嘘がわかる私に、唯一嘘をつかない王太子殿下。だから余計に信用できません
「君を、心から愛しているよ」
その声が濁って聞こえた瞬間、アリシアは静かに紅茶のカップを置いた。
嘘だ。
目の前で甘く微笑む婚約者ハーヴェイの声は、今、はっきりと濁っている。澄んだ水に墨を一滴落としたような、あの濁り。
生まれたときから、そうだった。向けられた言葉が嘘なら、声が濁って聞こえる。理由はわからない。ただ、わかってしまう。
「アリシア? どうかしたかい」
「いいえ。……ひとつだけ、伺っても?」
アリシアは微笑んだ。嘘のつけない自分が浮かべられる、せいいっぱいの微笑みで。
「先ほど、わたくしを愛していると仰いましたね。あれは、本当ですか」
ハーヴェイの喉が、わずかに鳴った。
「……当たり前じゃないか」
濁る。
「では、もう一つ。あなたには今、わたくし以外に親しくしている女性が?」
「いるわけがないだろう」
濁る。真っ黒に。
アリシアは小さく息を吐いた。怒りよりも先に、いつもの疲れが胸に降りてくる。
「ハーヴェイ様。わたくし、嘘がわかるのです。生まれたときから、ずっと」
男の顔から、笑みが剥がれ落ちた。
「あなたが愛しているのはわたくしの家の財産で、夜会で踊っていたあの令嬢とは、もう半年のお付き合い。違いますか」
返事はなかった。それが何よりの返事だった。
やがてハーヴェイは、椅子を蹴るように立ち上がった。その顔に浮かんでいたのは、ばつの悪さでも、罪悪感でもない。
嫌悪だった。
「……やはり、噂は本当だったな。人の心を覗く、気味の悪い女だ」
吐き捨てるように、男は言った。
「化け物め」
その言葉は、濁らなかった。
ハーヴェイは本心から、アリシアを化け物だと思っている。だからこそ、その三文字はどこまでも澄んで、まっすぐに胸へ刺さった。
扉が閉まる。
一人になった応接間で、アリシアは冷めた紅茶を見つめた。
嘘がわかったところで、幸せにはなれない。世辞も、慰めも、愛の言葉も、向けられるそばから濁っていく。澄んで聞こえるのは、こういう刃のような本音ばかり。
真実だけが視える世界は、ちっとも優しくなかった。
「……知っていましたとも」
誰にともなく呟いて、アリシアは目を閉じた。
◇ ◇ ◇
王太子セヴランがアリシアの屋敷を訪れたのは、その婚約破棄から、わずか三日後のことだった。
前触れもなく、供も連れず。応接間に通された男を見て、アリシアは内心ひどく身構えた。
社交界で語られる彼の評判は、ろくなものではなかった。氷のように酷薄で、邪魔な者は容赦なく宮廷から消す。笑った顔を見た者はいない。近づく者すべてを駒として見ている――そんな噂ばかりが先行する人物。
「アリシア・ローウェル嬢」
低い声だった。
「お前、嘘がわかるそうだな」
挨拶も前置きもない。アリシアは警戒したまま、慎重に頷いた。
「……噂は、お早いのですね」
「婚約者の浮気を、声だけで暴いたとか。その力を、俺に貸せ」
率直すぎる物言いに、アリシアは思わず眉を寄せた。
「貸せ、とは」
「宮廷には嘘つきが多い。媚びる者、欺く者、笑顔で毒を盛る者。俺はそれを一人ずつ選り分ける手間が惜しい」
セヴランは椅子に深く背を預け、まっすぐにアリシアを見た。
「お前を、俺の傍に置きたい。見返りは、お前が二度と社交界の好奇の目に晒されずに済むだけの地位と後ろ盾だ」
あまりに露骨な取引だった。
愛されたいわけでも、理解されたいわけでもない。ただ、能力だけが欲しい。化け物の力だけが。
けれど――不思議と、嫌な気はしなかった。
慰めも世辞もない。「君の力は素晴らしい」などと、濁った世辞を並べられるより、よほど誠実だとすら思えた。
「殿下は、わたくしを気味が悪いとは思われないのですか」
試すように、アリシアは問うた。
「思うさ」
セヴランは即答した。
「お前の前では、誰も嘘がつけない。これほど厄介な力もない。気味が悪い。それでも、お前の力に救われる人間が、この宮廷には大勢いる」
濁らなかった。
