【書籍化記念】彼の想いは海よりも深い。
書籍化を記念して、番外編を書きました。
時系列的には本編の一年前の話です。
それは貿易の調印式の最中に隣国大使が放った、何気ない一言だった。
「もしもアーサー様がご婚約者さまと出会っていなかったら、どんな風になっていたんでしょうなぁ」
大使は朗らかに言ったが、調印式の空気は一瞬で凍った。
「もしもルチアと出会っていなかったら……?」
アーサーの言葉には不穏な空気が含まれている。調印用の書類を用意していたダグラスは、アーサーの不機嫌さを感じ取って冷や汗を流した。
アーサーの目の前に座る隣国からの大使は、アーサーから発せられる絶対零度の空気を全く感じないらしい。無邪気ともいえる顔で朗らかに笑っていた。
「ディエリング家には不思議な噂がありますからなぁ。もしお二人が出会っていなかったらどうなっていたのか、つい気になってしまいまして」
「ははは……」
大使の目には好奇心が満ちている。明らかに面白がってこの話題を出したのだろう。
大使を見つめるアーサーは微笑んでいるが、その目は氷のように冷えていた。それに気が付いたダグラスが、その場を和ませようと笑う。
場はまったく和まなかった。
アーサーは大使の顔をじっくりと眺めると、うっそりと笑う。その表情を見て大使はきょとんとし、ダグラスはひっと息を呑んだ。
その顔は良くないことを考えているときの顔だった。
「ルチアと出会っていなかったら……それは無意味な質問ですね」
「ほう? 無意味?」
「えぇ。考えるに値しない愚かな質問ですよ」
きっぱりと言い切ったアーサーに、大使の顔がムッとする。失礼な質問をしたのは大使だったが、はっきりと喧嘩を売ったのはアーサーだった。
大使はつまらなそうな顔をしてアーサーのことを見返した。
「どうしてそう言い切れるのですか? 分からないではないですか」
「分かりますよ」
アーサーは大使を見た。その顔から笑みが消え、彼を真っすぐ見つめる。急に雰囲気が変わったアーサーを見て、大使は少し身構えた。
「ルチアと出会わない未来なんてあり得ないからです」
「あり得ない、ですか」
「えぇ。あり得ないんです」
アーサーはきっぱりと言い切った。その顔は自信に満ちている。
彼は心からそう思っているようだった。あまりにも自信満々にしているので、大使は不思議に思ったらしい。
怪訝そうな顔を隠しもせず、まじまじとアーサーを見た。
「私とルチアが出会わない未来なんてありません。たとえ5歳の時に会わなくても、先々で出会うことになっていました」
「それは社交界デビューとか、そういう場面で出会うということですか?」
ラージア国では成人を迎えた貴族の子どもは、例外なく社交界デビューをする。同い年である二人は、社交界で必ず出会うことになる。
そうなれば間違いなくアーサーはルチアに恋をしただろう。5歳の時に出会った時のように、心を奪われることになるのかもしれない。
ディエリング家の呪いは絶対だ。それは歴代の王族たちが証明している。
出会ってしまったら、アーサーはルチアに恋をする。そして彼女を全力で捕まえるのだ。
「それももちろんあります。しかしそこで見つけられなかったとしても、必ず別の場所で彼女を見つけたでしょう」
「別の場所……」
「きっかけや時期なんて、関係ないのです。ルチアが私の婚約者になる。それが全てだったんです」
どこで出会っても、いつ出会っても。ルチアがルチアである限り、アーサーは彼女に恋をする。それは揺るがない彼の絶対の真実。
何かに導かれるように、二人は出会うことになっただろう。アーサーにはその自信があった。
「だから出会わない未来なんて、あり得ません」
凄むように放たれた一言に、大使は息を呑んだ。アーサーは鋭い視線を大使に向けた後、フッと笑って表情を緩める。
そうなってやっと、部屋の中の空気が柔らかくなった。タイミングを見計らっていたダグラスは、今だとばかりに書類を両者の前に並べる。
するとまた大使が口を開いた。
「いやはや……そんなに褒め讃えるご婚約者様なら、さぞかし素晴らしい女性なのでしょうな! ぜひとも私も会ってみたいです! そんな方なら、私も一目で恋に落ちてしまうかもしれませんなぁ!」
再び室内の空気が固まる。この男、外交大使に似つかわしくないのではないか? とダグラスは本気で思った。
大使の発言は言葉以上の深い意味はないだろう。しかしルチアに関しては物凄く――猫の額よりも心の狭いアーサーのことである。
邪推したうえで、大使を叱責するかもしれない。ダグラスだけでなく室内にいた近衛兵や侍従たちも、恐る恐るアーサーの様子を窺った。
アーサーはきょとんと大使を見た後、ゆっくりと大使の方に身を乗り出し――満面の笑みを浮かべた。
アーサーの笑顔に室内にいた全員が驚く。しかし彼はそんなことにはお構いなしに、大使の方へと身を乗り出した。
「そうなんです! ルチアは素晴らしい女性なんですよ!」
「はぁ……」
大使には突然のことで驚いていたが、アーサーの言葉に軽く頷いた。大使が返事をしたことに気をよくしたアーサーはますます嬉しそうに語り始める。
「子どもの頃は愛らしいばかりでしたが、最近は美しいの一言に限ります。所作や物腰も洗練されていて、見ているだけで目が奪われてしまうんです」
「なるほど……?」
「それに学問にも精通していて! 私と同じように勉強しているのですが、語学や地理学は私よりも成績が良いのです!」
「ふむ……」
「こんな素敵な女性が私の婚約者なんて、私はなんて果報者なのでしょう! 大使もそう思いますよね!?」
