プロローグ 不定形の怪物 & 一話 窓際の透鏡
何に所属しているか──それは高校生の俺、和堂尊にとって存外重要なことだ。
所属は自分という存在を形作り、学生生活を決定付ける要素である。
例えば部活動。そもそも自らの趣向に従って決めればいいのだが、現実は非情だ。選択を間違えれば青い春もたちまち色を失ってしまう。ちなみに俺は部活に所属していない。
例えばクラス内グループ。クラス替えのない私立三鷹山高校でこの選択を間違えることは、向こう三年間クラス内ヒエラルキーの底で暮らすことを意味する。ちなみに俺はどこのグループにも所属していない。
例えば恋人。これを所属というのはいささか違和感があるが、恋人がいるというだけで世界は色づき一定の階級が保証されよう。ちなみに俺は恋人がいたことなどない。
一体俺が何をしたというのだ。
所属が人を形作るのだとすれば、何にも所属していない俺は不定形の怪物ではないか。
前言撤回。全言撤回。
何に所属しているか──それは高校生の俺、和堂尊にとって、案外どうでもいいことだ。
そもそも何に所属しているかごときで、俺が歪められてしまうなんて馬鹿げている。
だから俺は何にも所属しないのだ。
***
現実は残酷なのではなく、酷な色眼鏡をかけて現実を見るから残酷に見えるのだ。
つまり俺がクラスに馴染めていない現実も、友達と呼べる人間が少ない現実も、はては恋人がいない現実も、この色眼鏡を外してしまいさえすれば雲散霧消し直視することのできないような輝かしい世界が見えるはずだ。
……ところでその色眼鏡はどこにあるのだろうか。
心当たりがある場所を探してみるが、そもそも心当たりがないので探しようもないし、しょうもない。
登校中に始めた現実逃避にも飽きてきた頃、一年2組の教室にたどり着いていた。
引手に力を込めたとき予期せぬ反発が指先に返ってきた。
「あ、しまった……」
時刻は午前7時半ごろ。廊下には蛇口から滴り落ちる水の音が聞こえてくる。
俺はため息をついた。
最初に教室へ来てしまった者の責務。それは、この堅牢な扉の鍵を職員室まで取りに行くことである。
だが、それ自体に不満があるというわけではない。ある目的を果たすための対価だと俺自身納得している。
目的、というか護身保身の類。端的に言えば俺の席を不法占拠から守るために早朝から登校しているのだ。
誰しも一度や二度経験があるだろう。自分の席がクラスの派手な女子グループに占領されたことが。
その時に感じる無力感に比べれば些細な労働ぐらい進んで請け負うというものだ。
じゃあ何故ため息が出たかって話だ。
下駄箱とこの教室の間に鍵のありかである職員室がある。いつもならばそこに寄ってから教室に行くのだが、今日は不毛な思考に夢中になっていたためにわざわざ来た道を戻らなければならなくなったのだ。
これは俺が納得した範疇を越えている。労基にだって訴えてやる。責任者は誰だ。俺である。
自分で自分を訴えるのも馬鹿馬鹿しいので、渋々来た道を引き返すことにした。
***
ガタつきなくスラリと滑る引き戸の感触がここ三鷹山高校が私立であることを雄弁に物語っていた。
ふう、とひとつ息を吐いて足を踏み入れる。
床のワックスの匂いと朝の温まりきらない空気が混ざり合う俺だけの貸し切り空間。いつもと違う雰囲気の彼女を拝めるのはタスクもタックスも納めた者に与えられる特権だ。俺だって消費税ぐらいは納めてる、うん。
職員室を往復させられた無駄な歩数は解せぬままだが、これで今日も俺の領土は守られた。
自分の席がある窓際の後ろから二番目へと向かって悠々と歩く。和堂という苗字の強みを遺憾なく発揮させ勝ち取った場所だ。あの渡辺でさえ俺には敵わない。
朝の光が斜めに差し込み、教卓や誰もいない机の群れを淡く照らしている。
――そして、俺はピタリと足を止めた。
「……なんだ?」
自分の机の上に小さな光の輪が落ちていた。
机の真ん中だけがまるでスポットライトを浴びた舞台のように静かに照らされている。近寄ってそこに触れてみるとわずかな温もりを感じた。
煙が上がっているわけでも、机が焦げているわけでもない。
視線を光源へと巡らせる。
サッシのわずかな隙間に絶妙な角度で斜めに立てかけられたそれがあった。
黒いプラスチック枠の何の変哲もない虫眼鏡。
柄の部分が窓枠にひっかかり、レンズが外からの朝日を懸命に収束させている。
それほど仲良くもない知人と久しぶりに会ってしまった時のような視線をそれに向けた。
窓辺に歩み寄り虫眼鏡の柄を指先で摘み上げる。
途端に束になっていた光は輪郭を失い、浮いていた俺の席は教室に溶け込んでいった。
手の中にある虫眼鏡は拍子抜けするほど軽かった。離れたところで見たときには気づかなかったが、全くの新品というわけではなさそうだ。
掠れていて読みづらいが、『もりた』という拙い白い文字が柄に書かれていた。
「もりた……あれ?」
未だ沈黙を保つ教室を見渡す。
このクラスには『もりた』という苗字の人間はいない。
俺はいつ誰に話しかけられてもいいようにクラスメイトの顔と名前は覚えている。役に立つことが少ないのが悲しい。
なら他クラスの奴のものだろうか。流石の俺も学年全員の名前を覚えてはいない。
「でも……」
仮にこの虫眼鏡の持ち主が他クラスの人だとして、なぜこの教室にコレを置いたのか。
考え出したらキリがない。
どんな些細な事象であれ意図を汲み取る際にかかる労力は、その真実の大小に関わらず膨大である事を国語のテストで学んでいる。えらく長い文章を読まされ汗が滴るような推敲の末に生まれた我が子に3点程の価値をつける教師への恨みをどこで供養すべきか誰も知らない。
結論を述べると、この虫眼鏡の謎は俺を真理探求の道へいざなうほどの魅力を持ち合わせていなかった。
俺は興味と共に持ち主不明目的不明のそれを教室の片隅に鎮座する忘れ物カゴへと放り込んだ。