その答えは、どこまでも澄んでいた。
ああ、この人は、本当にそう思っているのだ。気味が悪いと思いながら、同時にその力を必要としている。取り繕いも、誇張もない。
アリシアは、長い間忘れていた感覚を思い出した。
──まともに、話が通じる。
「……承知いたしました」
気づけば、そう答えていた。
「その力、お貸しいたします。殿下」
◇ ◇ ◇
宮廷は、嘘の海だった。
セヴランの傍に控えるようになって、アリシアの耳は朝から晩まで濁りに晒された。
「殿下のご慧眼には、いつも感服しております」――濁る。
「此度の徴税、不正など一切ございません」――濁る。
「隣国との密約など、根も葉もない噂でございます」――真っ黒に濁る。
謁見の間で、密談の場で、アリシアは静かにセヴランの傍らに立ち、合図を送り続けた。嘘なら、扇をわずかに閉じる。それだけで、セヴランはすべてを察した。
セヴランは、アリシアの能力に頼り切りはしなかった。彼は彼で、事実を集め、人を見ていた。アリシアの力は、その答え合わせに過ぎない。
それが、アリシアには心地よかった。化け物の力を崇めるでも恐れるでもなく、ただ淡々と扱う。その距離が、ちょうどよかった。
そうして、季節が一つ巡った。
宮廷に上がったばかりの頃は、毎日が嘘の濁りで耳が痛んだ。けれど、セヴランの傍は不思議と静かで、いつしかアリシアは、この居場所に馴染んでいた。
幾度も夜を共にして、嘘を選り分けたある晩のことだった。
遅くまで続いた密談がようやく終わり、書斎にはセヴランとアリシアだけが残された。次から次へと持ち込まれた嘘を選り分け続けて、アリシアの耳は、ひどく疲れていた。
「お前は」
書類から顔も上げず、セヴランが言った。
「俺の傍にいて、退屈ではないのか。一日中、人の嘘ばかり聞かされて」
何気ない問いだった。けれど、なぜだろう。その夜は、いつものように受け流せなかった。
「……正直に申し上げても?」
「お前に、正直以外ができるのか」
わずかに、笑いを含んだ声だった。
アリシアは、窓の外の月を見た。
「嘘がわかる力なんて、いらないと思っておりました。ずっと」
こぼれたのは、誰にも言ったことのない本音だった。
「世辞も、慰めも、向けられるそばから濁っていくのです。澄んで聞こえるのは、刃のような本音ばかり。……『化け物め』という言葉だけが、いつも、どこまでも澄んでいる」
言ってしまってから、しまった、と思った。道具に弱音は求められていない。
「申し訳ございません。妙なことを」
「妙ではない」
セヴランが、ペンを置いた。
そして、まっすぐにアリシアを見た。いつもの、人を選り分ける目ではなく。
「なら、確かめてみろ」
「……え?」
「俺は、お前を化け物だとは思っていない」
アリシアの息が、止まった。
濁らない。
「お前の力に救われる人間がいる。現に、俺がそうだ。それを化け物の力と呼ぶなら、世の医者も学者も、みな化け物だろう」
濁らない。ひとつも。
「だから、お前が聞きたくない言葉は、俺は言わん。俺の声は、濁らないだろう。──そう決めている」
その夜、アリシアは、生まれて初めて知った。
澄んだ声が、刃ではなく、優しさとして胸に届くこともあるのだと。
それからというもの、アリシアは時折、自分でも戸惑うことがあった。
セヴランの声が濁らないのは、もうわかっている。嘘をつかないと、彼は決めているのだから。なのに、その澄んだ声の奥にある本心の輪郭が、知りたくてたまらない。
嘘なら、わかる。濁ればいい。けれど彼の本当は、いつも澄んでいて、澄んでいるからこそ、まるで掴めなかった。
そんな日々が続いた、ある日。
「殿下は」
つい、問うてしまった。
「なぜ、笑わないのですか」
あの夜、笑いを含んだ声を聞いて以来、ずっと気になっていた。この人の素顔を、もっと見てみたいと――そう思っている自分に、気づいてしまっていた。
セヴランの手が、止まった。
「……笑う理由が、これまでは無かった」
濁らない。
これまでは。その言葉が、何を含んでいるのか。アリシアには、わからなかった。
