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スローター・クリーナー  作者: 水前寺鯉太郎


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第2話:天秤の上の命

第2話:天秤の上の命(改訂版)

1. 空白の熱帯夜

二〇〇五年、八月十四日。

東京は、お盆という名の奇妙な空白期間に沈んでいた。都心から吐き出された人々が故郷へと去り、熱気にうなされるアスファルトだけが残された深夜。大井埠頭周辺の広大な埋立地は、昼間の喧騒が嘘のように、死に絶えた惑星のごとき静寂に包まれていた。

太田が運転する黒のセダンは、スモールランプの微かな光だけを頼りに、街灯の途切れた影を縫うように進んでいた。視線の先には、標的である矢崎のボロい軽ワゴン車がある。

「……矢崎の野郎、完全にパニックですよ」

助手席の田辺が、暗視スコープを覗きながら低く呟いた。

「さっきから同じブロックを二周している。背後に俺たちがいるのか、あるいは『飼い主』に始末されるのか。その恐怖で脳が沸騰してるんでしょう」

「それでいい」

太田の声は、鉛のように重く、そして乾いていた。ハンドルの革を握りしめる指は、血の気が引いて白く変色している。

「追い詰められたネズミは、一番安全だと思い込んでいる穴に逃げ込む。そこを叩く。……それだけだ」

矢崎のワゴン車が、入り組んだ倉庫街の最奥、ひと際巨大なレンガ造りの建物の前で急停車した。かつて政府の食糧備蓄庫として使われていたという、戦後の遺物。登記上は十年前の区画整理で解体されたことになっている、地図からも行政の目からも消し去られた「空白の場所」だ。

太田と田辺は車を捨て、影に溶け込むように接近した。錆びついた重い鉄扉が、呻きのような音を立てて数センチだけ開く。矢崎が吸い込まれるように消えていくその隙間に、太田のブーツが、そして田辺の影が、音もなく割り込んだ。

2. 灰白の聖域

倉庫の内部は、外の酷暑が嘘のように冷え冷えとしていた。

だが、それは分厚いレンガ壁が閉じ込めた半世紀分のカビの匂いと、そして――今や太田にとって呪いの印となった「石灰」の微細な粉塵が混じり合う、死の冷たさだった。

天井の高い広大な空間。その中央に、無機質な工事用のハロゲンライトが一つだけ設置されていた。強烈な白い光が暗闇を暴力的に切り裂き、その光の輪の中に、一人の男が背を向けて立っていた。

「……遅かったな、矢崎。掃除の道具は揃っているか?」

その声が響いた瞬間、太田の背筋を氷の刃が撫でた。

聞き間違えるはずがない。かつて、新宿署の取調室で刑事の倫理を語り合った男。三年前、太田が濡れ衣を着せられ退職願を差し出した際、一切の感情を排して「お疲れさん」とだけ言い放った男。

警視庁捜査一課、警部補・佐伯。

「佐伯……貴様、やはりお前だったのか」

太田が闇の中から、光の縁へと足を踏み出した。

佐伯は驚く素振りすら見せなかった。ゆっくりと振り返るその顔には、完璧に計算された冷徹な笑みが張り付いている。

「太田か。……懐かしいな。だが、ここは辞めた人間が首を突っ込む場所じゃない。選ばれた人間だけが立ち入る『大人の清掃現場』だ」

「清掃現場だと?」

太田が腰の拳銃に手をかけようとした瞬間、田辺が短く制止した。

「太田さん、奥を見てください……!」

ライトの届かない闇の境界線。そこに、もう一つの影があった。

古いパイプ椅子に縛り付けられた、まだ十代半ばにしか見えない少女だ。彼女の体は、ミカと同じように消石灰の白い粉で無惨に汚されていた。

「う、あ……あぁ……」

少女の喉からは意味をなさない呻きが漏れている。だが、その口にはすでに、大量の石灰が無理やり詰め込まれ始めていた。

「彼女は、ある『上流階級の遊び』の生き残りだ」

佐伯は事務報告でもするかのように淡々と言った。

「生かしておけば、この国の屋台骨を支える偉いさんたちが眠れなくなる。太田、お前も元警察官ならわかるだろう? 全体の秩序を守るためには、時として、こういう『小さな犠牲』が必要なんだ。それが組織という生き物の自浄作用だ」

「ふざけるな! これが、お前たちの正義か!」

太田の怒号が、高い天井に反響して幾重にも重なる。

佐伯は薄笑いを浮かべたまま、懐から一枚の小さなプラスチック片を取り出した。二〇〇五年、まだ希少だった大容量のSDカードだ。

「太田。このカードには、お前を嵌め、ミカを死に追いやった組織の首謀者たちのリストと証拠が入っている。これがあれば、お前は英雄として返り咲ける。組織を浄化する唯一の武器だ」

