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「店は燃えてなくなりましたが、焼け跡にメイヴェル嬢はいなかったんですよ、殿下」
ヴィンセントは言った。
「メイヴェル嬢も、メイヴェル嬢を示すものも残されてはいませんでした。不審火なのか過失なのかもわかりません。侯爵様がお探しなのはメイヴェル嬢の行方です。だから本日、私はここに呼ばれたのです」
娘の安否を気にかけるのは父親として当然だ。
例えそれが誰の目にも明らかな絶望でも、確信がなければ僅かな希望を信じるのが親心というものだろう。
「そ、そうか。侯爵、私にできることがあればなんでも、」
「いいえ、それには及びません殿下。会頭であるレアード様がおりますゆえ」
「はい。平民のことなら私の方がよく見知っておりますので、お任せください。」
ジュリアス王子は居心地の悪さに背を震わせた。
それはそうだ。サラを好きになったからと、自分は侯爵の愛娘であるメイヴェル嬢を捨てた男だ。その上、さっきはなんと言った?娘を案じる侯爵へ向けて「それでも父親か」とのたまった。そんな男に頼る者はいないだろう。
バーネット侯爵は王子という身分には敬意を表すが、ジュリアスという一人の男には信を置いていない。当然だ。
憂いに満ちた瞳の奥で苛烈に揺れる怒りを見て取り、思わず頭を抱えた。
自分はどの面下げて侯爵邸を訪れてしまったのか、今更ながらその愚かさに気付く。旗色が悪すぎる。
ジュリアスが懊悩している間にも、二人の話は続いた。
「下町で空き巣や放火犯が現れたという話は聞いておりませんので、その線は薄いと思うのです」
「そうですか。メイヴェルは無事なのかどうか…」
「ご心配ですよね。警邏隊と連携して引き続き調査して参ります。あの、バーネット侯爵」
言いにくそうなヴィンセントの様子に、侯爵は「なんでしょう?」と目を瞬かせた。
「もっと早くからお嬢様と関わっていればと悔やんでも悔やみきれません。申し訳ございませんでした。」
「いいえ、そんな!レアード様には充分ご協力いただいております」
「私事で大変お恥ずかしいのですが、実は最近妻を迎えまして、少々浮かれていたのです。」
「えっ!?」
「お、おお、そうだったんですか…!」
ジュリアス王子が驚き、バーネット侯爵は戸惑いながらも祝辞を告げる。
「レアード伯爵の三男が結婚したなんて聞いていないぞ?」
「殿下。妻は庶民ですし、私も伯爵の人間とはいえ三男で、レアード家の跡取りは長兄と決定しています。式も小さな教会でこじんまりと済ませました。社交界へのお披露目はもう少し先を予定しています。」
妻を想ってか、目に柔らかく色を灯すヴィンセントは、それだけで重苦しい雰囲気が吹き飛んだ。
「そうか…。こちらこそ気を使わせてしまったようで逆に申し訳ない」
「バーネット侯爵…」
「でも、結婚か、そうか…」
できれば一度見てみたかったものだ――。
ぽつりと落とされた呟きが誰を思ってのものかなど明白。
ヴィンセントは力強い目を向けて頷いた。
「ええ。必ず」
―――必ずやご報告差し上げましょう。
***
侯爵邸を出たヴィンセントは、馬車を急がせて屋敷へと戻った。
「メル!遅くなってすまない」
「旦那様」
飛び込んできた主人をカウチで寛いでいた淑女が迎える。
「ああ、我が奥方は今日も美しい」
「何を言っているんですか」
赤く彩られた唇が微笑んで、桜色に整えられた爪先がヴィンセントの腕にかかる。
「はやくお仕度を済ませてきてくださいな。劇場の時間が迫っておりますよ」
「そうだ、見とれている場合ではないな」
クスクスと華やかな笑い声を背に、ヴィンセントは侍女に促され着替えに向かった。
味気ない真黒から、光沢のある華やかな純黒へ。
色味は変わらないのに素材が変わるだけで、いや、心持ちが変わることで印象が真逆になる。瞳と同じグリーンガーネットのピンブローチをあしらえば、商人から貴族様へと早変わり。
外出用のコートを羽織り玄関ホールに降りると、同じく外出用の黒いファーコート、黒いファーのベレー帽を身につけた彼女が待っていた。
「メイヴィス」
黒い手袋に包まれた手を取り、馬車に乗り込む。
ヴィンセントとメイヴィスは今夜、王都でいま流行りの舞台を見に行く約束をしていた。
「楽しみですわね」
「そうだね」
位の低い男爵家の少女が一国の王子に見初められるというサクセスストーリーだ。
「王子さまには婚約者がいて、お姫さまのライバル役なんですって。悪役令嬢って言われてるらしいですわ」
「そうなのか」
艶ややかな黒いファーの下で、きらきらと白金色の髪が揺れる。
「わたくしのことですかね?」
「ふ、そうかもね」
馬車の窓枠に肘をついて、ヴィンセントは美しい妻を眺める。
真っ直ぐ流れる金糸のような髪も、宝石のように輝く青い瞳も、白磁器のように滑らかな肌も、どこもかしこも神々しいほどに美しい。
その名は、メイヴィス・ジーン・レアード。
以前の彼女は、メイヴェル・バーネットと呼ばれていた。
こんな美しい女性を捨てて、凡庸な少女を選んだ王子の気が知れない。人目につかないよう、宝石箱の中に閉じ込めてしまいたいくらいなのに。
ヴィンセントはメイヴィスの髪を一房手に取り、恭しく口づけた。
「私もね、一部の者からは悪徳商人と呼ばれているんだ。お似合いじゃないかな?」
「まあ、旦那様が?」
メイヴィスはころころと鈴のように笑う。
その笑顔を見るだけで、ヴィンセントは胸が温かくなる。
惜しむべくは、彼女の無事をバーネット侯爵に伝えられなかったことだ。急な王子の来訪ゆえに一番重要なことを伝えられなかった。
でもまあいい。自分は彼女を手に入れたのだから、時間はたくさんある。
その夜見た舞台は、前評判通りそれはそれは酷い喜劇だった。