嘘がわからないのではない。
嘘を、つかないのだ。だから、その先が、視えない。
アリシアは初めて、自分の能力が役に立たない相手に出会っていた。そして生まれて初めて、誰かの心の中を、自分の力ではなく、自分の心で覗き込みたいと願っていた。
それが何を意味するのか、もう、薄々わかっていたけれど。
◇ ◇ ◇
異変が起きたのは、建国祭を間近に控えた夜だった。
「殿下! 大変でございます」
血相を変えた侍従が、書斎に飛び込んできた。
「明日の式典でお召しになる装飾品――あの献上品から、毒が」
侍従の報告では、装飾の留め具に、皮膚から染み入る遅効性の毒が仕込まれていたという。式典で身につければ、半日と経たずに命を落とす。
「献上したのは?」
「ある侯爵にございます。ですが侯爵は、断じて与り知らぬことだと……」
セヴランは、静かにその侯爵を呼び出した。
謁見の間に引き立てられてきた侯爵は、床に膝をつき、必死の形相で叫んだ。
「殿下! 誤解でございます! 私は毒のことなど、何一つ存じませぬ! 神に誓って、私は無実でございます!」
アリシアは、その声に、耳を澄ませた。
濁らない。
「私は、殿下を害そうなどと、夢にも思ったことはございませぬ! どうか、お信じください!」
濁らない。
侯爵は、嘘をついていない。少なくとも、毒については。
「殿下」
アリシアは、そっと扇を開いたまま――閉じなかった。嘘ではない、という合図。
「侯爵は、毒については何もご存じありません。誰かに、利用されたのです」
謁見の間が、ざわついた。利用された。つまり、真犯人は別にいる。
「献上品の手配を、侯爵に持ちかけた者がいるはずだ」
セヴランの声に、侯爵が震えながら答えた。
「は……はい。隣国との橋渡しだと、ある男が……私に、献上の段取りを……」
その男が、証人として引き立てられてきた。
顔を見た瞬間、アリシアの息が止まった。
ハーヴェイだった。
かつてアリシアを「化け物」と捨てた、あの婚約者。地位に目がくらんだのだろう。アリシアを切り捨てたあと、彼は隣国の手の者と通じ、王太子暗殺の手引きをしていたのだ。
ハーヴェイもまた、アリシアを見て凍りついた。よりにもよって、この女が王太子の傍にいる。
「わ……私は、何も知りません」
濁る。
「ただ、侯爵に人を紹介しただけ。毒のことなど、まったく――」
濁る。濁る。真っ黒に。
「殿下」
アリシアは、扇を、ぱちりと閉じた。
声は、もう震えていなかった。
「今の、すべて嘘です」
ハーヴェイの顔が、蒼白になった。そして縋るように、かつての婚約者へと顔を向けた。
「アリシア……! 頼む、見逃してくれ。俺たちは、婚約していた仲じゃないか。なあ、お前なら、わかってくれるだろう……!」
その声は、濁っていた。
懇願すら、嘘だった。彼が縋っているのは情ではなく、ただ自分の保身。
アリシアは、まっすぐにハーヴェイを見た。かつて、この男の「化け物め」という言葉に、胸を貫かれた夜を思い出しながら。
「ハーヴェイ様。あなたの声、濁っていますよ」
静かに、告げた。
「気味の悪い女で、申し訳ございません。──でも、おかげで、あなたの嘘は、ひとつ残らず聞こえます」
崩れ落ちるハーヴェイが、衛兵に引き立てられていく。誰一人、彼をかばう者はいなかった。かつてアリシアを化け物と呼んだその力が、今、彼を裁いていた。
すべてが終わり、人払いがなされた謁見の間で、アリシアは深く息を吐いた。
危なかった。あと一歩、扇を閉じるのが遅ければ、セヴランは明日、死んでいた。
「……間に合って、ようございました」
呟いたアリシアの手を、不意に、セヴランが取った。
「お前がいなければ、俺は明日、死んでいた」
濁らない。
「礼を言う」
その声は、どこまでも澄んでいた。
握られた手の熱が、やけに生々しくて、アリシアは目を逸らした。けれど、どうしても、確かめずにはいられなかった。命を救ったこの夜なら、聞けると思った。
「殿下」
「なんだ」