佐伯は、そのカードを少女とは反対側の床に無造作に置いた。

「だが条件がある。矢崎が仕事を終えるまで、そこで大人しく見ていろ。少女が死に、石灰で塗りつぶされるまで、たった十分だ。その忍耐の報酬として、このカードをやる」

3. 沈黙の等価交換

太田の視界が、ぐにゃりと歪んだ。

世界が二つの皿に分かれた天秤のように見えた。

左側には、今まさに白濁した闇に呑まれようとしている、見知らぬ少女の命。

右側には、ミカの無念を晴らし、自分からすべてを奪った巨大な怪物――警察の喉元を切り裂くための、究極の刃。

「太田さん……!」

田辺がナイフを抜き、少女の方へ身を乗り出す。だが、佐伯の背後から現れた二人の実行部隊が、サイレンサー付きの拳銃を少女の額に突きつけた。

「動くな。お前が動けば、その瞬間に少女を撃ち抜く。掃除の手間が増えるだけだ」

太田は、一歩も動くことができなかった。

今、少女を救おうと動けば、佐伯たちは逃げ、SDカードは破壊される。ミカの死は永遠に葬られ、組織の腐敗は続き、明日も同じような犠牲者が出続ける。

だが、今ここで少女を見捨てれば――自分は「刑事」という誇りを取り戻せる。

『大事なこと、話したいの』

脳裏に、石灰で真っ白になったミカの顔が浮かぶ。彼女は助けを求めていたのか。それとも、復讐を誓わせていたのか。

「……あと八分だ、太田。早いものだな」

佐伯は優雅に煙草をくゆらせた。「正義とは、常に『選択』の別名だ。刑事に戻るか、ただのチンピラとして死ぬか。さあ、選べ」

太田の耳に、少女が石灰を飲まされ、肺を焼かれる鋭い音が聞こえた気がした。矢崎はガタガタと震えながら、シャベルで石灰を掬っている。

「……太田さん! まさか!」

田辺の叫びを、太田は意識の外へ追いやった。

太田は……ゆっくりと、そして絶望的なまでに静かに、目を閉じた。

「……矢崎。仕事を、続けろ」

その瞬間、世界から音が消えた。

矢崎の手から、真っ白な粉が滝のように少女の頭上から降り注いだ。

真夏の、呪われた雪。

少女の視界を、鼻を、喉を、すべてを「清潔な白」が埋め尽くしていく。彼女の指先が、最期の救いを求めて虚空を掻き、激しい痙攣の果てに――物理的な死よりも恐ろしい「静寂」へと変わった。

佐伯は、深い満足感とともに頷いた。

「賢い選択だ、太田一成警部補。お前は今日、本物の『掃除屋』になった」

佐伯はカードを太田の足元へと蹴り飛ばし、闇の奥へと消えていった。

4. 連鎖する地獄

太田は粉塵の中に膝をついた。自分の手を見ると、少女の命を奪う手助けをした証、真っ白な石灰が指紋の隙間まで入り込んでいた。

彼は震える手でカードを拾い上げた。

これはミカの命だ。あの少女の命だ。これを手にするために、自分は人間を辞めたのだ。

車内に戻った太田は、ノートパソコンにカードを差し込んだ。

だが、そこに並んでいたのは、組織の裏帳簿ではなかった。

あったのは、二十枚の画像ファイルだった。

一枚目。生前の、幸せそうに笑うミカの写真。

二枚目。先ほど倉庫で死んだ少女の、制服姿の笑顔。

そして、三枚目から二十枚目。そこには、これから「処理」されるであろう、異なる場所で働く風俗嬢たちの隠し撮り写真が並んでいた。

リストの最下部には、冷徹な文字が刻まれている。

『No.1 ミカ:完了』

『No.2(先ほどの少女):完了』

……

『No.20 ターゲット・リスト:予約受付中』

「……あ」

太田の口から、声にならない音が漏れた。

佐伯は、太田を試しただけではなかった。あの日、太田に「命を見捨てる」という選択をさせた瞬間、太田はこの連続殺人の「目撃者」から「積極的加担者」へと堕とされたのだ。

このリストを公表すれば、太田自身も「あの日、沈黙した殺人犯」として破滅する。佐伯は太田に「弱み」を握らせたのではなく、逆らえない「運命」を握らせたのだ。

これから起こる十八件の殺人を、太田は止めることができない。止めようとすれば、自らの罪が自分を絞め殺すことになる。

「あいつは、最初から……」

太田の視界が、真っ赤に染まった。

手にしたSDカードは、救済の鍵などではなかった。それは、これから二十人が一人ずつ、白い石灰の中で息絶えていくのを、特等席で見届けろという、地獄からの招待状だった。

大井埠頭の倉庫からは、さらなる「石灰」の追加注文が出された。

一人、また一人。

二〇〇五年の夏は、まだ始まったばかりだった。

「二十人連続殺人事件」。戦後犯罪史に刻まれる惨劇は、一人の元刑事が抱いた「汚れた正義」によって、その幕を上げたのである。

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