第91話 二回目 リンディは18歳(29)
連鎖する様にざわめく作業室。
震え出したロッテの手からも、カラリと筆が床に落ちる。隣を見れば、リンディが何かを待ち構える様に、作業室のドアをじっと見つめていた。
しばらくしても、ざわざわと騒がしいばかりで、一回目の人生の様に兵がなだれ込んで来る気配はない。確認の為、ジョセフ画家長が一度出入りしただけだ。
早帰りの許可が下りた途端、もはや仕事どころではなくなっていた画家達は、早々に帰り支度を始める。
「リンディ……リンディ、今日はもう帰ってもいいんですって」
揺すっても反応がない。ベルを鳴らすと、やっとロッテへ振り向いた。
「帰っても……いい? 私も?」
「ええ。定時には少し早いけど、みんな帰っていいって。どうせこんなじゃ仕事にならないしね。明日も休みですって」
ロッテに次いで立ち上がろうとするが、急に全身がガタガタと震え出し、リンディはその場に崩れた。
「リンディ! 大丈夫? 顔が真っ青よ」
大丈夫です。そう言いたいのに、口からひゅうと息が抜けるばかりで、言葉が出てこない。
「ちょっと待っててね、今、護衛さん呼んでくるから!」
作業室の前で待機していたヨハネスは、ロッテに呼ばれ、慌ててリンディの元へ駆け寄る。
「奥様、大丈夫ですか!?」
何とかこくりと頷き、差し出された手に掴まろうとするも、やはり力が入らない。震え続ける身体を、ヨハネスは迷わず横抱きにし、ロッテの案内で職員の休憩室へと向かった。
王宮内は騒然としているが、此処は誰も居らず静かだった。ヨハネスはひとまずリンディをソファーに寝かせ、どうしたものかと辺りを見回す。
ロッテは荷物の中からブランケットを取り出し、リンディへ掛けると、「ちょっと待っててね」と休憩室の奥へ入って行った。
やがて、ものの数分もしない内に、湯気の立ったトレーを手に出て来る。
「ホットミルクよ。蜂蜜を一匙入れたから、甘くて美味しいと思うわ。飲める?」
ヨハネスに支えられながら、少し身体を起こしたリンディ。スプーンで少しずつ喉に流し込んでいく内に、青ざめていた唇が、徐々に薔薇色に戻ってきた。
「……うん、大丈夫そうね。後は自分で飲める?」
「はい」
ほかほかと暖まった喉からは、声も出る様になっていた。リンディはカップを両手で持ち、優しい甘さをゆっくり味わう。
その様子に、ロッテはほっとしつつも、彼女の胸中を推し量る。
……王様とは、セドラー元宰相を通して親しくしていたみたいだし、きっとショックが大きかったのね。感受性の強い娘だから特に。
「此処で少し休んでいくといいわ。旦那さんはまだ忙しいでしょうし、私も一緒に居るから」
ロッテの申し出に、リンディは予想外にキッパリとした口調で返事をした。
「いえ、大丈夫です。何時になるか分からないので、ロッテさんはお家に帰って休んでください」
「……そう? 大丈夫?」
「はい。ヨハネスが傍に付いててくれるので」
「分かったわ。じゃあ先に帰るけど……ゆっくり休んでね。無理しちゃ駄目よ」
「ありがとうございます」
鞄を肩に掛けるロッテを、リンディはじっと目に焼き付ける。
……一回目の人生と違い、今のところ自分は国王陛下暗殺の容疑者として捕らえられてはいない。だけど、この後何が起こって、誰を巻き込んでしまうか分からない。大切な人は、極力自分から遠ざけなくては。
「……ロッテさん、ミルクありがとうございました。すごく美味しかったです」
涙目で笑うリンディが無性に愛しく、ロッテはその赤子みたいな白い頬をふにゃりとつまんだ。
「またね、リンディ。次は……いつかしら。明後日もお休みかもしれないわね」
“またね”
リンディの胸は詰まり、何も言えないままロッテの後ろ姿を見送った。
「……リンディ、一度屋敷へ帰って休もう。王宮から離れた方がいいんじゃないのか?」
空になっても、まだぼんやりとカップの底を見続けるリンディに、ヨハネスが問う。
「ううん。一回目の人生も王宮に居たから、同じようにする。本当は旦那様の傍から離れた方がいいのかもしれないけど……分からないわ。二回目の人生では、自分がどうやって死ぬのか、どうしたらいいのか。全然分からないわ」
カタカタと震え出すカップを受け取りテーブルに置くと、ヨハネスは彼女へ寄り添う。
自分の手で、大部分が隠れてしまう程の華奢な背中。この背中の荷物を、自分は少しでも背負ってやることが出来たのだろうか。今もこうして、ただ擦ることしか出来ないなんて……
“兄”としても、“護衛”としても、なんと情けないのだろう。
二回目の人生では、リンディは国王の死には関わらない様子だ。だとしたら……とりあえず今日、リンディの身に危険が及ぶ可能性はないということか?
では、明日一体何が起こる? 事故、事件、病気?