「殿下にとって、わたくしは……何でしょうか」
問うてから、心臓が痛いほど鳴った。
この人の声は濁らない。だから、返ってくる答えは、必ず本当だ。それが怖かった。優秀な道具だ、と澄んだ声で言われたら、きっと、立ち直れない。
セヴランは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開いた。
「……お前は、優秀な道具だ」
濁った。
アリシアの呼吸が、止まった。
濁った。今、確かに、濁って聞こえた。
一度も、ただの一度も濁らなかったこの人の声が、生まれて初めて、墨を落としたように濁った。
つまり――嘘だ。
「殿下」
声が、震えた。
「今の、嘘です」
セヴランの肩が、わずかに揺れた。
「お前を道具だと、そう仰った。でも、それは……嘘です。あなたの声が、濁りました。生まれて初めて」
「……つくづく、厄介な力だな」
セヴランは、片手で顔を覆った。その口元が、自嘲とも、観念ともつかない形に歪んでいる。
「一生に一度くらい、嘘をついて誤魔化させてくれてもいいだろう」
「なぜ、嘘を……」
「本当のことを言う勇気が、まだ無かったからだ」
その声は、もう、澄んでいた。
アリシアは、わからなくなった。道具だというのが嘘なら、本当は、なんだというのか。確かめたい。けれど、踏み込むのが怖い。生まれて初めて、自分の力では届かない場所に、答えがある気がした。
セヴランは、握ったままだったアリシアの手を、そっと離した。
「今夜は、休め。──話は、建国祭が終わってからだ」
その背を見送りながら、アリシアは、鳴りやまない胸を押さえた。
濁った声が、これほど嬉しいなんて。
嘘がわかる力を、生まれて初めて、少しだけ、好きになれそうだった。
◇ ◇ ◇
建国祭が、無事に終わった夜。
セヴランは、アリシアを庭園に呼び出した。月の下、二人きり。
「アリシア」
名を、呼ばれた。道具としてではなく。
「俺はお前を、最初は道具として呼んだ。それは事実だ。だが、今は違う」
息を、吸う音がした。
「俺は、お前が欲しい。能力ではなく、お前という人間が。──愛している」
アリシアの世界が、しんと静まった。
濁らない。
その「愛している」は、ひとかけらも濁らなかった。澄んで、まっすぐで、どこまでも本当で。
生まれて初めてだった。誰かに向けられた「愛している」が、嘘の色を一つも纏わずに、まっすぐ胸の真ん中に届いたのは。
「……殿下」
声が、震えた。
「なぜ、わたくしにだけ、本当のことしか仰らないのですか。ずっと、不思議でした。あなたの声は、一度も濁らない。だから、余計に信用できなかった。何を考えているのか、ちっとも視えなくて」
セヴランは、ふっと――笑った。
アリシアが初めて見る、その笑顔で。
「決めていたからだ。お前にだけは、嘘をつかないと」
濁らない。
「お前は、嘘ばかりの世界で生きてきたのだろう。世辞も慰めも、向けられるそばから濁っていく。そんな世界で、せめて俺の声だけは、お前が安心して聞ける場所であればいいと思った」
その声は、最後まで、ひとつも濁らなかった。
アリシアの目から、涙がこぼれた。
嘘がわかる力なんて、いらないと思っていた。真実だけが視える世界は、ちっとも優しくなかったから。
けれど今、わかってしまう。この人の言葉が、ぜんぶ本当だということが。これ以上なく、はっきりと。
「……殿下。わたくし、一つだけ、嘘がつけないのです」
涙を拭って、アリシアは微笑んだ。今度は、心からの微笑みで。
「だから、これだけは本当だと、信じてくださいますか。──わたくしも、あなたをお慕いしております」
その言葉が濁っていないことは、セヴランには確かめる術がない。
けれど彼は、何も疑わなかった。ただ静かに、アリシアを抱き寄せた。
月の下、嘘のつけない女と、嘘をつかないと決めた男が、生まれて初めて、互いの本当だけを抱きしめていた。
世界は、まだ嘘で満ちている。
それでも、この腕の中だけは。
どこまでも、澄んでいた。




