第1話:濁った夏の残滓
第1話:濁った夏の残滓
2005年、8月。東京の空は、湿り気を帯びた排気ガスで白く濁っていた。
六本木の裏通り、雑居ビルの3階にある無店舗型風俗店『カトレア』。冷房の効きが悪い事務室で、太田は煙草の煙を吐き出した。
机の上には、折り畳み式の携帯電話「P901i」が置かれている。液晶画面には、一通の未読メール。送信者は「ミカ」。
『今日、最後のお客さん終わったら、話したいことがあるの。大事なこと』
それが3日前のことだ。それ以来、彼女の足取りは途絶えた。
「……太田さん、またそれ見てるんですか」
ソファでサバイバルナイフを研いでいた男、田辺が顔を上げた。元自衛官。レンジャー部隊出身の彼は、太田が刑事を辞めてこの「商売」を始めた時、どこからか嗅ぎつけて転がり込んできた。
「ミカは、ただのバックレじゃない。あいつは律儀だ。客の金を抜くような真似もしねえし、連絡なしに穴を開けるようなタマじゃない」
太田がそう言い切った瞬間、机の上の携帯が震えた。着信ではない。メールの受信音だ。
『ミカを見つけた。例の場所だ。早く来い。』
送り主は、太田が警察時代に飼っていた情報屋だった。
場所は、大田区の京浜島。
深夜の埋立地は、潮風と錆びた鉄の匂いが混ざり合い、死の気配を色濃く漂わせていた。
指定されたコンテナの影に車を止めると、そこにはブルーシートに包まれた「何か」が転がっていた。
太田は震える手でシートを捲った。
「……っ!」
隣で田辺が短く息を呑む。
そこに横たわっていたのは、ミカだった。しかし、それはかつての彼女とは似ても似つかない姿だった。
肌は異様に白く、粉を吹いたようになっている。まるで大理石の彫像だ。
「……石灰か」
田辺が指先で遺体に触れようとした。太田はその手を叩き落とす。
「触るな。鑑識が……」
言いかけて、太田は自嘲気味に笑った。自分はもう刑事ではない。そして、この遺体がここにあるということは、警察に届けられない理由があるということだ。
ミカの目鼻立ちは整っていたが、その口内には大量の「消石灰」が詰め込まれていた。
「腐敗を遅らせるためか、それとも臭いを消すためか……。どちらにせよ、プロの仕事ですよ。これは」
田辺の声は、どこか観察者のように冷徹だった。
太田はミカの白い顔を見つめた。彼女が最後に送ってきた「大事なこと」とは何だったのか。それを聞く術は、もう永遠に失われた。
「田辺。掃除屋を探せ。この界隈で、遺体の処理に石灰を使う奴だ」
「心当たりはあります。矢崎って男だ。最近、出入り業者の間で噂になってる。どんな汚れ仕事も『白く塗りつぶす』ってね」
翌晩。太田と田辺は、矢崎という男を「確保」するために動いた。
矢崎は、台東区の古びたアパートに住んでいた。表向きはハウスクリーニング業。だがその実態は、事件現場の証拠隠滅を請け負う「裏の清掃人」だ。
「おい、矢崎。エアコンの掃除を頼みたいんだが」
ドアを叩く太田の声に、内側から不審げな声が返る。
「……夜分にすみませんね。うちは予約制で……」
ドアが数センチ開いた瞬間、田辺がその隙間に軍用ブーツを叩き込んだ。
「ぐわっ!」
悲鳴を上げる間もなく、田辺が室内に躍り込む。流れるような動作で矢崎の腕を取り、床に組み伏せた。
「静かにしろ。騒げば、お前の喉にこの洗剤を流し込むぞ」
田辺が突きつけたのは、矢崎の棚にあった強力な塩素系漂白剤だった。
太田はゆっくりと室内を見渡した。
六畳一間の部屋は、驚くほど整頓されていた。壁際には、プロ仕様の洗浄機や薬品が整然と並んでいる。そして、部屋の隅には……。
二十キロ入りの消石灰の袋が、山積みになっていた。
「これだ。これでお前は、ミカを『掃除』したんだな」
太田は矢崎の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
矢崎はガタガタと震えながらも、薄笑いを浮かべた。
「……旦那、勘違いしちゃ困るな。俺はただの掃除屋だ。ゴミがそこにあるから片付けただけだ。殺したのは俺じゃない」
田辺が矢崎のポケットから携帯電話を抜き取った。
「太田さん、これを見てください」
発信履歴の最新。そこには、名前のない番号が並んでいた。
太田はその番号に見覚えがあった。自分の脳内に刻まれた、かつての同僚たちの連絡先。
「……嘘だろ」
それは、警視庁捜査一課の、ある男の直通番号だった。
「お前、誰に頼まれた。警察の誰だ」
太田が矢崎の喉元を締め上げる。
「……言えるわけないだろう。殺される。あんたたちに殺されるより、もっと酷い目に遭わされるんだ」
その時、太田の脳裏に悪魔のような計画が浮かんだ。
ここで矢崎を警察に突き出しても、内通者の握り潰しに遭うだけだ。証拠は消され、ミカの死は闇に葬られる。
ならば。
「……泳がせるぞ」
「正気ですか、太田さん」
田辺が怪訝な顔をする。
「こいつを囮にするんだ。裏帳簿を餌に、こいつを逃がす。そうすれば、焦った内通者がこいつに接触してくるはずだ。そこを叩く」
太田は、机の上にあった矢崎のスケジュール帳を手に取った。
そこには、いくつかの暗号めいた地名が記されていた。
「『湾岸倉庫』……。次はここか」
太田は矢崎を解放した。
「行け。警察には言わない。だが、お前が誰と繋がっているか、俺たちはすべて知っている」
矢崎は這いずるようにして部屋を飛び出していった。
太田と田辺は、一定の距離を保って矢崎を尾行する。
車中、田辺が静かに問いかけた。
「もし、あの矢崎がまた『仕事』を頼まれたらどうします? 次の犠牲者が出るかもしれない」
太田は答えなかった。
今の彼にとって、ミカを殺した犯人と、自分を裏切った警察組織を破滅させることだけが、生きる目的になっていた。
「……一人の犠牲で、組織の膿をすべて出せるなら。それは安い買い物だ」
その言葉が、のちに20人という膨大な犠牲者を生むことになると、この時の太田はまだ信じて疑わなかった。
2005年の夏は、まだ終わらない。石灰の白に染まった、地獄のような惨劇が幕を開けたばかりだった




