田辺。あいつはただの実行犯に過ぎない。その背後で、この殺人を『発注』している客の正体を掴まない限り、今ここで一人二人を救ったところで、焼け石に水なんだ」
太田の言葉は、静まり返った室内で虚しく響いた。それは田辺に向けた言葉というより、自分自身の良心を麻痺させるための「言い訳」だった。
「意味がない? あの倉庫で、あんたの目の前で死んでいったあの子に、同じことが言えるのか」
田辺がゆっくりと立ち上がり、太田のデスクに歩み寄った。迷彩柄のミリタリーシャツから覗く腕の筋肉は、怒りで硬く強張っている。
「あんたは、刑事に戻りたかっただけだ。組織を潰し、英雄として返り咲くという『大義名分』を盾にして、目の前の、まだ生きていたはずの命をチップにした。……俺たち自衛官は、守るべきもののために引き金を引く訓練を受ける。だが、あんたがやったのは、自分のプライドのために他人の喉を掻き切ったのと同じだ。……あんたの手は、もう石灰じゃ落ちないほど汚れてる」
「黙れ、田辺!」
太田は叫び、デスクを叩いた。ペン立てが倒れ、沈黙を破る音が響く。
「俺だって、後悔してないわけじゃない! 夜も眠れず、あの少女の顔が石灰で消えていく瞬間を何度も思い出す! だがな、あそこで俺が動いていれば、俺もお前も、あの現場ごと消されていたんだ。ミカの無念も、あの少女の死も、すべて『警察官への暴行事件』として処理されて闇に葬られていた。……巨悪を倒すには、泥を啜らなきゃならない時があるんだよ!」
「……そうかよ。あんたは、これからもその泥を啜り続けて、死体の山を築けばいい」
田辺はそれ以上、議論を交わす気すらないようだった。彼は無造作にミリタリーバッグを肩にかけると、一度も振り返ることなくドアへと向かった。
「俺は俺のやり方で、この『掃除』を終わらせる。あんたの言う『大義』には、もう付き合いきれない。……あんたは一人で、そのSDカードと心中しな」
ドアが閉まる音が、太田の胸の奥で重く残響した。
かつての相棒を失い、太田は本当の意味で、この「白い地獄」の中に独り取り残された。
その頃、矢崎は本当の狂気の淵に立たされていた。
台東区の古びたアパート。換気扇から漏れる強力な薬剤の匂いと、廊下まで漂う「消石灰」の粉塵。近隣住民は不気味がり、誰も彼のドアを叩こうとはしなかった。
「もう……もう無理だ! 佐伯さん、これ以上は……手が震えて、掃除ができないんだ!」
杉並区の山林にある、打ち捨てられた廃屋。その土間に、矢崎は膝をついて泣き叫んでいた。目の前には、七人目の犠牲者となるはずの、猿ぐつわを嵌められた若い女性が転がっている。彼女の瞳には、かつてのミカと同じ絶望が宿っていた。
佐伯は、汚れ一つない一課のスーツ姿で、冷めた目で矢崎を見下ろしていた。
「矢崎。お前は清掃人だろう? ゴミが溜まれば、所定の場所に捨て、痕跡を消す。それだけの、あまりにも単純な作業だ。お前は自分の仕事を、そんなに高尚なものだと思っていたのか?」
佐伯はゆっくりと、矢崎の目の前にしゃがみ込んだ。その手には、警察支給のニューナンブではなく、どこからか調達されたであろう、無銘の自動拳銃が握られていた。銃身には不格好な消音器が装着されている。
「それとも……お前自身が、ゴミとして処理される側に回りたいか? 石灰は、生きている人間に振りかけても、十分にその機能を果たすぞ。……ミカという女を処理した時、お前は何を感じた? 何も感じなかったはずだ。それはただの『作業』だったからだ」
銃口が、矢崎の震える眉間に押し付けられる。
「は、はい……やります。やりますから……」
矢崎は過呼吸になりながら、傍らに置かれた石灰の袋を掴んだ。中身を掬い出すスコップが、金属音を立てて震えている。
「いい子だ。……次だ。次は新宿の、この店だ。……太田という男の『古い記憶』を少し刺激してやる必要がある」
佐伯が放ったメモには、新宿二丁目の奥まった場所にある、一軒の会員制バーの名前が記されていた。そこは、太田が刑事時代、ミカと共に通い、ミカの唯一の親友である「カナ」が働いている場所だった。
田辺が去り、孤立無援となった太田は、かつての刑事時代のコネを死に物狂いで手繰り寄せていた。
警察を追われたとはいえ、金で動く元部下や、太田に恩義を感じている情報屋はまだ数人残っている。
「佐伯の行き先? ああ、一課の連中も不思議がってますよ。毎日定時に上がって、どこかへ消える。……あいつ、最近は白金の『迎賓館』に出入りしてるって噂です」
情報屋からもたらされたその名前は、太田に震えをもたらした。
