第一話 廃墟
アクセスありがとうございます。
澄希奈志と申します。
稚拙ながら、3作目の連載作品となります。
勘のいい人…というより、Mr.Childrenファンの方なら、作品タイトルやあらすじをご覧になって、ピンとくる方がいらっしゃるかと思います。
そうです。この作品は、Mr.Childrenの楽曲「足音 〜Be Strong」と、そのMVを原案として、私なりの解釈や創作を加えたものになります。
私自身、この力強い楽曲はもちろんのこと、関根光才さんが監督された、終末世界ながらも希望を感じるMVが、公開された当時から大好きでした。
小説の執筆(今はAI頼みですが…)が趣味となった今、どうしても自分で作品化してみたいと思い、制作したのがこの作品です。
できるだけMVの雰囲気を壊さずに小説化していきたいと思っていますので、よろしければ最後までお付き合いください。
新しい靴を履いた日は、それだけで世界が違って見えた。
まだ幼かった娘は、そう言って笑った。
玄関先でくるりと回り、新品の運動靴を見せびらかす。妻が苦笑しながら「転ぶから走らないの」と声を掛ける。それでも娘は聞かない。ぱたぱたと廊下を駆けていく足音。明るい笑い声。夕飯の匂い。窓から差し込む西日。
そんな何でもない日々が、ずっと続くものだと思っていた。
――思っていた。
不意に足元が崩れた。
男は目を覚ました。
夢だった。
現実に戻った瞬間、鼻を突くのは埃と煤の臭い。身体の節々が痛む。固いソファの上で眠っていたせいだ。天井は半分崩れ落ち、灰色の空が見えている。壁紙は焼け焦げ、家具は黒く炭化していた。かつては誰かの家だったのだろう。今はただの廃墟だ。
男はゆっくりと身体を起こした。
左足が軋む。古傷は相変わらずだった。長く歩くと痛みが増す。寒い日は特に酷い。戦場から持ち帰った土産のようなものだった。
男は顔をしかめながら立ち上がり、背負っていた鞄を確認する。中身はほとんど空だった。水筒には一日分も残っていない。食料は昨日でほとんど尽きた。今日中に何か見つけなければならない。
生きるために。
そう自分に言い聞かせてはいるが、本当にそう思っているのかどうか、もう随分前から分からなくなっていた。
男は部屋を出た。玄関の扉はなく、吹き込む風が床の灰を舞い上げる。
外は静かだった。不気味なほどに。
かつて人で溢れていたはずの住宅街は、今や骨だけになった獣のように静かだった。焼け焦げた電柱。崩れた塀。窓のない家々。鳥の鳴き声すら聞こえない。
戦争が終わって何年経ったのか、男は知らなかった。正確な日付を数えるのをやめて久しい。終わったのかどうかさえ分からない。ただ爆撃はなくなった。軍隊も見なくなった。だから人々は戦争が終わったと言う。
男にとってはどうでもいいことだった。
妻は戻らない。娘も戻らない。世界が平和になろうがなるまいが、その事実だけは変わらない。
男は住宅街を歩き始めた。空き家へ入り、引き出しを開け、棚を漁る。缶詰はない。飲み水もない。何度も繰り返した作業だった。平和な時代なら泥棒だ。だが家の持ち主はもういない。生きていたとしても、こんな場所には戻らないだろう。
男は次の家へ向かった。
そして。
泣き声を聞いた。
足が止まる。風ではない。動物でもない。子供の声だった。
男は眉をひそめる。この辺りで生存者を見ることは珍しい。まして子供など。声は少し先から聞こえていた。崩れた住宅の前。男はゆっくり近づく。
そして見つけた。
少女だった。十歳くらいだろうか。煤で汚れた服。痩せた身体。ぼろぼろになった靴。瓦礫の前に座り込み、顔を伏せて泣いていた。
男は立ち尽くす。少女はこちらに気付いていない。いや、気付いていたとしても気にしていないのかもしれない。泣くことしかできないようだった。
男は視線を逸らした。
関わるべきではない。子供を連れて歩けば足手まといになる。食料も余計に必要になる。自分一人でさえ生きるのが精一杯なのだ。
男は踵を返した。
その瞬間、少女が顔を上げた。
涙で濡れた瞳。助けを求めるでもなく、責めるでもなく、ただ絶望だけを映した目。
ほんの一瞬、娘の顔が重なった。
男が徴兵されたことを知らされないまま、学校へ向かう娘。振り返って手を振った笑顔。最後に見た姿。
男は目を閉じた。忘れたつもりだった。忘れられるはずもなかった。
少女は小さな声で言った。
「……お母さんが、いないの」
男は答えなかった。
「探したの」
少女は続ける。
「ずっと探した」
掠れた声だった。
「でも、どこにもいない」
男は崩れた家を見る。ここが少女の家だったのだろう。残骸しか残っていない。空襲だ。見れば分かる。
「他に家族は」
少女は首を振る。
「いない」
短い答えだった。
男は空を見上げた。灰色の空。風だけが吹いている。
なぜ声を掛けてしまったのか、自分でも分からなかった。放っておけばよかった。今までそうしてきたように。それなのに。
「遠方へ向かう船があるらしい」
少女が顔を上げる。
「船?」
「ああ」
男は曖昧な記憶を辿る。数日前、旅人から聞いた話だ。海岸に避難民が集まっている。生き残った人々を船で別の土地へ運んでいる。真偽は分からない。だが噂くらいにはなっていた。
「生き残った連中が集まってるらしい」
少女は黙って聞いている。
「お前の母親もいるかもしれない」
希望を与えるつもりはなかった。確証などない。だが少女の瞳に、わずかな光が戻る。本当にわずかだった。消えかけの焚火の火種のように。
「……いるかな」
男は答えない。分からないからだ。期待させたくもなかった。
長い沈黙が流れる。風が吹く。瓦礫の隙間で何かが転がる音がした。
やがて少女は立ち上がった。ふらつきながら。何日もろくに食べていないのだろう。男はその様子を見ていた。そして小さく息を吐く。
面倒なことになった。
本当にそう思った。それなのに。
「行くなら今だ」
少女が見上げる。
「遠い」
男は言った。
「歩けるか」
少女は少しだけ迷った後、頷いた。
男はそれ以上何も言わなかった。踵を返し、左足を引きずりながら歩き出す。
少女はしばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、後ろから小さな足音が聞こえた。
男は振り返らなかった。ただ前を向いて歩いた。荒廃した街を抜けて。どこかにいるかもしれない少女の母親を探しに。あるいは、自分でも名前を付けられない何かを探しに。
灰色の空の下。二人の旅が始まった。