アーサーは怒涛のごとく語り始め、大使は言われるがまま、肯くことしか出来なかった。
反論がないことを良いことに、アーサーはその後もルチア自慢を繰り広げていく。こうなると、誰にもアーサーを止めることができなかった。
ダグラスは早々にアーサーを制止することを諦め、淡々と隣国の補佐官と書類の確認を済ませる。
後で大使とアーサーのサインを貰うだけの状態にしておけば、調印式は滞りなく済むだろう。
ちらりと大使を見れば、死んだ魚のような目をしていた。ダグラスを含め、室内にいるラージア国一同は心の中で合掌をした。
――頑張って、耐え抜いてください。
思う存分、ルチア愛を語ることができる時間を、アーサーが見逃すはずがなかった。大使が話題を振ったことを良いことに、アーサーは心の赴くままに、胸の内に溜め込んでいた愛を語りつくす。
結局、調印式の終了時刻ギリギリまで、アーサーは大使相手にルチアへの愛を高らかに語ったのだった。
◇ ◇ ◇
ルチアは王宮内を歩きながら、妙な違和感を覚えた。すれ違う人々が、なんだか生温かい眼差しで自分を見ているような気がするのだ。
「何かしら?」
今も紅茶を用意していた侍女が、ルチアを見て曖昧に微笑んで退出していった。彼女とは親しく話したことはないが、お互いに嫌な思いをするような出来事はなかったはずだ。
――それに嫌われているというよりは、なんだか気まずそうな表情だったような……。
紅茶を飲みながら物思いに耽っていると、背後の扉がバァンと勢いよく開く。振り返れば、息を切らしているアーサーが立っていた。
どうやらルチアが居ると聞いて、走ってここまで来たようだった。アーサーはルチアの姿を見つけると嬉しそうに笑う。それからいそいそとルチアの隣に腰かけた。
「ルチア! 来ていたのならば、連絡してくれたらよかったのに」
「今日は王妃様に用があったんです。殿下はお忙しいと思ったので……」
「ルチアと会う以上の用なんて、俺にはないよ!」
アーサーの言葉にルチアは苦笑する。アーサーが本気でそう思っていることは分かるが、もちろん執務などは優先して欲しいところだ。
ルチアは紅茶を一口飲んでから、先ほどのことをアーサーに聞いてみることにした。
すると思いがけない言葉がアーサーから返ってきた。
「あぁ、それは俺が隣国の大使にルチアのことを教えたからかな」
「え? どういうことですか?」
「大使が婚約者はどんな人なのか知りたそうだったから、ルチアが素晴らしい人だってちゃんと説明しておいたよ!」
満面の笑みのアーサー。対照的にルチアの顔からは表情が抜け落ちた。部屋の片隅に控えていた侍女が、ルチアの顔を見てぶるりと身震いをする。
「……なんて言ったんです?」
「え? それはもちろんルチアの素晴らしいところを全てだけど」
そう言ってアーサーは大使に語ったことを話し始めた。
彼曰く、勉強熱心で頑張り屋なところが可愛い。意外と負けず嫌いで、試験の点数で負けたことを悔しく思っている。お菓子作りに挑戦したけど、はじめて作ったクッキーは岩のように硬かったこと。実は朝起きるのが苦手、などを熱く語ったらしい。
それを聞いたルチアは顔が真っ赤になるのが分かった。そして勢いよく立ち上がる。
「ルチア?」
アーサーは不思議そうにルチアを見たが、彼女が無言で部屋から出て行こうとしているのを見て、慌てて追いかけてきた。
引き留めようとする手を、ルチアは振り払う。アーサーは拒絶されたことに驚いて、呆然と立ち尽くした。
「ルチア……?」
ルチアは真っ赤な顔でアーサーを振り返ると大きな声で告げた。
「しばらく顔を見たくありません」
「……え!」
「さよなら!」
ルチアはそれだけ告げると、猛然と去っていた。アーサーは慌てて追いかけるが、ルチアは全く取り合わない。
「ルチア、待って! 話を聞いて!」
「…………」
「俺が何か気に障るようなことをした? ルチア、行かないで……!」
「…………」
「ルチアァァァァァァ!」
王宮の廊下にむせび泣くアーサーが取り残される。しかしルチアの足は止まらない。
やがてルチアの姿は見えなくなり、その場には灰のように真っ白になったアーサーだけが取り残されていた。
事情を聞いたダグラスから、アーサーはルチアが怒った理由を聞かされる。
ルチアは自分のあれこれを他人に話されたことが嫌だったんだろう、と説明をされ、己の失態を悟ったアーサーは三日三晩、侯爵邸のルチアの部屋の前で五体投地の様相で謝罪した。
昼も夜も関係なく、時には泣きながら謝罪をするアーサーを見た家族が、さすがにアーサーを気の毒に思いルチアを説得する。家族から説得をされ、またアーサーが真に反省したことを知ったルチアは、アーサーを許すことにした。
ドアの隙間からルチアが顔を出したとき、アーサーは感動のあまり、また泣いた。
「ルチアの嫌がることはしない。神に誓うよ!」
その言葉を聞いて、ルチアもアーサーを許すことにした。
「私もやりすぎました。……ごめんなさい」
しょんぼりと謝るルチアがいじらしく、また愛らしくてアーサーはまた泣いた。
そして心に誓った。
今後はルチアの嫌がるようなことは絶対にしない、と。
――まさかこの一年後、アーサーが記憶を失うとは、誰も夢にも思っていなかったのだった。
―END―
お読みいただき、ありがとうございます。
少し書籍よりの内容になっていたかも……。
またちょくちょく番外編を書こうと思ってます。
気が向いたら覗きに来てくださると嬉しいです。
藤咲慈雨