『迎賓館』。それは政治家、官僚、そして警察庁上層部の一部だけが会員であることを許される、文字通りの治外法権の空間だ。
太田は確信した。佐伯はただの狂った殺人鬼ではない。彼は、あの館に集う特権階級たちが犯した「不祥事」や「スキャンダル」を物理的に消し去る、組織専属の掃除屋なのだ。
二十人のリスト。それは、あのアトリエのような迎賓館の秘密を見てしまった者、あるいは「客」の気まぐれな暴力の犠牲となった者たちの目録だった。
「……次はカナだ」
太田は、SDカードの七枚目の画像を凝視した。ミカの親友。ミカが死ぬ直前、何かを相談しようとしていたはずの女。
太田は、二〇〇五年式のセダンのアクセルを、床が抜けるほど踏み込んだ。九月の熱帯夜、新宿のネオンが視界の中で不気味に流れていく。
「今度こそ……今度こそ、間に合わせる」
新宿二丁目の裏路地。カナが働いているはずのバー『ブラン』の前に着いた時、太田は異変を察知した。
入口のドアが半開きになり、中から強烈なガソリンの匂いと、鼻をつく薬剤の匂いが混ざり合って漂い出していた。
「カナ!」
太田は銃を抜き、店内に飛び込んだ。
店内は無惨に荒らされていた。割れた酒瓶、倒された椅子。そして、カウンターの奥にある真っ白な壁には、乾きかけた「消石灰」の液で、巨大な文字が殴り書きされていた。
『二十まで、あと十三』
それは佐伯からの、あからさまな嘲笑だった。
「……クソっ!」
太田が奥の控室へ踏み込もうとした瞬間、背後から殺気を感じた。
訓練された、音のない足音。
太田は反射的に身をかわし、床を転がって銃口を向けた。
「……動くな」
そこに立っていたのは、黒のタクティカルウェアに身を包み、夜の闇に同化した男だった。
田辺だ。
彼の顔には、もはや太田への友情も同情もなかった。そこにあるのは、標的を仕留めるためだけに研ぎ澄まされた、兵士の冷徹さだけだ。
「……田辺か。お前、なぜここに」
「言ったはずだ。俺は俺のやり方で、この掃除を終わらせる。……邪魔をするな、太田」
田辺の手には、軍用のワイヤーナイフが握られていた。彼の視線は、店の裏口へと続いている。その先には、怯えたように震えながら、カナの遺体(あるいは意識を失った体)を引きずって逃げようとする、矢崎の背中が見えた。
「待て、田辺! 矢崎を殺せば、佐伯に辿り着けなくなる! あいつを吐かせれば、迎賓館の秘密を……!」
「辿り着く必要などない。この男が手を貸さなければ、殺人のスピードは落ちる。一人ずつ、元凶から末端まで確実に潰していく。……それが俺の戦場だ。あんたの言う『真実』なんてものは、死体の前では何の意味も持たない」
太田と田辺。
かつての相棒が、鏡合わせのような憎悪を抱いて、暗い店内で銃とナイフを向け合う。
一人は死者のために「真実」を求め、一人の死者のために「断罪」を求める。
同じ悲劇を共有しながらも、その魂は、もはや交わることのない平行線を辿っていた。
その時、店内に充満していたガソリンの匂いが、一層強くなった。
どこかで、タイマーが作動するような乾いた音が響く。
「……!? 逃げろ!」
太田が叫ぶと同時に、店の奥で火の手が上がった。
次の瞬間、窓ガラスが吹き飛ぶほどの爆発が起こり、店全体が激しい炎に包まれた。
佐伯は最初から、太田と田辺がここへ集まることを予測していたのだ。証拠隠滅のための「焼却」。それはターゲットだけでなく、執拗に追ってくる二人をも、この白い灰の中に埋め尽くすための罠だった。
「ゲホッ……カナ!」
煙の中で、太田は矢崎がカナを担いで炎の向こう側へと消えていくのを見た。追おうとしたが、崩落した天井の梁が太田の行く手を阻む。
炎の照り返しの中で、太田は窓の外を見た。
路地にはパトカーの赤色灯が近づき、サイレンが夜を切り裂いている。
そして、そのパトカーの助手席で、窓を少しだけ開け、涼しげな顔で炎上する店を眺める佐伯の横顔があった。
佐伯は太田の視線に気づくと、薄く、憐れむような笑みを浮かべ、指を二本立てて見せた。
……二十人のうち、二人目。お前が見捨てた命だ。
そう言っているように見えた。
二〇〇五年、夏。
犠牲者はついに二桁に届こうとし、東京の空は、石灰と煙に汚れた「偽りの白」に染まっていった。
太田は炎に巻かれながら、ポケットの中のSDカードを、指が砕けんばかりに握りしめた。
それはもはや、希望を繋ぐ証などではない。
彼を永遠に地獄の業火の中に繋ぎ止める、重く、逃れられない呪いのくびきとなっていた。




