第22話 遺稿
椿暁は動けなかった。糸の切れた操り人形のように、冷たい地面に縫い付けられている。歩く意味も、立ち上がろうとする理由も、今の彼女には見出せない。
火照っていたはずの血液が、足元から凍てついていく。それなのに、眼窩の奥だけがひりつくように熱く、やがて、世界を水鏡のように白く歪ませていった。
ヴィオレットは壁の影となり、ジルベールは地の染みと化した。その血が、陣を描くように椿暁を囲む。責めるような沈黙が彼女の鼓膜を叩き続ける。
逃げ場を失った視線が、石の繋ぎ目を意味もなくなぞった。その視界に図々しく滑り込んできたのは、ヴィオレットが縦に引き裂いた、ビラの残骸。
地に這う無惨な番———片方はジルベールの血にじっくりと浸り、もう片方は今にも風に攫われんと尾をはためかせている。椿暁は、木から落ちた雛鳥をすくい上げるかのように、その一枚を手に取った。
“ Le bourreau est ”
執行人は———
断ち切られたその一文が、彼女の胸に絡みつく。迷いのない力強い筆跡。やや角張った書き癖は、明らかにノアのものだ。
“人殺し”。
呪いのような彼の言葉が、脳裏で渦を巻く。知っていながら目を逸らし続けてきたそれが、椿暁の正面に堂々と立ち塞がっていた。どれだけ目を逸らして否定する言葉を探しても、地下迷宮に落ちたかのように方向感覚を失っていく。
“———解らぬのなら、テメェの足で見つけに行け、椿暁”
声にならない息を呑んだ。
白く空っぽになった頭の奥で、嗄れた懐かしい声が響いた気がしたのだ。それは、霧中の松明のように、じんわりと椿暁の内を焦がしていき、やがて、溶けた蝋のように熱く零れた一滴が、彼女の拳に落ちた。
その熱に思わず顔をあげると、再び乾いた静寂が彼女に纏わりつく。遠くで響く風の音、鳥の声———そして馬の蹄音。
「……行かなきゃ」
無意識に落ちたのは、母国の言葉だった。椿暁は、焦げつくような炎の熱に押し上げられるように、重々しく立ち上がる。
血の海で静かに硬直を始めるジルベールのもとへ歩み寄り、傍らに片膝をつく。うつ伏せに倒れていた彼の身体をそっと仰向けに直すと、冬の陽光が、開いたままの虚ろな瞳孔を鋭く射た。
椿暁は、ジルベールの外套の胸元を開き、シャツの下に手を滑り込ませる。引きずり出されたのは、彼が五年もの歳月をかけて書き上げた原稿。その中心には、刃が貫いたぽっかりとした穴が開き、彼の心臓から溢れ出した生温かい液体を、インク以上にひたひたと吸い上げている。
椿暁は、その分厚い紙束を己のローブの奥深くへと抱え込んだ。じっとりと血を共有するように重く、生温かい。
足元に転がっていた刃の破片を拾い上げると、自身の血と炎の混じったような紅い髪をひと房すくい、躊躇なく根元から刃を滑らせた。切り落としたそれを、血豆が無数に刻まれたジルベールの右手に乗せ、そっと指を折り曲げて握らせる。
「———同胞の魂、太陽のもとに」
一陣の風が、ジルベールの髪に優しく指を流す。椿暁が、理不尽な絶望を映したまま凍りついている彼の両目をそっと掌で撫でおろすと、その顔にわずかに安らぎが浮かび上がったようだった。
藻のように絡みつく鉄の匂いを引き解きながら、椿暁は北門の足元へと向かった。
門が落とす濃い影の中に、手配していた馬車が息を潜めるように佇んでいる。椿暁がそっと幌をめくると、御者の男は荷車の中で寝そべり、呑気にいびきをかいていた。
「待たせたッスね、ちょいと喧嘩に巻き込まれちまって」
欠伸をしながら起き上がった御者の掌へ、無造作に数枚の銀貨を落とす。
