第21話 空
「ノアさ———ッ」
彼に向かって踏み出した足は、石畳の上でぴちゃりと水音を立てる。
「殺すまでしなくて良かったはずッス、なのに何で!」
死体は見慣れていた。だが、救いを待ちながら果てたヴィオレットの目が、どうしても椿暁に焼き付いて離れなかったのだ。思わず荒らげた声に、喉がちくちくと痛む。
「……殺さなきゃいけないと思った」
低く、ぼそりと零した横顔は、未だヴィオレットの断面を瞬きもせず見つめていた。椿暁の中で、何かがぷつんと切れる音がした。
「だから、何で殺したんだって聞いてるんス!」
椿暁はいつの間にかノアの肩を掴み、強引に手前へと引き向かせていた。
だが、そこにあったのは虚無———感情の欠片すら尽く抜け落ちたような、むしろ純粋さすら感じる虚無がそこにはあった。少し湿った前髪があらゆる光を拒絶し、ざらりとした瞳が隙間から覗いていた。
「……あいつは、俺だった。鏡を見ているようで、どうしても吐き気がしたんだ」
そんなことで———。
椿暁は、腹から逆流してくる言葉の波を、喉をぎゅっと締めて堰き止めた。罪悪感や悔しさ、あるいは、復讐。それらはあまりに見当違いだった。ただ、友には、勇気ある作家に与えられた理不尽な死に怒ってほしかったのだ。
「……アタシは、アンタがこんなに堕ちなきゃならないこの国が、世界が憎いッス」
沈黙の末に、そう零すのがやっとだった。ノアは少し俯いて、瞼を伏せたまま、再び無言を返した。
「……でも、分かってるんスか。アンタがしたことはただの———」
「“人殺し”、だろ」
遮るようにノアの口から放たれたそれは、やけに鮮やかで———耳元で、はっきりと、椿暁自身に向けて言われたようにも感じた。
ノアはつま先を門へと向けると、一つ、二つと赤い足跡をつけていく。
「……どこ行くんスか」
責めるように、その背中に声を刺した。ノアは足を止めたが、決して振り返りはしなかった。
「どこって……都だよ。俺は、ジルベールとも、お前とも同じだ。やるところまでやらなきゃ気が済まない」
“同じ”。否定と共鳴の波が、それぞれの中でせめぎ合ってはすれ違った。
都へ、そう握手を交わした朝が、椿暁の頭を走馬灯のように駆け巡る。
「……ノアさん。そこまでして一体、都まで何しに行くんスか」
「真実を知るまでは、死ねないんだ」
「真実……」
重々しい響きに、椿暁は思わず反芻した。ノアはその頭を、背後にいる椿暁に向けてわずかに捻る。
「なぜ俺の親友が———アンジュ・ユルフェが、死ななきゃならなかったのか」
その時、ノアが口にしたフルネームが、どうしても椿暁の胸に引っかかった。噛みきれない肉の筋を咀嚼するようなもどかしさが沸騰する。
ノアの顔は見えない。彼がどんな気持ちで、どんな顔をしてそう落としたのか、椿暁には分からなかったが、一つだけじんわりと滲んできた。
彼は、狂った正義と引き換えに親友を斬った———そんな自分が、ずっと許せなかったのだと。
彼は分かっていた。
ヴィオレットを斬ればどうなるかなんて、もうとっくに分かっていたのだ。
彼もまた、理不尽な死を目の当たりにして———同じように、迷って、怒っていたのかもしれない、と。
「付き合うッスよノアさん、一緒に都に行くって言ったじゃないスか」
それで彼の気が済むなら。
それでノア・プレヴェールが、修羅にならずに済むなら。
もはや、都まで死刑制度を学びに行くだなんて、どうでもよかった。今の椿暁にとっては、目の前で消えかけている人間の心のたった一つが、自分のくだらぬ知的好奇心よりも大事だった。
「———俺はもう、椿暁とは一緒にいられないよ」
その時、近くで鳩だか烏だかの羽音が舞った。ノアから喉元に突きつけられたその言葉が、真っ向からの拒絶だと理解した頃には、鳥は空のどこにもいなかった。
ただ、その声色だけは、妙に優しかった。焼け石と氷を同時に押し付けられたような、目眩のする気分だった。
「俺はもう執行人なんかじゃない。そう———ただの、人殺しなんだから」
刃にこびりついた血肉の欠片を拭うこともせず、ノアは再び北風の吹く門へと歩みを進め始める。椿暁はまたその背を追いかけようとしたが、踏み込んだ拍子に、腕も脚も力が抜けた。
憎いほどに青い晴天の下で、椿暁は独り、ぽつんと取り残された。