事故や事件なら守れるか? 傍で自分が盾になってでも……
そこまで考え、ヨハネスは力なく目を瞑る。
神には逆らいたくない……神の判断に委ねる。それがリンディの意思だと、今朝聞いたばかりじゃないか。なのに自分はこうして、まだしつこく足掻こうとしている。
……何故神は、まだ若い彼女を召そうとするのだろう。
金色の髪に浮かぶ、天使の輪を見下ろす。
そうか……そもそも彼女は、本当に天使なのかもしれない。
人並み外れた才能、純粋で邪知のない心、清らかで愛らしい容姿。
神がほんの一時、この世に遣わした贈り物なのかもしれない。そう考えないと……そうでも思わないと……悔しくて悔しくてやりきれない。
ヨハネスは背中から金髪へ手を移し、天使の輪を覆い隠す。
ねえ、リンディ。君が居なくなった後の世界を、僕はどうして生きて行こう。
……とても生きて行ける気がしないよ。
何も喋らず、ソファーで寄り添う二人。それから二時間程経った頃、ルーファスが早足で休憩室に入って来た。
「体調が悪いと聞いた。大丈夫か?」
たった今まで、ヨハネスが座っていた場所にドカッと座り、リンディの頬を撫でる。
「……どうして知っているの?」
「お前の先輩が、あいつに伝言を頼んだらしい。休憩室で休んでいるから、落ち着いたら様子を見に行ってやれと」
ルーファスはそう言いながら、指でくいっと自分の護衛を指差す。
ロッテさん……
リンディの瞳は、温かなものに潤み出す。それを心配そうに覗き込むと、ルーファスは冷たい身体を抱き寄せた。
「旦那様……お仕事は?」
「もう終わった。……陛下の容態は限られた中で把握していたから。いざという時の準備も整っていた」
耳元に囁かれる低い声に、リンディは安堵する。
本当に……本当に陛下はご病気でお亡くなりになった。
明日、私がどうやって命を落とすかは分からないけど、とりあえずルーファスが罪人の夫になることは無いのね。セドラー家の名に傷を付けることも無くなったのね……
「旦那様……もう帰れるの?」
「ああ。明日からは当分忙しくなるが」
「一緒にお家に帰れるの?」
「ああ」
嬉しい……
リンディは広い背中に、ギュッとしがみつく。
一回目の人生では、取調べの後すぐに牢へ入れられ、命を落とすまでのほとんどの時間を離れ離れになってしまった。
二回目の人生では、一緒に帰ることが出来る。たとえ明日命を落とすとしても、今日は一緒に同じ家に帰ることが出来るのだ。
じわり……じわりと何やら冷たい感触に胸元を見れば、妻の瞳から溢れた涙が、自分のシャツを濡らしている。
ルーファスは震える背中を、トントンと優しく叩いた。
裏門から外に出れば、月明かりが柔らかく道を照らしている。空を見上げれば、満月まであと少しの不完全な円が浮いていた。
そういえば……湖で命を落とした時、最期に見た空には、綺麗な満月が浮かんでいたな。
そう、きっと明日には同じ形に……
抗えない運命を表しているかの空。冷たい風に煽られていると、左手に力強い温もりを感じた。
「……行くぞ」
隣には貴方が居て、私の手を握ってくれている。
キラキラ輝くルビー色の瞳は、月明かりやら街灯やらを反射し、私へ放つ。少し細められたその光は、まるで微笑んでくれているみたいに優しく感じた。
幸せ……私は本当に幸せ。
私が感じられた半分……ううん、ほんの何分の一かでも、貴方を幸せにしてあげられたかな。
帰ったらパンを焼いて、フルーツをカットしてあげよう。貴方の大好きな、可愛いうさぎを沢山。もう一生食べなくないって、うんざりする位、沢山……沢山。
他には? どんな幸せを遺してあげられる?
お喋り? 甘い唇? それとも……こうして手を繋ぐ?
駄目……どれも私が、私だけが幸せになることばかりだわ。
そんなことしか思い付かないなんて……私の頭は、本当にどんくさいなあ。
……あの角を曲がったら、セドラー家の馬車が待っている。もうお散歩は終わり。きっとこの手も離れてしまう。
嫌だな……もっと、もっともっと道が長ければいいのに。永遠に歩ければいいのに。
急にピタリと立ち止まるリンディに、ルーファスはツンと引っ張られる。
「どうした」
「……少し……もう少しだけ、此処で月を見ていちゃ駄目? 旦那様と、此処で月を見ていちゃ駄目?」
また……自分の右手の中で、妻の左手が冷たく震える。
自分が握っているのに、自分が傍に居るのに、こんな風に勝手に冷たくなることが許せない。
ルーファスはリンディの肩をブランケットでしっかりと包むと、護衛らに命じた。
「……離れて歩け」
躊躇う護衛らに、ルーファスは再度命ずる。
「聞こえなかったか。離れろ」
「出来ません。夜分に危険です」
「セキュリティ万全の王宮の前で、何かをしようとする奴などいないだろう」
「しかし……!」
なおも食い下がるヨハネスに鋭い視線を向け、「命令だ」と強く言い放つ。
仕方なく、何かあった時に対処出来るギリギリの距離まで離れるも、もっとあっちに行けと手で追い払われた。
大分離れた場所で、ヨハネスは二人の影に目を凝らしながら、荒い呼吸を整える。
落ち着け……来る時は、明日の夜なのだから。
護衛らが離れたことを確認すると、ルーファスは繋がっている手を持ち上げ、細い薬指に唇を落とす。
「冷えるから……少しだけだぞ」
「うん……ありがとう」
風の音に溶けた返事があまりにも哀しくて、その存在が消えてしまうのではと不安になる。肩を抱く為に手を離そうとすると、彼女が両手で必死に腕にしがみついてきた。
「駄目……! 離さないで……手を繋いでいて……お願い」