「これ、駄賃ッス。そんで……訳あって、今日は西に向かってほしいッス」
男は受け取った銀貨の冷たさにゆっくりと顔を上げ、彼女の背後を探るように周囲を見回した。
「3人で乗るんじゃあなかったのかい」
その言葉が、彼女の内側にぽっかりと空いた穴を隙間風のように抜けていく。無理やり吊るされた口角がわずかに震えた。
「まあ、それも訳あって1人ッスよ。……診療所か何かがあれば、とりあえずそこまで送ってほしいッス」
男は赤黒く染まった椿暁の袖口を訝しげに見つめたが、彼女がそれを背後へ隠すと、それ以上は何も聞かずに御者台へと飛び乗った。
北門からの道は、ひどく静かだった。正門前ほど道は整備されておらず、雑草や小石を踏むたびに荷馬車がガタゴトと無遠慮に揺れる。すれ違う馬車も疎らな、見渡す限り広がる荒涼とした平地。街を囲う石壁が、みるみる小さくなっていく。
その静けさが、椿暁に指をさすように———孤独の輪郭を一層くっきりと染め上げる。いるはずだった2人の幻が、空虚な荷馬車にふと浮かんで見えた気がして、とっさに椿暁は顔をきつく伏せた。
刻一刻と傾く陽を追いかけるつもりはない。なのに、このままあの光が完全に夜に飲まれてしまったら、もう二度と追いつけなくなるような。そんな得体の知れない焦燥感だけが、胸の奥で空回りしていた。
その時、不意に幌の外の御者台から、朗々とした歌が聞こえてきた。車輪の音が、拍をとるように合奏を始める。こぶしをきかせながら、男は自由気ままに詩を紡いでいく———
荷物積んで西へ東へ走れ
朝日は昇るが夕日は沈む
歌うたいながら手綱引け
さあマダム珍しい紅はいかが
市場で林檎を買い
酒場でワインを飲もう
椿暁は、荷車の端に置かれていた薄いブランケットを手繰り寄せ、それに縋るように羽織って小さく縮こまった。耳に届く歌声と車輪の律動が、ささくれ立った神経を少しずつ麻痺させていく。
全身からふわりと力が抜けていき、椿暁は大きく息をこぼした。ぼやけた熱と揺れに浮かされながら、彼女の意識は深い微睡の中へと溶けていった。
太陽と月はいつ出会う
追いかけっこは雲の上
雨降れど雪降れど荷馬車は進む
荷物積んで北へ南へ走れ
夕日は沈むが朝日は昇る———
「———おい、嬢ちゃん」
「嬢ちゃん、着いたぞ。診療所だ」
その声に、椿暁の意識はまどろみの沼から一気に引き戻される。同時に、身体中の痛みも熱をもって吹き返した。
御者に腕を引かれながら、ずるずると荷車から降りる。ぴんと澄んだ空気と、ほのかに漂う草の匂いが椿暁をカラカラに満たしていく。
柵に囲まれた敷地は、診療所というより牧場のように広大だった。大小の建物が点在し、木門の傍らでは手入れされた草花が風に揺れている。
「……やけに広いッスね」
「ああ、ここは孤児院も兼ねてるからな。ギロチンにかけられた奴らのガキを集めてるんだとさ」
「犯罪者のガキなんか集めて、何がしたいんだか」
悪意ではない———だが男の言葉は、のんびりと椿暁を刺した。
椿暁は、静かに奥歯を噛み締めた。その無神経さを真っ向から否定して、突き返してやるつもりだった。だが今の彼女は、喉元まで湧き上がるどんな言葉も、インクのついた紙切れよりずっと脆いことを知っていた。
そんな彼女を横目に、子供たちの無邪気にはしゃぐ声が遠くで夕日に溶けていく。門から出迎える若い看護婦が見えた瞬間、ぷつりとなにかが切れたかのように世界が歪んだ。どちらが空でどちらが地かも分からなくなった途端、椿暁は暗夜にその身を攫われた。
御者と看護婦の呼びかける声が、黒い波に飲まれて遠ざかっていった———




